鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

ここから先は何もない:映画『すずめの戸締まり』について

「モーリス、モーリス、どうか希望を捨てないで」

 

――グレアム・グリーンヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫epi)


 これはフィクションだ。そのつもりで。



 昔の話だ。まだきみが科学少年の、ついに孵化することのない卵でしかなかった頃、家族とどこかの高原の天文台に行ったとき、『まんがサイエンス』の系列にある教養漫画――要するに、「先生」が子供たちに宇宙や地球について教える漫画が置いてあって、きみはどんな土産よりもそれを求めて、旅の途中もそれを読みふけった。「先生」は確か、宇宙のどこかの星の姫様だったはずだ。彼女は長い旅の最後、子供たちに地球の未来の話をした。環境問題の話だった。あなたたちには暗い未来が待っている。あなたたちにあげられる美しい地球はもう、ない。そう教えられた子供たちは涙を流し、ひとりはパニックに陥ったように、もう車に乗らないよ、と云い出す。排気ガスをもう出さない。それなら大丈夫でしょう? 先生は困ったような表情を浮かべ、彼女のお仕えの助手か何かは子供になんて思いをさせるんだと彼女を叱る。そのくだりだけを何度も読んだことを憶えている。ただ、そのあと先生がどう云って子供たちを諭したのかは、もう憶えていない。あなたたちがしっかりしていれば大丈夫、云々。あなたたちの身体には、ずっと昔に砕けた星屑が混じっている、云々。
 しかし、少なくとも、それがきみの求めていた答えでなかったことは、はっきりと憶えている。



 きみは児童文学を読みふけった経験がない。小学校の図書室や学級文庫を足繁く利用しながら、読むのはもっぱら、クイズ本か『まんがサイエンス』か『学習まんが 世界の偉人』だった。こましゃくれたガキだ。きみもそう思うだろう。それらはいずれも物語ではあるが、フィクションと云うには現実に即しすぎていた。きみは同年代の比較的本に馴染んでいた者たちのなかでは、中途半端なかたちでしかフィクションに触れてこなかった。その欠如はいずれきみに決定的な歪みを与えるが、きみはまだそれを知らない。きみはまだ、人生が一回しかないことを知らない。きみはまだ、時間は繰り返さないものであることを、失われたものは決して帰ってこないことを、きみがいつか死んでしまうのだと云うことを、知らない。


 
 きみがそれを知るのはいつのことだろう? いつの間にかきみは、自分の未来が限られていることに気づいていた。テレビでは環境問題が頻りに取り沙汰されていた。社会は捩れて混乱しているか、安定しながら腐り落ちてゆくばかりだった。あなたたちには暗い未来が待っている。きみは十年後の自分を想像することができない。きみにとって時間は何度も繰り返し、春が始まって夏が終わって秋が訪れて冬がやって来ればまた春へと戻ってゆく循環だ。世界はきみを中心にしながらその環の外側でまわっている。あまりに忙しなく不安定なその世界が終わることをきみは信じることができる。教養漫画のなかの「先生」たちが教えてくれたからだ。スプートニクを頭にくっつけたあの愉快なロケット人を憶えているだろうか? 彼らはきみに知恵を授ける。この世界があまりに問題含みでままならないことを。あなたたちにあげられる美しい地球はもう、ない。きみの時間と外側の世界とが捩れたかたちで接続される。あるいは、きみは考えることをやめているかもしれない。



 きみは毎年の夏、父親の帰省についてゆく。長い高速道路をひたすら南へと下りながら、きみは行きがけに買ってもらった大粒の飴を舐めている。口のなかいっぱいにざらめが触れて舌が心地良い。残ったのはコーラ味がふたつ。隣にいる兄が手を伸ばして、ひとつくれよ、と云う。きみは断る。だってあとふたつしかないから。父親が笑う。なんてごうつくばりなんだろう。その思い出は、繰り返し、繰り返し、きみの家族の食卓で再生される。けれどもきみは、ついに理屈でしかその返答の奇妙さを理解できない。だって、あとふたつしかないのだ。ひとつを誰かにあげてしまえば、あとひとつだけになってしまう。当然のことだろう? もう繰り返すことができない。そこには終わりがあるだけだ。そこから先は何もないのに。
 しかしきみは、その感覚を言葉にできなくて口を閉ざす。甘んじて恥を受け容れる。



 南へ向かう自動車を想像してくれ。そこには、終わりが訪れることを受け容れることができない少年がいる。少年は、来年もまたこうして父方の祖父母に会いにゆくのだろうと思う。家族旅行は毎年の恒例だ。少年はまだ祖母が倒れることを知らない。祖父がきみのことを忘れることを知らない。世界に未曾有の感染症が蔓延し、県境を跨ぐ移動さえ禁じられることなんて想像もできない。きみの手にはまたいつものように『まんがサイエンス』が握られているのに。世界はもうここにあって、きみは現実のなかに生きているのに。



 ある夏の日、きみは久しぶりに兄とふたりきりで旅に出て、いつか走った南へのルートを電車で辿り直す。祖父はきみと兄のことを、実際に目にするまで思い出すことができない。祖父は自分の農業を継いでくれるようきみに懇願する。祖父は同じ話を何度も繰り返す。きみはその言葉を聴き続ける。きみはもういろいろなことがわかるようになっている。祖父が大事そうに抱えている鞄のなかには何も入っていないこと。祖父の畑は祖父母が病気になってからほとんど畳まれてしまっていることを。夜、きみは空気を吸いに外へ出る。庭にはすでに兄がいる。山のなかの空気は真夏でも涼しく澄んでいて、空には満天とは云わずとも星が浮かんでいる。きみは飴の話をする。兄はもう、きみの話を笑うことはない。この時間もまた二度と帰ってこないのだと、きみはようやく知る。



 きみは大きくなってしまった。そうだろう? きみの辿る道はすっかり曲がって歪んで捩れてしまって、きみは帰り道がわからなくなった。それでも、きみは進み続けることしか許されない。病み衰えてゆく世界が現実であることを、いつか訪れる終わりを、きみはもう受け容れなければならない。大事に抱えた鞄のなかは空っぽであることにきみは気づかなければならない。ここから先はなにもない。



 きみはずっとそれを知っていたはずだ。そのはずなんだ。きみはこの世界にひとの数だけひとがいることを想像するだけで頭が割れそうになる。エンドロールに流れる名前のひとつひとつに人生があることを考えるだに眩暈がする。この世界はあまりに豊穣ゆえにきみを苛む。だから、きみは考えることをやめていた。しかし、すべてを有耶無耶にしようとすればするほど、きみは自分の道のりがわからなくなる。なんとなれば、きみにとって、世界はずっと現実であり、物語はずっと現実であり、しかしそれら一切を、フィクションの向こうに押しやろうとしていたからだ。終わりなく繰り返される循環の外に持っていこうとしていたからだ。そんな循環なんてどこにもないのに。



 わかるだろうか? これはきみの話だ。お前たちの話ではない。ぼくはずっと、きみのことだけを話している。そうだろう? 



 科学少年の、ついに孵化することのない卵でしかなかった少年を想像してくれ。少年が家族とどこかの高原の天文台に行ったとき、『まんがサイエンス』の系列にある教養漫画――要するに、「先生」が子供たちに宇宙や地球について教える漫画が置いてあって、少年はどんな土産よりもそれを求めて、旅の途中もそれを読みふける。ボイジャー1号を頭に乗っけたマントの男を想像してくれ。さしあたりそいつをきみとしておこう。きみは長い旅の最後、子供たちに地球の未来の話をする。環境問題の話だ。あなたたちには暗い未来が待っている。あなたたちにあげられる美しい地球はもう、ない。そう教えられた子供たちは涙を流し、ひとりはパニックに陥ったように、もう車に乗らないよ、と云い出す。排気ガスをもう出さない。それなら大丈夫でしょう? きみは困ったような表情を浮かべ、ボイジャー2号子供になんて思いをさせるんだときみを叱る。
 きみは世界が病んでいることを知っている。環境破壊は世界の破壊だ。感染症の蔓延。加熱するナショナリズム。拡がってゆく格差のなかで憎悪と怒りが噴き上がり、かつて世界で初めて人工衛星を打ち上げた国は姿を変えて、新世紀に侵略戦争を引き起こす。すべてが疲弊し、未来は失われる。ここから先はなにもない。
 けれども、ときみは思う。それは、ずっと、そうだったのだ、と。ここから先はなにもない。本当になにもない。あらゆる意味において。だから、きみは断言しなければならない。きみがかつて求めていた答えを、きみ自身が答えなければならない。
 大丈夫だ。
 勘違いしないでほしい。それはきみに向けた答えではない。きみはすでに叱られるべき大人になりつつある。きみはもう子供ではない。答えるのがきみなんだ。答えを待っているのは、子供たちだ。この世界に生まれ、勝手に未来をなかったことにされてしまった、子供たちだ。残り少ない飴を数えながら、あと何個で終わるだろうと考えなければならない子供たちだ。見えてきた終わりから目を逸らすためにひとと分け合うことも忘れるかもしれない子供たちだ。彼らはほとんど舐め終わった飴の欠片を、現実を忘れるように舐めることしか許されないと云うのか?
 違う、と云わなければならない。
 たとえそれが真実でなくとも、きみはそう断言しなければならない。目の前で未来を奪われようとしている少年に、きみは嘘をついてでも、そう答えなければならない。その嘘の出来はいまは問わない。そんなことを賢しらに考えても仕方がない。あとでひとりでやってくれ。その嘘はきみを騙すための嘘でもなければ、きみに批評されるための嘘でもない。



 もちろんすべてはフィクションだ。しかし、とぼくは云わなければならない。それでも、と。もう取り返しのつかない現実のなかで、きみは生きなければならない。二度と繰り返されることのない現実のなかで、子供たちは生きなければならない!



 きみの目の前にいる子供は、未来を奪われている。現在を奪われている。過去を奪われている。震災。水害。戦争。疫病。あらゆる災禍を想像してくれ。それは文字通りにすべてを破壊する。その瓦礫のなかで立ち尽くす子供に、大丈夫だと云うことができないのなら、きみはもう二度とフィクションを語るべきではない。