鷲はいまどこを飛ぶか

ミステリとSF、ときどき東方。

走馬灯の代わりに

 小説の役割のひとつが人生を鏡に映すことだとすると、登場人物も場所も、実生活と同様に明確なものでなくてはならない――となると、名前が必要になる。

――エラリイ・クイーン『九尾の猫』越前敏弥訳, ハヤカワ・ミステリ文庫

 

 映画館でエンドロールまで見る客が見ているのは《映画館でエンドロールまで見るマナーの良い自分》である、と云うひとがいる。一方で、映画のエンドロールをエンドロールとしてきちんと見る――つまり、その映画を作ったひとびとの名前に興味があると云うひとも、当然ながらいる。現にどちらもSNSで見かけた意見だし、それらを見かけたからこの文章を書き始めたのだ。

 とは云え別に、どちらが正しいとか、間違っているとか云いたいわけではない。そもそも、どちらが正しいとも、間違っているとも思わない。エンドロールをぼうっと眺めながら映画の余韻に浸ったり感想をまとめたりする、そんなエンドロールとの付き合い方だってあるだろう。音楽に耳を澄ませているひともいるかも知れない。本人あるいは知人が映画制作に関わったから、その名前を探す、そう云う場合もあるはずだ。ひとにはひとの、エンドロールの見方がある。所詮は名前の羅列にすぎない。

 けれどもぼくにとって映画のエンドロールは、日常で最もよく目にする《名前の羅列》だからこそ、意味がある。ぼくは映画館ではいつもエンドロールまで見るが、そのときぼくが見ているのは、より正確には、眺めているのは、スクリーンに並び、流れてゆく名前たち自体であり、それだけのひとびとが生きていて(少なくとも、生きていた)、この映画に関わったのだと云う事実だ。

 

 エラリイ・クイーン『九尾の猫』では、本篇のあとに、端役まで含めた、架空の人物名一覧が載せられている*1。人間を人間とも思わないような機械的な連続殺人と、それによって引き起こされる大都市のパニックを描いたこの作品において、末尾に並べられたひとびとの名前は、彼らが確かに生きていたのだと云うことを思い出させる。彼らはれっきとした人間であり、決して《何番目の被害者》だとか《犯人》だとか役柄で呼ばれるだけの存在ではない。群衆は愚かで、一度暴走すれば手を付けられないが、しかしそれでも、ひとりひとりの人間には、それぞれの名前がある。それはつまり、ひとりひとりに、それぞれの人生がある、と云うことだ*2

 もちろん、名前がすなわち人生を表すわけではない。けれども、それが誰かの名前である以上、名前の向こう側には、その誰かの人生が見える。でなければどうして、ただの名前の羅列が、こんなにも迫力を持ってぼくの胸を打つのか?

 むしろこう云えるかも知れない。その向こうにはたくさんのひとびとがいて、たくさんの人生があるのに、彼らの名前の羅列はこんなにも無機質で、ぼくはそこに、並べ立てられるなかで押しつぶされてしまった、無数の人生を思うのだ。

 

 墓や、慰霊碑に、幾つもの名前が刻まれているのを見ると、とても怖くなって、切なくなってしまう。

 あるいは、記念碑などに刻まれた寄付者の名前でも近い感覚を抱く。幾つも並んだ名前の向こうにひとつひとつの人生がある。生があって、死があって、その迫力に自身が押しつぶされそうになる。

 

  普段は意識していないが、そう云う感覚はただ散歩しているときにも覚える。住宅街を歩いていると、どこまで歩いても家が並んでいて、その家の灯りひとつひとつに人間がいて、人生があるのだと思うと、気が変になりそうになる。そんなときがある。

 世界のあまりの情報量に、心の処理が追いつかなくなる、そう云う感覚だ。

 けれど、だからこそ生きていよう、とも思えてくるのだから、不思議だ。

 

 映画に話を戻そう。『君の名は。』には、災害の死亡者名簿のなかに、見つけたくなかった名前を見つけるシーンがある。告げられた死の衝撃は、名簿の無機質さと、そこに並んだたくさんのほかの名前によって、いっそう重く突き刺さる。あれだけの物語があったにもかかわらず、あんなにも溌剌と生きていたにもかかわらず、その人物の死を告げるのは無機質なリストなのだ。そしてほかに並んだ名前ひとつひとつにもまた、押しつぶされた幾つもの人生がある……。

 これはあくまでこのシーンを見たときの衝撃であって、それがのちのちの展開でどのようにはたらくのかあるいは無駄にされるのかをここで語るつもりはない。話は、結末のさらにあと、エンドロールに飛ぶ。

 『君の名は。』を見る前、先に見ていた友人から、彼と同姓同名の人物がエンドロールに並んでいる、と聞かされていた。だからぼくはエンドロールで友人(と同姓同名のスタッフ)の名前を探した。それは端的に云ってゲームのようだったし、見つけたときは嬉しかった。映画のタイトルと名前さがしの符合も面白い。友人にも報告して、少しだけ盛り上がった。友人と同姓同名の、けれど全く別の人生をもった人間がいることに、不思議な感慨を覚えた。

 

 死亡者名簿のなかに会いたいひとの名前を見つけること。エンドロールのなかに友人の名前を見つけること。このふたつは案外、近い。その近さと、それでも一致しない距離が、いまは興味深く思える。いい加減しつこいが、無数に並んだ名前にはそれぞれの人生があって、それらがリストになって押しつぶされることは恐ろしいことだけれど、云い方を変えれば、向こうにたくさんの人生が見えるはリストは、この世界が信じられないくらい豊かであることを(もしくは、豊かであったことを)垣間見させてくれる。

 ゆえにぼくはエンドロールを見るのだ。

 何も、ひとつひとつの名前を把握しているわけではない。大体の場合、ぼうっとスクリーンを眺めているだけだ。けれど、そこに並んだたくさんの名前を眺めていると、だんだん、恐ろしくて、切なくて、嬉しくて、楽しい気持ちになる。

 

 ひとは死の間際、自分の人生を振り返る、いわゆる走馬灯を見ると云う。もしそんなものがあるのなら興味深い体験に違いないが、ぼくとしては別に、自分の人生を振り返りたいわけではない。どうせ見るなら、エンドロールが良い。自分の人生で、自分に関わったひとびとの名前がずらりとそこには並んでいる。多分、見ている途中で飽きてくるだろう。家族や友人知人の名前ならまだしも、ちょっと喋っただけの名前も知らない人間まで(むしろそう云う名前の方がたくさん)載っているのだから。

 けれど、長い長いエンドロールを見終わったとき、どのような人生を送ったのであれ、きっと、それなりの感慨と共に《おしまい》を受け容れることができるはずだ。

 

 

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 
法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

 
君の名は。

君の名は。

  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Prime Video
 

 

*1:書いていて思い出したけれど、『ローマ帽子の謎』でも似たようなことをやっていた。ただし、あちらは本篇の前であり、犯人当てとしてのフェアネスを強調するものだったように思う

*2:法月綸太郎「many tales――たくさんの物語」(『複雑な殺人芸術』所収)を参照

 芸術家とは仲介者にすぎないとパウル・クレーは云う。

 芸術家のする仕事は、定められた地点で、つまり樹木の幹として、深部から上昇してくるものを集約し、さらにそれを上方に導くこと以外のものではありません。一言でいうならば、芸術家たちは支配者でも、召使いでもなく、単なる仲介者にすぎないのです。

 ですから、芸術家とは、何というつつましい存在なのでしょう。樹冠の美しさ。それは決して芸術家その人の美しさではなく、ただ彼を媒介として生れたに過ぎないのです。

 

――パウル・クレー『造形思考』土方定一ほか訳, 筑摩書房*1

  クレーはこの言葉を、あくまで芸術家の視点から述べているが、自分で何かを創作するわけではない聴講者にとっては(この言葉の出典はクレーの講演である)、むしろ鑑賞者の在り方を提言するものとして聞こえるはずだ。作品を鑑賞するとき読み取るべきは芸術家の意図ではなく、そこに何が生成されつつあるのか、どのような記述がなされているのか、である。鑑賞者は、いま果実を実らせ枝葉を茂らせている樹冠にこそ目を向けなければならない。

 これはなにも絵画だけに留まらないだろう。いたずらに異なるメディアを結びつけるのは危険だが、小説だって、同じようなことを云うことができる。佐藤亜紀が『小説のストラテジー』で用いた《記述の運動》とは、つまりそう云うことではなかったか。少なくともぼくはそう理解した。

 問題は、ではどうやって樹冠を見るのか、だが、それにあたって、この樹は何科何属で、形態はどうで、フェノロジーはこうで、と云う話をしただけでははじまらない。樹を研究するにあたってそれは重要な作業だが、樹冠を鑑賞するにあたっては、その樹の種目を特定しただけでは意味がないのだ。もちろん、樹種の進化系統を把握することで自分の中で解像度が上がれば、樹冠の見え方も変わるだろう*2。だから分類や、体系立てることは重要だ。けれどもそれだけでは、鑑賞にならない。

 もって回った云い方をしたが、要するに何が云いたいのかと云うと――《これは本格ミステリ》だとか、《トリック分類を参照すればこれはどれそれにあてはまる》だとか云ってみたところで、それは鑑賞ではない。先達の分類や独自の定義を携えつつ、しかし作品を読むときあくまで眼を向けるべきは、幹でもなく、系統樹 でもなく、樹冠の豊かさ、美しさである。たとえ全体をくまなく見ることなどできないとしても、見ることができるのは部分ひとつひとつだけだとしても。

 

 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、部分は発見されたのですが、まだ全体を見出すまでにはいたっていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けております。わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたしたちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたしたちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の意識をもって始めたのです。

 それ以上のことはわたしたちにはできません。

――同上

 

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

 
造形思考(下) (ちくま学芸文庫)

造形思考(下) (ちくま学芸文庫)

 
小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

 

*1:表記揺れは原文ママ

*2:もちろん、系統樹もまた《樹冠》であるわけだが

2020年の抱負

 宿題を取りに行けたかどうかは知りませんが、去年掲げた目標は、読む・書くについては概ね達成できたように思います*1*2

washibane.hatenablog.com

 それでは、2020年もがんばっていきましょう。

 

1.勉学など

  転学部するつもりで生きていましたが、転学部しないことになったので、慌てて専門の勉強をやっています。勉強すればするほどおのれの勉強不足と他者に何周も差を付けられている恐怖とでお腹が痛くなります。が、やっていくしかないので、やっていきます。

 それはそれとして、自分に教養がないことをいまさらながら実感したので、興味の湧いたことについては気軽に本を読んだり勉強したり、インプットを増やしたい。それは自ずから、書くものにも繋がってゆくでしょう。

 

 おのれの不勉強・無教養と向き合わされ、昨年の後半は精神的に低迷していたように思います。思い出すこともつらいですが、7月の悲劇も大きく影響しているでしょう。わたしはなぜ生きているのか、わたしはなぜ物語を読むのか、わたしはなぜ何かを書いているのか、その根本から見つめ直さなければならない、そんな気持ちで鬱々としていた気がします。加えて、大学入学以来自分の唯一の居場所だった推理小説研究会に対し、疑問を抱いていました。頻繁に嘆き、頻繁に怒り、周囲に多大な迷惑と心配をかけてしまいました。この場でお詫び申し上げます。

 さて、そう云うわけで、2019年は内省と懐疑に支配された、不安定な一年でした。それを克服するために、2020年は、わたしと云う人間を解体し、組み立て直す一年にしようと思っています。そのための勉強です。

 

2.読むことなど

 昨年やり残した宿題として、ジーン・ウルフの再読があります。ただわたしが怠惰であるならまだしも、うだうだとしている内に、ウルフは旅立ってしまいました。追悼の意を込めて未訳短篇の翻訳をサークル内に発表しましたが、まだできることはあるはずです。

 また、昨年は小説に集中していましたが、今年はノンフィクションや学術書も積極的に読んでいくつもりです。とりわけ昨年後半は、ジャーナリズムの意味や功罪について折に触れて考えていました。現実をどうやって記述するのかと云う視点も持って、ノンフィクションとは向き合っていきたい。まずは沢木耕太郎あたりから始めましょうか。

 洋書も読みたい。

 

 最近、何を読むのかと云う以前に、まず量を読んでいなければ話にならないと考えるようになりました。先達の累積を何ら参照せずに、自分のセンスだけを恃んで生きてゆくのは浅はかな真似です。そしてこのセンスも、結局は読書量によって生み出されるものでしょう。もちろん、ただ雑に読んでいては中高時代の繰り返しですから、丁寧な読みも必要なのですが。

 とりあえずは目指せ、年間300冊。

 

3.書くことなど

 長篇小説を書きます。上半期と下半期でそれぞれ1作ずつ、2作を目標とします。

 昨年短篇をやっと3作書けた人間が大きな目標を掲げたものだと自分でも思いますが、どうやらわたしは、書くと宣言することでようやく書ける人間らしいのです。なのでどうせなら、もう少し具体的に話すことで、自分で自分を追い詰めてみましょう。

  • ベトナム戦争と少女とカメラの話(長篇)
  • 鳥の群と子供たちとアメリカの話(長篇)
  • 上海租界と記憶の中の殺人の話(中篇)
  • 台湾と移民と家族の話(中篇)
  • 闘争の季節の話(中篇)
  • 少女と少年と空の青の話(中篇)
  • 倒叙ミステリ(中篇)
  • 恐竜の化石と難聴の教授の話(短篇、犯人当て)
  • 犬走椛を主役にした捕物帖(連作短篇、東方二次創作)
  • 赤蛮奇を主役にした捕物帖(連作短篇、東方二次創作)

 実を云うと、長篇以外の多くはこれを書いているいま、急遽決めたものです。とは云え、書けたら書く、ではいつまでも書かないでしょうし、人生は有限ですから、積極的に書こうとしてゆきたいですね。

 

 評論も書きたいですが、これについては絶望的に読書量が足りません。もっと精進します。

 

 ……いざ書いてみるとめちゃくちゃ恥ずかしいことをしている気がしてきたぞ。さっさと切り上げましょう。

 

 それでは今年もよろしくお願いいたします。

 

喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima (講談社文庫)

喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima (講談社文庫)

  • 作者:森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/10/16
  • メディア: 文庫
 

  森博嗣の自伝的小説。こんな大学生活になると思っていました。

 

 

*1:東方二次創作はがんばって書いています

*2:ウルフの再読ができなかったのは心残りですが

2019年下半期ベスト

 年間ベストは例年、31日24時まで粘るのですが、今年は時間が取れるうちにちゃっちゃと済ませようと思います。いま読んでいる本はたとえ年内に読み終わろうと、2020年読了本扱いです。

 それでは始めます。国内外・フィクションノンフィクション問わず、長篇(および作品集)と短篇でそれぞれ20作ずつ、順不同です。

 

長篇(および作品集)

    ◇

    ◇

    ◇

  • シモン・ストーレンハーグ『ザ・ループ』(グラフィック社)

 

 『図書館の魔女』の作者が放つ民俗学ミステリ――と云う触れ込みだった高田大介『まほり』。細部のリアリティや大胆すぎるアクロバットより、最後の最後、重量級の物語をたった一点へ収束させる手腕が巧い。実は未読だった十角館の殺人は、しかしいま読んで良かったと思う。コテコテのクローズドサークルと、そこから離れた外側の世界、両者をミステリの構図で結びつけ、新しい時代のミステリへと橋渡しする記念碑的名作。『なめらかな世界と、その的』『嘘と正典』についてはtwitter等で何かと言及したので、いまさらここで多くを語るまい。ただ一点、後者収録の「魔術師」はオールタイムベスト短篇のひとつです。国産ロスマクと聞いて読んでみた『公園には誰もいない』。行き止まりへ突き進むように切り詰められ、突き放した文体は、いっそ息苦しい。『黒いトランク』は一読して、こんな推理小説が人間に書けるのかとおののいた。精緻に組み上げられ、鮮やかに崩されてゆく、トリックとロジックの一大建築が、戦後の日本を刺し貫く。それは知性の全力を賭けた挑戦にも、神の戯れにも見えた。

 『小説のストラテジーは小説の読み方を指南した一冊。なんとなく抱いていたが言語化できなかった感覚を見事に捉えられた、気がする。読むにあたっても書くにあたっても、今後何度も参照することになるだろう。ミステリ評論集『複雑な殺人芸術』には「奇妙な暗合」と云う言葉が評論を跨いで複数回登場する。思いがけない繋がりを見出し(あるいは創り出し)て、運命的な構図を描く様は、むしろ推理小説の営みに近い。

 パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』があまりにも良かったので、重量級の長篇を三作品一気に読んだ。小説の構造、作品の構図の示し方がいちいち格好良く、それはとりわけ『エコー・メイカー』で顕著だ。しかし下半期読んだ本でベストを挙げるなら『オーバーストーリー』になるだろう。これはもう、好みの問題ではない。あまりにも個人的事情を密接に絡みすぎて、まるでいまこのとき自分に読まれるために存在していたのではないかとさえ思える。小説・物語の効用と云う点では『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』も忘れ難い。残酷な現実を前にして、それでも彼は語り続ける。語られるひとつひとつが愛おしい。いままでピンと来なかったバラードだけれど、太陽の帝国を読んでなんとなく面白がり方がわかった気がした。終盤の〝光〟が凄い。ちょっと信じられないくらい凄い。『生まれながらの犠牲者』はオールタイムベスト級の長篇ミステリ。前半の捜査は一見無駄に思えるけれど、最後に明かされる〝生まれながらの犠牲者〟を形取るためにはやはり必要だった。クリスティーのベストとは行かないまでも充分に面白かった『三幕の殺人』。この演目では、傍観者に見えた名探偵さえも舞台へ引きずり出されてしまう。『十日間の不思議』『九尾の猫』から更に踏み込んだ『ダブル・ダブル』チェスタトンが狂人と断じた方へ、それでもなおエラリイ・クイーンは突き進む。モース警部シリーズはいまいち好きになれなくて、『ニコラス・クインの静かな世界』も例外ではないのだけれど、好みにはまりそうではまらないこの微妙さによって、かえって作品について考え込んでしまう。ひとの感想を聞いてみたい。ようやっと邦訳が完結した『危険なヴィジョン』全3巻。何はともあれめでたい。いちばん面白いのはエリスンのコメントなのだけれど、それでも一応面白かった作品を挙げるならディック「父祖の信仰」、エムウィシュラー「性器および/またはミスター・モリスン」、ディレイニー「然り、そしてゴモラ……」あたり。そして、刊行されたことがまずめでたいと云う点では『息吹』もそうだ。語られていることを「しょせん綺麗ごとさ」と冷笑するのは容易だ。こんなもの小説の面白さではないと断じるのも難しくない。しかし「それでも」と思わせる強さが、テッド・チャン作品にはある。

 もうひとつの世紀末を描くグラフィックノベル『ザ・ループ』は、話題になった『エレクトリック・ステイト』より遥かに好み。ストーレンハーグによる異形のノスタルジーには、断片的な記憶を(ときには空想を交えて)浮かび上がらせる形式が相応しい。

 

短篇

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    ◇

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    ◇

 

 まずは漫画を3作。わけあって全巻読むことになった『C. M. B.』からは「ワールド・エンド」を挙げておこう。細部に粗もあるが、アルゼンチンの悲劇と人間の闇と博物学とを〝世界の終わり/果て〟と云うイメージでつなぎ合わせる力業が光る。とにもかくにも絵が格好いい『佐武と市捕物控』の中で、異彩を放つ「狂い犬」。空白によって描き出された、灼熱の白昼夢。偽史山人伝」は〝山人〟なる架空の生物について幾つもの資料を並べ立てる不思議な作品。オチもなければ山もないが、だからこそ〝山人〟の存在がそれ自体で印象に刻まれる。

 ロジカルな中短篇推理小説のひとつの極地を見せられたのが「スイス時計の謎」。この不条理な世界で、論理は誰かを救い得るだろうか。「別の世界は可能かもしれない。」はタイトルが第一と云って良い。可能かも知れない。可能でないかも知れない。しかし、〝かも知れない〟で充分なのだ。人間の深淵を覗くかのような「改造拳銃」は、退職刑事シリーズの異色作。純粋論理空間から始まった安楽椅子探偵小説がこんな境地に行き着くなんて、誰が予想できる? 横山秀夫は『第三の時効』における男社会のエレガンスに若干鼻白んでいたが、「黒い線」で認識を改めた。警察組織に蹂躙される女性たちの悲愴。そう云う視線も持ち合わせていたのか。

 最近、ノンフィクションの在り方について(さらに云えば、フィクションの意味について)考えている。そのきっかけとなったのが「おばあさんが死んだ」推理小説のような展開を見せつつ、決して推理小説とはならない点に真価がある。〝何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。〟――名文しかないエッセイ文学のふるさと。故郷とは、遠くにありて思うもの。しかし、そこから始まっているのだ。「暗合ということ」巽昌章推理小説観を知るために重要な論考。運命を運命として描くこと、それが推理小説が語ってきたのことではないのか? 気をつけないと、巽昌章の引力に呑み込まれてしまう。

 ダブリンのひとびとのささやかな物語に高い技巧を仕掛ける連作は、「死者たち」で締めくくられる。昨日まで存在も知らなかった死者を思う魂は、窓辺をさまよい出でて、宇宙にまで繋がってしまう。それでもなお決定的にすれ違ったままだと云う悲しさを残して。「大佐に手紙は来ない」は最後の一文が凄まじい。社会から置き去りにされ、追い詰められてゆく夫妻の悲劇は、この一文で開かれてしまう。現代の異色作家短篇と云える「黒い豚の毛、白い豚の毛」。笑えば良いのか、怖がれば良いのか。見送りのシーンが不気味だ。「アダムズ牧師とクジラ」エドワード・ホッパーの絵から小説を書くと云うアンソロジーの一篇。どうしてあの絵からこんなものが書けるのか不思議な、ラリった牧師と鯨の死骸とエルヴィス・プレスリーについての話。なんだこれ。クトゥルー×ホームズの「翠色の習作」は最早、発想の勝利。しかし出オチに終わらずツイストを決めるので油断ならない。旧人類よりあらゆる点で優れた新人類が登場する「眠る犬」は、安易な〝平等〟〝公平〟に陥らないのが良い。生命の複雑性と世界の複雑性を、ひとつの復讐譚で一気に照射する。ディラック海のさざなみ」は異色の時間SF。いままで読んだ中で、最も痛ましい時間旅行だ。編者について思うところは多々あるが、それでも素晴らしい企画であることは認めねばならない《短篇ミステリの二百年》からは二篇を。「霧の中」は百年前にして虚構推理的な趣がある。よく見つけてきたなこんなの。「セルノグラツの狼」は完成度の高い掌篇。悲しさ、恐ろしさ、滑稽さ、苦々しさ、様々な感情が短いながら喚起される。

 そして年末もギリギリになって年間ベストどころかオールタイムベストとなった「横しぐれ」。とは云え、オールタイムベストなどと云う評価軸に収めることさえ躊躇ってしまう。一生に一度で良いから、こんな小説を書けたなら、幾らか満たされた気持ちで、人生を終えられるだろう。

 

 以上、20冊と20篇でした。

オーバーストーリー

オーバーストーリー

 

 局所的な人間の関係性もまた面白いが、そんな些細なものを呑み込んで世界は続いてしまうと云う感覚がある。人間と云う小さなものが大きな歴史の濁流を形成していく、あるいは、大きな歴史の濁流が人間と云うちいさなものを蹂躙してしまう、そう云う感覚。その濁流を前にしては、名前も知られない人間の関係性など何の意味も持たない。しかしだからこそ、その人間の声なき叫びを聞き取ろうと耳を澄ますことが大切なのだと思う。何と云っても、わたしたちもまた蹂躙される側なのだから。

 そして、今度はわたしたちが、物語る番だ。不条理で不可解で不愉快で不思議な世界と、物語を通して切り結ぶ番だ。濁流に呑み込まれないように。

 

舞踏会へ向かう三人の農夫 上 (河出文庫)

舞踏会へ向かう三人の農夫 上 (河出文庫)

 
舞踏会へ向かう三人の農夫 下 (河出文庫)

舞踏会へ向かう三人の農夫 下 (河出文庫)

 
チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)

 
ブエノスアイレス食堂 (エクス・リブリス)

ブエノスアイレス食堂 (エクス・リブリス)

 
兵士はどうやってグラモフォンを修理するか (エクス・リブリス)

兵士はどうやってグラモフォンを修理するか (エクス・リブリス)

 

銃口はどこを向いているか:『天気の子』について、その2

(本稿は映画『天気の子』の内容に言及しています)

 雨音は強まり、拳銃は私たちから離れた場所で西の方角を向いていた。それがいまの時点における、いわば明後日の方向だった。

 

――瀬名秀明「希望」

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拳銃についての幾つかのこと

 前回は東京の話をしました。

washibane.hatenablog.com

 今回は拳銃の話をします。

 拳銃は『天気の子』において奇妙な存在感を放っています。帆高が警察に追われる理由として物語を積極的に動かす重要な小道具でありながら、伝奇的・ファンタジックな物語にあって生々しく、かと云って現実的なレイヤーから見ても浮いてしまう。そもそもあまりに強力すぎるので、物語全体のバランスを破壊させかねません。事実、銃が挟まったことによって全体の焦点がぼやけた印象もあります。

 しかし、ここではあえて、銃の存在を肯定したい。銃が在ってこその『天気の子』なのだと云う立場から、銃が在ることによって何が描かれたのかを考えてみようと思います。

 

はじめの拳銃

 はじめ、帆高が銃を取り出すのは、少女を守りたかったからではなく、馬鹿にされて足蹴にされて、頭にきたからです。

  行動を起こしたのはもちろん、恩ある少女を助けたかったからでしょう。しかし、逃げることは叶わず組み伏せられ、自分の行動が勘違いに基づいたただのお節介に過ぎなかったのだと明かされる。その惨めさ、情けなさに打ちのめされるところで追い打ちを掛けるように「あのときのガキか」と殴られる。そう、帆高をぶつ男は、かつて彼に悪意をぶつけてきたあの男でした。

  馬鹿にしやがって、と、帆高は銃を構えます。この拳銃は、目の前の男に躓かされたことをきっかけに拾ったものです。彼が意識しているのかはわかりませんが、意趣返しの構図がここに成立しています。

 ただこのとき帆高は、自分が構えているものが何なのかわかっていません。いえ、玩具などではないと内心わかっていたかも知れませんが、それが本物の拳銃であること――本物の拳銃がひとを殺せてしまう武器であることを、まだ実感していません。だから衝動的に銃を向けることができたのですし、勢いで引き金をひくことができたのです。

 幸いにして、放たれた弾丸は目の前の男を撃ち抜くことはありませんでした。ただし、その後ろにある街灯に当たってしまった。帆高の手の中にある拳銃は、どうしようもなく本物でした。

 

 はじめの発砲を通して、帆高は大きすぎる力をもつ危険性と、それを実感していなかった無知と、それを自分のために使ってしまったおのれの直情的な一面を知ります。そして何より、何も知らないままに行動してしまった愚かさを。

 銃を持つ手は痙攣のように震えている……。帆高は、自分の知ってしまったことを振り払うようにして銃を投げ捨てます。この銃は終盤になるまで帆高の手を離れ、そこに捨て置かれることになる。自分の知ってしまったことに、自分が持ってしまった力に、帆高がまだこのときは向き合えなかったからです。

 銃が再び拾われるには、帆高が自分のおかした過ちと向き合い、すべてを知ったうえで*1行動し、大切なあのひとのために、東京と、社会と、世界と対峙する覚悟を決めるそのときまで、待たなければなりません。

 

空を撃つ拳銃

 拳銃が次に登場するのは、帆高が陽菜をさがしてたどり着いた廃ビルの場面です。彼に迷いはありません。犯罪を重ねてでも、人生を棒に振ってでも、彼はあのひとに会うために世界と対峙します。彼はもう何も知らない少年ではないのです。

 あそこから彼岸にいける、と帆高は上を指さします。昨夜の大雨によって天井と壁は崩れ、あの鳥居が、晴れ渡った空が、直接見えるようになっています。帆高にしてみれば、あの先に陽菜がいることは明白です。しかし、須賀はそれを否定する――大人として、彼は否定せざるを得ないのです。

 目を泳がせながらも「大人」であることを全うしようとする須賀に帆高は捕まり、殴られ、反撃をするも蹴り飛ばされます。警察も追ってきている。東京が、社会が、世界が迫っている。けれどもここで諦めるわけにはいかない。帆高はついに、かつては捨てた拳銃を握ります。彼はとっくに決めていた覚悟で、大きすぎる力を手に取る。大きすぎる危険な力を与えられてしまった陽菜*2と、彼はようやく並びます。

 そして、空に向かって銃を撃つ。もう一度あのひとに会いたいんだ、と。

 それは空の上、彼岸に対する反逆であるとともに、祈りでもあります。いつかのように、街灯に当たってそれきりと云うこともない。暴力的な手段によって、願いは空に届けられる。作中には、空の上、彼岸に思いを届ける手段として送り火の煙や精霊馬が登場しますが、この場面における弾丸もそれと同じ役割を果たしていると云えるでしょう。

 冲方丁は『天気の子』について、自分ならこう描く、と云う感想を書いていますが、その中での「龍神に向かって銃を撃つ」と云う指摘は、実はすでに作中でこのように達成されていたのではないか、と思うのです。

towubukata.blogspot.com 

 序盤の発砲と同様、大きな力の破裂のあと、静寂が訪れます。しかしもう、あのときのような、どこか間の抜けた、現実味のない緩慢な空気*3が流れることはありません。逆に流れ出すのが、あの「愛にできることはまだあるかい」。

 帆高にできることは、まだ、あります。

 

銃口はあなたに向けられている

 帆高は再び銃を撃ちました。しかも、今度はそれが本物だとわかったうえで。彼はこの逃亡劇の中で何度も一線を踏み越えてきましたが、いよいよ明確に跨ぎ越してしまう。突入してきた警官たちは一様に銃を構えています。それまではギリギリ「保護」を貫いてきた彼らも、最悪の場合を意識せざるを得ない。「銃を下ろして!」「撃たせるなよ……*4」――刑事たちの言葉は、逆にそれが叶わない可能性が小さくないことを示しています。帆高はもう引き返せない。

 ここで、帆高は警察と云う、秩序を守る存在に銃を向け、対立します。須賀は刑事たちを非難しますが、彼も帆高を止めようとしている以上、現時点では秩序を守る側です。ゆえに彼もまた銃口を向けられる。

  この一連の流れの中で、画面は銃を構えた帆高を真正面から捉えます。手は震えているものの、引き下がらないと云う強い意志を感じさせる瞳。そして、画面を通して観客側を向いた銃口。両者に、観客は射貫かれる。

 その瞬間、観客であるわたしたちも、刑事や須賀の立場に置かれます。つまり、帆高を排除する側に、帆高から反逆される側に。

 何も知らないことを云い訳にして人柱のシステムに加担していたのはお前も同じだ――そう告発しているかのように。

 

  この映画には様々な、描かれていないものが存在します。帆高や陽菜の生い立ちや、名前の与えられていないひとびとの生活や人生、さらに広い視点を持てば、東京以外の世界も。この作品において、世界とは東京と等号で結ばれている。それを「狭い」と批判することは容易いでしょうが、帆高と云う少年にとって、その世界=東京は途方もなく大きく、ままならず、また、かけがえのないものです。それを否定する権利をわたしたちは持たない。彼の生きる世界は狭いのだ、そんなものは本当の意味での世界ではない、と意識的にせよ無意識的にせよ否定しようとするわたし/あなたに、銃口は向けられている。では逆に、わたし/あなたは、この映画に描かれた様々なものを、知っているのでしょうか。

 何も知らないで東京にやってきた少年はもう、あの頃の無知なガキではありません。彼は東京のふてぶてしさを知り、この世界の度しがたさを知っている。彼は拳銃を構えることで、今度は自分を排除しようとする世界に対して、それを暢気に鑑賞するわたし/あなたに対して、何も知らないくせに、と告発します。

 作中に溢れる実在の固有名詞は、この東京はいま、ここの東京なのだと云うことを強く意識させます。どこかの知らない国ではない。ファンタジーのための並行世界でもない。この東京の片隅で生きていた少年の叫びと少女の祈りを知らなかったひとびとは、わたしは、彼らに対して何か云うことができるのでしょうか。そんなもの知らない、では済まされない。銃口はこちらを向いているのですから。

 帆高がこちらに銃口を向けるとき、ちょうど音楽が「支配者も神もどこか他人顔」と歌われるのは、決して偶然ではありません。

 

物語を破壊する拳銃

 冒頭で触れたとおり、『天気の子』において、拳銃は物語の焦点をぼやけさせ、バランスを崩しかねない異物として混入しています。随所の場面の繋ぎ方がスマートになされることで物語は何とか成立していると思いますが、まるっきり破綻していると考えるひともいるでしょう。

 しかし、やはり拳銃は重要です。むしろ、物語を破綻させてまでも存在しなければならない。なんとなれば、拳銃の存在しない、気持ちの良い話運びでは描かれ得なかったものが、この映画では描かれているからです。少年は不相応な力を持たされ、少女のためではなくその拳銃のために社会から追われ、その弾丸をもって空へと思いを届け、その銃口をもって社会を、東京を、世界を、わたしたちを告発する――そのためには、拳銃が必要だった。

 逆に云えば、それをおこなうためにバランスの良い作劇が犠牲になるのならば、バランスの良い作劇など所詮その程度なのだ、……と云うのは、まあ、過言かも知れませんが。わたしも本気でそう思ったわけではありませんが、一瞬でもそう思ってしまうくらいには、拳銃の存在は心に引っかかり続けています。

  陳腐な表現が許されるならば、わたしはとっくに、この作品と云う拳銃に、撃ち抜かれてしまっていたのでしょう。

 

(次回へ続きます。多分「大丈夫」の話をします)

希望 (ハヤカワ文庫JA)

希望 (ハヤカワ文庫JA)

 

  引用元。実は、映画公開初日、鑑賞前に読んでいたのはこの短篇集のトリを飾る「希望」でした。いざ映画を観ると、少なからず共鳴する部分があって驚いたものです。

*1:この「すべて」は本当に「すべて」なのか、と云う問題は付きまといますが

*2:トラック爆破の場面を参照

*3:あのシーンでのスカウトマン木村の呆けた態度は忘れ難いものがあります

*4:「撃たせないでくれよ……」だったかも知れません。5回も観ているのに記憶が曖昧

東京に食べられて育った:『天気の子』について、その1

(本稿は『天気の子』の内容に詳しく言及しています)

 

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 雨降りしきる灰色の東京が、はじめに映されます。

 それは雨の情緒さえ感じられず、風流などと云っていられない、じめじめとして暗い、現代における都市の雨です。広大で無機質なビル群がけぶる様は、なるほど荘厳で神秘的とも見えますが、しかしそれでもこの風景は寒々として重苦しく、明るさや爽快さ、ましてや未来への希望などありません。前向きな思いがあるとすれば、明日はせめて晴れますように、と云うささやかな祈りでしょう。

 物語の舞台は、雨の東京です。この街で少年と少女が出会い、苦難を乗り越え、結ばれる。東京で展開されるそんな物語の冒頭において、けれどもカメラはこの風景から少年か少女へズームアップすることなく、むしろ後ろへと退いていき、ようやく、窓硝子に映り込む、顔を伏せた少女の像を捉えます。ここで少女の姿と東京は重ね合わされる。加えて、少女の姿は半透明です――つまり、ここですでに、《天気の巫女》の、少女の運命は提示されている。

 しかし少女はそんなことを知る由もなく、息の詰まる病室で物憂い表情を浮かべます。ベッドに寝ているのは彼女の母親でしょうか。窓に映る東京の景色と同じく、ここにも未来への明るい希望は感じられません。あるのは、その希望を何とか見出したいと云う祈りです。

 場面に重ねられるのは、少女のものではない声によるモノローグ。物語が終わった後、世界が変わってしまった後からこの時点へと遡っておこなわれる語りに沿って、少女は光の水たまりを目指します。

 そして、強く願ってしまった。

 一瞬ののち、遙か上空、彼岸へとやって来てしまった彼女は、先ほどまで都市を塞いでいた厚い雲の上から世界を見下ろさせます。まるで、世界がその掌中に収まってしまったかのような景色です。しかしこれは逆であり、この瞬間から、世界に彼女は囚われてしまう。神と人間とを結ぶ細い糸に絡め取られる。

 かくして彼女は《天気の子》となったのです。

 

はじめに

  この冒頭だけでも見るべき箇所は多々あります。全てを知っているかのようなモノローグ。その中での、いいや、世界に変えたのだ、と云う宣言。のちにチョーカーとして陽菜の首に巻かれる、母親のブレスレット。物語の解釈に大切なそれらの要素だけでなく、ひとつひとつのシーンやその繋ぎ方も鮮やかで、この時点で映画へと没入させられます。とりわけ、タイトルが現れるその瞬間は、観る回数を重ねるほどその重みと、与える感動が増してゆく。ラストシーンとの呼応が、繰り返し観る度に強くなるのです。

 冒頭に限らず、拾っておきたいものは全篇にわたって配置されています。どこまで計算尽くなのか定かではないものの、映画がそこにある以上、それが映されている以上、考えることに損はないでしょうが、ここでは、細かな分析はやめにして、映画を観ながら感じたことを述べていくことになるでしょう。

 

 『天気の子』は、陽菜と帆高と云うふたりの物語として幕を閉じます。もちろん、須賀やら夏美やら、様々な人間が登場しますが、最後にたどり着くのは、帆高による陽菜への「僕たちは大丈夫だ」と云う力強い宣言です。彼らは、彼らが生きていく世界を選択し、肯定します。彼らはこのようにして生き、これからも生きていくのです。

 では、わたしたちは。

 この映画の恐るべき点はここです。彼らはかくして選択した。それを否定しようが肯定しようが、呪おうが言祝ごうが、彼らの人生は彼らの人生であり、彼らが「大丈夫」である以上、彼らは彼らの世界を生きていくでしょう。強靱なこの物語は、わたしたちの言葉を反射し、鏡のようにわたしたちを浮かび上がらせます。多くが語られているようで居て肝心な部分を明言しない、曖昧な描写の積み重ねからわたしたちは選び取っていき構成して、解釈し、論じますが、帆高と陽菜の人生は厳然としてそこに存在し、ただわたしたちの言説だけが、彼らとの間、スクリーンに並べ立てられていく。

 それを絶望的なことだとは思いません。そもそもこれは『天気の子』に限ったことでもない。しかし、この映画で描かれる「いま、ここ」は、強くわたしたちの「いま、ここ」を想起させ、とりわけ意識的に「では、わたしたちは」と考えさせるのです。

 ゆえに、この映画の感想は、この映画がどのようなものか、と云うよりは、この映画をわたしはどのように見たか、と云うものとなります。予めご了承ください。

 ミクロな視点からの精緻な分析や、マクロな視点からの正確な把握はひとに任せます。そもそも、両者をおこなうにはもう少し、時間を待たなければならないでしょう。

 

 それでは、やっていきます。全3回予定。

 (自分なりに格好良い感じで切り出しましたが、実のところこの文章を書いている時点でこれからの目処は立っていません。まあ、後はどうにかなるさと肩でも組んでいます。)

 

東京に食べられながら

 東京ってこえー。

 序盤、家出少年の口から繰り返し呟かれるこの言葉が、綺麗ではない、ごみごみとして、ひとの悪意が交錯する、あるいはひとの無関心が横溢する街を端的に集約しています。理想と現実、想定と実際とのギャップに戸惑い、それでもまだ前を向いていて、絶望しきっているわけではなく、東京に染まってもいない来訪者としての素朴な実感。

 実在の固有名詞に溢れて描写される「いま」の東京は、最初から最後まで、少年に不親切です。なんとなれば、彼は家出少年と云う、現代では社会の枠組みから外れていると見なされる存在だからであり、社会のルールに反しているがゆえに都市から除け者にされるのは後半の陽菜たちも同様。帆高を受け容れてくれる須賀と云う大人も、彼は「健全な社会」からは少し外れてしまっている存在だからこそ受け容れるのであって――彼もまた、過去に東京と云う街へとひとり分け入っていった少年だったのです――須賀と云うひとりの人間から「帆高の保護者」と云う役割を演じることになると、枠とルールに取り込まれ、少年を排除ないし制御しようとします。

 一方で、東京は社会の境界上にあるものを取り込んでいきもします。中学生と小学生の姉弟は施設によって救おうとし姉弟はバラバラにされるかも知れませんが、見方によってはそちらの方が遙かに安全であり健全であり姉弟のためにもなるでしょう)、モラトリアムを引きのばしていた女子大生はおべんちゃらを使わせながらも就活させる。年齢を偽っている少女が身体を売ることによって金を稼げると云うのも(実際は怪しいでしょうが)社会へ取り込むシステムのひとつと云えるかも知れません。そして帆高は、須賀と云う境界上の存在に受け容れられることで、徐々に東京と親しんでいきます。

 東京は怖い。東京はすごい。東京は恐ろしい。しかし、息苦しさを抱えて生きていた少年を受け容れるのもまた東京でした。

 少年は東京に呑まれながら息苦しさを解消してゆきます。少女は一度は東京に踏み潰され掛かりますが、少年の手に導かれ、東京のひとびとのために祈ることで、おのれの役割を知り(知ったと考え)、自分を肯定します。こうしてふたりは東京の中で生き、育つ。

 ただし、これはかならずしも東京賛歌ではありません。そんなわけがない。少年と少女の生きる姿は尊いものですが、彼らをかみ砕き、飲み込み、邪魔となったら容赦なく吐き出す東京の姿はむしろ、何ともふてぶてしいものです。少年が何を叫ぼうと、少女が何を祈ろうと、彼らを食いものにして白々しく居座り続ける東京と云う日本の一応の中心。

 そこにあるのは、オメラスなど遙か遠く、ディストピアにさえなりきれない、肥大化した都市の姿です。

 

 不完全なオメラスと、その敵

 『天気の子』を見終わったあとの胸に沈む重さは、ル・グィン「オメラスから歩み去る人びと」(以下、作品のタイトルを表すときは「オメラス」)を読み終わったときのそれに通じます。もちろん、両者はその重みどころか同種のものとも云えないのですが。

 「オメラス」はもはや思考実験として使い古された感があるので、最低限の説明に留めておきますが、あの小説において描写されるのは、限りなく理想に近い都市の姿です。誰もが豊かで、誰もが幸せな都市――ただし、ひとりを除いては。ひとりの犠牲のもとに成り立つ美しい都市を、しかし去ってゆくひとびとがいる。彼らは、未だ見ぬ、さらなる高みを目指します。ただひとりの犠牲者も生まない、存在できるのかも怪しいユートピアを求めて。

 「オメラス」が重いのは、わたしたちに向けて問いかけているからです。ディストピア小説として挙げられがちなこの作品内で、実はル・グィンはオメラスをあってはいけないものとして否定していません。小説内で否定も肯定もせず、オメラスと云う都市を、云わば実験している。読み手はこの実験を前にして、オメラスを歩み去るのかどうか問いかけられます。この問いが重い。読後も、ずっと胸の中にわだかまる重さです。

 『天気の子』における東京は、オメラスではありません。オメラスは犠牲者の存在を都市の全員が知っていましたが、東京は知らない(詳細は次回、多分)。加えて、東京はオメラスのような美しい都市とはまるで違います。綺麗な場所もあるにはあるけれど、細部に目を凝らせば、汚く、うるさく、暗い。

 そんな東京が、だのに人柱を作り出すからいっそう度し難いのです。

 そう、人柱を作り出しているのは人間の側です。天は天として気まぐれに存在し続け、本来人間はそれに左右されるだけ。それでも人間と天とを結ぶ細い糸が《天気の巫女》であり、この細い糸を介して人間は天気を自分に都合の良い方へと変えてきた――と云うのが、劇中の老宮司の説明です。どこまで信用して良いものか怪しいですが、前作『君の名は。』も踏まえると、世界を変えようとするのは人間側だと云う解釈は妥当でしょう。

  天気を変える代償として、陽菜は空に消えてゆきます。彼女のいなくなった東京は、憎らしいまでに晴れやかで、おぞましいまでに夏らしく、このとき、白々しくふてぶてしい東京は、いよいよ強固にそびえ立ちます。

 しかし、こうして得られた晴れこそ、陽菜が祈ったものだったのでしょう。皆が晴れた空に喜び、はしゃぎ、言葉を交わす。そこには光が溢れ、ひとびとは半ば諦めていた明日への希望も抱けるでしょう。明日からは普通の毎日が戻ってくる、と。自分の役割を受け容れ、いままでのように東京のために祈った彼女の、これが選択でした。

 かくして東京と云う不完全なオメラスは、ひとりの少女の犠牲のもと、素知らぬ顔でいつもの姿を取り戻します。何やら叫んでいる少年の声も、封殺されるはずでした。

 はずでした、が。

 様々な人間たちの協力を通じて――後半のこの一連の展開は、陳腐なまでに王道ですが、丁寧に描かれ、見事に決まっています――東京から拒まれる少年は、ついに天へとその思いを届け、少女の手を掴みます。東京のために祈っていた彼女に、自分のために祈って、と願い、地上へと連れ戻す。

 ふたりが帰ってきたとき、いままで様々なひとびとを呑み込んできた東京は、今度は天に呑み込まれるようにして、力強い雨に襲われます。

 

滅びゆく東京で

 天とひととを結ぶ細い糸はかくして断ち切られ、不完全なオメラスのシステムは崩壊し、東京は天の気まぐれか悪意か、雨の中に沈められます。この破滅をもたらすのが雨と云うのは絶妙です。いつか止むかも知れない、いつまでも止まないかも知れない、急速に訪れるわけではないが、着実に破壊を進行させていく、雨。

 ここで、彼らの選択がこの結果にどれだけ影響しているのか、そもそもこのオメラスもどきのようなシステムがどのような実態で、それは完全に崩壊したのか、と云うことは、あまり関係がありません。

 重要なのは、東京に生きた彼らが、東京から弾かれた彼らが、自分たちの手で東京を相手取り、今度こそ、自分たちの世界を掴み取ったのだと云うことです。

 彼らは、世界を変えるのだと云う選択をしたのです。

 『天気の子』の爽快さと、重さは、同時に、ここに起因しています。不完全なオメラスを破壊する彼らの選択と現状の肯定、「大丈夫だ」と云う言葉は力強い。一方で、彼らが自らの選択を引き受けた様を目の当たりにしたわたしたちは、もしかすると「オメラス」より更に切迫した問いとして、「これで良いのか」と問われます。

 終盤、冨美や須賀との対話は、エクスキューズと云うよりは問いかけの細部の詰めです。街が沈んだことによって故郷を失い避難を余儀なくされた冨美を登場させ、「元に戻っただけだ」と云わせる。本気でそう思っているのか、あるいは、そう思わなければ現状を受け容れられないのか、定かではありませんが、『君の名は。』で直接の言及がなされていなかった故郷喪失者の姿まで、ここには描かれています。沈んでゆく東京と対照的に会社を上昇させた須賀は、世界なんてもともと狂っているのだと云う。それはあの3年間で得られた彼の実感でもあり、帆高への慰めでもあるのでしょう。ただ、彼の娘は東京にいる限り、公園を走り回ることができません。雨の犠牲者はここにも存在しています。

 冨美の言葉。須賀の言葉。両方を受け取った末に否定してしまう帆高。

 わたしは未だに、彼へかけるべき自分の言葉を持ち合わせていません。ただ、彼らの選択と言葉ははあまりにも力強く、彼らの切実な思いをラストシーンで目にするたび、わたしはこれからも涙するでしょう。

 

(次回へ続きます。多分拳銃の話をします)

 

小説 天気の子 (角川文庫)

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風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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  「オメラスから歩み去る人々」収録。他にも傑作が揃っているので、是非。

 タイトルの元ネタである倉田タカシ「トーキョーを食べて育った」収録。こちらも傑作。いま何かと話題の伴名練も寄稿してます。