
ときに最大のトリックは、何かがトリックでしかないと主張したり、容易にそれを暴くことができると主張したりすることのうちにあるのだ。
――トム・ガニング『映像が動き出すとき』*1
云うまでもないことだが、米澤穂信は言葉と云うものに注意を払い続ける作家である。ささやかな歴史研究の実践であり、言葉に仕掛けられたその心を解く小説だったデビュー作『氷菓』から一貫して、彼の小説は言葉を読み解くと云う営み――その接続と断絶を書いてきたと云って良い。言葉の可能性と不可能性。言葉を通じてひとを、世界を、いかにして理解するか。言葉はどこまで届くか。それはとりもなおさず、手をどこまで伸ばせるかと云う青春小説のテーマと不可分な問いだ。
そうした書きぶりは当然、書くこと、語ることにもまた注意を向けさせる。一人称の語りもまた、青少年の自意識と不可分なものだからだ。〈古典部〉シリーズにおいて折木は自らの心情のすべてを語り尽くすことはないし、〈図書委員〉シリーズにあってはときに語り手が消極的なかたちで嘘をつく。そしてもちろん〈小市民〉四部作を特徴づけるのもまた、その語りだった。小市民、小市民、と云い訳がましいまでに饒舌な小鳩の語りは、必要もない推理をたびたびはたらかせては頭でっかちに結論を先走り、相手の言葉を追い抜いてゆく。それは彼なりの世界との切り結び方であって、けれども折木や図書委員たちの語りとは微妙に異なった、推理によって世界を囲い込もうとするような動きだ。小鳩の場合、推理は一切の前提にある。世界と切り結ぶなかで考えるのではなく、考えることが世界と切り結ぶ方法なのだ。
〈小市民〉四部作が経巡った四季とはおそらく、そんな小鳩の一人称的世界を解体し、再構築してゆく過程だった――そのために必要な相棒、小佐内ゆきとの歩みを通じて。掉尾を飾る『冬期限定ボンボンショコラ事件』において「小市民」と云う言葉が登場しなかったことは、単なる変化の象徴以上に、彼の語りが再構築されたことを意味する。そして何より『冬期』で小鳩が取り組んだノートこそ、自らを見つめ直し、過去を再構成することだったのだと、思い出してみると良い。
してみれば、このシリーズをアニメーションとして映像化するにあたって、製作者サイドにはふたつの選択肢が与えられたはずである。ひとつには、饒舌なモノローグを導入すること。言葉によって映像を説明づけ、駆動させると云うことだ。それはおそらく、小鳩の一人称がそうであったように、動かされる画面がそのまま読み手に対する説明として、世界に対する界面として、意地悪な表現をすれば、ある種の云い訳として作用するようなアニメーションだろう。きっとデフォルメされたキャラクターのイラストや抽象的な図解、ともするとタイポグラフィが、画面には躍っていたに違いない。そうして世界はその画面の、薄っぺらい液晶の矩形にこそ宿る。これはこれで成功したはずだ。なぜならそのようにして眼の前におろされたスクリーンこそ、小鳩が世界に対して用意した窓であり、思考フレームワークだから。
けれども製作者はもうひとつの選択肢、すなわちモノローグの排除をしてのけた。ぼくの記憶しているかぎりでこの趣向が揺らいだのは第6話「シャルロットだけはぼくのもの」だけであり、それもまたLINEを模したチャット画面と云う間接的なかたちによって描かれたにすぎない。映像は小鳩がその身をくるむ語りの着ぐるみを引き剥がし、その初めから、高慢でどこか胡散臭い、いささか共感能力に欠けた少年の姿を曝け出す。彼の語りによって糊塗されていた推理が、空回りした茶番劇に過ぎないことを暴いてしまう。それは同時に、小佐内との会話がひどくハイコンテクストで歪なものであることを明かすことでもあった。アニメを見ている者は思ったはずだ。こいつらはいったい何をやっているのか? ひとの家で友人をほったらかしながらちょっと調べれば簡単にわかることをディスカッションし、つまみ食いを隠すためだけに完全犯罪を目論むかのような思考を巡らせ、別れ話の痴話喧嘩もできないままに理屈ばかり立った言葉を並べ立てる。そうした違和感は最初から原作でも示されていたとは云え、『秋期限定栗きんとん事件』において瓜野や仲丸と云った第三者の導入によってある種の隔絶、その断面としてようやく前面に出てくるものではなかっただろうか*2。
かくしてアニメ『小市民シリーズ』は小鳩から語りを奪い、すなわち推理を奪い取って、すでにそこに在る地方都市へと放り込む*3。水門や鉄橋、商店街、堤防。生活の痕跡に満ちたそれらは、小鳩たちの世界観などものともせずにそこに在る。もちろん画面に写り込むそれらを象徴的に読み取ることはいくらだって可能だけれども*4、まるでカメラで撮ったかのように映されたそれら街のオブジェクトは、そのような〝推理〟に先んじて街が、世界が在るのだと云うことを意識させるものだ。このような世界にあって小鳩は《高慢でどこか胡散臭い、いささか共感能力に欠けた》、また同時に、世界に対して常に居心地の悪さを覚えているかのような、孤独で哀しい少年として描き出される。その哀れは、最終話にかけていっそう顕著だ。そしてこの、世界に対して空転してしまうような少年こそ、『冬期』を踏まえてぼくのなかで規定され直した小鳩の肖像だった。
もっとも、いくら都市風景がカメラで撮られたかのように描かれていたとしても、これがアニメーションである以上は一切が作為的なものであって、映像はたびたび嘘をつく*5。けれどもそのような〝リアル〟と〝リアリティ〟のあいだにある相克は、映像と云うメディアそれ自体に初めから付きまとうものだったはずだ。それを虚構と現実の戯れと呼んでも良いだろう。ぼくはこのアニメを眺めながら、折しも読んでいた本の言葉を想起せずにいられなかった。曰く、
広告や雑誌の表紙における写真イメージの見事なデジタル操作に対して私たちが喜ぶのは、イメージに騙されることが理由ではなく、写真の正確性への結び付き(あの女性の顔はこのように見える)とその明白な歪曲(でもこのように見える顔はない)とのあいだの遊戯的な綱引きのためである。偽造イメージがイメージの信憑性をなおも信頼することに依存しているのと同じように、私たちの眼前で自らを解体する遊戯的イメージは、私たちが認識する通りに対象を示してくれる写真の能力に対する、私たちの共通の思い入れに依存している。
――トム・ガニング『映像が動き出すとき』*6
これをいまの文脈において云い換えれば、このアニメの風景には、真正なる映像に対する信頼を逆手に取った虚構の戯れが仕掛けられている、と云うことになる。そしていくらかの飛躍が許されるならば、ここでガニングが語っていることは、探偵小説そのものにも当て嵌められないだろうか。すなわち探偵小説の、ミステリの快楽とは、単に騙されることに宿るのではなく、《正確性への結び付き(あの女性の顔はこのように見える)とその明白な歪曲(でもこのように見える顔はない)とのあいだの遊戯的な綱引き》にこそ見出されるのではないだろうか、と。それは云うなれば《私たちの眼前で自らを解体する遊戯的イメージ》であるはずだ。なぜか。ミステリにおける謎解きは、謎解きとして成立する限りにおいて現実から切り離されてはならない一方で、現実から切り離されるような飛躍にこそ、トリックが、ロジックが、ひいてはミステリの想像力がものを云うからだ。あるいはそれを〝自然〟と〝不自然〟のせめぎ合い、ないし〝合理〟をめぐる相克と捉えてみても良いだろう。
名探偵が超人的犯人に挑む物語は荒唐無稽かもしれないが、それを合理化しようとして、凡人のトリックを凡人が看破する小説を書けば、それはまた別の歪みを、つまり、なぜそんな人々が込み入ったトリックを考案するのかといった不自然さをはらんでしまう。トリックに必然性をもたせようとして、犯人が密室を作らねばならなかったいきさつを縷々語れば、偶然が連鎖する因縁話の迷路に踏み込むことになりかねないし、トリックをなくせばなくしたで、よそに歪みがあらわれるだろう。だからといって、むろん名探偵ものの方が「自然」なわけはないし、たとえば松本清張のリアリズム志向は間違っていた、ですませられる問題でもない。
――巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』*7
ミステリは常にそのような不自然さや非合理性をはらみながら、自然のなかへと組み込んで合理化を図る。ミステリの快楽は、と云うか、驚きは、そのために生じる歪みに依存しているのだ。なんとなれば、完全に荒唐無稽な小説はもはやミステリの驚きを与えず、完全に自然な小説では(そんなものどうやって書けば良いのかわからないが)意外性が見出される余地などないから。
そして米澤穂信は、ミステリがその根源に抱える不自然さに、自覚的すぎるほど自覚的な作家だった。『愚者のエンドロール』や『インシテミル』などの初期作品は、こうした不自然さを受け容れることが決して普遍的なものではないことを穿つ、その点に仕掛けが施されていたのであるし、何より〈小市民〉四部作において小鳩常悟朗が世界と切り結ぶなかで生じる軋轢は、名探偵と云う存在、そうでなくとも、名探偵のように推理すると云う不自然な行為が、世界にもたらす軋轢にほかならない。彼の推理は一見すると合理的で、けれども合理によって世界を把握して囲い込もうとする――同時に、そこからはみ出すものを排除したがる――点において空回りする、非合理的なものだ。
アニメはそうした不自然を、白日のもとに曝す。こいつらはいったい何をやっているのか? 小鳩が推理を展開するとき、とりわけ小佐内とのディスカッションにおいて、彼らは現実とよく似た、けれどもひとけのない、ここではないどこかの都市風景へと身を投じる。それは単なる心象風景である以上に、それこそが彼らにとっての世界であることを意味するだろう。現実のうえにかけられたフィルター、ないし、同じ世界を生きているはずなのに通じ合うことができない、重ね合わせになった別の世界。ときたまそこに第三者が入り込んでくることもあるけれど、推理に組み込まれる人間たちを除けば基本的に小佐内しか立ち入ることのできない、閉じた世界。それをひとは思春期の全能感であるとか、鼻持ちならない傲慢と云うのだろう。けれどもそれはひどく寂しい、哀れな世界でもある。
結論を下そう。
「小佐内さんの言いたいことはわかったよ。……別々になろう」
それに対する小佐内さんの反応は、全く説明に困るものだった。
目を閉じて、そして開くと、瞳の端から涙が一粒だけこぼれてきた。小佐内さんは合理的な提案をし、ぼくはそれを検討の結果受け入れただけなのに、悲しいことなんて、どこにもひとかけらもないはずなのに。小佐内さんはなぜかこう言った。
「……ごめんね、小鳩くん……」
――米澤穂信『夏期限定トロピカルパフェ事件』*8
丸ごと一話分使って、ふたりはこれまでの推理空間とは違ってひどく閉塞的な、シャッター街をさまよう。この夏、小佐内はふたりの街に迷路を仕掛けた。小鳩はそこで迷わされていたことを推理で確かめながら、しかし、そのこと自体に怒ることができない。彼には考えることしかできない。その迷路の光差す出口で、鼻持ちならない少年は蹲って顔を伏せるばかりだ。
*
手がかりの伏せ方がわかりやすいことによるミステリとしての緊張の緩みや全体的なわかりにくさなど、アニメは諸手を挙げて褒められる出来ではなかった、と思う。春から夏にかけての小鳩たちがそうであったように、シーズンの中盤にかけて中弛みした感も否めない。とは云えわかりにくさとトレードオフとしての演出は意表を衝き続けるものだったし、最終2話、あの路地の出口において、ぼくは胸を衝かれた。そしてこの演出、と云うか、作品全体の造りは以上述べたように、秋冬を踏まえて春夏を見つめ直すようなもので、いち原作読者からすれば得るところのほうがずっと多かったように思う。何よりまた、ぼくはワクワクしている。この造りにあってはきっと、『秋』と『冬』こそ眼目だろうから。そこで見られる彼らの世界は、いったいどのようなものになるだろうか?
*1:トム・ガニング著、長谷正人ほか訳『映像が動き出すとき:写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』みすず書房、227頁
*2:もちろんふたりのあいだには、堂島と云う第三者がたびたび干渉してくるわけだが
*3:エンディング映像を思い出してほしい
*4:たとえば「越境のための分断――『小市民シリーズ』第1話における “線” について」(野の百合、空の鳥)を参照のこと
*5:今度は「アニメーション的快楽を求めて——『小市民シリーズ』第2話における “リアリティ” について」(野の百合、空の鳥)を参照のこと。このブログ記事は、両記事に多くを拠っているし、何より両記事がなければそもそもこんなことを書いていなかっただろう(ぼくは普段、アニメ批評めいたことはやらない)
*6:トム・ガニング著、長谷正人ほか訳『映像が動き出すとき:写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』みすず書房、80頁
*8:米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』東京創元社、233頁
