鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/01/08 笠井潔『哲学者の密室』

「二十世紀の探偵小説の被害者は、第一次大戦で山をなした無名の死者とは、対極的な死を死ぬように設定されている。ようするに、彼は二重に選ばれた死者、特権的な死者なんです。精緻なトリックを考案して殺人計画を遂行する虚構の犯人と、完璧な論理を武器に犯人を追いつめる虚構の探偵は、立場は対極的であるにせよ被害者の死に、聖なる光輪をもたらさんがために奮闘するのですから」


 「精緻なトリックを考案して殺人計画を遂行する虚構の犯人」も、「完璧な論理を武器に犯人を追いつめる虚構の探偵」も、いったいどこにいるのだろう。彼らは本書のなかにはいないし、エラリイ・クイーンもアガサ・クリスティーもジョン・ディクスン・カーもむしろそう云った探偵ー犯人の構図を解体しにかかる作家たちではなかったか。現象学にはさっぱり明るくないものの、探偵小説論としても、ホロコースト論としても、本書で展開される議論はどこか頭でっかちで、理論が先行しすぎているように思う。
 たとえば本書中でたびたび言及される「三重密室」にそれは顕著だ。三重の入れ子構造になった密室は表現だけ聴くと堅牢だけれど、現在と過去、両方で起こる密室殺人はどちらも、三重構造と云うよりは曖昧な境界で取り囲まれているように見える。出入りの不可能よりも、その検討を通じて明らかになるのはどちらかと云えば不可解だ――死体とそれを取り囲む容疑者や痕跡、監視状況が複雑に絡んでいるために誰が犯人と考えても不自然である、と云う。三重密室を作り上げているのは、だから犯人でもなければ登場人物でさえない。それは、三重密室と云うテーマ自体である。
 本書は巨大な空回りの小説だ。誰もが現実を前にして思考を走らせながら、思考自体に足を取られる。頭でっかちでは重心が高すぎで転んでしまうだろう。けれどもそうして躓きながら、それでも、と歯を食いしばるように言葉を重ねてゆく小説でもある。
 いわゆる「大量死理論」について、笑い飛ばすことも批判することも容易いだろう。けれども嗤う彼らの誰ひとりとして、本書の長大さに追いつくことはできはしない。本書はその世評に反して、二十世紀探偵小説の謎を解き明かすものではない。しかし、二十世紀以降だらだらと続く死に対して足掻きつづける、ひとつの苦闘としては、そのアクチュアリティを一切失っていないと思う。

 先日、COVID-19による一日の死者が過去最多を更新した。戦争は兵器だけでなくエネルギー危機によっても死の圧力をかけながら終わりが見えず、人間社会は激変する自然環境と大規模な自然災害によって自滅の一途を辿っている。そこら中に死がある。決定的な結末としての死ではなく、だらだらとした死が。人間の尊厳をすり潰すような死が。
 そのような死の気配をじわじわと感じながら砂に顔を突っ込む一羽の駝鳥としては、感動や興奮以上に苦々しい苦悩を抱いた。ミステリを読んでこんな感情を抱いたのは、もしかするとはじめてだ。*1

*1:テーマとして近しい『九尾の猫』は、けれども最後に救済があるので