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多くの場合は、小説について。

暗号と暗合:青崎有吾『図書館の殺人』について

※この記事は青崎有吾『図書館の殺人』(東京創元社刊)の真相と結末に触れています。



 メッセージを読み取ること、それ自体が謎であり主題となる点で、ミステリにおけるダイイングメッセージは暗号の一種として含まれるだろう。けれども一方で、ダイイングメッセージは暗号におしなべて不可欠な「鍵」が存在しない。ゆえにメッセージの作成者(死者)と受け取る側(生者)とのあいだでメッセージは一意に定まることがなく、その論理的な解読は至難である。死の瞬間に、そのひとが何を考えていたのか知ることは、どれだけ推測を立てたとしても究極的なところで不可能だからだ。『図書館の殺人』もまた例外ではなく、ダイイングメッセージの解読について、その問題を無視することができない。探偵役である裏染は、だから最初から、問題そのものを迂回する。彼の推理がふたたびダイイングメッセージへと帰ってくるのは「ダイイングメッセージの一部は偽装であり、この偽装を施すメリットがある人物が犯人である」と云うかたちであって、やはりそこでも死者の意志そのものは問題にされない。死の瞬間に被害者が書き残した暗号の解読はどこまでも想像の領域であり、裏染はその真相を仄めかすに留まっている。
 同書を扱った蔓葉信博「推理と想像のエンターテインメント」においてもまた、ダイイングメッセージの真相について想像を巡らせつつも、想像は想像に留めたうえで、あくまでもそれは読者に託された領域として「真相はこうである」と云う指摘からは退いている。この論考の眼目にあるのは、そのような突飛な想像ではなく、《ごく普通に考える》推理だからだ。《客観的な事実を集め、頭の中を整理し、地道な推理の積み重ねで、裏染は犯人までたどり着いた》*1。これは『図書館の殺人』作中に挟まれる「読者への挑戦」を踏まえた論述だが、ここでも念のために、同じ箇所を引いておくことにしよう。この挑戦状において作者・青崎有吾は、《推理小説に登場する探偵たちはスーパーヒーローではない》と云う*2

 では、どうやって謎を解くのか?
 彼らはただ、考えるのである。客観的事実を集め、頭の中を整理し、ここにこれがあったならばこういうことだろう、そこにそれがなかったならばこういうことだろうと、ごく普通に考えていくのである。
 ということはつまり、あなたと変わらないということだ。
 ということはつまり、あなたにも謎が解けるということだ。

それから蔓葉はさらに論を展開し、ポスト・トゥルースと云われる状況下で「ごく普通に考える」ことの効用を説くのだけれども、ここで蔓葉の論考を踏まえて作品を顧みるとき、むしろ眼に留まるのは、「ごく普通に考える」推理ではなく、そこから逸脱する奇妙な余剰である。どう云うことか。
 裏染はなるほど、実際に《ここにこれがあったならばこういうことだろう、そこにそれがなかったならばこういうことだろう》と考えを詰めていくことで、犯人の候補を絞り込み、終いには容疑者圏外から、まったく思いがけない――少なくとも、ろくに推理をしないまま読んでいた読者にとっては実に意外な――真犯人を指名する。この一連の過程はよく考え抜かれ、論証の手続きも綿密だ。けれどもそのように推理が精緻に組み立てられるほど、いったいどうしてこのような推理が成立しているのか、われわれは不思議に思わずにいられない。《ごく普通に考えていく》ことによって組み上げられた推理が、かくも精緻で奇抜な造形物として起ちあがってくるのは、いったいどうしたことなのか。
 本書において、たとえばカッターの欠けた刃先や、本についていた細い筋のような推理の出発点となる手がかりは、極言すれば偶然によってもたらされている。ほかにも『鍵の国星』が事件当日まで図書館に存在していたことを確証する写真のように、仮説を絞り込み、推理を成立させるためにわざわざ召喚されたかのような偶然もある。たとえこうした手がかりに拠らずに犯人を指摘できる別の推理が成立可能であったとしても、偶然に支えられて現に成立してしまった――真犯人を特定できてしまった――裏染の推理そのものの不思議は、覆されない。階梯のひとつひとつはいかにも《ごく普通に考えていく》ことに拠っているはずなのに、その梯子自体は、いくつもの偶然によってあやうく支えられている。そしてその階梯は、云わば圏外へと突き抜けるかたちで、およそ犯人とは考え難い人物にたどり着いてしまうのだ。
 それに加えて小説は、この人物について動機や背景の面から説明を加えない(いくつかの曖昧で過激な仮説を提示するに留まっている)。しかし「ごく普通に考える」なら、この人物が殺意を持って息子を殴り殺す理由は未だ明らかでない以上、彼女が犯人と指摘されるのは、いかにも不合理な事態であるはずだ。にもかかわらず小説は、犯人については――あらたな殺人を犯そうとしているところを止めると云うかたちで――確定させてしまい、裏染の推理もまた正しいことが保証される。そのとき読者にとって裏染の繰り出すロジックは、地に足の着いた推理の過程ではなく、アクロバティックな奇術ないし魔法のようなものとして映るだろう。
 こうした不思議について、思い出されるのは巽昌章による『双頭の悪魔』評である。《証明された事実は存在する》と云う考え方には、《当たり前のようでいてどこか不安な魅力》があると巽は云う。その考えを推し進めた先にあるのは、《とんでもなくこの世ばなれした不自然な出来事を完璧に「証明」してしまい、「だって証明されたんだから仕方がない」とうそぶくような小説》である*3

美しい論理や徹底した合理性を求めるとき、すでに私たちの心は過激なものへと傾き始めている。見事な推理の足許には常に、なぜここに手掛かりがあって探偵の目に触れるのか、なぜこれほど長大で華麗な推理がここにあるのか、という謎が口をあけている。

ここで云われるような過激さは、ともすると俎上に載せられていた有栖川以上に、『図書館の殺人』にこそ当てはまるものだろう。推理の及ばない領域については想像に留めることはなるほどひとつの合理性だが、あらかじめ区切られた領域のなかで犯人が特定できるように――論理が組み上がるように――すべてが適切に配置され、探偵がそれらを適切に拾い上げられること、その人工性は、もはや「ごく普通に考える」ことを逸脱してはいないだろうか。
 なぜこのような推理が成立するのか。どうして推理が真相にたどり着けるのか。推理と云うものに付きまとう、こうした偶然や不自然の根源にあるものを、巽は別の論考でポオを引き合いに出しながら《推理と真相の驚くべき一致=暗合の物語》と表現する。《そこでは、推理が的中すること自体きわどくもいかがわしい驚異であり、小説全体の語りだけがこれを支えている》*4

そして探偵の推理と「現実」との暗合を正当化しようとすれば、異なるものを同一だと強弁する手法、つまり抽象化、類推を駆使する他ないだろう。一致しえないはずのものを一致させること。私とあなたの思考が一致し、現代と古代が一致するように、異なるものが等しいものとして扱われ、一度きりのものが反復されるかのような小説を作り上げてしまうこと。このような一致を「無理やり」実現することが、ポオの小説形式の模倣を通じて引き継がれていった。

巽のこうした指摘を踏まえるとき、『図書館の殺人』にもまた「暗合」が顔を覗かせていることが見て取れる。なんとなれば、裏染の指摘する犯人が真犯人そのものであると云う「推理と真相の驚くべき一致」をここで「無理やり」成立させているのは、つまり犯人が(一見して動機を持たない)被害者の母親であると云うおよそ意表を突く真相に説得力を与えているのは、事件そのものの構図と作中作における被害者ー犯人の構図との「驚くべき一致」だからである。あるいはこう云ってもよい。『図書館の殺人』がどれだけ推理を堅実に組み立てたとしても、その完成図はいつの間にか、暗合の領域へと逸脱を始めているのだと。
 このような暗合への傾倒は、解決篇においても《奇妙な感覚》として姿を現す。それは明らかに合理的な推論を逸脱する、多分に想像力に富んだヴィジョンである。

まるで書物そのものが、犯人に罰を下したかのように思えた。図書館という静謐な場所を血で汚したことによって、そこに蓄積された文章とページが束になり、犯人に牙を剥いたような。奇妙な感覚が柚乃たちの心を満たしていた。*5

 もちろん、こうした箇所はむしろ例外であって、『図書館の殺人』自体は暗合や類推の魔に抗っていると読めなくもない。現に、裏染は決して『鍵の国星』と事件との「驚くべき一致」から犯人を指摘してなどいない*6。彼が「驚くべき一致」を指摘するのは、あくまでも解決篇のあとであり、その指摘は推理ではなく、根拠がまったくない直感に基づいているのである。
 よってここに、ひとつのせめぎ合いを見て取ることができるだろう。ダイイングメッセージと云う暗号の解読にあたって、小説は「理性的」な態度を貫く。それは根拠に基づく推理ができない、想像の領域である。けれども小説はまた一方で、この暗号の背後に驚くべき「暗合」があることをはっきりと示唆しており、読み終えて読者の胸に残るのは、むしろこの「一致」の不思議であるだろう。小説も、読者も、こうした暗合への誘惑から逃れることはできない。なんとなれば巽が主張するように、《推理小説がもっている唯一独自の表現手段がこれなのだから》*7。そして裏染について云えば、彼は上橋の行動の理由について推理し損ねる*8。合理性に基づいて人間心理を迂回する彼の推理には限界があることが、そこでは露呈されている。推理だけでは不十分なのだ。真相を十全に知ろうとするとき、探偵は、そして読者もまた、有栖川有栖の言葉を借りるなら《糸を手繰るだけでは迷宮を抜け出すことは叶わない》のであり、《脱出の手前で行く手に立ちはだかる最後の岩盤を、イマジネーションの力で爆破》する必要がある*9。けれどもそれは同時に、どこかで構図の引力に――暗合の魔に屈することを意味するだろう。
 加えて「推理と想像のエンターテインメント」において蔓葉もまた、「ごく普通に考える」ことの再考を促す一方で、同じ論考のなかでダイイングメッセージの真相についてそれなりの紙幅を割いて想像をめぐらせる。具体的な記述に基づかないままに『鍵の国星』と作中現実との「驚くべき一致」を想像し、その一致について被害者と犯人がともに――ここにも「一致」がある――気づいたからこそ一方はメッセージを残して、一方は本を持ち去ったのではないか、そんなふうに《考えてみたくなる》と云うのだ*10。このとき蔓葉の想像を駆動しているのもまた、暗合の魔であるだろう。
 《消去法で用いられる演繹法帰納法自体には例外なき正しさがある》と蔓葉は云う。《遊戯性や社会的倫理観よりも、推理の論理的操作における数式のような思考こそ推理の本質ではなかろうか》*11。しかし、そのような論理には陥穽がある。それは暗合の魔とでも云うべきものだ。《一致しえないはずのものを一致させること。私とあなたの思考が一致し、現代と古代が一致するように、異なるものが等しいものとして扱われ、一度きりのものが反復される》――そのような《異なるものを同一だと強弁する》思考が現実において肥大化するとき現れるもの、それをわれわれは一般に「陰謀論」と呼ぶのではなかったか。手がかりのネットワークを構築し、エビデンスに基づいて「ごく普通に考える」ことは、なるほどそのような思考に対するひとつの薬となるだろう。けれども推理小説にあっては、合理的に考えることが、いかがわしくも魅力的な暗合へと逸脱してしまう。《推理の論理的操作における数式のような思考》がいつしか自己目的化して、過激なまでに抽象的な領域へと突き抜けてゆく一連の過程を、われわれはクイーンを通して知っているはずである。それは偽の手がかりやメタ犯人のような問題とはまた別種の、「後期クイーン的」な問題と云えるだろう。*12

 

*1:蔓葉信博「推理と想像のエンターテインメント――青崎有吾論」(限界研=編『現代ミステリとは何か――二〇一〇年代の探偵作家たち』、南雲堂、2023年)、137頁

*2:青崎有吾『図書館の殺人』創元推理文庫、2018年、364頁

*3:巽昌章「解説」(有栖川有栖『双頭の悪魔』創元推理文庫、1999年)、696頁

*4:巽昌章「暗合ということ」(『現代思想 1995年2月号』青土社、1995年)、179頁

*5:『図書館の殺人』、414頁

*6:実のところ筆者は、このルートから直観的に犯人を予想することができた。つまり、犯人は『鍵の国星』を読んだことのある人物ではないだろうか、と

*7:「暗合ということ」、179頁

*8:『図書館の殺人』、300頁

*9:『双頭の悪魔』、634頁

*10:「推理と想像のエンターテインメント」、134頁

*11:同前掲書、142頁

*12:同論考で、蔓葉は《殺人事件という悲惨な物語を楽しめるのも、心理的な余裕があればこそだ》と云う。《名探偵が真実だというからどんなにトンデモな推理も真相と考えるのも余裕があってのことだ》。ここまでのノートを踏まえてこれを換言すれば、「暗合に耽溺することができるのは心の余裕があってこそ」と云うことになるだろう。《その余裕、心の安全領域を作るためにも、互いに共有することのできる足場を広げなくてはいけない》のであり、それゆえに手がかりのネットワークを構築し、「ごく普通に考える」ことが求められる。してみれば、このノートの主張と蔓葉の主張は最初からすれ違っている。鶏が先か卵が先かと云ったようなことで、論理と暗合、どちらを推理小説の「本質」と置くか、その違いでしかないのかもしれない。あるいは、いたちごっことでも云うべきか。「ごく普通に考える」ことには「暗合」の危うい誘惑が付きまとい、しかしそのような「暗合」の魅力に耽るためには「ごく普通に考える」ことが必要とされるのだから