鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/12/05 リチャード・パワーズ『惑う星』

 森の中で何かが呼んだ。それは鳥の声でも、私が聞き覚えのある獣の声でもなかった。その声は闇を貫き、大きな川の音をものともせず響き渡った。苦痛なのか喜びなのか、何かを悲しんでいるのか祝っているのか、わからなかった。ロビンはぎくりとして私の腕をつかんだ。私は何も声を発しなかったが、彼は私にシッと言った。さらに遠い場所から、再び叫び声が聞こえた。別の声が別の反応を引き出し、でたらめな和音が重なり合った。
 それから声が止まり、夜は別の音楽で満たされた。ロビンは私の方を向き、さらに力を込めて腕をつかんだ。彼の顔は月明かりに照らされていた。あらゆる生き物は体が感じるように作られているものをすべて感じる。
 聞いて、あれ、と息子は私に言った。そして次に彼が口にした言葉は、決して色あせることなく、決して消え去ることがない。僕たちすごいところにいるよ。信じられる?


 近未来の、もしくは現在より悪化しているもうひとつの、あるいは――どうしようもなく現実のアメリカ。地球外に生命を探している生物学者のシーオは、どんどん減らされる研究予算と、学校に馴染めない息子への対応に汲々とする日々だ。亡き母親の影響を受けて環境破壊を憂い、絶滅に瀕した動物たちへ共感を寄せる幼いロビンは、ある日ついに同級生を傷つけてしまう。「治療」の必要に迫られたシーオが頼ったのは、ある実験だった――。
 脳や心と云われるような人間の内側と、世界と云う外側とを同じ網目のなかで捉えようとするのは『エコー・メイカー』や『オーバーストーリー』から続くテーマ、つまりエコロジーだが、本書では内宇宙と外宇宙としていっそうコントラストを明瞭にしたうえで、その接続点をひとりの少年――あるいは、彼と父、母との関係――に凝縮している。結果としてストーリーは驚くほどシンプルだ。分量は『オーバーストーリー』の半分ほど、文体も密度がぐんと落ち、構成もほぼ時系列順。起こることも、ほとんど何も起こらないと同じだ。少年の人生に訪れたつかの間の輝き――それは人間と云う種、地球と云う惑星になぞらえられるだろう。ここでは途方もないことが起こった。そしてそれと同じくらい途方もないことが、少年の身に起きた。
 あるいは、何も起きなかった。
 誕生と死滅。内宇宙と外宇宙。一瞬と永遠。憎悪と敬愛。少年のなかに織りこまれてゆく様々な対立項、それらは同じことなのか? 極めて至近な話を語る一方で、想像は遙かな宇宙へと飛ぶ。この小説のシンプルさを読みやすいとも歯ごたえがないとも評することはできるけれど、いずれにせよ、そのストレートさに思いがけない複雑さがあるのだ、と思う。読み終えて、まだその複雑さを受け止めきれていない。その受け止め方によっては、もしかするとぼくは初めて、パワーズ作品を拒絶することになるかも知れない。

 20世紀の森林保護運動の挫折とそれでもなお種子のように蒔かれて残るものを書いたのが『オーバーストーリー』だとすれば、その種子が芽吹いたところで死を決定づけられているような現代の子供たちこそが『惑う星』の主題だ。絶滅に瀕した子供たち。病み衰え、孤独な人類。そこに希望はあるのか?
 本書の結末は、自分にとっては、受け容れがたいものだ。それは決して救いではない、と拒絶したい。なんてものを書くのだ、と。
 ただ、パワーズはそう書くしかなかったのだろう、とも思う。そこで希望を書くことはできなかった。
 しかし、と云わなければならない。ぼくはともかく、そう云わなければならない。図らずもその逆接は、前作でパワーズがひとつの結論として打ち出し、本書にも引き継がれている結論だ。STILL。じっとして。それでもなお。拒絶と肯定はここではひとつになる。
 じっとしたまま、何もしなくても、途方もないことが起きている。ぼくのなかで。そこら中で。

 そしてぼくは、拒絶と肯定のために、こう云うだろう。ロビン。きみは望まれて生まれてきたんだよ、と。終盤近くにさり気なく示された、それは希望だ*1


追伸:装幀は原書のほうが良いと思う。いくらなんでも邦訳版は作者の名前の主張が激しいと思うし、こちらの表紙の、人間のなかに世界があって、同時に世界のなかに人間が遍在する構図は本書の内容を美しく反映している。
 ただ、『惑う星』と云う邦題は、やや駄洒落の感が強いけれどもぴったりだ。

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*1:シーオが外宇宙に生命を探す理由を話すくだり。「一回というのはまぐれ。二回なら不可避ってことになる」「生命の痕跡がどこかで見つかれば、宇宙が生命を望んでいることがはっきりする」。そして、ロビンには妹がいた。