鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/04/06~04/18 コーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者』ほか

コーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』

キャンバスのバッグをとって台所に入り缶詰とコーヒーと紅茶を入れる。皿などの食器や台所用具も少し。ダッフルバッグに本を詰めキャンバスのバッグといっしょにこれまたドア口に置く。小型のステレオ装置とカセットテープの入った箱も。電話のジャックを壁から抜きベッドからカバーと枕をとって最後にもう一回り室内を歩く。猫のトイレをとりあげる。所有物は多くないのにすでにあまりにも多すぎるように思えた。コードをコンセントから抜いて電気スタンドをドア口まで持ってきたあと荷物を全部運び出してトラックの運転台に積んだりクレーンの前の隙間に突っ込んだりしはじめた。作業は五往復で終了。それから膝をつき猫に話しかけながらベッドの下に手を伸ばすとやがて猫に手が届いた。おいで、ビリー・レイ。なんでも永遠には続かないんだよ。
――『通り過ぎゆく者』

世界には喜びが少ししかないということは単なる物の見方の問題じゃない。どんな善意も疑わしいの。あなたが最後に悟るのは世界はあなたのことなんか考えてないってこと。考えたことがないってことよ。
――『ステラ・マリス』

 コインの裏表のようになった姉妹篇。それぞれ兄と妹を主役にしているから兄妹篇か。どちらが先どちらが主と云うこともなく一方だけではよくわからないようになっている。もっとも2冊とも読んだところでよくわからないのだけれども……。何かの陰謀に巻きこまれたかのように追いつめられてゆくと云う漠然とした筋立て以外にプロットらしいプロットのないまま曠野をさまようみたいにしてさまざまな光景と出会っていろいろな人びとと言葉を交わしときにはひとりで黙考にふける『通り過ぎゆく者』、脱線や切断をくり返す対話その成立しえない言葉のやり取りのなかで記憶と思索が断片的に語られてゆく『ステラ・マリス』。訳者の黒原敏行は『通り過ぎゆく者』から読むことを前提に語っていて本国での刊行順もその通りであるし分量から云っても後者は前者の補足ないし種明かしのように読める。一方で山形浩生月報でむしろ『ステラ・マリス』からのほうが読みやすいと語っていて確かにこちらを踏まえないと『通り過ぎゆく者』はだいぶわけわからん小説に思えるだろう。先ほどはこちらを補足と云ったが世界について思索を巡らせる『ステラ・マリス』のほうが短くも2部作の芯であると云うこともできる。とは云え『通り過ぎゆく者』を読んでいなければ『ステラ・マリス』はよく知らない人のよくわからない話を延々と追いかける羽目になってこれはこれで読みにくいところがあるだろう。静謐な作品ではあるが悪く云えば何も起こらないのでこれはこれでよくわからない。と云うわけでぼくは読むなら両者を並列させて行き来することをおすすめする。一方の息苦しさに耐えかねれば空気を入れ換えるようにもう一方へ逃げこめば良い。そうして行ったり来たりするうちに互いが互いの裏表になって一体となる。そうして辿り着くラストシーンとりわけ『ステラ・マリス』の結末の厳粛な祈り……。行動だけならばなんでもないようであるのに切実で哀しいものが籠められたその言葉にこちらもまた祈るような気持ちになる。そうしてわたしたちは終わりを迎える。おいで、ビリー・レイ。なんでも永遠には続かないんだよ。

松浦寿輝田中純沼野充義『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』

[松浦]人類文明の突端にわれわれは今立っていて、いろんなものが煮詰まってきているんだけど、その煮詰まった挙げ句にどういう場所に出ることになるかは、皆目見当がつかない。そういう五里霧中のさなかに身を置きつつ、われわれはとりあえず目を過去に向け、二〇世紀とは何かというやや大袈裟な問いをめぐって語り合ってきたわけです。二〇世紀――それはともかく人類が多くのことを夢見た世紀でした。そのなかには十全に実現された夢もあり、されなかった夢もある。「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句があるけれど、われわれの討議はいわば、二〇世紀の「夢の跡」を――この世紀が夢見たあまたの実現されたもの、あまたの実現されなかったものの「跡」を経巡ってゆく長い旅だったのかもしれません。

『群像』で連載されていた鼎談をまとめたもの。「二〇世紀とは何か」と云うのはぼくにとっても重要な問いで、学部生時代には一度、京都大学文学研究科の二十世紀学専修(現メディア文化学専修)に文転しようか本気で悩んでいたくらいだし、昨年書いた中篇「グラモフォンとフィルム、タイプライターのための殺人」の構想メモには「二〇世紀のダイイング・メッセージ」なる文言が残っている。なんやそれ。まあ結局中篇は別に「二〇世紀とは何か」を論じたものにはならなかったけれど、被害者のアマチュア研究者が遺した手紙として、こんな文章は書いた。彼は死の直前に、自らの死を知らないはずなのに、まるで予感しているかのようにして、愛する人に書き遺す。

 あとに残るのは言葉。ただ言葉だけだ。われわれは言葉の外に出ることはできない。音楽がドレミの外では何も演奏できないように。映像が光の外では何も映すことができないように。すべてはこのどうしようもない窮屈さのなかで一切が遅れてゆく。そこには本当も嘘もない。ただ抜け殻になった死体が転がっている。コーパス。死体。全集。言葉の集積。
 まだわたしの話を聴いてくれているかい?

 これはぼく自身の考えていることとぴったり一致するわけではないけれども(小説のいち登場人物の手紙なのだから)、ここで語られているような、外が失われていることの息苦しさ、そこで遺される言葉の廃墟のイメージは、鼎談で語られているイメージと決して遠くないような気がする。これはぼくが優秀だと云うよりも、二〇世紀を考えるにあたって誰しもが辿り着く場所として、夢の跡、あるいは傷痕としての廃墟があるのだろうと思う。第一回「世紀の開幕」で、松浦は田中とベンヤミンを語りながら《一九世紀のパサージュに対応する二〇世紀的な特権空間というのは、ひょっとしたらアウシュヴィッツの収容所跡などがそれに当たるかもしれない》と見当を付ける。戦争。大量死。テクノロジー。血腥く悲劇的であるのにどうしようもなく惹かれるこの二〇世紀と云うテーマは、なるほど廃墟に惹かれることと近いのだろう。長い討議の終わりで、松浦はまたこの廃墟に還ってくる。ニコラウス・ゲイハルターの映画を引きながら、《二〇世紀の夢の廃墟を、どこからともなく湧いて出た霧が呆気なく呑みこんでいき、後にはただ真っ白な画面が残るだけ――というこの映像が、十二回にわたったわれわれの討議の、いちばん最後に置かれるイメージにふさわしいんじゃないかな》、と。

 けれども一方で、果たして夢を見ているのは誰だろうかと云う疑問がないでもない。最後に儚くも恍惚としたイメージへと回収されて、鼎談自体が煙に巻かれた、もとい、霧に呑まれたような気もする。二〇世紀を語り尽くそうと云うそもそもが無茶な企てを成立させるにあたって、霧がいたるところに立ちこめていると云うか、結局のところここで語られる二〇世紀それ自体が、小部屋――その部屋の名前は「東大」だろう――に籠もった三人の夢想であるように思われてならない。三人が互いに補助線を引き合って全体を延ばしてゆく、まるで三つ編みのような構成は読みやすくもわかりやすくもありしなやかでもあり、同時に、思っていたよりも広がりがないとも云えるだろう。だからこそ、議論としては散漫になりつつも、個人的な経験、生きて積み重ねてきた記憶に基づいた後半の回のほうが面白く読めた。そもそも会話の面白さとは、そのように発散的なところ、即興的なやり取りにあるのではないか。実際本書では、各々の知識に基づく整理は勉強になりつつも、ふと思いついたように語られる素描のほうが、遙かに興味深いと感じる。

 追記。流石にフェミニズムの章がないのはどうなの? 一応言及されていないわけではないものの、各回で断片的に扱われる程度。まあ、三人の専門の関係上、どうしてもヨーロッパ中心的にならざるを得ないところがあり、フェミニズムも同様、専門外だから迂闊な言及を避けているのだろう。
 けれどもだとすれば、そもそもメンバー選定が、二〇世紀を論じるにあたってどこまで適切であったか、と云う話にもなる。とりあえず本書は、この三人で二〇世紀を語ってみたらこうなった、と云う本として読むべきなのだろう。

booth.pm

読書日記:2024/03/12~03/20 ロバート・ダーントン『検閲官のお仕事』ほか

 全体的にコメント短め。もう3月終わるってマジ?

ロバート・ダーントン『検閲官のお仕事』(みすず書房

東ドイツ国家の中枢で行き交ったメモからは、検閲が検閲官の活動だけに留まらないことが見て取れる。検閲は文学のあらゆる側面に浸透し、著者の内心や、著者と編集者との最初の打ち合わせにまで及んでいた。フォルカー・ブラウンは一九八三年に『小説ヒンツェ・クンツェ』の草稿を中部ドイツ出版社の編集者に渡すのに苦労している時、自分のために走り書きしたメモの中で、検閲の性格をこう定義している。「このシステムはひとりでに機能する。このシステムが検閲をする」。

 何かを読み、書く、と云うことは決して読者と作者との一対一で完結するものではない。書き手は何かを読むなり聴くなりすることから書くことを開始するし、書かれたものが読者に届くまでのあいだには、読み手でもあり書き手でもある編集や校閲などが介入しており、出版されてそれを手にする読み手もまた実のところ最終地点なんかではなく、読み手は売り手になったり書き手になったりする――。書物はこのような読む/書くの複雑なネットワークのなかで流通しており、検閲のシステムはそれぞれの結節点において、常に具体的な読み/書きの干渉として作用する。ならば表現の自由もまた、このネットワークのなかで具体的に実践されなければならないのだろう。抽象的・観念的に検閲/表現の自由を考えるのでは実際的な議論にならない――と云うか、抽象的で観念的ななにがしかが具体的な書物の読み/書きのなかに埋めこまれてゆく過程にこそ気を払わねばならないと思わされた一冊。たいへん面白かった。

 

カルロ・ギンズブルグ『裁判官と歴史家』(平凡社

裁判官の道と歴史家の道とは、一度は一致しながらも、つぎには避けがたく分かれてゆく。歴史家を裁判官に還元しようとする者は、歴史叙述的認識を単純化し貧困化してしまうことになる。が、しかしまた裁判官を歴史家に還元しようとする者は、正義審判権の行使を取り返しがつかないほど損なってしまっているのだ。

 ここでもまた、抽象と具体が問題になる。と云うか次に読んだ『事件』でも語られているように、裁判とは抽象的な観念やルールが、具体的な事物へと適用されてゆく場なのだ。抽象と具体のせめぎ合うそこで、俎上に載せられるのは人間の意志と行動である。ギンズブルグが友人のかけられた裁判について論じた本書はその大部分が裁判記録の批判的な検討に割かれ、そのためにかえって裁判官と歴史家の比較と云うもうひとつの目的がわかりにくくなっているものの――歴史家が本書でおこなっているのは、裁判官の分析ではないだろうかと思うし、そもそも裁判官の論理が概念の運用以前のところで破綻している――そもそもこの不公正が、人間ひとりの意志と行動を大きく抽象的な論理のなかに埋めこんでしまうような裁判と歴史の取り違えにあると云うことか。本書を通して浮かび上がる言説空間としての裁判は、そこでひとりの人間が裁かれていると云う点において、ひどくおそろしいと感じる。この本を、そして『事件』を読むまで、そんなことを考えもしていなかったと云うことにも、また。

 

大岡昇平『事件』(創元推理文庫

検事の冒頭陳述も論告も、彼の弁論も、要するに言説にすぎない。判決だけが犯行と共に「事件」である。殊に最近のように、地裁、高裁、最高裁と、さまざまな裁判所で、さまざまな判決が出される現状においては、――しかもおのおのの裁判官の人格、またその時々の身体的精神的状況によって影響されるとすれば、「事件」となる。制定法はそれが制定されている故に正当である、という古い同義反復的観念は、未だに払拭されていない。しかしその正当性が、一人の人間による決定という可変的要素と結び付いているとすれば――いや、すべての制度による決定は「事件」ではないか、と論理が進展した時、菊地は自分の頭がおかしくなったのではないか、と思った。

『裁判官と歴史家』が裁判を題材として抽象的なほうへ議論してゆくとするならば、『事件』は裁判に関わったそれぞれの具体的な人間を語ってゆく。あるいはこうも云えるだろう。事件は判決として抽象化してしまうがゆえに、それぞれの生と死はある種のブラックボックスとして残されてしまう、と。過去には決してたどり着かない。人がひとを殺す、その一瞬には。ちょうどこの二冊を読む前に、映画『落下の解剖学』を見て、と云うかその映画を見たからこの二冊を読んで、真実へたどり着くことへの途方もない遠さに、ちょっと打ちひしがれる思いがした。確かに『事件』では、裁判の進行につれて、意外な事実が明らかとなる。けれどもそれは真実を詳らかにすると云うよりは、過去を知ると云うことの難しさを、人が人を裁くと云う手続きそれ自体のままならなさを意識させるのだ。真実はずっと遠くにあって見ることはできず、そのずうっと手前にあってわれわれは、言葉でしか語ることができない。事件とはその言葉のことであり、小説は中心にある一点のブラックボックス――少年の心――よりもむしろ、それを取り巻くコンテクスト、環境のほうを眼差しているように思われる。あるいはそれを、風景と呼んでも良い。

創作「夜になっても走りつづけろ」

夜になっても遊びつづけろ:よふかし百合アンソロジー』(ストレンジ・フィクションズ,2021)に書いた短篇。コーマック・マッカーシーの遺作『通り過ぎゆく者』を読んでいたらふと思い出したので、もう発表から3年も――3年も?!――経つことも踏まえ、じゃっかん修正して、公開することにした。百合なのかどうかよくわからないし、かなり性的な話もしているし、美醜については踏み込みが足りていないとも感じるけれど、最後に語られる「言葉」についての言葉は、いまも自分自身に射抜かれてしまっているところがある。
 なお元ネタは、シモン・ストーレンハーグの『エレクトリック・ステイト』。アメリカでは、誰もが旅をする。



 汚いガキだったけど礼儀ってやつを知っていたね。いや、儀礼って云うべきかな。ちゃっかりあたしらのクラッカーくすねやがったよ。ほらご覧、あとひと袋しかない。あたしが囓ってたのをよだれ垂らして眺めてるから、ま、そうなるだろうと思ったけど。クラッカーくらいがちょうどいい。金だったら容赦してなかった。銃だったらひっぱたいてた。ガキが戦士を気取ってんじゃねえって。でもクラッカーでいいよ。クラッカーなら怖くない。クラッカーなら安心だ。腹が膨れて栄養満点。だけどクラッカーは不味いから、誰かと取り合いにもならないさ。あたしらみたいにね。
 みんな大好き、グールド・クラッカー。クラッカーはグールド。微生物を食べて、あなたの病気を食べてもらいましょう。心も体も健全に成長いたします。ゴランツ・グループ、グールド社のクラッカー。クラッカーはグールド。
 ん、これはドーキンのクラッカーか。ま、どっちも不味いことに違いはない。
 は? わかってないね。あたしが食うのは、あんたが食わないからさ。知らなかったか? このクソ不味い、クソ乾パンを、好きこのんで食べるとでも?
 分け合わなくちゃいけない。目的地までは、まだ何もかも足りないんだから。荷物も距離も。そう云うもんだろ。あんたが赤の缶詰食うみたいにさ。ユーカラの缶詰。栄養満点、健康第一。ユーカラ社の缶詰は世界一頑丈。世界一げろまず。
 ばれていないとでも?
 わかった、わかった、はい。うん。いや。ま、うん。
 悪かったよ。
 そう、ガキだった。女のガキだ。十二、三、てところじゃないか。人間の女は発育がいいから。そう、少なくとも人間だったね。手も、脚も、顔も、目も。ひとりだった。小柄な方だった。ぼろのジャケットにくるまるようにしてさ。
 え?
 知るかよ。あんたが寝てる後ろでやるわけないだろ。あたしを何だと――
 あ?
 うーん、ま、それもそうか。ついてるかも知れなかったしな。どっかの店から逃げてきて、変態野郎からくすねたジャケット着たまま、ヒッチハイク。ない話じゃない。あたしらみたいに。
 冗談だよ。あたしらはそんなんじゃなかった。そう。その通り。
 けど、あんた、そんなんだったか? もっとうぶだと思ってたよ。さっきの寝顔、写真撮っときゃ良かったな。可愛らしくて大人しくて。犬みてえに。
 ああ、犬か。
 ま、そう云うもんだろ。あんただって、あたしをそうやってからかうじゃないか。
 そもそもあんたが犬みたいに従順なら、こうやってあたしと夜道を走っちゃいないわな。あたしが馬鹿だったよ。おっと。運転手を殴るのは勘弁してくれ。
 ガキは人間だった。人間じゃないものじゃない、と云う意味で、人間だったと思う。
 あんたが寝ちまってから一時間くらいしてかな。カーニーを越えて二時間あたり。ひとりで延々運転してるのも嫌になって、畑の向こうに池が見えたから近くまで車を着けてみたんだ。池は池だったけど、ポンプだった。あの大きさなら湖って云うべきか? まん丸な穴に濁った水がなみなみ注がれて、真ん中に柱が立ってる。そう、あれ。柱のてっぺんもまん丸だったから、トーア社のやつだな。この辺じゃ珍しいって思った。さっきまで、どこもかしこもゴランツ製だったのに。
 東を出たんだって、それでわかった。ゴランツからトーアへ。ほら、あっち見てみろよ、そう、丘の上のバルーン。黄色い二頭身が真っ赤な口を開けて笑ってる、あれは正真正銘のトーアだ。
 ここはトーアの国だ。たぶん。もうちょっといけば、でかい大穴が見られるはずだ。楽しみにしとけ。あれ、もう冷水処理は完了したんだっけ?
 池にしてはでかかったけど、あの大穴に較べればまだ小さかったのかもな。畔に沿って、車をゆっくり走らせて、しばらく池を眺めてた。ポンプなんか興味ない。鳥がいたんだ。ツルか、あれは。白くて赤い。数えたら十三羽いた。浮かんでた死骸を含めれば十四だな。ポンプの池で餌なんて取れるわけないのに。休んでたのかもな。だったらあたしと同じだ。
 あ? ああ、そうか。へえ。
 ツルは死骸に群れてたよ。だから、ま、そう云う考えもできるな。
 でも、あたしの知ったことじゃない。あたしがクラッカーを投げてやったら、ずぶずぶ汚濁に沈んでくのを何羽かが争って食い始めた。死骸はそのまま沈んでいったね。残りはみんな飛んでいった。群れだったんだろうに。ばらばらだ。
 いや、はじめからばらばらだったのか? あんたはそう云う見方が好きだろ。
 でもやっぱり、あたしの知ったことじゃないんだよ。だから馬鹿らしくなった。アクセル踏み直して、ようし行こう、てときに、ガキが出た。
 木陰から、車の前に飛び出してきやがった。両手開いて、こっち睨みつけて。ライトも半分壊れたバンの前によく出てこれるよな。あたしが鳥だったら轢いてたよ。違う、ツルじゃない。鳥目のあいつだあいつだよ。鳥目の。
 えー、あー。鳥目だから、鳥の目と、嘴のある……
 リー。
 そう、リー。なんで思い出せなかったんだ?
 いや、リーはいいんだ。ツルも、リーも、関係ない。運転していたのがリーだったら、ガキを殺してたってだけ。轢かなくても殺してたかもな。あいつは、鳥目のくせにプライドが高かったから。鳥目は関係ないか? それとも、見られたからには生かしちゃおけない、てな。見えてないのはお前の方なのに、な。
 でも、関係ない。何も関係ない。そう云うことじゃない。
 リーじゃない。ガキの話だ。ガキは、あたしが車を停めたら――寸止めだ、寸止め――乗せてって喚きはじめた。よく起きなかったな、あんた。感心するよ。
 苛々して、とっとと行こうと思ったんだ。アクセルも踏んだ。ポンプの近くで潜んでいた物乞いのガキなんてろくなもんじゃない。薬漬けならぬ泥漬けの連中だ。そう思ったんだ。ゴランツでもトーアでも、そう云うことは変わらないからな。
 でも、ラリってるわけじゃなかった。脚もふらついてない。ひと目で人間だとわかる程度にはしっかり立ってた。それで、よく見たらガキが女だとわかった。女のガキだ。想像してみろよ。人間の、女の、ガキ。ポンプの近くで。ひとけのない木陰から。何にだってなれるお年頃。何だってされるお年頃。でかいジャケットを着て、顔はくすんでる。寒そうだった。
 はん。
 シンパシーとか親切とかそう云うことじゃない。合理的な判断ってやつだ。そのまま置いていけば、ガキはどうにかされるだろう。ここで殺せば、あたしにどうにかされたことになる。でも、あんたを起こさないで轢き殺すつもりもなかったから、ガキを乗せることにした。それならあとからあんたが起きたとき、相談できる。あたしなりに考えたわけなんだよ。合理的だろ。
 結局、あんたは起きなかったけどな。あたしにはよくわかんねえよ。よく起きないでいられたな。そもそも、寝るって何だ? 夢を見て、それで?
 夢見るお年頃だ。ガキもそうだった。車を飛ばしてやったのに全然びびらない。後部座席で、鞄抱えて、膝抱えて、頭抱えて。脱色した赤毛をぐちゃぐちゃにひっつかんで。でも、震えない。自分がここにいることをなんにも不思議がっちゃいない。
 あたしは気に入ったさ。あたしらだってできたことじゃなかったし、あたしはいまもできてない。なんであたしはここにいるんだ? あんたは答えられるか?
 そう云うことじゃないのか?
 鞄だ。そう、鞄があった。小ぶりで、ピンクで、赤くふちがついた。ポーチにしては大きかった。女のガキが持つにしては、あんまりに女のガキみたいで、そこは気に入らなかったね。とにかくここから出たいんだって思ってる女がピンクの鞄じゃいけない。そう云ったのはあんただろ。
 違う? クレタか?
 クレタ
 クレタクレタ。憶えてるよ。あいつはピンクが嫌いだった。ピンクは血の色だって云ってた。あいつには赤も何もかもピンクに見えてたんだろうさ。もしかすると、それだけの理由だったのかも知れないな。
 それも違うのか? じゃあ何があってるんだ。
 ガキの鞄はピンクだった。これは間違いない。荷物はそれだけだった。食いもんも飲み物もないってほざきやがった。たかる気かって云ったら、怒ったみたいに睨みつけてきやがった。いや、ガキはずっと睨んでいたんだ。あたしを睨んでいないなら、目の前の夜道を睨んでた。そう云うガキだった。
 行き先を訊ねた。なんて答えたと思う?
 西へ、だとさ。
 あっは。
 奇遇だろ。あたしらはみんな西へ行くんだ。どうしてだよってさらに訊いたら、黙っちまって、話さないなら降ろすぞって脅そうか迷ってる頃、ようやっとガキはぼそりと漏らしたのさ。
 使命だから。
 偉大なアメリカの偉大なガキ。笑えるね。ああ、まだそのときは、笑えた。

 どうしてあたしがこんなに喋らなくちゃいけないんだ? ガキが乗って、降りた。そのあいだ、あんたは寝てた。それでいいだろ。どうして空白を埋める必要がある。べつに喋るさ、喋るけど、話したところで話せるもんじゃない。実際、口をきかなかったし、何も起こらなかった時間がほとんどだったんだから。
 あんたが寝てるあいだ、あんたは夢を見る。あたしは寝ないで、夢を見ないで、その代わり、いろいろ見る。でも夢の中であんたはいろいろ見るんだろう、だったら同じだ。何が違う?
 そう云うことじゃないのか? だから、あんたの夢の話をしてくれよ。
 見ないって、そんな、噓つくなよ。さっきはたまたま見なかっただけか? じゃあ、きのう見た夢だ。おとといでも良い。こんやみたいに、あたしが運転してるあいだに、見た夢だよ。
 は?
 しつこいぞ。
 ……そう。
 ずっと噓ついてたのか。
 でも、なら、あんたが話してくれたことはなんだ。夢じゃないなら、なんだ。フィクションか。おとぎ話か。妄想か。舌が勝手に動いて喉が勝手に息を吐いただけか。
 はあ? どこで聴くんだよ、じゃあ。
 ……はん。
 ま、同じか。同じだろ。あたしにとっては。あんたが夢を話そうが、聴いた話を話そうが、妄想を話そうが、舌を動かそうが。でも、そうだな、それなら、わかった。喋るよ。ガキの話をしよう。あんたが夢も見ないで寝ていたあいだの話だ。
 町の名前は知らない。町って呼ぶには家もまばらだった。ほら、そこかしこに杭が打たれてるだろ、あの山頂の棒だってそうだ。あれよりも少ない。家を貫いてる杭もあった。細いわりに重そうな杭を十字にしてさ。トーアのやることはえげつないね。ゴランツなら、体裁だけでも四角い箱で覆うさ。見てきただろ。でも町はおかまいなしで、杭、杭、杭。バルーンが結ばれてるのを見たときは笑ったね、にっこり笑うミセス・トーアは、みなさんの住まいを杭でぶっ壊して差し上げます。
 ほんと、泣ける。
 あたしらも泣いて喜ぶべきだね。杭がむき出しだったから、スタンドも使えたんだ。
 そう! スタンド! ああ、これは喋らなくちゃいけなかったな。
 車をとりあえず停めてさ、あたしはガキも連れて確かめてみた。ガスは残ってた。スタンドはもう、誰も使ってないみたいだったけど、機械は動き続けてたんだ。
 がらんとしてた。そう云えば、スタンドでも、町の中でも、人間は見なかった。とっくに町ごと棄ててたのかもな。杭を打つだけ打って、お払い箱。それでもガスは製造され続けたんだ。たぶんどっかの管が破けてて、残ってるのは微々たるものだったけど、これを動かすにはじゅうぶんだろ。次の町まで、ええっと、人間のいる町まで、金を払わないでガスが持つ。
 そう。あたしらにはまだ、何もかも足りないから。
 ガキから目を離すわけにはいかなかった。あんたに何かされても困るしね。でも、スタンドに舞い上がってたね、あたしは作業中に目を離しちまった。最初はガキも機械からチューブ伸ばすのを手伝ったり、ガス入れるのを眺めたりしてたけど、管から絞れるだけ搾り取ったらいなくなってた。
 車に戻ったわけでもなかったから、出てったんだと思ったよ。何も困らない。ガキが乗って、降りた。さっきも云ったけど、それだけの話で終わる。
 でも、終わってくれなかった。スタンドはがらんとしてて、真ん中にぐちゃぐちゃのボットが棄てられてたけど、まあそれはそう云うもんだし、気にしてなかった。だから瓦礫が崩れたとき、はじめてそれがボットなんだってわかった。
 わ、とか、ぎ、とか。ガキの声じゃなかった。ガキの声はあとから追いついてきた。あたしが聞いたのは機械の音で、それはガスの音じゃなくて、ええっと、ボットの犬がうなる声だ。
 犬はまだ生きてたんだ。犬? たぶん犬。後ろ脚がぐずぐずになってたけど、前脚でコンクリートの亀裂とかチューブとかを引っ掻いて、ガキを追いかけはじめたんだ。ガキはスタンドのオフィスを漁ってたらしい。瓦礫の陰で見えなかったわけだ。
 犬は上顎もなかった。げ、とか、い、とかうなりながら、これがけっこう器用に動くんだよ。びびったガキは鞄を投げかけて、やめて、あたしの方に走ってきた。嫌だったね。あんな犬に車を傷つけられたくなかった。だからチューブを引っ張って、ガキも犬も転ばせた。
 あ? わざとだよ。犬、犬、犬。犬だ。あれは犬だった。
 ガキは正面から倒れてでこをぶつけた。犬は下顎が潰れた。もう犬はうならなかった。あとは鉄くず。瓦礫の仲間入り。お仲間の山に戻してやろうかってガキは持ち上げようとしたけど、くちゃくちゃ鳴ってる内臓掴んじまって、ぶん投げてたね。あっは。
 どうやってあれで生きてたのか不思議だったけど、いまわかった。管を破いたのはあの犬か。あそこでしか生きられなかったんだ。ま、生き死にで云うのも変な話だが。ボットは生きてた。でも、ボットは壊れる。死ぬんじゃない。ばらばらになるだけだ。
 でも確かに、ねじにまみれた生体器官はいつ見ても慣れない。そりゃあガキもぶん投げるさ。拾っとけば良かったな。藪の中に紛れてわからなくなったからそのままにしたよ。昼なら拾ってたね。知らないか。高く売れるんだ。
 ああ、生体器官そのものは生きてるのか。器官がぎりぎり生きてたから、犬も生きていた? なら、いつから、犬は壊れてたんだ?
 あのスタンドだって、機械が生きてたから、スタンドも生きてたんだ。
 変なこと云うね。そう、そうだ、だから町も生きてたのかも知れない。
 たぶんこの町の警備に使われてたんだろうな。それが、町ごと棄てられて、お役御免。お払い箱。生き延びるためにスタンドに群れたわけだ。
 おんなじことをガキに説明してやった。何あれって呟いたからな。
 返事はなかった。ガキは口を曲げた。何か云いそうだったから待ってやったけど、結局何も云わなかった。礼儀を知らないガキだったね。でも、ガキの礼儀ってそんなもんだろ。礼儀を知らないのが礼儀ってもんだ。
 もしもボットが生殖できれば違ったかもな。タンパク質も持ってるのになんでできないんだ? ボットが壊れても、次の世代が生き残る。ボットの群れが町を棄てる。
 なんでそうならなかった?
 ……そうなるべきでないから、か。棄てられたらいずれ死ぬべき、か。そうだな。
 でも、あんたは納得してないんだ。そうだろ。
 そうじゃなかったらこうなってない。
 おい。なあ。
 ……はん。
 ガキはだんまりだった。一丁前に感傷に浸ってやがった。
 しばらくは、何も云わなかった。あたしもガキも。
 そのうち、あたしは訊いた。使命ってなんだ。
 西に行くこと。ガキは答えた。
 なんで西に行くんだ。あたしは訊いた。
 使命だから。ガキは答えた。
 降ろすぞって脅した。だんまり。無性に苛ついた。近くに家もない道の真ん中で降ろしても、ガキはどうなったっていいってそのときは思った。
 なあ。
 あたしらはなんで移動してるんだ?
 答えろよ。あたしはあんたから、答えらしい答えをもらってないって、そのとき気づいたんだ。もちろん理由はある。あたしもそれは知ってる。でも、そう云うことじゃないんだ。なんであたしらは、このおんぼろ車を運転して、移動してるんだ。なんでだ? どうして?
 べつに、わざわざ訊くことはない。ガキの話なんてしたくなかった。でも、話したら訊きたくなる。そうだ。ガキは使命を持ってた。ガキは西を目指してた。でも、あたしらは、西へ逃げてるだけだ。
 あんたも逃げてるのかってガキに訊いた。どうせそうだって思ったんだ。ガキは逃げるしかないからな。だけど、ガキは鞄を抱きしめて、頭をぶんぶん振り回して、違うって。でかい声で。
 叫びやがった。
 あんたはそれで目を覚ますべきだったんだ。あたしの代わりに答えるべきだったんだ。それがあんたの役目だったんじゃないのか。ガキを乗せたのはあたしだ。でも、あんたはガキのことを、こうしてあたしから聞くだけじゃないか。話せるときにはもう、終わってるんだよ。
 リーが云ってたな。言葉はあとから来るのさ。憶えてるだろ。だからあいつはぴーちくぱーちく喋り散らしてたんだ。喋れなくなったのは死んだときだけだ。
 そうだろ?
 ガキは叫び続けた。あんたもボットと同じじゃないかって。人間じゃないくせにって。機械のくせにって。
 あたしはどう云えば良かったんだ?
 事実じゃないか。あたしらは施設から逃げてきた、ゴランツ製の人形だ。あの犬と同じなんだよ。所詮は棄てられた機械のくせに。上顎のないぐちゃぐちゃの、壊れかけのがらくた。
 ああそうだよって云えば良かったか?
 おい、犬。答えてくれよ。話せっつったのはあんただろ。ガキはあんたが犬だってわかってた。帽子でごまかしても耳の位置なんてすぐばれる、脚の筋肉だって獣のそれだからな。動物型は大変だね。リーも。アリスも。ベルも。
 変態のおもちゃだって、ガキは罵りやがった。
 否定できたのはそれくらいだったね。

 見ろよ、大穴だ。トーアが開けちまった大穴。手当たり次第に汲み上げまくって、挙句に制御できなくなって、あたりを沈めちまった大穴。馬鹿みたいに杭が刺さってやがる。縫いつけるためじゃない。冷やすためだ。
 穴はまだ広がり続けてるんだと。
 詳しいわけじゃない。ずっと起きてりゃ聞く話も増えるってだけだ。あと何年かすれば、グレートプレーンを呑み込むんじゃないかって。いつだったか雑貨屋で聞いた。
 こう云うのに詳しかったのはミーアだよ。ミーア。猫の尻尾。猫の脚。猫の喉。ミャーオ。そう、だから名前も憶えてる。
 忘れてない。大丈夫。
 ミーアは外の雑誌をどこからともなく集めてきた。あんたも読んでたろ。知らなかったかもしれないけど、仲間がいたんだ。内通者ってやつ。
 すばしっこいやつだった。なんでもかんでも早かった。誰にも捕まらなかったし、誰にも見つからなかった。飯を食うのだって早かったんだ。誰も盗りやしないのに。あいつは知ってたんだ、誰かと飯を分け合うってことは、自分のぶんは絶対持っとかなきゃいけないんだって。自分のためにも。相手のためにも。
 それを云ったのはリーだよ。したり顔で喋りやがった。むかつくね。
 だから、リーの缶詰を一個だけくすねてやったことがある。あ? そうか、あのとき一緒にやったのはあんたか。そうだ、そうだな、あんたは缶詰に目がなかった。
 あたしはガキに、どう喋ればいいのかわからなかった。だから、リーたちのことを喋った。あたしにとってはそれが理由だったから。リー。アリス。クレタ。ベル。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。あいつらがいたから。
 あいつらが、いなくなったからだ。
 ……わかってる。あいつらはあたしの頭からも消えてきてる。でも思い出せるんだから、いなくなるわけじゃない。そうだな、喋ってれば思い出す。喋ってれば忘れない。あんたが夢とやらを、ま、噓だったけど、喋ったのも、結局は同じだろ。
 いまならわかるんだ。リーが喋り散らしてたとき、あいつはこう云う気持ちだった。喋らなきゃどうしようもないんだ。喋らなきゃ何にもならない。
 右手がうなじとくっついてるのがアリスだった。左手じゃない。左手だったら体ごと捩れてるはずだから。だって、首の右から、しっかり骨ごと、肘が伸びてたんだ。見せてもらった。触らせてくれなかったけど。自分は出来損ないだって嘆いてた。嘆くことないのに。水かきがきちんとくっついてないキリイに較べればずっと綺麗な接着だった。
 くっつく場所の問題? は、知らねえよ。アリスは動物じゃなかったけど、なんで動物じゃないとけないんだ? あたしらを作ったやつらが何を考えてようが、あたしらはこうなんだから。
 あんただって、犬にしては鼻がきかない。鼻が良いならユーカラ社の缶詰なんて食うわけがない。
 ユーカラ社の缶詰は世界一頑丈!
 ……はん。
 アリスは殺されたのか? あたしは知らなかったんだ。あいつはずっと前にいなくなった。どっかに行った。逃げたんだってあたしは思ってたのに。
 死体を見つけたのはベルだっけ。脛骨が腕と繋がってる骨だったってあいつは云った。そんなのはアリス以外にいない。
 逃げようって云ったのはリーか? あそこで喋った言葉の半分くらいはリーが喋ったんだから。違う? ロー? 
 ロー……?
 だってあいつは喋れないじゃないか。それとも、舌がないのはジョゼか?
 ローは、背中にぶちぶち穴があって……。そう、アリスの世代だったから、おんなじように、動物のモデルがなかった。あ、そうだな、あいつは喋れた。アリスとよく話してた。同じ世代で病気にも罹らず生き残ったのがアリスだけだったから。DNAすりつぶして、混ぜ合わせて、とりあえず生ませてみる。
 アリスが云ってた、頭の皮がつっぱっちまって耳が口になったやつと、あたしは話してみたかった。ま、話せないけど。どう聞くんだろうな。リーはなんて喋りかけるんだろう。
 ローもアリスも気にしすぎなんだよ。生きれるんならそれでいい。そうだろ。人間の姿にこだわる必要なんてなかった。
 ……そうだな。それもそうか。あたしがどうだって、あたし以外は知ったことじゃない。そうだった。その通り。
 いつだったかな。
 なんで生きてるんだろうってアリスが云った。
 死んでないからだってローが答えた。
 うん。それは憶えてるよ。ローが、ローだって憶えてなかっただけ。ええっと、だから、ローってやつが、ローって名前だってことが、つまり、ローが何したかと、ローがどんなやつかってことは、違うってこと。オーケー?
 ガキの質問にもあたしは、だからこう答えるしかないんだよ。
 なんで移動するんだ?
 死んでないから。
 そう。……あ? ああ。
 アリスが死んだ。ローが逃げようって云った。ミーアが手引きして、カブが作戦立てて、クレタが……、あいつ、何したっけ? キリイは腕っぷしがある。ベルは銃の使い方を知ってた。
 リーは喋ってた。あっは、あはは。
 ジョゼは……、そう、ジョゼはキュートだった。あいつはなんだって許された。あの愛嬌は天性だ。あいつが銃を撃ちたくないんなら、あたしが撃った。そう云うもんだったんだ。
 ガキは銃を持っちゃいけない。
 そう云ってやったら、バックミラー越しに、鞄を抱くガキが見えた。あのガキにはジョゼの愛嬌の百億分の一も可愛くなかったけど、ガキはガキだ。笑ってやったら、あいつもミラー越しに睨みつけてきやがった。
 礼儀を知ってるガキだ。
 あたしはガキを大切にするんだ。噓じゃない。現に、ガキを拾ってやったじゃないか。ガキはまだ成長できるから、なんだって許されるんだよ。たいていの場合。未来……があるからな。これもリーだ。たまにはいいことも云うんだよ、あいつは。
 あんたもジョゼを見習うべきだろ。ジョゼはあんたみたいに耳を隠そうとなんてしなかった。なんて云うんだ、あれ、……そう、馬の脚も見せびらかしてさ。いや、いや、ああ、知ってるって。あんたが耳を見せたら人間は騒ぐ。変態がうようよ寄ってくる。でも、それでも、だ。あたしに隠す必要なんてない。
 かっこいいじゃん、その脚。
 あ?
 もちろん。……化粧すれば綺麗になれるさ。
 あたしが綺麗になりたくないなんて思っていると?
 そうじゃない。そう云うことじゃない。もっとこう、なんて云うか、ええっと、あー、あたしはあたしだってことだ。
 ジョゼはあたしの目を綺麗だって云ってくれたんだ。
 鏡なんてなかったじゃないか。ローが全部壊したんだから。
 ああ!
 そうか、思い出した。クレタ。あいつは化粧が上手かった。変装も上手くやった。あいつは綺麗になるためじゃなくて、自分じゃなくなるために着替えた。正直、あいつのことは好きじゃなかったよ。でも、役に立った。
 なりたいものになるってのも、ま、ひとつの考えだ。
 ああ……。
 あんたの帽子、クレタからもらったのか。
 ……そう。
 へえ。
 悪かった。謝る。
 大丈夫、思い出してる。またはっきりしてきた。リー。アリス。クレタ。ベル。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。
 なんで移動するのか?
 あたしらはまだ、死んでないからだ。
 思い出せる限りのことを話したら、ガキはもう睨みつけてこなくなった。また口を曲げて、右手がシートを握りしめてた。皺が寄るからやめて欲しかった。
 ガキが訊いた。みんな死んだの?
 ああ、死んだって答えたよ。あたしがどう信じていようが、そう訊かれたら、そう答えるしかないだろ。アリスは死んだ。次がミーア。いくらすばしっこくても、バクダン踏んだらお終いだ。爆風はあいつを捕まえちまった。
 ロー。カブ。キリイ。リー。クレタ。ジョゼ。
 キリイは、もしかしたら。けど、わかんないし、きっと死んでる。逃げ道だった川ごと潰されたらどうにもならない。
 リーは……。
 大丈夫。もう慣れた。あんたが寝ながら、あたしが運転してるあいだ、あたしが何してると思う? 嫌なことを、思い出せるだけ思い出して、頭の中ですりつぶすんだ。そうしないと追いつかれるからな。思い出しちまって、ハンドルを切って帰りたくなる。あそこに戻るんだって。あそこに帰れば何もかも元に戻るんだって。
 だから、思い出をすりつぶすんだ。もう、砂みたいな味しかしない。みんな生きてきた。いまは生きてない。それだけ。
 肉の塊になっても、息をさせる方法はあるかもしれない。あいつらはいまそうなってるかもしれない。貴重な素材だったから。あたしらがやけに丁重に扱われたのはそう云うことだったんだろ。
 それで生きてるのか、いつ死ぬのかなんてわからない。ばらばらにされて、ぐちゃぐちゃにされて。そもそもあたしらは生きてたのかよって思うこともある。
 あんたがあたしを残して寝る夜は、そう云う時間だ。
 ようやくわかったか?
 ジョゼの番まで。あいつらがどうやって死んだか、あたしは順番に話した。話し相手がいて良かった。ガキを降ろそうなんて気分はもう、その頃にはなくなってた。話しちまったからな。話を預けたんだから、そうそう無闇に降ろしはしないよ。
 それに、ま、ガキだったからな。
 ガキは何回か頭を振って、唾も飲み込んで、鞄を開けた。あたしがあいつらのことを話したから、あいつもそれを見せることにしたんだ。何を出したと思う?
 ヒント。ガキが持っちゃいけないもの。
 違う。
 銃だったら、まだマシだった。ひとを傷つけるだけで済む。でも、違った。束ねられた黒い筒から紐が伸びてる。笑っちまうぐらい簡素な、あれは、そう……。
 ダイナマイトだった。

 バックミラーに映ったものが信じられなくて、振り向いちまったよ。真夜中でよかった。まだ昼間なら、車の往来がある。事故れば、あんたは眠りながらに死ぬことになった。
 バクダンは見たことがないわけじゃない。ひと工夫すれば買うこともできるし、多少ものを知っていれば作ることだってできる。問題は、爆発させたところでなんにもならないってことだ。邪魔な杭を破壊できるわけじゃない。壁を壊したところで、無理矢理越える方が安上がりだ。だから、ひとを殺すことにしか使えない。
 ガキが鞄から取り出したのは、つまり、ひとを殺す道具だった。銃なら、まだ、ボットや獣を仕留められる。でもバクダンは? 昔は川に投げ込んで、魚を一気に殺す漁のやり方があったらしいね。でも、川の魚が食えたもんじゃなくなったのは最近の話じゃないだろ。
 ダイナマイトはひとを殺すため。それはわかってた。だから余計なことは訊かずに、あたしは、どこで使う気だって訊いた。
 西で、だとさ。
 いい加減、意味がわかった。要するに、トーアの本社だ。トーア社の管轄では、本社をそう呼ぶんだそうだ。ロスだっけ? 道のりは遠いな。
 そもそも、そう云うスラングがあるらしい。西へ。西で。西は。西なら。西で会おう、それまではさようなら。あんた、知ってたか? トーア社はとにかく人間を西へ西へ動かしてるんだそうだ。東から順番に土地を食い散らかしてる。ゴランツに、あとで食われないように。
 何もかも足りないのさ。誰だって飢えてる。
 ガキは、兄を亡くしたんだ。トーアのポンプに巻き込まれて、脚がちぎれて、傷から泥がごちゃごちゃと、あれこれ体に入って、……染色体がぐずぐずになった。最期には、ただの肉の塊になったそうだ。
 トーアからは補償金が渡された。その金でガキはバクダンを買った。トーアの本社を襲うんだと。あれだけのダイナマイトじゃ、家ひとつも壊せないのに。云ってやったら、睨まれた。
 トーアが壊れなくてもいい。破壊できるなんて思ってない。ただ、ガキがそうやって突っ込んだ、ガキが捨て身でテロをした、それが大事なんだと。
 ああ、馬鹿げてる。トーアがゴランツとたいして変わらないなら、ほんとに無意味だ。ナンセンスだ。ガキが肉片ぶちまけて命を落としたところで屁でもない。本社なら、なおさら、そう云うことはうまく隠す。
 悪いことは云わない、やめとけ。
 はじめて云ったよ。カブの……、そう、カブの口癖。
 あいつはなんだって、やめろってうるさかった。あいつは誰より頭が良かったから。なあ、あたしらも、やめとけば良かったか?
 ……意外だった、ガキは素直に云うことを聞いた。導火線を引きちぎって、ダイナマイトごと窓から捨てた。捨てるために取り出したみたいだった。
 死んだって何にもならない、だとさ。正しい。まったくね。
 生きているうちは移動ができる。死んだらそれまで。ともかく生きていれば、どこかに行ける。……違うな。どこかに行けるなら、それは、生きてるってことだ。
 うん。いいね。いい線引きだ。
 ガキは笑ってた。とても笑えなかったあたしとえらい違いさ。ゴランツに行こうとトーアに行こうと。東に住もうと西に住もうと。この大陸ではおんなじ。呆れたように、からからと。
 でも、とにかく、動いてみるしかないんだ、止まるまでは。
 あのボットは可愛かったって、ガキは云った。あのスタンドの壊れ損ないが? 感性を疑うね。けど、ま……、醜くはなかったな。
 そのあと、しばらく、ガキのお喋りに付き合った。ガキは兄の話をした。木登りが得意な兄の話を。父親は土を掘る仕事をしてた。コンピュータいじりが好きだった母親はとっくに死んでる。ガキの鞄は母親の形見なんだと。
 ジャンパーは兄が着られなかったものらしい。徹底してる。だろ?
 ガキは別れ道で降ろした。まっすぐ行けばいつかはテキサスにつくんだと。気が長い無茶な話。ガキの特権だ。ちょうど明かりの灯ったストアもあったし、そこでひと晩明かせばいい。ついでだからあたしも缶詰を買った。あんたのためにね。あっは。
 クラッカーをひと袋盗ったのは、ま、そのときのどさくさだろ。

 えーっと、うん、ゴランツとトーアは、確かに、別だ。トーアのネットワークは、ゴランツに食い破られない。ゴランツのネットワークに乗ってる限り、トーアに接続はできない。だから物理的に行く必要がある。
 それはわかるよ。でも、だから、なんなんだ?
 おい。なあ?
 西を目指したのは、それだけか? インターネットに接続できるから? 安全に?
 ……はー。
 たっく……。
 あ?
 ああ。
 もうすぐ朝だ。東海岸より、夜明けは少し遅い。
 ほら、見えるか? あのツルだ。いや、おんなじツルじゃない。つまり、えっと、あのツルと同じ種類のツルだよ。あたしが見たのは。ポンプに絡めとられない方法を、あの鳥は知ってた。
 あのツルはいまどこを飛んでいるんだろうな?
 沈んだ仲間の死骸はいまごろ、どこに呑まれてるんだろうな?
 なあ。
 ……べつに、話したくないなら、いいさ。あたしが喋るよ。あんたの代わりに。
 言葉はあとから来る。あとに残るのが、言葉だ。
 出典は、ぼく。
 あいつの真似だ。似てるだろ。嘴があるからな、ちょっと声を籠もらせるのがコツ。ジョゼから教わったんだ。あいつは耳が良かったから。
 あれ? 耳が良いのは、あんたか?
 ……そうか。じゃあ、見せるまでもなかったな。あいつの物真似……。
 あいつの……。
 大丈夫。リー。うん。リー。
 リー。アリス。クレタ。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。
 そして、あんた。
 あんただ。
 そう。うん。あ……
 違う。違うよ。きっと大丈夫だ。思い出せる。わかってる。あんたは。あんたは、耳が良くて、そう、犬の耳と、獣の脚と。綺麗な膝と、形のいい頭蓋と、真っ二つに割れた腹と、舌っ足らずの口と、焦点が合ってない目と、分厚い瞼と、くすんだ瞳と、長い睫毛と。
 あとは……。
 大丈夫。喋ろう。話せば思い出せる。舌が引きちぎれるまで話せば、きっとわかる。
 言葉はあとから来る。あとに残るのが、言葉だ。
 要するに、言葉があれば、言葉以外は、前に進むんだよ。
 なあ、そうだろ。だから喋らなきゃいけない。そう云うもんだろ。そう云うもんなんだよ。そうじゃなきゃいけない。
 なあ?
 聞こえてるか?

読書日記:2024/03/02~03/07 古野まほろ『禁じられたジュリエット』ほか

 国内ミステリ三冊。『禁じられたジュリエット』の感想については核心的なネタバラシを避けるものの、相当内容に踏みこんでいるので未読の方はご注意を。

北山猛邦『天の川の舟乗り:名探偵音野順の事件簿』(創元推理文庫

心を閉ざせば嫌なことを見ずにすむが、他人の優しさに触れることもできない。

 先日、連鎖と転用についてエッセイを書いた。そこでは北山猛邦の『オルゴーリェンヌ』を引き合いに出したが、あそこまで重くなくとも、と云うか、あえて軽くすることによって、本書はトリックの連鎖と転用を書いているように思う。事物の意外な連鎖が事件を起こしてしまう不思議。事物が思いがけない転用を遂げる驚き。この点で、中篇サイズで力の入った表題作よりもその続篇「マッシー再び」が印象に残る。これとこれでこんな使い方ができる――想像が転用をもたらし、創造を生む。まるで子どもの工作のような楽しさと、けれどもそれが人死にをもたらしている歪み。そこに“名探偵”の話も加わって、ずいぶんと重たくなりそうなところ、語り手の飄々として楽観的なスタイルとデフォルメされたキャラクターたち――まるで大きなぬいぐるみのようだ――によって、いっそ過剰なまでの軽さを維持している。と、云うよりも、吹けば飛ぶようなこの軽さのなかに、不意に鋭い歪みが重みとかたちを与えているのかもしれない。
 正直、この軽さを生みだす何よりの根源としてこのシリーズでもっとも特異な存在は、(音野兄弟以上に)語り手の白瀬ではないだろうか?

 

横溝正史八つ墓村』(角川文庫)

「われわれ凡愚の人間は、精神的には始終、人殺しをしているようなものなんです」

 読書会の課題本。昨年『ゲゲゲの謎』のヒットなんかもあり、横溝をいま、あらためて読むと面白いのではないかと思って手に取った。ゆくゆくは後期のシリーズにも手を出したいと思っている。そこで問い直したいのは、横溝のイメージと実態の乖離だ。つまり――、村、惨劇、トリック。それらは横溝の(少なくともぼくが思い浮かべる)イメージではあったが、その要諦だろうか? 何年か前『悪魔が来りて笛を吹く』を読んだ辺りから考えていたことではあるが、そろそろ、向き合いたい問いである。
 たとえば本書に、トリックらしいトリックは登場しない。それでは何が問題になるかと云えば動機ないし毒殺被害者たちを結びつけるミッシング・リンクだが、それは村の因習や制度にからむと云うよりも、それをハックするような発想から来ている。そもそも八つ墓村自体、住民を縛るのはいにしえの伝説ではなく、かつて起こった悲惨な事件の記憶だ。横溝は実のところ、土着的な因習ではなく、イエや血が生みだす抽象的な図式にこそ関心を払っていたのではないか……、と云うコメントを読書会では提出した。とは云え、翻って「土着とは」「イエとは」と云う話にもなる。探偵小説の舞台となり、事件を駆動する、家と血と場所のシステム……。
 もうひとつ注目したいのは、不完全な操りとでも云うべき真相だろう。あとからこじつけているのではないかと云う感じもするが、そのためにかえって、事件は超越的な犯人の計略と云うよりも、複数の意図の因果な絡み合いとして起ち上がる。『獄門島』にも『悪魔が来りて』にも覗かれるこうした操りへの関心は実にクイーン的と感じられて、そう云えば『Yの悲劇』も、家と血と操りの話だった。横溝の書く村はライツヴィルのように、どこか抽象的な場所にも見える。
 とは云え、ほかにも鍾乳洞など見るべき点が多くありながら、小説全体としてあんまり強い印象を残さないのが不思議なところだ。なんと云うのか、立ち返るべき古典ではなく、さまざまなアイデアの萌芽をたくしこんでいる、そんな小説だと思った。じっさい読書会では、ここをもう少し洗練させたら良いアイデアになる――作例もある――と云う話にもなり、読ませる小説ではなく、書かせる小説なのかもしれない。

追記:これも読書会でのコメント。横溝作品にはよく復員兵が登場するが、自分で戦地に行ったわけではない横溝にとって、戦争とは戦場ではなく、戦後に還ってきた、たくさんの(顔を、寄る辺を持たない)兵士たちにこそ、象徴されるのではないだろうか。もちろんその存在が、ミステリ的な連鎖/転用の発想を刺激したと云う側面もたぶんにあるだろうけれども。

 

古野まほろ『禁じられたジュリエット』(講談社文庫)

「いいじゃない。それで」[…]「たとえ私達が、この世界のインクの染みだって。」

 古野まほろの読み方がわかったので読んだ。と云うのもそれは、昨年末にアンソニー・ドーア『すべての見えない光』を再読したからだ。そのときの感想で、ぼくはドーアの小説にかつて感じていた欺瞞を表明し、けれどもその欺瞞こそ、小説と云うフィクションの魔術ではないかと思い直した。少し長くなるけれど、端折りながら引用しよう。

 文庫化を機に再読。五年前に読んだとき、ぼくはドーアがこの小説をあまりにも美しく仕上げてしまっていることに反感を覚えた。それは当時、ぼくの文学的関心――と云うほかないが――が「声」とでも云うべきもっと生々しく切実なものに向けられていたことに起因するのだろう。[…]響き渡る固有の声、言葉にならない現実をそれでも言葉によって語り尽くそうとする豊穣で痛切な語り、ひいてはこちらを圧倒してくる交換不可能な人生の重みに較べると、ここはあまりに人工的で、美しいものしか書かれていない。貝、鳥、宝石。それらはいずれも標本箱に収められたりきらびやかに衣装を飾り立てるばかりで、海辺に棲む貝類の蠢きや、群れる鳥たちの落とす糞の雨に欠けているように思えたのだ――生きものたちの驚異とはそこにあると云うのに。[…]ドーアの小説にはまるで、切り出された宝石を自然の真なる美しさとして差し出されているような欺瞞がある。それは云わば、生きた鳥たちの生きた観察ではなく、殺して剥製にして鑑賞するような死んだ語りだ。

 しかし今回あらためて読んでみて、この欺瞞は小説がなし得る魔術のひとつなのかもしれない、と思い直した。剥製もまた科学であり、惚れ惚れするような技術である。それによって可能になることもまた、ある。リョコウバトが絶滅してもオーデュボンの絵が残ったように、空襲で街が破壊されても模型の街はかつての建物を記憶するように、そうして模られたパリとサン・マロの小さな街が、マリー゠ロールを導いたように。

[…]書くこと。つくること。そうして世界と関わる方法は、一切の真実を捉え、すべての声をくまなく聴き取る以外にもあるのではないか。頭でっかちないまのぼくにはむしろ、それがひとつの模索するべき可能性に思われるのだ。

 かつて古野まほろをどちらかと云えば好んで読みながら、ある時期からまるで評価できなくなった、そうでなくとも、自分のなかにうまく体系立てられなくなった理由は以上から明らかだろう。古野作品には明らかに《海辺に棲む貝類の蠢きや、群れる鳥たちの落とす糞の雨》は存在しない。あるいは、巨大健造さんに宛てた手紙ドーアと絡めて書いたような《生の意図せざる記録》すなわち、《かさぶたのように家の壁を覆うトタン板のパッチワーク。その場しのぎで即興的に張りめぐらされた軒下の配線。ちょっとした段差を登るために無造作に置かれたコンクリートブロックと、そのこぼれたふち。道路に大きくはみ出したプランターから伸びる蔦が屋根まで這いのぼっているさま。》と云うようなものは。モノトーンのセーラー服が象徴するように、古野作品においてあらゆる要素は洗練され、抽象的な図式に支配されてしまっている。その声は徹底して統制され、そこには《響き渡る固有の声、言葉にならない現実をそれでも言葉によって語り尽くそうとする豊穣で痛切な語り、ひいてはこちらを圧倒してくる交換不可能な人生の重み》がない。その支配の網をくぐり抜ける、したたかな生の技芸は失われているのだ。
 けれどもしかし、ドーアがそうであったように、模型もまた模型をもって、語らしめるものがある。人間を人間でなくしてしまう、一種の人形劇でしかない探偵小説はむしろこの、人工的な模型ではないか? あるいはそれを製作することにおいて、浮かび上がる技芸があるのではないか? そしてこの単声的な、人工的な語りによって、何が語られるのだろうか? かくしてようやく、ぼくは古野まほろの小説がしょせん箱庭に過ぎないことを肯定し、自分のなかで位置づけることができたわけだ。《読み方がわかった》とはそのような意味である。だから、読むべきスタンスがわかった、と云うべきか。
 とは云え。
 ぼくがドーアをあらためて読んだときに高く評価したその記録・記述・記憶的な効用――《リョコウバトが絶滅してもオーデュボンの絵が残ったように、空襲で街が破壊されても模型の街はかつての建物を記憶するように、そうして模られたパリとサン・マロの小さな街が、マリー゠ロールを導いたように》――と、本書において古野まほろの造りあげた模型の目指すところは、似て非なるものに思われる。なぜか。それは本書が、どうしようもなく、書物を焼く話であるからだ。

 舞台・・は、戦争(と云うか内戦?)状態にある独裁体制下のもうひとつの日本。ミステリは退廃文学として禁書にされ、その愛好者は思想犯として重罪となる――。その禁忌に触れてしまった女子高生六人は、二人の同級生を看守として、刑務所を模した更生プログラムに参加することになった。二人の教員が観客として見守るなか、演技だったはずのプログラムはエスカレートし、脚本にない出来事が発生する。そして舞台の幕が下りたとき、真の事件が……。
 と云うあたりまでが前半の、いや2/3くらいまでの内容。解くべき謎の発生は後半、プログラムの劇的な展開がひと段落ついてからであり、それまでは執拗に、着々と、女子高生をサディスティックに極限状況まで追い込んでゆく展開がつづく。全体を二部構成と見るなら、拷問に近い状況下でそれでもなお少女たちの口から表明される「本格ミステリ」像の提示が前半の山場であり眼目、後半は事件の発生から急転直下、いきなり解決篇へと移る。事件の概要説明と解明が同時進行でなされるその後半は、黄金の羊毛亭の見立てを借りるなら、前半で語られた「本格ミステリ」の理念に対して、その実践に取り組んでいる。この実践自体は流石によく考えられていて、跋文で作者が述べているように本書の目論見を作者流の「本格ミステリ」観について実践のなかで語らしめることだとして読んだとき、優れた達成であると云うほかない。
 とは云え問題は、それを成功せしめているのは何か、である。
 答えはおそらく、ノイズの除去だ。と云うか、それを発生させる物理的側面の排除である。身体もそこに含まれるだろう。どう云うことか。
終幕カーテンフォール」を筆頭とするちりばめられた用語の数々に限らず、舞台演劇は古野作品において頻出のモチーフだが、強い光を当てられて観客のまなざしを一身に浴びながら、自らの声をつくりあげてゆくそれは徹底した身体制御の場であり、はっきり云えば、監獄や軍隊にも通じている身体支配のシステムである(ところで、古野作品における演劇はあまり現代演劇的ではないように思う――まあ、このへんはまるで詳しくないけれど)。もっとも、探偵小説もまたこのような支配を書いてきたのであり、そこでは抽象的な悲劇の構図が取り出される。世界最初のミステリとして、オイディプス王が挙げられる例を思い出しても良い。
 こうした支配に対して『禁じられたジュリエット』は、内心の自由をもって抵抗する。権力が身体に対してどれほどの理不尽を強いたとしても、その心までは傷つけられない。決して支配できない。いや、権力はそれをも支配することを目論むが、強い心は、真っ当な知性は、2+2=4と云う論理は、決して曲げることはできない――。自由と、それを守るための手続き、そしてその手続きに必要なルールを対等な信頼をもって築き上げること。これが「本格ミステリ」の要諦であり、正義であり、ゆえに本書では「本格」が、理不尽なちからによる支配と対極に置かれる。その鮮やかな図式はいかにも感動的だ。
 けれども、こうした解決は、いかにも抽象的に思われる。現実はなるほど理不尽だが、その理不尽はある一点から降り注ぐ光のような支配に基づくのではなく、もっと複雑な構造から立ちあらわれるのではないだろうか。ちょうどいま、ぼくはロバート・ダーントンによる歴史研究『検閲官のお仕事』を読んでいるが、それを冒頭少し読んだだけでもわかるように、権力による支配のシステムは、収容所において看守が行使するほどに明白ではない。それは具体的な事物――人間と書物エトセトラ――による遙かに複雑な連鎖のなかからようやく取り出されるものであり、ときとして捩れた構図をも生みながら、支配のシステムは生活のなかに埋めこまれ、生活は支配のなかに埋めこまれる。得てして社会学が実践するように、世界に対するまなざしは、抽象と具体の絶えざる往還が求められるだろう。
 古野まほろは最初から会得していたその文体、徹底して制御された書きぶり、しばしば「芝居がかった」と評される語りによって抽象的な収容所の空間、演じられる舞台の空間をつくりあげることで、その具体的な事物を巧妙に回避する。もちろんそれだけなら寓話として読み得るところ、その抽象性へ過剰なまでに突き進むことで、もはや抽象的な論理だけが支配するような場をものしてしまう。もはや人間の身体さえ掻き消された空っぽの舞台のなかに言葉だけが響いて、幾何学模様の波紋をつくっている。――古野まほろの云う「本格ミステリ」とは、その正義とは、これである。
 たとえば終盤において、犯人探しのためにつかわれる篩はいずれも、具体的な証拠の検討を欠いている。名探偵は拳銃の指紋を分析するのではなく、指紋があるかどうかさえ関係ないかたちで、指紋をめぐる犯人の行動を検討する。そこにはもはや論理しかない。指紋を調べるための道具はないし、彼女たちはそれを調べようともしない。映像記録も同様。犯行の可否も同様。虫眼鏡や顕微鏡を持ち出すホームズはいないのだ。これらは設定上の制約に過ぎないだろうか? 事件の性質から導き出された苦しい必然だろうか? けれども残された手がかりから過去を再構成するような歴史家的手続きとは正反対に見えるこの態度が、フィジカルな支配に抗するものとしてミステリを差し出す本書にあっては実に象徴的だ。そして本書に限らず、古野まほろのミステリのスタイルは、水も漏らさぬ精緻な論理と云うよりも、ただ論理だけがある、そんな抽象空間ではないだろうか?
 もちろんぼくもまた、そんな論理が嫌いではない。むしろ、惹かれる。それを純粋論理空間ともてはやすことも可能だろう。けれどもそれによって何が取りこぼされるのか、いったい誰が検討しているのだろうか? ましてや、その正義を謳う本書において?
 あるいは焚書についても同じように、物理的側面の排除が見て取れる。本書において書物は、徹底して名前だけの小道具だ。燃やされるための象徴だ。本書においては人間が書物に記録されるのではなく――ここでもまた、ホームズ譚を否定するかのようだ――書物が人間によって記憶される。過去を受け継いで語るのは人間であり、書物ではないのだ。
 どうも、本書においては痕跡と云うもの――人間が過去を手繰るに当たってかならず手がかりとするもの――が信用されていないどころか、痕跡と云うものは無いも同然であるらしい。冒頭で引用した「たとえ私達が、この世界のインクの染みだって。」と云う台詞は、少女たちを書物のなかのインクの染みとして分解することを意味しない。むしろ本書は、インクの染みにすぎない記号を少女に擬したうえで、書物を消失させてしまう小説ではないか。演技の演技の演技の……、と云う特殊な入れ子構造は、そんな抽象性に拍車をかける。あるいはこう云っても良い。ここには人間しかいない。ホモ・サピエンスとかではない、抽象的な人間だけが……。
 おそらくここに、ぼくと古野まほろの、いまのところ決定的に相容れないであろう違いがある。ぼくは徹底した弾圧をすり抜けるのは人間の強い意志ではなく、そんな支配をぎりぎりですり抜ける自然のちから、残された痕跡であると思う。そして知的な営為とは、そんな痕跡を分析して読み取ることではないだろうか? どんな事物もゼロから生まれることはなく、それはまた、ゼロに還ることはない。絶えざるつづく連鎖を跡づけることにこそ、連鎖を断ち切ろうとする暴力に抗する契機を、ぼくは見出す。
 本書が謳い上げる探偵小説の正義は、なるほど対等と信頼を希求する点において、尊い。けれどもぼくにはその徹底が、一切を抽象の彼方へ突き抜けてしまうニヒリズムと表裏一体に思われてならない。

探偵小説は読者に参加の夢を与えると称しながら、実際は読者を操作するにすぎませんでした。[…]しかし、それでは、探偵小説はファシズムの隣に席を占めることにはならないでしょうか。
――天城一「『密室犯罪学教程』献詞」*1

 そしてぼくは何より、本書が取りこぼす、と云うか、ないことにしてしまっているものが、「愛」とか「正義」の名の下に覆い隠されることを、おそろしいと感じる。思うに、探偵小説が見つめるべきは、その正義ではなく、悪ではないだろうか?
 もちろんこれは、信念の問題だ。もはや作品の巧拙から逸脱している。けれども本書が作者の信条表明であるならば、それに応答しておきたいと思う。願わくは、みなさんの応答も聴いてみたいところだ。

*1:日下三蔵編『天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社

読書日記:2024/02/19~02/28 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』ほか

S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』(創元推理文庫

「そんなはずはない」ヴァンスは自分に言い聞かせるかのように言った。「あまりに途方もない。残忍すぎるし、どこまでもゆがみすぎてる。血塗られたおとぎ話――歪像の世界――あらゆる合理性の倒錯……。考えられない。意味をなさない。黒魔術や妖術やまじないみたいだ。まったく、正気の沙汰とは思えない」

 ヴァン・ダインの名に、古色蒼然としたものを感じ取るようになったのはいつからだろうか? その作品より先に四角四面な二十則と出会ってしまってからかもしれないし、直接的なきっかけもなく、なんとなく醸造されている空気、言及のされ方――あるいは、言及のされなさ――が理由かも知れない。いずれにせよそんな印象なんて偏見に過ぎないことは本書を一読してわかった。少なくとも本書は、埃を被った古典と云うよりも、いまなお息づいている原点と云うべきだろう。古典だからこその、お約束がお約束ではないがゆえの、それは素朴なみずみずしさである。『グリーン家』も近いうちに読むだろう――と云うか、そちらが新訳されたからずっと積んでいたこちらを先に読んだ。シリーズとしては前後するようだが。
 あちらはあちらでクイーン『Yの悲劇』へ至る源流として読まれているようだが、ならば本書を『九尾の猫』あるいは『ダブル・ダブル』の源流として読むことも可能だろう。高山宏は「終末の鳥獣戯画」で『靴に棲む老婆』を挙げていたけれど、なんらかの規則に基づいて殺人が進行する冷酷なユーモアはむしろ、戦後のクイーンを思い起こさせる。と云うか、犯人による探偵の操りであったり、ルールが先行して犯人を動かしているかのような構造は、いわゆる〝後期クイーン〟的なものを先取りしているとは云えないだろうか? もちろん、正確には本書においてなにがしか芽吹いた問いを、クイーンが先鋭化させていったと云うことだろうが。けれどもそんな系譜を思い浮かべるとき、結局のところ探偵小説は、童謡に見立てられて殺してゆくと云う冷酷なユーモア、歪な童心から抜け出ることはないのかもしれないと考えさせられる。ファイロ・ヴァンスは事件について口走る、「血塗られたおとぎ話――歪像の世界――あらゆる合理性の倒錯……」。探偵小説は、それ以外の何であると云うのだろう? ヴァンスが分析してみせる犯人像――数学や物理学にどっぷり浸かってしまったがために等身大のスケールを失い、人間を人間として見なせなくなってしまう人間、世界を自らの理屈のうちに呑みこんでしまうかのような犯人は、いかにもチェスタトン的な狂人であり、ともするとそれは、名探偵の存在にも漸近する。
 もっとも本書において、犯人も探偵も、決して特権的な立場にはない。彼らが対決する空間は都市の中のほんの一部に限られており、ストーリーは緊迫感を維持しつつも――単なる引き延ばしではなく、事件と捜査の進展によって次へ次へと階梯を登ってゆくストーリーテリングは見事なものだ――事件そのものはどこかもたついて、ヴァンスのロジックも終始、キレに欠ける。たとえばクイーンなら――、と云うようなことを考えるとき、ぼくは自分がどれだけクイーン以後において読んでしまっているのか自覚させられる。そのオルタナティヴを探るならばそれ以前に遡らなければならない、と云う『グリーン家』新訳における巽昌章解説の真意は、そのあたりにあるのかもしれない。この素朴さ、素朴ゆえの歪み、活き活きとして、それでいてデフォルメされた人間たち。

 

エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 黒猫』(角川文庫)

理性の冷静な目から見ても、我らが悲しき人間界は時として地獄図となるときはある――が、人間の想像力というものは、魔女ではないのだから、その暗い洞窟をあれこれ見たら影響を受けずにはいられない。ああ! 怒濤のように押し寄せてくる生き埋めの恐怖は、気のせいですますわけにはいかないのだ。イラン神話の英雄アフラシアブがオクサス河を下るときに一緒だった悪魔のようなものだ。眠らせておかなければ、こちらが喰い殺される。恐怖を起こすな、眠らせておけ。でないと身の破滅だ。

 しばらく何を読んでもしっくり来ない時期がつづいて、なんとなく必要なものがある気がした森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』は思っていたようなものではなく、それよりもそこで題材とされていたポーにでも帰るかと思って読んだ次第。「モルグ街の殺人」を含んだミステリ篇は別に出ていて、こちらは恐怖・幻想小説篇と云ったセレクトだが、表題作の「黒猫」は広義の犯罪小説ないし一種の倒叙小説として読めるし、「アッシャー家の崩壊」なんて、殺人事件が起こらないだけで結構はチェスタトン的な探偵小説そのものではないだろうか(何が起きていたのか?が眼目になること含めて)。そもそも両者はポーにおいて一体となっているはずで、そこにいまなおポーを面白く読ませる理由がある。ミステリの歴史はポーからではなく、ポーを意識したところから始まる、と云っていたのは巽昌章だったか。その意味でも、何度だって立ち返るべき参照点だ。光文社古典新訳文庫の小川訳でおおむね既読だったけれど、すっかり忘れていたので新鮮に読めた。こちらの河合祥一郎の訳は、雰囲気が良く出ていながら読みにくいところがまったくない。詳しい解題と解説も着いてお得である。
 なお、今回読んでいて興味深かったのは、生きながらにしてゆっくり殺されてゆくことに対する偏執的な恐怖だ。じっくりと責め殺す、機械仕掛けの拷問装置。墓の下、壁の中への生き埋め。決定づけられた死への着実な接近と云う点では「メエルシュトレエムに呑まれて」の大渦だってそうだろう。あえてそう云う短篇を選んでいるところはあるにせよ、ここまで同じモチーフがくり返されるとポーにとって切実な恐怖だったのだろうことが窺える。あとそれに、「ウィリアム・ウィルソン」や「アッシャー家」における、建築についての描写。人間が場所をつくり、場所が人間をつくる。その有機的な連関を環境と呼ぶのでないならば、あるいは呪いと呼ぶのかも知れない。われわれはともすると、そんな呪いの空間に、生き埋めにされている。

追記:解題における「笑い」についての指摘は興味深い。《それは、死を笑うバタイユや、権力を打破する笑いの力を称賛するラブレー等の笑いと同じと論じることも可能かもしれないが、やはりポーの笑いは〝凍りつく〟のであり、その引きつった笑いの硬直カタレプシーこそが彼の恐怖ホラーの質の一つなのではないだろうか》。あるいは、探偵小説が持つ残酷なユーモアの笑いも、また?

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(東京創元社

「一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない」

 おそらくは作者自身であろう語り手が発見したと云う一冊の書物は――編纂や翻訳を経て、原本の存在も定かではなかったが――十四世紀に生きた老修道士の手になる回想だった。老人の名はアドソ。彼は若かりし頃に、師――バスカヴィルのウィリアムとともに、山間の修道院で凄惨な殺人事件に遭遇したと云う――。
 『僧正』からの連想で読んだ――と云うわけでもないが*1、結果として後期クイーンを想起させる小説をつづけて読んだことになる。と云うのも、本書において、犯人は決して全能なる操り手ではなく、探偵もまた全知たる告発者ではないからだ。犯人は探偵の誤読に後乗りして、探偵は誤読から真相を得る。これではどちらがどちらを操っているのかわからない。あるいは、操りを超えた、両者を導く大いなる図式だけがある。犯人はどこまで事件を支配し、探偵はどこまで真相を把握できるか――それはまさしくクイーンが取り組みつづけた問題であり、エーコがクイーンを読んでいたのかどうかは知らないが、ボルヘスを明らかに踏まえている以上――盲目の修道士ホルヘ!――ボルヘスが「死とコンパス」などで先取りしてしまったようなクイーンの極地に、エーコが近づいたことは不思議なことではないように思う。
 けれどもそんな連想が興味深いのは、このような偶然の符合を因果の必然として読むことこそ、おそらくは本書をまとめ上げている主題だったと云うことだ。それを物語る営為と云っても良いのかもしれない。たとえこの世界の一切が一冊の書物に記されているとしても、残されているのは大いなる書物の意味ありげな断片だけであり、生きているわれわれにできるのは、それを必死にかき集めて読むことだけだ(そして写字室スクリプトーリウムにあって、読むことは書くことと一致している)。その断片はあまりにも心許なく、残された痕跡は何度も書き写される中で擦り切れ、歪み、ぼやける。全体を知るにはあまりに足りず、何が何を意味しているのかもわからない……。
 けれどもそれは、真実が存在しないことを意味しない。《複数の書物のなかの一角獣は痕跡のようなものだ》とウィリアムは云う。《そこに痕跡が残されているからには、痕跡を残したものが何かあったはずだ》。あるいは、手記の冒頭、書き出しのその瞬間に立ち返っても良い。

 初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。これは初めから神とともにあった、そして敬虔な修道僧の務めとは異論のない真理と断言しうる修正不可能な唯一の事件を慎ましやかな頌読によって反覆することであろう。それなのに〈私タチハイマハ鏡ニオボロニ映ッタモノヲ見テイル〉。そして真理は、面と向かって現われてくるまえに、切れぎれに(ああ、なんと判読しがたいことか)この世の過誤のうちに現われてきてしまう。それゆえに私たちは片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意志にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならない。

 何重にも写し取られ、翻訳されてきた手記と云う体裁は、事件をフィクショナルなものにする仕掛けではなく、むしろその逆――世界と云う書物の断片にして写本と云うかたちで本書を総括し、その真実を何重もの磨りガラス越しに浮かび上がらせようとする試みに思われる。一切は《手記だ、当然のことながら》。けれどもそれは真実を記していないことを意味していないし、その真実へ、あるいは全体へと至る手がかりがあまりにも断片的だったとしても、それは真実を見定めようとする意志を否定する理由には、ならない*2
 そしてウィリアムの弟子たるアドソは、事件が起きた場所でかき集めた断片について、手記の終わりにこう記す――《けれどもこれらの不完全なページは、あのとき以来、私に残された生きるべき全生涯のあいだ、片時も離れず私と共にあった》。さりげないけれどもこの一文は、本書においてぼくがもっとも感動した箇所だ。敬愛する師との遠い日々を回想するからだろうか、それとも若かりし恋を記すからだろうか、凄惨な事件を綴るアドソの手記にはその内容に反して、どこか懐かしむような筆致を感じられてならない。たとえすべてを知ることがなくとも、たとえ真理が遙か遠くとも、たとえ世界が終末に向かおうとも、書いたもの、残されたものはそこにある。過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名がいまに残れり。――しかし、と思うのだ。それだけでじゅうぶんではないだろうか? それはひとが生きるための、そして死にゆくための、絶望しないにたる理由になるのではないだろうか?

*1:じっさいは、東京創元社の2024年新刊説明会でこれの完全版が予告されていたので読んだ。文庫化はしないの?

*2:このあたり、同じくイタリアのカルロ・ギンズブルグを思い出す。先日読んだ『糸と痕跡』でも、そんな話がされていたはずだ。書き手によってつくられた記述は、記録の絶対性を揺るがすかも知れないが、そこから相対主義へとうっちゃるのではなく、それが書かれたことをも踏まえて資料を吟味することで、歴史を記述することができる。ウィリアムは云う――《書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、わたしたちは問題にしなければならない。》

往復書簡:2024/02/23

上雲楽さんへ(ところでこのお名前、苗字と名前の区別とかあるのでしょうか? 前回の手紙では字面でなんとなく「上雲さん」と呼んでしまいました。とりあえずここではフルネームでお呼びしますね、まどろっこしくてごめんなさい)

 お手紙、どうも。
 けれどもそのお返事の前に、藤井佯さんとの文通のことに触れさせてください。ぼくはおふたりそれぞれの手紙を通読しているわけではありませんし、読んだものについてその吟味ができているわけでもありませんが、それでも。ぼくには、藤井佯さんから上雲楽さんに宛てた最後の手紙のどこにも、怒りの表出を読むことはできませんでした。少なくとも、「急にブチ切れられた感じ」はしなかった。「つとむ会」ひいては「おたく」について率直な意見が述べられてはいるものの、これは文通相手への直接的な怒りとは違うものでしょう。文通をやめることが切り出されたのも、手紙に書かれている「これ以上続けてもなという感じありますし、なんか区切りが良い気もします」と云う理由以上のものを、ぼくには読み取ることができません。もちろんおふたりはこの二週間、文通としては破格のペースでやり取りされていて、ぼくには把握できない文脈があるのかも知れませんが、しかしそうだとしても、ここで提案されているのは文通を止めることそれ自体であって、上雲楽さんとのコミュニケーションの断絶ではないはずです。
 ぼくがこうして文通をしようと思い立ったきっかけであるティム・インゴルドは、文通(correspondence)が終わることがあるとすれば無視か怠惰によってであるとしていますが、これはものの喩えであって文通以外にも応答(correspondence)の仕方はたくさんあるのですし、さまざまな理由によってブログ上でのやり取りが終わってしまったとしても、応答はつづいていくでしょう。そもそも無視や怠惰以外にも文通が途切れる理由はあり得ます。たとえば、誤配。郵便事故のたぐい。傍から見ていて、おふたりのあいだにはそのような不通が生じていたのではないか、と推察します。実に無責任な分析ですが……。手紙のやり取りがそのようにして終わってしまうのを見ては、書かずにはいられなかった。
 ぼくには上雲楽さんに、お相手の言葉が届いていないように感じられました。ペースの速いラリーはそれはそれで楽しいものですが、せっかくの手紙です、いったん受け取ってから、一呼吸置いて投げ返すのもまた楽しいと思いますよ。すでにブロックしてしまったようですので、藤井佯さんとのコミュニケーションを再開することは(双方にとって)逆効果かもしれませんが、ぼくとのやり取りにおいては――これからも文通をしていただけるのであれば――以上のことを念頭に置いていただけると嬉しく思います。
 人間同士は本来的に、決してわかりあえず、相手の言葉を完璧に正しく解釈することはできませんし、それこそが応答し続ける(correspondences)ことの楽しみだと思います。けれども言葉が丸っきり届かないために手紙の往復は止まってしまっては、元も子もありません。
 そこでぼくからの提案なのですが、この手紙に対する返事は、時間をかけて書いてみていただけませんか。これは注意でもなく、アドバイスでもなく、ひとつの提案です。難しければ、大丈夫です。

 ここまでの手紙に、怒りを感じ取られたならば、それは誤解であると云っておきます。しいて云うならば、少しばかり、悲しい。ふわぽへさんや電気豚さんのことを思い出すからでしょうか。インターネットにおいては、ひととの繋がりは容易く失われてしまいます。

 さて、前置きは以上です。あらためまして、お手紙、どうも。
 集合写真の不気味さについてのお話は興味深く読みつつ、わからないところがありました。集合写真に均質さを感じるのは、上雲楽さん自身が「人の顔や自分の顔を区別するのが苦手で、クラス写真のどこに自分がいるのかわからない」から、と手紙にはあります。それは云い換えれば、窓の灯の向こうのひとりひとりに向き合うことが難しいからであり――くり返しますが、それは優劣の話ではなく、向き不向きです――ともすると自分自身とさえ向き合えない、と云うお話だと受け取りました。「素朴に自分の心は、脳内物質の作用に過ぎない」と考えることの安心感は、ぼくも心当たりがあります。前後の価値判断の話を踏まえると、そうして窓の灯を単なる光の集合として捉えるようなことは、「ストーリーという価値判断の氾濫」に対する恐ろしさから来ているのだ、と読めました。そこからポリコレの話になり、ファシズムの話になる。
 そしてここからがお訊きしたいところなのですが――、「ファシズムと戦う手段は、まさしく、「書くことをもっと書き手じしんの手に取り戻す」だと思います。そのために、個々の人間と、自分自身の顔を見つめなければならなく感じる」と続く、そこはぼくも大いに頷くところです。しかし、そうであるならば「集合写真に感じるおぞましさがファシズムの察知かもしれない」と云うのは、よくわかりません。集合写真に均質さを感じているのは上雲楽さん自身であり、そうして均質にものを見ることはむしろ、〝「ストーリーという価値判断の氾濫」に対する恐ろしさ〟ではなかったでしょうか?
 もちろん、再び集合写真の話へ戻ってゆくところは、ふと思いついて書き留めたと云う感じであり、書くことの作用、面白さとはまさにこのような指先の動き、手の痕跡にこそあると思います。ただ、だからこそ気になって、つい深掘りしたくなったのです。

 集合写真とストーリーと云うテーマについてぼくが思い出すのは、写真史の本に出てきたニューヨーク近代美術館MoMA)の『ファミリー・オブ・マン(人間家族)展』のことです。小原真史の紹介に拠れば、《結婚、誕生、遊び、家族、死、戦争という人類に普遍的に共有される営みをテーマとして、68カ国、273人の写真から構成されたこの展覧会は、第二次世界大戦を経た世界へ向けて「全世界を通じて人間は本質的に単一である」というメッセージを表明するものであった》。そのメッセージが訴えるところは立派な世界平和ですが、一方でこの展覧会には《冷戦体制下で経済的繁栄を謳歌するアメリカ型民主主義とヒューマニズムをアピールする文化戦略》としての側面もあったようです。まさしくこれは、一見すると正しいスローガンのもとに、人間を均して呑みこんでしまうストーリーの問題に思われます。
 けれどもぼくがこの展覧会について最初に知った日高優『現代アメリカ写真を読む』では――手許にないので記憶に基づく参照ですが――世界各国の家族の写真が並べられることによって、人類は均質化させられるどころか、その差異を顕わにした。シチリアの粗末な身なりの家族写真と、アメリカ合衆国の裕福な身なりの家族写真が並べられたとき、誰が両者を同じひとつの家族だと感じるでしょうか? 写真のなかで、あるいは写真そのものを並べることには、そんな両義的なところがあるわけです。集合写真とはまた違う話と云うか、これはどちらかと云うと卒業アルバムの話かも知れませんが、しかし、集合写真もまた、顔が並んでいると云う点で、それぞれの顔は均されるどころか、かえってその個性を浮かび上がらせることもあり得るかも知れません。そしてそれは、われわれの眼差し次第なのかも知れない。
 そもそも写真と云うものが、人間をおしなべて光の痕跡として平らに均してしまう一方で、そのようにして個人が撮られることによって、人間は自らの痕跡を残し、自分自身の顔を得ることもできる、そんな「個」をめぐる両義性をもっています。ぼくはこの、両義的である、と云うことに強い関心を持っています。その両義性は、たとえば「数」の両義性でもあり、それは『九尾の猫』において書かれるような、ミステリの両義性です。ミステリは分析的な眼差しによってときに人間を記号的に扱いながらも、そうすることによって混沌から人間を掬い出すこともできるのかもしれない――あるいは逆説的に、図式へ還元し得ない何某かに触れることができるのではないか。ストーリーの均質化やファシズム的なものへ抗するための契機もまた、そんな両義性に見出されるのではないでしょうか? あまり考えを進められていないところですが……。

 エウレカセブンの話でしたね。まず、ぼくは熱心なアニメオタクでもなければロボットや漫画などにも素養のない、素人であることを前提に置きつつ――つまり、ぼくにとって『交響詩篇エウレカセブン』(以下、『エウレカ』)は一種の刷り込みに過ぎないのかもしれないと思いつつ――自分があのアニメについて考えていることを述べようと思います。
 ぼくが『エウレカ』について感動したのは、まず、あの圧倒的な世界に対してでした。それはアメリカ文化のコラージュでありながら、壮大なランドスケープのなかで妙な説得力を持って一体化し、レントンたちはその世界のなかで息づいていました。世界はそれ自体がひとつのエコロジーを作り出しているように思ったのです。『エウレカ』について、世界は広い、と云うとき、それはなんの比喩でもない。世界は広いのです。そしてそこには、いろいろな人びとが生活を営み、生物が棲んでいる(と云っても、動物がほとんど姿を見せないのは不満ですが)。そして、少年と少女は出会い、手を取り合う! その生は決して終わらない……。驚異的なのは、終盤で作品世界の成り立ちが明かされてもなお、その世界が箱庭的に縮小されることなく、一定の広さを保っていることです。惑星(だったか地球だったかはうろ憶えですが)と云う言葉がただの言葉ではなく、この惑星自体を指して云うことができているからでしょうか。
 いずれにせよ、『エウレカ』について、ポスト・エヴァとかメディアミックスのメタフィクションとかいろいろ云おうと云えば云えると思うのですが、しかしそんな図式では回収しきれないような世界がそこにはある。それは厳密に考証されたリアルではないかも知れませんが、そこで生きる彼らにとっては間違いなくひとつの(そして、それぞれの)世界なのです。小説版のあとがきで読んだ話だったと思うのですが、TVアニメ版は当時、比較的若いつくり手たちが集まってできたものだそうです。ゆえに誰か一人の作家性に回収されることなく、ゆえにときには奇妙な建て付けもありながら、それも含めてひとつの世界が複数性を保ちながら現出せしめられたのかもしれません。
 さて、ここまで語ったことからおわかりかもしれませんが、ぼくは最初の『エウレカ』以外のアニメについては、あまり好意的な感想を持っていません。『ポケットに虹がいっぱい』は、ひとつのIFとして面白く視聴しましたが、『AO』や『ハイエボリューション』はどうにも……。前者はところどころで上述した意味での世界を垣間見せましたが、後半、作品自体が、ひとつの(そして、それぞれの)世界、と云うものをを信じることができなくなってしまったようでした。『ハイエボリューション』にあっては、全篇がそんな調子で……。そこに企みがある、と云われればそうかもしれませんが、その企みはどこか別のところでやってほしかった、と云うのが正直な感想でした。とは云え『ANEMONE』は、アネモネと云う少女の強さ、その息づかいによって作品が彼女の世界となっていたように思います。
 そして『EUREKA』は――。おぼろげな記憶で話すのですが、新たにまた語り直し、世界を作り直そうとするような意志が見受けられつつ、もはやそんなことは不可能に思われました。メタ的な仕掛けをいろいろ読み取ろうとはしましたが、『エウレカ』においてそれはいささか虚しく、それはもはやぼくを圧倒した『エウレカ』ではない。けれどもそのこと自体に、シリーズの総括(とその失敗)を見たように思います。そして終盤、アイリスが息づいたような瞬間があったはずで――、そのとき、ぼくは泣いてしまった。それは事実で、その一点を以て、ぼくは『EUREKA』を、そんなに悪くない映画だったな、と感じています。でもまあやはり、そこにあるのはもはや、すでに「エウレカ」と名づけられてしまい、その言葉のなかに囚われ/安住してしまった、(世界ではない)物語空間でしかないのですが……。
 どうでしょうか。これがぼくと『EUREKA』との距離感だと思います。正直云えば、ぼくはもう、冷静な評価者ではないのでしょう。とは云えこうして語ることができて、自分でも腑に落ちてきたような気がします。
 それではこの辺で。急激に冷え込んだ三連休、くれぐれもお体、お気をつけください。

鷲羽

私的オールタイムベスト・ミステリ

 深夜の突発企画。こう云うのは勢いでやるもんだ。選んだのは十二冊。黄金の十二ゴールデン・ダズンである。

アガサ・クリスティーオリエント急行の殺人』

 ぼくが探偵小説を読むようになったきっかけであり、おそらく今後、これを超えるものとは出会わないのだろうと思う。これは列車と云うよりも箱であり、しかしこの箱のなかには、世界が収められている。

 

アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』

 腰が抜けるほど驚いた。

 

アガサ・クリスティー『鏡は横にひび割れて』

 起こってしまった、と云う悲劇。

 

アガサ・クリスティー『五匹の子豚』

 一枚絵としての探偵小説。あるいは、だまし絵としての。

 

ドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』

 神を感じた。

 

G・K・チェスタトン『ブラウン神父の不信』

 けっきょくチェスタトンに還っていくのではないか? シリーズ全部と云いたいところだが、パズラーとしての側面が強い『不信』を偏愛している。

 

エラリイ・クイーン『九尾の猫』

 人間を数字にすること。

 

ヒラリー・ウォー『生まれながらの犠牲者』

 捜査と叫び。

 

ロス・マクドナルド『さむけ』

『ギャルトン事件』でも可。『一瞬の敵』でも良し。ともかくロス・マクは一冊挙げたい。この作家との出会いは、蒙が啓かれる感覚があったから。

 

ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』

 ミクロからマクロへ。

 

コリン・デクスター『ニコラス・クインの静かな世界』

 良い小説だとは思っていない。好きなわけでもない。しかし、ここにはぼくの理想へと至る可能性が宿されている。

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』

 なんやかんやで。


 以上十二冊はもちろん暫定、暫定であるが、暫定である以外に何があると云うのだろうか?

 本当はほかにもいっぱい挙げるつもりだった。と云うか、これは最初、海外作品と云う縛りで選んでいたはずなのに、いざ並べてみると、ほかの作品を並べることは難しいように思われた。たとえばぼくのオールタイム・ベストのひとつ、加藤元浩「巡礼」がここには入っていないが、それを挙げるなら、この十二冊とはまったく違った場所に置かれるのではないか。
 たぶんここに並べているのは、オールタイムベストとか、黄金とかではなく、何かしらの基準点なのだ。