鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/12/01 米澤穂信『栞と嘘の季節』

僕はあまり、そうは思わない。誰でも少しずつ嘘をつくのだから、ひとしずくでも嘘が混じればすべてが嘘と考えていたら、この世のすべては嘘になる。そんなことは松倉だって……いや、松倉の方が僕よりもよくわかっているはずなのだから、結局僕たちは、同じものを別の名前で呼んでいるだけなのだろう。

 図書室に返却された『薔薇の名前』には、トリカブトをあしらった栞が挟まれていた。栞の持ち主を捜しはじめた図書委員たちの前に、ふたたび毒草が姿を現す。そしてひとりの教師が倒れた――。
 『本と鍵の季節』は堀川と松倉と云う主人公ふたりがどちらも探偵役となり得ること――ふたりのあいだに渡された信頼と緊張、そして眼差しの違いが生む視差――に特徴のあった連作だったが、続篇となる本書では瀬野と云う三人目の探偵役が加わり、さらなる力学が発生している。栞と毒を追いかける三人は利害も目的も一致していないし、擦り合せてひとつに統合しようともしない。それどころか、彼らは各々に秘密を抱え、互いに嘘をつく。それは「探偵役」を分解し、ミステリを相対化してゆく趣向だ――冒頭で放りこまれる『監獄の誕生』や『薔薇の名前』のタイトルが単なるスノッブ趣味でないのだとすれば、そう受け取るのが自然だろう(尤も、ぼくはどちらも読んでいない。スノッブは誰だ?)。
 地道な捜査の小説だ。わかりやすいどんでん返しもなければ、目を瞠るアイディアもない。着実さこそが意外性をもたらす手順を踏みながら、小説は静かに、しかし毒が回るようにして確実に、不穏な領域へ至る。ここでは「探偵」の特権が崩され、「犯人」との「対決」も、割り切れない結末だとか云う以上に割り切れない。読み終えて浮かび上がるのは、学校と云う社会の虚構的なモデル、しかし当人たちからすれば紛れもない現実である土壌において拡がってゆく毒のイメージだ。それは本書で「嘘」あるいは「噂」と云われる、もっと広く捉えれば「言葉」だろう。
 ここまで来たら端正であることを棄ててでもいっそうの深淵を覗きこんでほしい気持ちもあるが、総じては、小説の模索に小説それ自体が参加する小説と云う点で非常にぼく好みだった。流石。