鷲はいまどこを飛ぶか

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読書日記:2022/11/06 沢木耕太郎『天路の旅人』

 地図も磁石も持たない旅では、人に訊くより仕方がない。そして、それを信じるしかない。

 沢木耕太郎はもう無名ではない。彼は防衛大学校の前で体当たりの取材を繰り返す何者でもない男ではないし、身体ひとつでユーラシアを横断する無鉄砲な若者でもない*1沢木耕太郎沢木耕太郎になってしまった。もはや無名の、誰にでもなれる、ゆえにさまざまな場所やひとに潜り込む書き手ではないのだ。自分のことを知らない場所へ彼を連れて行ってくれる旅の道も、感染症と戦争によって塞がれている。
 こう云っても良い。沢木はすでに、自身がノンフィクションの題材になるような人間になってしまったのだ、と。人生の岐路をすべて渡り終えてしまった老人。彼に書くべきものが残っているとすれば、それは彼自身をおいてほかにない*2。だから彼はキャパを書く。そして、西川一三を書いたのだろう。老いた旅人にインタビューする場面は、リュウ・アーチャーがロス・マクドナルドにインタビューするならこうなるのだろうか、と思わせる。いや、逆か。ロス・マクドナルドが、リュウ・アーチャーに会ったとすれば……

 本書は第二次世界大戦末期に密偵として中国西北部へ潜入し、蒙古人のラマ僧として身分を偽りながら大陸の奥へと分け入り、インドで捕まるまで、戦争が終わっても、旅の究極的な目的を失ってもなお旅をつづけた「巡礼者」――西川一三の評伝である。帰国した彼は『秘境西域八年の潜行』と云う長大な、あまりに長大な記録をものしたのち、積極的に表舞台へ出ることなく、日常のなかへと埋没しつづけた。本書の記述の大部分は彼の長い旅について割かれているが、読み終えてむしろ印象に残るのは、壮絶な旅を終えてのち、いっそ禁欲的なまでに静かな生活を送る老いた男の後ろ姿だ。365日中364日はたらき、質素な食事と習慣としての酒を飲む毎日。彼はその揺るがないルーティーンを、何を思ってこなしていたのか。彼が旅の果てに見たものは何だったのか。
 沢木は西川の旅路から、西川そのものを起ち上げようとする。事実、西川の旅の模様を知りたければ本人がものした長大な手記――原稿用紙にして3000枚強、この膨大な存在感は作中で何度も沢木を、わたしたちを圧倒する――を参照すれば良いのだ。だから沢木の目的は単に西川の旅路を辿ることではなく、刊行された書籍と発見された生原稿、あるいは関係者へのインタビューや西川と同じくチベットに潜入していた木村肥佐生の記述などを突き合わせながら西川の旅の全貌を浮かび上がらせることであり、その作業の結果として綴られる旅路は、これだけの分量を割いてもなお急ぎ足ではあるものの、沢木による西川との対話――言葉を通した旅――として読むことができる。沢木は西川に、明らかに、自分自身を重ねている。ユーラシアをその足で渡り、その過程で得た成長を、身につけた旅の心得を、それを長大な記録としてまとめる衝動や、書いてしまったのちの喪失を、西川に見出し、西川に託そうとしている。それは沢木にとって西川が、一種の理想的な旅人だからであり、より正確に云えば、西川に旅の極意を見出す沢木耕太郎と云う老人がそこにいるからだ。
 地図もコンパスもない旅は、自分ではその全体像を描くことができない。だから道中に出会った人びとと言葉を交わし、自分がどこにいるのか、自分はどこへ向かっているのかを見定める。そこでは人が地図なのだ。
 沢木がノンフィクション作家としてその人生と云う旅で繰り返してきたのは、あるいはそうした、地図測量ではなかったか。
 そうして今回、沢木の前に現われた新しい地図――西川一三と云う男の旅路と、沢木自身がかつて辿った旅路とが思いがけず交差するラストは感動的だ。その一瞬の触れあいのために、沢木はおそらく書き、生きている。

 『吉田松陰全集』だけを荷物に抱えていた愛国青年は、お国のために中国奥地へ旅立つが、彼は日本が敗北してからも旅をつづける。それを失われた国への忠誠と捉えることもできるが、沢木はそこに、旅それ自体が目的と化していく過程を見出す。彼は旅をするために旅をした。まだ行ったところがない場所へ行くために。もう行ってしまった旅、語ってしまった旅を彼は積極的に繰り返すことはなく、逆に行ったことのない場所へは、老いてもなお憧憬を棄てない。
 では、逮捕によって不本意に旅を終えてしまった西川は、もう死んだも同然だったのだろうか? おそらくは違うだろう。彼はずっと生きつづけていた。

「なぜこの仕事を」
「食べるために……」
 そこまで言うと、途中で言い換えた。
「生きるために」

 あるいはそれこそ、西川が巡礼の果てにたどり着いた境地だったのかもしれない。
 少なくとも、沢木はそう書こうとしている。

 偽りだったはずのラマ僧の身分は、巡礼の旅をつづけるうちに、やがて本物の信仰のように西川にまとわりつく。旅の終盤には「仏」と出会う。帰国後、日々同じことを繰り返すなかで、彼はなにを考えていたのか。もしかすると、なにも考えていなかったのではないか。つまり、無。
 もしも沢木が西川を通じて書こうとした人生と云う旅の境地がそれなのだとすれば、その向こうにはもう死以外にない。無名だった頃の、誰でもなく、ゆえに誰にでもなることができた頃の沢木ならば、辿り着けなかっただろう場所だ。
 若かりし頃の熱量はない、と評することはできる。文体は円熟を超えて枯淡の域だ。退屈と云えば退屈で、しかし、ページをめくる手は止まらなかった。 

*1:などと書きつつ、実は『深夜特急』を読んでいない。この冬のうちに読むつもりだ

*2:エッセイや対談集と云った近年の仕事もその一環と云えるだろう、読んでませんが……