鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

『九尾の猫』読書会レジュメ

 一年前、所属しているサークルでエラリイ・クイーン『九尾の猫』の読書会をおこなった。我ながら気合いの入った文章だと思うし、それなりに褒めてもらえたので調子に乗ってここに公開する。久しぶりに読み返したら「けっこううまくやってんじゃん」と思ったと云うのもある。最近ブログが更新できていないからと云うのもある。『九尾の猫』論としてはすでに各所で論じられている話題の表面をなぞったに過ぎないけれど、サークルの読書会としては十分すぎるのではないだろうか。
 もちろんここで書かれている読解について様々に反論はあるだろうし、いまでは自分でも考えが変わっている箇所もある。しかし加筆はせず、修正はサークル内に向けた一部の記述に留めた。面倒臭いし、そもそも、議論はここから始まるのだ。実際の読書会でも、様々な反論や意見をいただいた。ありがたいことです。

 当然ながら、読了者を相手に想定しているので、ネタバラシをしています。ご注意ください。

エラリイ・クイーン『九尾の猫』読書会(2020/4/23)

犠牲者はその死を悼む人々を残していった。殺人者は数値を残した。死亡後、大きな数に加えられることは、匿名性という川に溶け入ることを意味する。死後、たがいに競い合う国家や民族の記憶に組み込まれ、自分がふくまれる数値の一部となることは、個性を犠牲にすることにほかならない。それは、ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるところからはじまる歴史に切り捨てられることだ。歴史は複雑きわまる。それはわれわれみんなが持っているものであり、みんなが共有できるものだ。正確な数値が得られたとしても、われわれは気をつけなければならない。正確な数値だけでは不十分なのだ。
――ティモシー・スナイダー『ブラッドランド:ヒトラースターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房

長期的に見ると、多くの人々は仕事や職場を変え、外面的な友人や関心を変化させたり拡大したりして、世帯の大きさも変え、所得も上がったり下がったりして、嗜好でさえかなり変わります。ひと言で言えば、人々は単に存在するのではなく、生きるのです。
――ジェイン・ジェイコブズアメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会

「伯母さんのところの雄猫は死んだのかね?」
「はい」
「九つの命が一度に消えたわけだ。人間には一つしかない」
――ドロシー・L・セイヤーズ『殺人は広告する』(東京創元社

この読書会について

 今回の読書会では、『九尾の猫』について、担当者がどう読んだのかを、幾つかトピックを取り上げつつ語ろうと思う。そうして語られてゆく道筋は、『九尾の猫』を「読む」ことから、大きく外れることはないだろう。「傑作」と云う評価や、ジャンル内での定位は、あくまで読んだ後の作業である。
 表記について以下の点に注意されたい。

  • 『九尾の猫』を『九尾』と表記する
  • 作家としてのエラリイ・クイーンは「クイーン」と表記する
  • 探偵役としてのエラリイ・クイーンは「エラリイ」と表記する
  • 引用はすべて『九尾の猫〔新訳版〕』(早川書房、越前敏弥訳)による。頁数の表記もこれに基づく
作者について

 作者の略歴と作品リストについてはN回生E氏が前年に作成したわかりやすいものがあるので、欲しい方は氏に訊いてみよう。『九尾の猫』の位置付けについても新訳版解説で説明されているので、詳しくは述べない。強いて述べたいことがあるとすれば以下の3点。

  • クイーンの作風は徐々に変化していくものであること
    • クイーンの作風の変化に注目すれば『九尾』はひとつのマイルストーンと云える。論理性からの逸脱、エラリイへの揺さぶり、小説としての踏み込みについてひとつの到達点を示した偉大な達成だろう。このあとは、本作でも見られるミステリとしての実験性や図式へのこだわりが前面へ出るようになっていく。
  • クイーンはひとりの人間の名前ではないこと
    • ダネイとリーだけでなく、エラリイ・クイーンの筆名は様々な作家にも名義貸しされている。複数の作家に共有され、小説やラジオ、映画と云った様々なメディアによってつくり出された一種の幻影としての〈エラリイ・クイーン〉は、メディアが作り上げた〈猫〉と対置することができるだろう。
  • ダネイとリーのルーツはユダヤ系であること
    • とくに『十日間の不思議』以降強く現れる宗教的な記述や、本作でも見られるホロコーストへの言及は、このことを踏まえれば無視できなくなるはずだ。

 しかし担当者はこの読書会で、クイーン論を語ろうとは思わない。そもそも、〈国名〉シリーズや〈悲劇〉四部作を読み通していない担当者はクイーンの良い読者ではない。〈後期クイーン的問題〉やら〈大量死理論〉やらもよく知らない。だから、もし以上の点を踏まえて作品を読むとしても、それは作品を読むにあたっての補助線に過ぎない。

プロットについて

 『九尾』のプロット、作品の構成について注目したい点があるとすれば、前作『十日間の不思議』との、前日譚/後日譚と云う関係にとどまらない対応である。

  • エラリイが一度失敗する
  • 犯人によるエラリイの操り
  • エラリイが祭り上げられる
  • 事件関係者の男女にエラリイが振り回される
  • ミッシングリンク(隠された規則性)がポイントになる
  • 宗教的なモチーフや言及

 以上をもって、『九尾』と『十日間』をセットにしなければならない、とする意見に与するつもりはない。しかし、ふたつをつい並べたくなるのは事実だろう。
 ミステリを読んでいると、並置したり、重ねてみたり、連結してみたりしたくなる作品の組み合わせと出会う。その関係は必ずしも、作家間の影響関係や、作品間の引用に限らない。複数の作品を並べ、星座のように結びつけることで、思いがけない構図が浮かび上がり、その構図がそれぞれの星――つまりそれぞれの作品に、新しい読みをもたらしていく。それもひとつの読み方ではあるだろう。
 複数の作品の間に何かしらの因果関係や規則性を見出していくこと、それ自体が、ミステリ的な営みでもある。

演劇性について

 クイーンの作品はしばしば演劇的である。少なくとも、『九尾』を読んだとき、担当者が抱いたイメージは、暗い舞台に積み重なる死体と、出入りする人間、その中心でもがくエラリイの姿だった。なぜそんなイメージを抱いたのか、理由は主に2つ挙げられる。

  • ダイアローグとモノローグ――つまり声が、小説を駆動すること
    • 描写そのものや、プロットの展開よりも、そこで描写される人間たちの声が、物語を牽引している。後半では、台詞以外の記述でもエラリイの心理、あるいは「ニューヨークの心理」とでも云うべきものをを反映した語りがより強く響いてゆく。
  • 概ね、閉じられた場所で物語が展開されること
    • エラリイは多くの場合、部屋で捜査し、推理する。ハードボイルドの探偵小説のように、脚を動かして、街の様々な場所をその目で見ながら捜査していくことはあまりない。あったとしても、ダイジェスト形式で流されてしまう。後半の捕物も、霧に包まれた都会の隅で、むしろ暗く狭く展開されている。

 もっとも、後者については終盤で破られることになる。それは、一箇所の舞台――どう書き込んでも書き割りに過ぎなかった舞台をエラリイが降りて、スポットライトからも離れて、ひとりの人間としてこのリアルで複雑な世界に立つことを意味する。

文体について

 先に述べた通り、『九尾』では様々な声が響いている。可能ならひとつひとつ具体的に取り上げたいが、ここでは序盤の印象的な二箇所を引いておこう。
まず冒頭、〈猫〉がもたらしたものを概説するシーン。

そして、哲学者たちは世界観を持ち出し、窓を開いて時勢の壮大なパノラマを示した。(…)理解すべきは、住民は大混乱に屈したのではなく、それを歓迎したということだ。足もとで字面が揺れて裂けるような惑星では、不安ゆえに正気を保つのはむずかしい。空想こそが避難場所であり、救いだった。
 だが最後に、ニューヨークに住む二十歳のふつうの法学生がおおかたの人々にもわかることばで述べた。「ちょうど前世紀の政治家ダニエル・ウェブスターの話を読んでいたんですよ」学生は言う。「ジョーゼフ・ホワイトという老人が殺害された事件の裁判で、ウェブスターはみごとなストライクを投げたんです。〝ひとつひとつの殺人が見逃されれば、ひとりひとりの命が安全とは言えなくなる〟って。いまのばかげた世の中を見たらなんと言うでしょうね。〈猫〉と呼ばれる化け物が右へ(ライト)左へ(レフト)とつぎつぎ人間を吹っ飛ばして、だれも一塁までたどり着けないんですから。〈猫〉がこの街の人たちをしっかり(ライト)絞め殺していくのはどんな間抜けが見てもわかります。しまいにはエベッツ・フィールドの左翼(レフト)席をいっぱいにするだけのお客すら残って(レフト)いなくなりますよ。こんな話、つまんないですか? それにしても、ドローチャー監督はどうしたんですかね」このジェラルド・エリス・コロドニーという法学生の意見は、ハースト系新聞の記者の街頭インタビューに答えたものだった。これは《ニューヨーカー》と《サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー》と《リーダーズ・ダイジェスト》に転載され、〈MGMニュース〉はコロドニー氏を招いてカメラの前でもう一度話をさせた。それを聞いたニューヨークっ子たちはうなずき、まさにそのとおりだと言った。
(11頁)

 様々な言説が冒頭から積み上げられ、果ては哲学者が壮大なパノラマまで展開しながら、着地するのはひとりの学生の素朴な声、不謹慎ながら洒落も散りばめられた率直な意見だ。それまでのしかつめらしい語りは、この洒落と、メディアによる拡散と、ニューヨークっ子たちのうなずきで相対化される。語られる内容より、この知的な笑いがいかにもクイーンらしい。
 続いて、モニカ・マッケルの死について警視が語るシーン。

「仲間はタクシーに乗りはじめたが、モニカがひとり息巻いて、アメリカ流がいいとほんとうに思うなら地下鉄で帰るべきだと言って譲らなかった。ほかの連中に向かって噛みついたのに、ハンガリー人の伯爵がかっとなって――しかもウォッカのコーラ割りをしこたま飲んだあとだったから――百姓どものにおいを嗅ぎたければ国にとどまっていたとか、地面の下へ行くのもどんな意味で下に行くのもまっぴらだとか、そんなことを言い放った。そんなに地下鉄に乗りたければ勝手に乗って帰ればいい、とな。だから、モニカはそうした。
 だから、そうしたんだ」そう言って、警視は唇を湿らせた。
(36、37頁)

 ただの説明なら「だから、モニカはそうした」だけで良い。しかしそこで段落を変えて――おそらくは息継ぎをしたのだろう――もう一度「だから、そうしたんだ」と云う。そうすることで、無機質な事件の無機質な説明は、事件の無機質さに打ちのめされ、もしも彼女がそうしなかったなら――とむなしく仮定を考えつつも、打ち消すようにして説明を続けるクイーン警視の生きた声となる。ついでに、ツイストを効かせつつ段取りよく言葉を連結させていく手際にも目を瞠る。
 『九尾の猫』では全篇で、以上挙げたような、ひねられた言葉、奥行きのある台詞、生きた声が響いている。それらが響き合うことで起ち上がるのは、大都会ニューヨークの相貌だ。

都市について

 探偵小説の祖「モルグ街の殺人」で特筆すべきは、(もちろん密室は重要だが)そこで提示されるのが、複数の外国語と云うすぐれて都市的な謎だったことだろう。
 都市とは複数の声が縦にも横にも並んで響く。だからそれぞれの声の響きがニューヨークを浮かび上がらせるのだし、ニューヨークと云う場所がそれぞれの声を力強く響かせるのだろう。
 しかし、無数の、数多の声が巨大なひとつの声になってしまったら。そこに現れるのは実体のない〈大衆〉の声だ。『九尾』は都市の多様性・複雑性を描くと同時に、それらがひとつの〈大衆〉へ呑み込まれてゆく恐ろしさを描いている。
 もちろん、無数のひとびとから起ち上がる〈大衆〉なるものは、ここで〈猫〉と対置される。

ミッシングリンクについて

 『九尾』がシリアルキラーもの、ミッシングリンクものとして独特なのは、そのルールの性質においてだ。
 たとえば、被害者の選定がランダムだったら。たとえば、木を隠すなら森のなかと云う風に、ひとりを殺すために複数人殺したなら。たとえば、目的を達成するためにやむを得ず複数人殺すことになったなら。『九尾』のルールが持つ異様さはなかっただろう。
 この異様さとは、ルールそのものが持つ理不尽――ルールが存在すると云うこと自体の理不尽である。多様で複雑な無数の人間たちを、彼らの持つそれぞれの人生や、かけがえのない存在、あるいはそれぞれの持つ無二の声を問わず、貫いてしまうルール。犠牲者選定の規則性が明かされたところで、彼らが殺されたことの理由になりはしない。
 序盤、エラリイは〈猫〉をこう評する。

「〈猫〉にとって大事なのは数量です。すべての人間を平等にするのは数ですからね。建国の父祖たちやエイブ・リンカーンもただの人間と変わらない。〈猫〉は人間性というものをあまねく平らにならす。」
(34頁)

 木を隠すなら森、と云う方式は、まだぎりぎり、ひとりの人間を特別視して殺そうと云う意志がある。快楽のための殺人だったなら、被害者に選ばれるのは一種の偶然としてすませることもできる。しかし、『九尾』では厳然としてルールが存在するからこそ、人間は平らにされ、数字にされてしまう。
 同じく序盤、クイーン警視のこの言葉は、図らずも〈猫〉の性質を云い当てている。

「エラリイ、このメリーゴーラウンドにはじめから乗っていた者として言わせてもらうが、この連続殺人ではナチスの遺体焼却場と同じ程度の道理しか通らないんだ」
(48頁)

 「ユダヤ人だから」と云う理由によって無数の命が「処理」されてしまった、その理不尽と同質の理不尽が〈猫〉にはある。出生についての、自分ではどうしようもない性質をルールとして、被害者は殺されたのだから。

エラリイについて

 〈猫〉が人間を平らにしていると評する一方で、エラリイはこうも口にする。

「共通の分母を探してるんです。被害者は種々雑多な人間の集まりだ。でも、そこにはきっと共通した特性、経験、役目が……」
(48頁)

 エラリイもまた、人間を数字にしているのだ。
 実際に殺人を犯すわけではないけれど、ここでの彼の眼差しは、意図せずして〈猫〉と一致してしまう。それぞれが違った人生を生きる人間を人間として見つめず、数字として、図式のなかで捉えてしまうその眼差しは、たやすくカザリスによって操られるうえに、カザリス「夫人」と云う図式に収まった彼女の存在を見落としてしまう。何よりエラリイは、図式に囚われるあまり、アリバイと云う「事実」に気付くことができない。
 これは決して、ただ単にエラリイがすぐれていない、と云うことではない。
 複雑で多様なこの世界にルールを見出し、わかった気になってしまう――これは、チェスタトンならば「狂人」と評する存在だろう。それは神様気取りの眼差しであり、そこには理性=数字しかない。人間はいない。
 終盤、エラリイはこう語る。

「その単純さこそが事実を見えづらくしていたと思います。単純であること、殺害件数が多く、事件が長期に及んだという事態のせいです。そのうえ、殺人が度重なるにつれ、被害者の特徴はしだいにぼやけて混じり合い、ついには、振り返れば均一の死体の山、処理場送りの九頭の牛に見える、そんな事件でした。ベルゼン、ブーヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、マイダネクで撮られた強制収容所の死体の公式写真を見るときと、人は同じ反応を示しました。だれがだれだか見分けがつかない。死があるだけです」
(455頁)

 虐殺は人間を数字にするし、死体の山を見る眼差しも、人間を数字として捉えかねない。
 さらにこの場面はこう続く。『九尾』でもっとも重要なくだりと云って良い。

「だが、問題は事実だよ、クイーンくん」かすかな苛立ちとほかの何かが入り混じった声だ。ベーラ・セリグマンのひとり娘がポーランドユダヤ人の医師と結婚し、トレブリンカの収容所で死去したことをエラリイは急に思い出した。それぞれの死を特別なものにするのは愛だ、とエラリイは思った。愛だけかもしれない。
(456頁)

 ここでの「愛」は、広い意味で使われている。人間を尊ぶ心、とでも云おうか。
 人間を数字と見做し、複雑で多様な世界を貫く図式を見出そうとするエラリイの眼差しは、確かに殺人者のそれへと漸近するけれど、そうすることによってようやく掬い上げられるものがあることも事実だろう。重要なのは、そこに「愛」があるのか、だ。
 幕切れ近く、カザリス夫妻の自殺を耳にして壊れかけるエラリイに対して、セリグマンはエラリイの仕事を「昇華」と表現し、この仕事を続けるよう励ましてみせる。「昇華」とは何か? 担当者は、複雑として多様で――混沌とした世界から人間を掬い上げる営み、と読んだ。人間を数字にする眼差しを通して、数字を人間に戻すこと。これは極めて危うく、至難だ。だからこそ可能な人間は限られる。それがエラリイだ。
 しかしエラリイも人間である以上、この眼差しの完璧な運用はできない。完璧を目指せば壊れるだろう。あるいは自らを神だと思い込んでしまうかも知れない。そうならないよう、セリグマンはエラリイに教訓を授けるのだ――「神は唯一にして、ほかに神なし」。
 『九尾の猫』と云う物語のここが到達点である。忘れ難い幕切れだ。
 ここから「名探偵」論を一席ぶつのも面白いが、『九尾』を読むから離れる必要がある以上、いったんおいておこう。

 

名前について

 人間を数字にすると同時に、数字を人間に戻す。この営みは、『九尾の猫』と云う小説そのものの営みでもある。本作では、響き合う複数の声と、「大衆」の暴走ないしそれがもたらす数字とが対置されている。
 また、エピローグの代わりをなすようにして最後に置かれた名前の一覧は、人間が数字にされ、数字が人間に戻される、その交叉点であると言える。並列された名前は、無数の声や無数の人間、無数の人生を平板なリストへ貶めてしまうものであると同時に、数字にされてしまった人間たちについて、彼らが確かに生きていたことを示す最後の砦でもある。
 ひとを名前を呼ぶことは、個人を個人として見做す、もっとも端的な行為であるはずだ。

小説の役割のひとつが人生を鏡に映すことだとすると、登場人物も場所も、実生活と同様に明確なものでなくてはならない――となると、名前が必要になる。
(487頁)

 

落ち穂拾い

 以下、読書会中に触れるつもりはないが、分量の都合で切り捨てたり、自分のなかでまとめきれなかったトピックを幾つか書き残しておく。

a.    パニクる都市

 得体の知れない死の恐怖に怯え、パニックを引き起こし、かと思えば何も解決していないのに沈静化し、けれどそこには相変わらず死の恐怖が根を張って、ひとびとを逃避させる。――9.11を経て、COVID-19のパンデミックが進行中のこんにち、『九尾』における都市像は、まだまだ新しい読みがなされていくだろう。

b.    卓越した筆力

 クイーンはもともと文章の巧い作家だが、『九尾』ではその文体が完成に至っていると思う。声の力強い響きは前述した通り。決して短くない物語を一気呵成に読ませるだけの構成力もあり、たとえば後半の逆転していく攻勢やそこにミスディレクションを仕込む手捌きには目を瞠る。とくに中盤、捜査が暗礁に乗り上げてから、猫暴動が起こり、大波が去ったニューヨークでプロメテウスから神託じみた声が響き、8人目の被害者が現れるまでの一連の流れには惚れ惚れする。

c.    「オッターモール氏の手」

 トマス・バークによる短篇小説。邦訳は『世界推理短編傑作集〈4〉』で読める。夜の都会で起こる連続絞殺事件の話で、クイーンが主催したアンケート企画では短篇ミステリのオールタイムベスト1位に輝いたらしい。クリスティーABC殺人事件』とあわせて『九尾』の元ネタになっていると思われる。

d.    天城一

 探偵小説が人間を数字にしてしまいかねないと云う危うさに、自覚的だったかはわからないが、敏感だった作家。彼は『Yの悲劇』を傑作だと認めたうえで、あの結末を肯定することはナチズムの肯定に繋がるとして、作品を退けている。また、「クィーンのテンペスト」と云う『九尾』論も書いた。『天城一傑作集〈4〉風の時/狼の時』所収。

e.    「大量死と密室」

 法月綸太郎による評論。笠井潔作品とクイーン作品を並置し、相互に参照させながら、両者の小説を読み解いていく。笠井潔ハイデガー柄谷行人もろくに知らないので触れなかった、もとい、触れられなかった。『法月綸太郎ミステリー塾〔日本編〕名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』で読める。

f.    『殺人は広告する』

 冒頭でも引用した、セイヤーズによる長篇小説。引用した部分に深い意味はなく、ただ最近読んでいたら出くわしたこのシーンに面白みを感じたに過ぎないが、メディアの生み出した怪物と云うテーマで両作品を結びつけることもできるだろう。『九尾』で〈猫〉の恐怖が新聞やラジオで煽られる一方、『殺人は広告する』ではばらまかれたナンセンスな言葉が大衆を扇動し、商品が流通していく。また、イギリスの探偵小説でもっともエラリイ・クイーンに近い存在が『殺人は広告する』でも探偵役を務めるピーター・ウィムジイ卿ではないか、と担当者は睨んでいる。エラリイもピーターも都市の階級から遊離した、「探偵役」としか云いようのない存在だ。しかしピーターは貴族階級と云う後ろ盾がある。エラリイには、と云うかアメリカにはそんな階級がない。似て非なる両者を較べることもまた面白いだろう。

g.    メディア

 オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』騒動が言及されていることも見落としたくはない。また、ラジオドラマのヒーローとしても人気だったエラリイ・クイーンのシリーズには、戦時中プロパガンダに加担した作品もあるし、後期の長篇『第八の日』ではプロパガンダ用の脚本を書きすぎたエラリイが病んでしまうところから物語がはじまる。『殺人は広告する』同様、ここにはメディアとミステリの微妙な関係性が見て取れるだろう。また、〈猫〉を生み出し、ひとりひとりの死者を猫の尻尾にくくりつけて「n番目の被害者」としてしまったマスコミも、図式化に嵌まっている、と云うか、誰より率先して図式化を推し進めている存在であることは注意したい。

h.    エラリイが書こうとした小説

 終盤でエラリイが書こうとしていた小説の題材は「群集恐怖症と暗所恐怖症と失敗恐怖症の深い関係性」だったと云う。なぜそれを題材にしようと思ったのか、と云うことからエラリイは自分のミスに気付いていくわけだが、ところでこの小説はどんな小説なのだろう。群れたもの。暗いところ。失敗すること。それらへの恐怖の関係性。――あるいはこの小説とは、『九尾の猫』そのものではないだろうか。

i.    リフレインされる言葉、失敗、死

 『九尾の猫』では、様々な場面でリフレインが使われる。同じ言葉を繰り返し、強調し、微妙にそのニュアンスを変えて響かせるこの技法は、文章レベル以外でも用いられていないだろうか。『十日間の不思議』とあわせれば、エラリイは同じ過ちを繰り返しているが、これは普通に考えて奇妙だ。前作で失敗したエラリイを成功体験によって立ち直らせるのではなく、同じ失敗をさせていっそう追い詰めるとは。しかし、『十日間』では引っかかっていたかも知れない地図の星座や殺人間隔などの図式をエラリイは拒絶しながら、最終的にはふたたび図式に囚われる――この繰り返しを踏むことで、主題のより深い追及を可能にしていると云えるだろう。また、本作では死が何度も繰り返される。ここで、それぞれが異なる「死」であることに注意しなければならない。ところで、カザリス夫妻の子供は、二回死産している。

j.    図式化された読み

 「図式」と云う言葉で『九尾の猫』を読もうとする、この読み方もまた図式化されている。数字には、図式には、抗いがたい引力がある。このレジュメについて、各表題が「~について」で統一されていることに気付いただろうか。これもまた、図式の誘惑だ。結局、人間は何かしらの図式に則ることでしかものを考えられないのかも知れない。しかしそこでひとつの硬直した図式に陥ることは、退屈であるどころか危険であろう。絶えず自分の物差しを作り直さなければならない。……もちろん、われわれは人間なので、無理のない限りでほどほどに。

k.    「名探偵」対「犯人」と云う図式

 名探偵と犯人の図式に基づいてミステリを捉えること。この図式を複雑化したり投げ出したり引きのばしたりするのではなく、この図式そのものを解体しようとする試みとしても、『九尾の猫』は読めるだろう。〈後期クイーン的問題〉や〈操り〉テーマなどを追い切れていない担当者にとって、これは今後の宿題である。

l.    抽象と具体

 最後の方で述べた、数字にすることと数字から戻すことの同居した眼差しを、抽象化と具体化のせめぎ合いと云い換えてみよう。エラリイ・クイーンの小説は――と云うか、すなわちミステリと云うものは――大なり小なり、このせめぎ合いの場と見做すことができる。たとえば、初期の『オランダ靴の謎』は、一見すると『九尾』のような問題意識とは無縁だが、換えのきかない具体的な手掛かりから推理を引き出してゆくことで《ひとりの犯人を指摘する》と云う、パズル的で抽象的な運動が浮かび上がってくる。逆に、後期の問題作『盤面の敵』や『第八の日』では、最終的に物語が描き出したい図式を導くためなら何でも良いかのように手掛かりや推理の具体性が欠けてしまっている(もちろん、このスタンスにこそ作品が放つ強烈な迫力があるのだが)。そもそも推理によって物語を《真相》と云う名の図式へと回収することは、クイーンに限らないミステリ本来の営みであるはずだ。この営みの場であるせめぎ合いにこそミステリの面白さがあり、危うさがあるのではないか。これを踏まえると、『九尾の猫』は、そのせめぎ合いに身をさらし、解決不可能な困難とぶつかりながらも最後にはその失敗をも受け容れてみせると云う点で、クイーンの、ひいてはミステリの、ひとつの到達点と云えるだろう。
 ここで止まっていれば、と思う。ここで引き返していれば、と思う。たらればを考えて、書かれたかも知れない作品を想像することもある。しかし、『九尾の猫』を書いてしまった以上、クイーンは後期の方向へ進まざるを得なかったのかも知れない。――もちろん、以上の想像は、クイーンと云う存在しない作家・ダネイやリーら、クイーンを作り上げた人物に対しての過剰な言及と云うべきだし、恥知らずなふるまいである。
 『九尾の猫』を書いた作家に、何を云うべきか、ぼくはいまだに答えを持っていない。

創作「面接」

あなたの名前を教えてください。

 文子。文子と書いて、あやこ。戸籍はそう登録されているはずだけれど、母はわたしをふみと呼び続けた。父に名前を呼ばれたことは一度もない。わたしをあやこと呼ぶのは中学と高校の同級生、そのうちの片手で数えるほどに限られる。近しい友人はわたしをぶんちゃんとかあやとか名付けた。大学では烏丸と呼ばれることがほとんどだ。あやこと呼ばれたのはたった一回。彼にだけだった。一度だけ。彼だけに。唇を震わせながら短く、あやこ、と。

大学では何を専攻しましたか?

 家のリビングの壁の棚には文学全集が収められていた。記憶の限り、母も父もそれを読んだことはなく、作家の名前を口にしたこともない。一種の見栄、嵩張るインテリアとして置かれたそれを読むことができると理解したのは小学校三年生のとき。憶えている。夏の日の午後、母も父も不在の、だからおそらくは平日。わたしは最下段に並んだ文字を文字として読むことができ、読むことができると云うことに驚いた。一冊、取り出し、箱から抜いてページをめくった。読むことができたとはとても云えない。けれどもわたしは、そこに本と云うものがあると知った。そんな原体験とも呼べる記憶に反して、中学でも、高校でも、熱心な読書家だったことはない。本を読むことは習慣になっていたし、同級生に較べればよく読む方で、国語の成績はいつも良かった。それでも、息をするように本を読むようなクラスメートに話を合わせることはできず、国語の教師が朗々と語る読書の悦びもいままで共感できずにいる。その大学のその学部を選んだのも、成績と周囲の推薦に諾々と従ったから。ただ、願書に鉛筆で希望を書きこむとき、あの夏の日のがらんどうの家で読んだ、もう名前も思い出せない作家の文字列を、ほんの一瞬でも思い出さなかったとは云えない。結局わたしは大学で文学を学び、アメリカの小説を論じた。大学を卒業する間際、母はわたしの進路をはじめて褒めた。小説への素朴な憧れを、自分にはそれが読めないのだと云う諦めを、母はわたしに語った。ふみ。母はわたしをそう呼び続けた。ふみ。ねえ、ふみ。あなたはわたしの自慢の娘。ふみ。母はわたしをあやこと呼ばなかった。

学生時代、打ち込んだものはありますか?

 小説を書いたことがある。大学二年生の夏休み、自分はいまありあまる時間を抱えていると思って、しかしどう使えば良いのかわからずに、文学徒だからと云う理由だけでわたしはペンを執った。死んだ父親の書斎を掃除するうちに出生の秘密を知る。確かそんな筋立てだった。落ち着きのない語りと具体性に乏しい描写、私小説もどきの退屈な構成。わたしはその小説を彼にだけ読ませた。面白いねと彼は云った。書店のバックヤードで、わたしたちはふたりきりだった。彼の指が原稿用紙をなめらかにめくる。HBの鉛筆が綴る文字列は作品に不足した自信を喩えるかのように薄い。文字数にして5000字弱。それでもわたしにとっては途方もなく長い旅路だった。面白いねと彼はまた云う。小説が? それとも、この状況が? 給湯室で薬罐が沸騰し、笛の音が聞こえる。わたしは最後の原稿用紙を奪い取る。どうして、と彼は云う。やっぱり、とわたしは云う。恥ずかしいから。彼の手は残された紙束を握る。文字列に皺が寄る。彼は顔を上げる。わたしを見る。薬罐が沸騰している。

学生時代、バイトをしていましたか?

 暮らしていたアパートから交叉点を対角に渡ると大きな書店があり、雑誌や文庫なら生協よりもそこで買っていた。雑誌の棚の隣の柱にバイトを求める張り紙があって、ただし募られていたのは高校への教科書の搬入だったはず。春のはじめ。ちょうどスーパーのレジ係を辞めたばかりだったわたしはこんなに近くでバイト先があったことにようやく気が付き、その場で彼に声を掛ける。わたしは右手に買うつもりの文芸誌を抱えている。小説が好きなんですか、と彼は問う。好きでなければ務まりませんか、と不安を述べる。まさか。彼は笑う。本との付き合い方はいろいろありますからね。簡単な面接がすでにはじまっている。

あなたの名前を教えてください。

 エプロンに付いた名札から、わたしは彼の名前を知る。

あなたを成長させた経験について、具体的に述べてください。

 大学を卒業しても、わたしは就職が決まらなかった。面接を受けるたびにわたしは自分が読書家だったと主張した。小説が大好きだったので文学部に進んだと述べた。本を愛していたので書店でバイトしていたと語った。はい。家の本棚には文学全集がありました。はい。両親も熱心な読書家でした。わたしは御社で刊行されている小説に導かれるようにして育ちました。はい。あやこと名付けたのは母です。嘘をつくことに躊躇いはなかった。それが嘘であることもわたしはよくわからなくなっていた。書店のバイトをしながら、わたしは出版社や印刷業者に断られ続けた。本を読まなくなった。修士論文にかかりきりになった彼は書店に顔を出さなくなった。

あなたの好きなものについて語ってください。

 実家のリビングは庭に面していた。午前中は陽の光が窓に切り取られて綺麗な菱形をカーペットに投げかける。そのカーペットの温かな感触。柔らかな毛先。その先端ひとつひとつがきらめくようだ。最下段に引っかかった光が文学全集の背表紙を照らす。わたしは寝転がって、そのタイトルを、作家の名前を、逆さまに読み上げる。本を手に取るたびにタイトルと作家名を口にする癖を彼に指摘されて、わたしは初めて、目の前の物体を本だと理解したあの夏の日を鮮明に、ひと続きの記憶として思い出す。本好きな家庭だったんだね、と彼は云う。わたしは頷くことができない。わたしの手に持っている本の背表紙を彼はなぞる。タイトルと作家の名を呼ぶ。帰りのバスは空いている。彼はわたしに僅かに近寄る。彼がわたしの手に触れる。わたしの名前が呼ばれる。

質問は以上です。ありがとうございました。お帰りはあちらから。

書きやすい文体で書くとなると

 こうなる。パワーズの出来損ないみたいだ。
 きのうきょうと書き進めていたが、お話の方がどうにも掴めない。


 その報せを、わたしは早朝の東京駅で受け取る。父の死。音にしてたった四文字。ひと影の疎らなプラットホームで、すべてが静止したかのように灰色がかった薄明のなか、わたしはそれだけの情報に耳を澄ませる。ひと晩もたへんかった。兄は云う。声が震えている。その揺らぎ、抑えられた息づかい、舌と唇の発する湿った破裂音までもデバイスは捕捉してゆく。ほんま、いきなりやった……。携帯を耳に押しつけながらながらわたしは、兄が電話をしたと云う事実について考える。いつもメールを、それも事務的な文面でしか運用しない兄が夜明け、まだ相手が眠っているかも知れない時刻に電話を掛けた。その選択の方が父の死と云う文字列よりもずっと雄弁に、決定的に、父が死んだことを語っている。
 日付は五月一日、メーデー。なんの意味もない偶然だ。四月三十日でもいい、五月二日でもいい。しかしほかのどれでもあり得るにもかかわらず選ばれてしまった一日に、父の生涯は途切れて終わった。
 この一ヶ月はずっと安定してた。それが突然……
 墜落したの?
 え?
 エンジンが止まった飛行機みたいに?
 理解が追いつくまでの短い間。
 そう。
 携帯を持ち帰る音。
 落ちてゆくみたいに、すうっと。
 苦しんだかな。
 この一年に較べれば――。唾を呑みこみ、――ずっと安らかやったと思う。
 わたしは吐息ともつかない相槌を打つ。
 飛行機の喩えを最初に持ち出したのは兄だった。一年前と二ヶ月前、父が最初に倒れたとき。病院の喫茶室で、医者から渡された説明資料から紙飛行機を折りながら、父さんをこの飛行機やとしよう、と。はるか上空、その飛行機は制御系がすっかり壊れている。墜落はほとんど決定づけられ、エンジンの燃料は残り少ない。力業の修理は失敗に終わった。これから父が目指すのは、どこかにあるかも知れない着地点をさがすこと、たとえ不時着に終わるとしても、いつか訪れる燃料切れに向けてなるべく静かに滑空することだ。
 再浮上する可能性は?
 ある。
 でも、と兄は首を振る。父さん自身がそれを望んでない。
 兄は紙飛行機を投げる。ずっと昔に父から褒められたその技量は衰えていない。ジェット機のような十字のフォルムがわたしの頭上を越え、喫茶室の端まで届き、入院着の子供が歓声を上げ、壁にぶつかっていきなり落ちる。ああならないようにしようってこと。兄は肩を竦める。
 それからいままで、父は死に続ける。断続的に、ゆっくりと。
 一年以上もったのだ、とわたしなら思うだろう。けれども兄は、ひと晩もたなかったと嘆いた。
 最後に――結果的には、最後に――父が倒れたと告げる昨晩のメールは、いつものように素っ気なく、いつも以上に形式的だった。帰ってきても良いし、帰ってこなくても良い。夜を徹して駆けつける必要はない。お前は自分の都合に合わせてくれ。以前には語られていた、これが最後になるかも知れないと云う不安と警告は一切確認できなかった。フォーマットをコピー&ペーストしたような文面に、わたしはかえって深刻な病状を察した。文字列よりもずっと雄弁な、言葉以外の言葉。わたしはだから帰郷を決めた。もとより都合なんてものはなかった。
 携帯が鳴ったのは、始発の新幹線を待っていた矢先だ。
 通話の終わりに兄は謝罪を口にした。ごめんな。
 何が?
 間に合わせてあげられへんかった。
 兄さんに何ができたの?
 お前を無理やり呼びつけることもできた
 わたしがそれを悲しんでいると? わたしがそれで兄さんに怒っていると?
 自分の口調の厳しさに、自分でも驚いていた。このまま喋り続ければ、きっとわたしは泣いていただろう。言葉と、言葉にならない全てが鬩ぎ合い、前者が負けようとしていた。
 わたしは撤退する。つまり、形式的なやり取りの後方へ。
 ごめんなさい。
 いや……、すまん。
 ありがとう。
 何が。
 答えは不定だ。そこには形式しかないのかも知れない。
 白鳥のような車輌が目の前に滑りこむ。じゃあ、と携帯を下ろす。兄の声が遠ざかる。席に座ったときにはもう、通信は途切れている。
 駅舎を抜け出して加速してゆく車窓を、わたしは見るともなしに眺める。三時間も眠っていないのに頭は冴えていた。加速に合わせるように白々と明るくなる空を、電線から飛び立つ鳩が横切る。やがて電線は電線であることをやめる。うねりはじめた線は合流と別離を繰り返しながら、どんな鳥よりも早く滑空し、わたしの視覚さえも追い越して走る。そうして走り、走り続け、どこまでも伸びるかと思われた一瞬、ふつり、途切れて一切は影に呑まれてしまう。トンネルのなかに反響する車輪の音。切断される電波。握りしめた携帯電話の表示は、圏外。
 救難信号はもう届かない。


 書きたいテーマらしいものは見えてきたので、まあ、良しとする。

文体の舵を取れ:練習問題⑩むごい仕打ちでもやらねばならぬ

 ここまでの練習問題に対する自分の答案のなかから、長めの語り(八〇〇字以上のもの)をひとつ選び、切り詰めて半分にしよう。
 合うものが答案に見当たらない場合は、これまでに自分が書いた語りの文章で八〇〇〜二〇〇〇文字のものを見つくろい、このむごい仕打ちを加えよう。
 あちこちをちょっとずつ切り刻むとか、ある箇所だけを切り残すとかごっそり切り取るとか、そういうことではない(確かに部分的には残るけれども)。字数を数えてその半分にまとめた上で、具体的な描写を概略に置き換えたりせず、〈とにかく〉なんて語も使わずに、語りを明快なまま、印象的なところもあざやかなままに保て、ということだ。
 作品内にセリフがあるなら、長い発言や長い会話は同様に容赦無く半分に切りつめよう。


 感動の最終回。
 原文には練習問題④の問二を使用した。

washibane.hatenablog.com

 

原文

 お兄さんが帰ってくるまで、きみは自分に兄がいることを知らない。よく晴れた春の午後、上がり框に腰掛けている薄汚れた服の男のことを、だからきみは怖いと思う。たまにお母さんが駅の方まで連れて行ってくれるとき、駅舎の柱にもたれかかったり風呂敷を広げたりしている男たちと同じ服だ。同じ服の同じ男たちが、きみは以前から怖くてたまらない。そう云うひとを前にするときと同じように、だからきみはお母さんの躰の陰に身を隠す。二本の脚の間から様子をうかがう。薄汚れた服の男はきみに笑いかける。お母さんは彼を拒絶することなく、それどころかきみを引き摺って前に出そうとする。きみは叫ぶ。お母さんがどなる。お兄ちゃんやよときみのつむじを小突く。
 そんなん嘘やときみは云う。
 嘘云いな!
 男が声を上げて笑う。四月馬鹿やな。そんなん嘘やな。そう、嘘でもええ。
 照れくさいだけや。
 知らんもんは知らんもん。誰やの。
 きのうも云うたやない。お兄ちゃん帰ってくるよって。
 無理ないわ。おれが出てったとき、こおんなちいちゃかったもんな。男は右手のひとさし指と親指を近づけて輪っかをつくる。そんなん嘘やときみは云う。四月馬鹿やなとまた男は笑う。きみはその言葉を知らない。
 早よ帰って来たんやねえ。
 神戸で車持っとる友達と会うてな。無理云って乗せてもろうた。外に駐まってるやろう。
 車? きみは頭を出す。
 お? なんや、車、好きか?
 反射的に、きみは頷く。
 フォードやで、フォード。誇らしげに兄が云う。この辺やと珍しいやろう。
 この子はいつも外の車ばっかり見とるんよとお母さんが云う。排気もあんまり躰に良くないんやけどねと溜息をつく、きみの頭を撫でる。それこそがきみが頷く理由だ。もし頷かなければ、窓さえ閉められるときみは知っている。
 だからきみは、車が好きなふりをする。
 外国の車だ。シートは革が張られて高級に見える。お兄さんの友だちは外で煙草を吸っている。お母さんが眉を顰める。お兄さんはきみを運転席に乗せる。腕をいっぱいに伸ばしても、きみにはハンドルに手が届かない。それぞれの計器がそれぞれの数字を示している。お兄さんはお母さんと喋っている。お兄さんの友だちも混じって、三人は玄関で話し込む。きみがミラーを覗き込んだとき、お母さんたちが家に入るところだ。待ってときみは声を上げる。ドアに身を乗り出す。硬いものが足に当たって落ちる。潜り込むと、シートの下からきみは本を取り上げる。
 日本語で書かれた本だ。厚くて硬い板が切れるように鋭い紙を挟んでいる。芥子色に塗られた表紙には車がたくさん描かれてある。
 車、好きか?
 そんなん嘘やと君はつぶやく。シートに凭れると服がこすれて小気味良い音をたてる。本を腿の上に載せ、きみは最初から読まないで、好きなところのページを開く。

提出作品

 お兄ちゃんやよ。お母さんがきみのつむじを撫でる。
 嘘や。
 この子は!
 男が笑う。四月馬鹿やな。そう、嘘でもええ。
 云うたやない。お兄ちゃん帰ってくるよって。
 おれが出てったとき、こんなちいちゃかったもんな。男は右手の指で輪っかをつくる。嘘や、ときみは云う。四月馬鹿やなと男は笑う。きみはそんな言葉を知らない。
 早やかったね。
 神戸で友達と会うてな。車に乗せてもろうた。
 車? きみはお母さんの陰から顔を出す。
 なんや、車、好きか?
 きみは頷く。
 肺に良くないんやけどねとお母さんは云う。この子いつも外の車ばっかり見とるんよ。それこそきみが頷く理由だ。頷かなければ窓さえ閉められる。
 玄関先に外国の車が駐まっている。艶々したボンネットにお兄さんの友だちが腰掛けて煙草を吸っている。お母さんが眉を顰める。彼はきみを運転席に座らせてくれる。きみが腕をいっぱいに伸ばしても、ハンドルに手が届かない。計器がたくさんの数字を示す。フロントガラス越しにお兄さんたちが見える。三人は家に入ってゆく。待ってよ。ドアに身を乗り出す。硬いものが腰に当たって落ちる。本だ。足許から取り上げる。芥子色に塗られた表紙に車がたくさん描かれてある。
 車、好きか?
 嘘や、ときみはつぶやく。シートに凭れると服がこすれて小気味良い音をたてる。通りには誰もいない。本を腿に載せ、きみは物語を途中から読みはじめる。

コメント
  • 図らずも時期にあう内容になった。
  • みんな練習問題④の問2を使用していたのが面白い。長いので削りやすいし(実際はそんな目算は当てにならなかったのだけれど……)、ほかの回では文体の制限が厳しすぎて削るどころか手を加えることさえ難しいからだろう。
  • ル゠グウィンはチェーホフを引いているけれど、短篇を推敲するならまず書き出しを削れ、と云う教えをぼくはテリー・ビッスンから聞いた。導入をすっぱり削って読み手を小説にほうりこむ手法として、広く共有されているのだろう。
  • ぼくはその教えを無批判に受け容れ、今回は冒頭を削ることからはじめた。合評会での反応を聞く限り、おおむね圧縮には成功したかと思う。
  • とは云え削ればなんでも良いわけではないようで、原文の細部が失われたせいで時代背景が一切伝わらない、空白に突然少年と車が出現するような作品になってしまった。会話もどこか説明的だ。
  • とは云え、書いた文章を全面的に見直す訓練にはなると思う。
  • ぼくはこう云う断片を書くことがけっこう得意らしいと最近わかってきたのだけれど、その「語り」を「物語」にする方法がわからない。アンソニー・ドーアとか断片を積み上げる作家だと思うのだけれど、どうすればああ云うふうに書けるのだろう。
  • そこから先はぼくらへの宿題か。

 進捗がない。


「開けなさい」
 ノックと云うにはあまりに激しい、こぶしが扉を撲る音。窓の鎧戸が下ろされ明かりも落とした部屋、立方体にぴたりと詰まった暗闇のなかで、少年は布団を頭から被る。両手で耳を塞ぎ、ベッドの上に壁を向いて蹲る。瞼を閉じる。歯を食いしばる。それでも喉の奥から震えが這い上がってくる。
「開けなさい!」
 扉越しの声は収まらず、扉はいっそう強く撲られる。振動が部屋全体を揺らしているような気がする。膝のあいだに頭を埋め、少年は涙をこらえる。
「お前は何をしたのかわかっているのか!」
 眦が濡れるのを抑えられない。嗚咽するのを我慢できない。弱虫、弱虫……、少年は自分で自分を罵りながら、世界の終わりを祈っている。


 明かりの落とされた講義室は暗幕も閉めきられ、中央の映写機から放たれる光だけが登壇者の顔を照らす。彼女は椅子に浅く腰掛けながら、スクリーンに映された写真が自身の語りにしたがって切り替わるのを見つめている。


 男が女を呼び止める。自販機が並ぶだけの休憩室は、静寂が求められる図書館で唯一声を出せる場所として学生たちが集っている。
「やっぱり、駄目ですか」
 男の声には、哀願が滲む。女はただかぶりを振って、駄目じゃない、と云う。光差す彼の顔は、しかし続く、でもね、と云う逆接を聴いて翳る。
「でもね、わたしは、乞われたくないんだ」
 ふたりの会話は低く抑えられたものだ。まるでそこでは何も起こらなかったかのように、彼女は部屋をあとにする。残された男が入り口を塞いでいると、三人組の男女が文句を云う。けれど男は、
「違う、違う、違う……」
 そう繰り返すばかりだ。


 波戸岡キヨが倒れたのは夕食を終えてすぐだった。いつもはひと品につきひと口ずつしか食べないのに、その日は主菜を残さず平らげている。最後の晩餐と云う言葉を連想しないはずはなかったが、食事を見届けた介護士は、身体が栄養を求めたんですよとしか述べなかった。わきまえたひとだと成瀬は思ったと云う。ベッドに行き着くまでの数メートルを歩ききることのできなかったキヨを見て、彼は落ち着いて対応した。呼吸と意識の確認、その場でできる最低限の介抱と、速やかな通報。救急車は十分もかけずに到着した。午後八時には、波戸岡家と成瀬家の親族がキヨの病室に集まっていた。今夜が山です、と医者は告げた。一同は慌てなかった。キヨが病院に運ばれるのはこの半年間で三度目だ。夫の銃吾を亡くしてから、彼女は見るからに弱り、やつれ、急速に病で冒されていた。


 以上の文章は、進捗とはとくに関係がない。

文体の舵を取れ:練習問題⑨方向性や癖をつけて語る 問三

問三:ほのめかし
この問題のどちらも、描写文が四百~千二百字が必要である。双方とも、声は潜入型作者か遠隔型作者のいずれかを用いること。視点人物はなし。

①直接触れずに人物描写――ある人物の描写を、その人物が住んだりよく訪れたりしている場所の描写を用いて行うこと。部屋、家、庭、畑、職場、アトリエ、ベッド、何でもいい。(その登場人物はそのとき不在であること)

②語らずに出来事描写――何かの出来事・行為の雰囲気と性質のほのめかしを、それが起こった(またはこれから起こる)場所の描写を用いて行うこと。部屋、屋上、道ばた、公園、風景、何でもいい。(その出来事・行為は作品内では起こらないこと)

前回の続き。

washibane.hatenablog.com

提出作品:問三①直接触れずに人物描写

 窓の錠はねじが抜けて格子枠のガラス戸が開き、春の風を室内に吹き込んでは、ぎい、ぎい、と軋んで揺れる。中庭の噴水に集う学生たちの声が言葉を言葉として分節できないほどの音となって風に搬ばれてくるけれど、灯りの落とされた室内には窓から外を見下ろす者も、耳を澄ませる者さえいない。空っぽの、肘木の曲線が優美なアームチェア。空っぽの、広々と奥行きのあるデスク。空っぽの、象牙色の壁に囲まれた小さな部屋。和毛のカーペットが隅に除けられ、恰度その矩形と同じかたちに部屋の住人がかつてやって来たときのままの色を残す桜材の床は、大小様々な段ボール箱が山と積まれている。空っぽの本棚。空っぽのキャビネット。空っぽの抽斗。中身は全て山のなかだ。箱の側面にはマジックペンの几帳面な字で「学生レポート」「紀要・論文集」「書類(処分)」「学会資料」「手紙」「書籍(研究)」「書籍(趣味)」「書籍(贈りもの)」――要するに全て紙だった。差し込む午後の陽が紙の山を照らし、影に幾何学模様のパターンを作る。箱にしまわれないまま残された一冊、山のてっぺんに投げ出された大判のアルバムは臙脂色をした厚手の扉が開きっぱなしで、ぴら、ぴら、と風が一枚ずつ記録を捲り、記憶を巡る。アカデミックガウンに身を包んだ学生の姿がある。講堂で発表に臨む学生の姿がある。宴会で酒と議論を交わす学生の姿がある。そこに撮影者の姿はなく、部屋のあるじは顔を見せない。風が吹く。ページが終わる。背表紙に挟まれていた真新しいポラロイド写真が吹き上がる。裏に走り書き。「あなたから学んだことを忘れない」。

提出作品:問三②語らずに出来事描写

 埃っぽいと少年は感じる。けれどもそれはたぶん、場内に充満する酒気、換気されていない半地下の澱んだ空気、大人たちの交わす高揚と嘲笑を孕んだ会話、燃えるような呼気、ひりつくような喧噪、そのなかにひとり紛れ込んでしまった子供にとって怖ろしくてたまらない全てへの緊張がもたらす息苦しさを、ざらついた粒子として感じたに過ぎない。止まり木と椅子を最低限設えただけの店、無骨な男どもを過剰に明るい蛍光が皓々と照らす。男たちは揃って着古したジャケットに履き続けて襤褸のようになったジーンス、それによれたカウボーイハットの出で立ちで、少年の父親は彼らのなかでひとり、ごく平凡な白のワイシャツ姿だった。止まり木に肘をかける父の手を少年は握る。父親はその手を握り返すけれど、視線は店の中央にやったままだ。男たちの太い胴の隙間から少年は、なんとか父親と同じものを見ようとする。ぽっかり開いた空間に、ふたりの男が相対している。大きな図体で仁王立ちになった、牛のような腕を組んだ彫りの深い男。対照的に小柄な背をさらに丸めて膝に手をつく、蛙のように顔の潰れた男。少年はどちらも見ることができない。観衆の会話はがなり立てるように大きすぎるか囁くように小さすぎるかのどちらかで、少年は何がどうなっているかも把握できない。誰かが囃し立てる。牛が腕を広げる。蛙が頭を上げる。周囲の男たちの体温が上がる。父親が手を振りほどく。少年は叫びたくなる。

コメント
  • ①は自信作。アルバムを捲らせるのはちょっとずるい気もするけれど。
  • 追憶するような話しか書けない……
  • ②は以前文章練習で書いたもののリライト。POVが曖昧なものになっているうえ、これはすでに「何かが起きている」のではないか、と云う指摘もある。

文体の舵を取れ:練習問題⑨方向性や癖をつけて語る 問一、問二

問一:A&B

 この課題の目的は、物語を綴りながらふたりの登場人物を会話文だけで提示することだ。
 四百~千二百字、会話文だけで執筆すること。
 脚本のように執筆し、登場人物名としてAとBを用いること。ト書きは不要。登場人物を描写する地の文も要らない。AとBの発言以外は何もなし。その人物たちの素性や人となり、居場所、起きている出来事について読者のわかることは、その発言から得られるものだけだ。
 テーマ案が入り用なら、ふたりの人物をある種の危機的状況に置くといい。たった今ガソリン切れになった車、衝突寸前の宇宙船、心臓発作で治療が必要な老人が実の父だとたった今気づいた医者などなど……

問二:赤の他人になりきる

 四百~千二百字の語りで、少なくとも二名の人物と何かしらの活動や出来事が関わってくるシーンをひとつ執筆すること。
 視点人物はひとり、出来事の関係者となる人物で、使うのは一人称・三人称限定視点のどちらでも可。登場人物の思考と感覚をその人物自身の言葉で読者に伝えること。
 視点人物は(実在・架空問わず)、自分の好みでない人物、意見の異なる人物、嫌悪する人物、自分とまったく異なる感覚の人物のいずれかであること。
 状況は、隣人同士の口論、親戚の訪問、セルフレジで挙動不審な人物など――視点人物がその人らしい行動やその人らしい考えをしているのがわかるものであれば、何でもいい。

 前回は休みました。

提出作品:問一

A もう、出ましたか……
B え?
A もう、出ちゃいましたか。
B はあ……? ……ああ、はい、行ったようですね。
A 参ったな……。次は……、一時間後! これだから、田舎は……
B ……この町は、初めてですか。
A うん……? ええ、初めてです。ああ……、申し訳ない。お住みの方でしたか。悪く云うつもりは……
B いいです、いいです。本当に、田舎なんだから……。本数は年々減るばかりですよ。一時間待てば済むなら、あなたは運がいいほうだ。
A そのようですねえ……。昼間なら、二時間に一本だ。
B お仕事ですか。
A 中央から出張です。そこの……、役場まで。
B 中央。
A たいそうなもんじゃありません。長旅して帳簿をちょっと確認するだけの、使いぱしりですよ。歓迎もされません。
B ああ……、見送りもないらしい。
A 好かれる仕事じゃありませんね。ともすると……?
B はい?
A や、去り際に、引き留められましてね。あれがなかったら、汽車に間に合っていたと思うんです。嫌がらせかな……
B そんなに、悪意あるひとじゃありませんよ。
A ご存知で?
B ……田舎ですから。
A 若い方にはたまらんでしょうねえ。やることなすこと見られてるんだから……。窮屈でしょう?
B まあ……
A だから飛び出すわけだ。
B はあ?!
A わっ……、なんですか……
B そちらこそ……
A ……すみません。こう云うのは若いのから嫌われると、自分で云ったのにねえ……? そこにあるの、ほら、同じトランク。あれ、あなたのでしょう……
B ……ええ。
A だから、同じ……、長旅仲間じゃないですか。わたしは村から帰るところ……、あなたは村から出るところ……、と云うわけだ。
B ……ええ。
A あんな遠くのベンチに置いてると、危ないですよ……
B 泥棒なんて、いませんよ……
A そうとも、限らないですよ。と云うのも、さっき、帳簿を調べましたら……、調べましたらね……?
B 何か……?
A いや、や、や……、あんまりひとに話すことじゃない……
B 聞かせてくださいよ。
A 待合室に入りましょう。ここは寒い……
B 金庫の勘定が合わなかったんでしょう。
A そんな身軽な恰好で、寒くありませんか。
B ひとり居なくなった帳簿係は、痩せぎすの若者だった……
A 寒くありませんか。
B どうして答えないのです……
A それはこっちの台詞です。そんな身軽な、ふらりと散歩するような恰好で。鞄だけ重そうで。……あなたはどこに行くんです。
B ……どこにも行けない。
A 間に合わなかったんですか。
B 間に合った。でも……、でも……
A 間に合ったなら……
B 勇気がないんだ。
A 犯罪をおかす度胸はあるじゃないですか。
B 何もかも嫌だった。爺しかいない役場も、ろくに汽車の停まらないこの駅も、何もかも……、でも、でも……
A ……村長がわたしを引き留めたのは、あなたを逃がしたかったからではないですか。
B 馬鹿な。あいつが……
A 間に合います。
B もう……
A まだ間に合います。あなたはまだ間に合うんだ。わたしも……、間に合って良かった。
B ……寒い。
A ええ。暖かいところへ帰りましょう。

提出作品:問二

 大丈夫だよと河越は振り向いて声をかける。何? びびってんの?
 びびってますよう。天埜の声は震えている。彼の右手に握られたペンライトは小刻みに揺れ、河越の足許の草花を照らす。獣道と云うには明らかにひとの手で拓かれたことがわかる、けれども同じくらい明らかにひとが使っていないとわかる山道だ。
 そりゃそうか。河越は思った。怖がっていないなら、肝試しにならない。しかし河越はすっかり怖じ気づいた後輩を焚きつけるため、置いていくぞと云って歩き出した。落ちた枝や歯を踏みしめるぱきぱきと云う小気味良い音が闇夜のなかで響く。獣や虫の声が聞こえないのはラッキーだ。動物に襲われたり虫に集られたりする方が、河越にとっては避けたいことだった。まだ夏は始まったばかりなのに、そんなことで怪我や病気になりたくはない。
 しばらくして、躊躇いがちの足音が、後ろからついてきた。やっぱりこいつは漢気がある。私有地って書いてありますよと真っ先に河越たちを止めた箕島や気持ち悪いとか云って断った羽良とは違う。ノリの悪いあいつらとは。いちばん最後まで河越に着いてくるのはいつだって天埜だ。大丈夫だよと河越は繰り返した。本当に幽霊が出るならさ、もっと有名になってるって。
 天埜は答えない。
 結構、道がきっついな。徐々に息が上がってくるのを感じて河越は呟く。その、神社? まで? どれくらいだっけ。
 あと少し、と今度は返答があった。
 あと少しです、な。
 また沈黙。
 暗闇に眼が慣れてきて、木々の枝や地形の微妙な起伏がわかるようになってくる。確かに道だったのだろう轍や、足場の岩が時折のぞく。会話が途絶えてつまらない。天埜ってさあ、と河越は切り出す。ミカちゃんとはどうなの? 不細工だけどいい子なんだっけ。絶対メンヘラなるからやめた方がいいよ、ああ云う暗い子。もっと綺麗な子紹介するって。
 返ってくるのは足音だけ。
 ま、ここ紹介してくれたの、あの子だけど。……お、あった。
 懐中電灯をあたり構わず振り回していると、枝葉の隙間に真っ白い人工物がちらりと見えた。小走りに近づくとかなり大きい。それは河越の背の高さほどもある祠だった。河越の後を足音も着いてくる。
 ……しょっぼ。
 そのときスマートフォンが鳴る。突然のベルに驚いたことを河越は声に出さないよう取り繕って応答した。もしもし? 着いた。あったよ。
 相手は箕島だ。ゴエさん、いい加減帰りましょうよ。
 だから着いたんだって。いまから降りる。
 もう、ゴエさんだけっすよ。置いてきますよー。
 ふざけんなよと笑いながら云ってから、……俺だけ?
 みんな下で待ってますから。
 天埜は?
 ゴエさんがとっくに置いてきちゃったんじゃないっすか。マノっちゃん、もう泣いて喚いて大変っすよ。
 ぱき、ぱき、と小気味良い音。
 河越は苛立って繰り返す。だから、天埜はって。
 は? 酔ってます?
 天埜!
 足音が近づいてくる。

コメント
  • 人生初戯曲&初ホラー
  • 問一は別役実を意識しました
  • 問二はホラーで制止を聞かずにずんずん分け入るやつがめちゃくちゃ嫌なので書きました。結局、嫌な人間の心理にまで入り込めているか、と云うと……
  • メンヘラ云々のくだりは過剰に露悪的になってしまった
  • かなり褒められたのでここ数日駄目になっていた心が慰められた