鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/02/14 リディア・デイヴィス『分解する』

 いずれその痛みを目の先一メートルの箱の中に入ったもののように見るときが来るのだろう、どこかのショウウィンドウごしに、蓋の開いた箱の中に入ったものを見るように見るときが。それは金属の塊のように冷たく硬い。君はそれを見て、そして言う、よし、これをいただくよ、買うことにしよう。それだけのことだ。なぜなら、入っていく前からもう何もかも知っているのだから。痛みもそれの一部なのだと知っている。それでも後になって、痛みよりも喜びのほうが大きかったから、だからそれをもう一度やるとか、そんなものではない。そういうのとは違うのだ。差し引きすることなどできない、なぜなら痛みは後からやってきて、ずっと後まで続くのだから。だから本当にわからないことはこうだ――なぜそれだけの痛みがあってなお、もう二度とそれをやらないと君は言わないのだろう? こんなに痛いのだからそう言って当然なのに、君はそう言わない。


 短篇集と云うか掌篇集と云うか、インデックスカードに書きつけた目録や断片、梗概のような散文、そう、散文が揃う。数行で終わってしまう抽象的な寓話があったかと思えば、具体性しかないような粒度の高い描写が綴られ、本としては短いけれども内容は豊かだ。小説が「小説」と云う何かしらものものしい形態を取る以前の、書き記されたもの――日記、手紙、メモ、言葉――の手触りがある。訳者あとがきによれば、その傾向は以後、ますます高まると云う。言葉に何ができるのか、何ができないのか、その可能性をあくまで軽やかに模索する、知的な試み。
 しかし本書は決して言葉遊びに興じているのではなく、綴られている紙束に記された語りは、いずれもどこか痛切だ。たとえば表題作「分解する」は、短く終わった恋愛を費用対効果を計算するようにふり返ってゆく。言葉は世界を分節化する、その言葉通りに起こったことを精緻に分解しながら、浮かび上がるのはむしろそれによっては掬い取れない痛みだ。
 時計をどれだけ細かく、細かく、部品のひとつひとつに至るまで分解したところで、過ぎ去った時間が巻き戻せるわけではない。そんなどうしようもない痛ましさが、本書を貫いている。どこに分岐点があったのか、どれだけ遡ろうとも、かえって過去そのもの――分解される以前の全体は遠ざかるばかりだ。
 救いようのない不動産に手を出してしまって復帰することができず現実と夢想に埋没してゆく「設計図」。ついに行動を起こすことができないままいたずらに人生を浪費してゆく「ワシーリィの生涯のためのスケッチ」(身に覚えのある怠惰な態度と、鷲と云う連想も相俟って、自分に向かって書かれているような気さえした)。あるいは、何か重大なイベントが起きたわけでもないのに春の訪れとともに心身が回復してゆく「セラピー」。
 いずれも実のところ、決定的な分岐点はどこにもない。決定的な過ちも、決定的な救いも訪れはしない。あるのは複雑で捉え難い全体であり、それは言葉にしようとすればするほどすり抜けてしまう。けれども残るのは言葉、それでも記された言葉だけなのだ。