鷲はいまどこを飛ぶか

ミステリとSF、ときどき東方。

東京に食べられて育った:『天気の子』について、その1

(本稿は『天気の子』の内容に詳しく言及しています)

 

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 雨降りしきる灰色の東京が、はじめに映されます。

 それは雨の情緒さえ感じられず、風流などと云っていられない、じめじめとして暗い、現代における都市の雨です。広大で無機質なビル群がけぶる様は、なるほど荘厳で神秘的とも見えますが、しかしそれでもこの風景は寒々として重苦しく、明るさや爽快さ、ましてや未来への希望などありません。前向きな思いがあるとすれば、明日はせめて晴れますように、と云うささやかな祈りでしょう。

 物語の舞台は、雨の東京です。この街で少年と少女が出会い、苦難を乗り越え、結ばれる。東京で展開されるそんな物語の冒頭において、けれどもカメラはこの風景から少年か少女へズームアップすることなく、むしろ後ろへと退いていき、ようやく、窓硝子に映り込む、顔を伏せた少女の像を捉えます。ここで少女の姿と東京は重ね合わされる。加えて、少女の姿は半透明です――つまり、ここですでに、《天気の巫女》の、少女の運命は提示されている。

 しかし少女はそんなことを知る由もなく、息の詰まる病室で物憂い表情を浮かべます。ベッドに寝ているのは彼女の母親でしょうか。窓に映る東京の景色と同じく、ここにも未来への明るい希望は感じられません。あるのは、その希望を何とか見出したいと云う祈りです。

 場面に重ねられるのは、少女のものではない声によるモノローグ。物語が終わった後、世界が変わってしまった後からこの時点へと遡っておこなわれる語りに沿って、少女は光の水たまりを目指します。

 そして、強く願ってしまった。

 一瞬ののち、遙か上空、彼岸へとやって来てしまった彼女は、先ほどまで都市を塞いでいた厚い雲の上から世界を見下ろさせます。まるで、世界がその掌中に収まってしまったかのような景色です。しかしこれは逆であり、この瞬間から、世界に彼女は囚われてしまう。神と人間とを結ぶ細い糸に絡め取られる。

 かくして彼女は《天気の子》となったのです。

 

はじめに

  この冒頭だけでも見るべき箇所は多々あります。全てを知っているかのようなモノローグ。その中での、いいや、世界に変えたのだ、と云う宣言。のちにチョーカーとして陽菜の首に巻かれる、母親のブレスレット。物語の解釈に大切なそれらの要素だけでなく、ひとつひとつのシーンやその繋ぎ方も鮮やかで、この時点で映画へと没入させられます。とりわけ、タイトルが現れるその瞬間は、観る回数を重ねるほどその重みと、与える感動が増してゆく。ラストシーンとの呼応が、繰り返し観る度に強くなるのです。

 冒頭に限らず、拾っておきたいものは全篇にわたって配置されています。どこまで計算尽くなのか定かではないものの、映画がそこにある以上、それが映されている以上、考えることに損はないでしょうが、ここでは、細かな分析はやめにして、映画を観ながら感じたことを述べていくことになるでしょう。

 

 『天気の子』は、陽菜と帆高と云うふたりの物語として幕を閉じます。もちろん、須賀やら夏美やら、様々な人間が登場しますが、最後にたどり着くのは、帆高による陽菜への「僕たちは大丈夫だ」と云う力強い宣言です。彼らは、彼らが生きていく世界を選択し、肯定します。彼らはこのようにして生き、これからも生きていくのです。

 では、わたしたちは。

 この映画の恐るべき点はここです。彼らはかくして選択した。それを否定しようが肯定しようが、呪おうが言祝ごうが、彼らの人生は彼らの人生であり、彼らが「大丈夫」である以上、彼らは彼らの世界を生きていくでしょう。強靱なこの物語は、わたしたちの言葉を反射し、鏡のようにわたしたちを浮かび上がらせます。多くが語られているようで居て肝心な部分を明言しない、曖昧な描写の積み重ねからわたしたちは選び取っていき構成して、解釈し、論じますが、帆高と陽菜の人生は厳然としてそこに存在し、ただわたしたちの言説だけが、彼らとの間、スクリーンに並べ立てられていく。

 それを絶望的なことだとは思いません。そもそもこれは『天気の子』に限ったことでもない。しかし、この映画で描かれる「いま、ここ」は、強くわたしたちの「いま、ここ」を想起させ、とりわけ意識的に「では、わたしたちは」と考えさせるのです。

 ゆえに、この映画の感想は、この映画がどのようなものか、と云うよりは、この映画をわたしはどのように見たか、と云うものとなります。予めご了承ください。

 ミクロな視点からの精緻な分析や、マクロな視点からの正確な把握はひとに任せます。そもそも、両者をおこなうにはもう少し、時間を待たなければならないでしょう。

 

 それでは、やっていきます。全3回予定。

 (自分なりに格好良い感じで切り出しましたが、実のところこの文章を書いている時点でこれからの目処は立っていません。まあ、後はどうにかなるさと肩でも組んでいます。)

 

東京に食べられながら

 東京ってこえー。

 序盤、家出少年の口から繰り返し呟かれるこの言葉が、綺麗ではない、ごみごみとして、ひとの悪意が交錯する、あるいはひとの無関心が横溢する街を端的に集約しています。理想と現実、想定と実際とのギャップに戸惑い、それでもまだ前を向いていて、絶望しきっているわけではなく、東京に染まってもいない来訪者としての素朴な実感。

 実在の固有名詞に溢れて描写される「いま」の東京は、最初から最後まで、少年に不親切です。なんとなれば、彼は家出少年と云う、現代では社会の枠組みから外れていると見なされる存在だからであり、社会のルールに反しているがゆえに都市から除け者にされるのは後半の陽菜たちも同様。帆高を受け容れてくれる須賀と云う大人も、彼は「健全な社会」からは少し外れてしまっている存在だからこそ受け容れるのであって――彼もまた、過去に東京と云う街へとひとり分け入っていった少年だったのです――須賀と云うひとりの人間から「帆高の保護者」と云う役割を演じることになると、枠とルールに取り込まれ、少年を排除ないし制御しようとします。

 一方で、東京は社会の境界上にあるものを取り込んでいきもします。中学生と小学生の姉弟は施設によって救おうとし姉弟はバラバラにされるかも知れませんが、見方によってはそちらの方が遙かに安全であり健全であり姉弟のためにもなるでしょう)、モラトリアムを引きのばしていた女子大生はおべんちゃらを使わせながらも就活させる。年齢を偽っている少女が身体を売ることによって金を稼げると云うのも(実際は怪しいでしょうが)社会へ取り込むシステムのひとつと云えるかも知れません。そして帆高は、須賀と云う境界上の存在に受け容れられることで、徐々に東京と親しんでいきます。

 東京は怖い。東京はすごい。東京は恐ろしい。しかし、息苦しさを抱えて生きていた少年を受け容れるのもまた東京でした。

 少年は東京に呑まれながら息苦しさを解消してゆきます。少女は一度は東京に踏み潰され掛かりますが、少年の手に導かれ、東京のひとびとのために祈ることで、おのれの役割を知り(知ったと考え)、自分を肯定します。こうしてふたりは東京の中で生き、育つ。

 ただし、これはかならずしも東京賛歌ではありません。そんなわけがない。少年と少女の生きる姿は尊いものですが、彼らをかみ砕き、飲み込み、邪魔となったら容赦なく吐き出す東京の姿はむしろ、何ともふてぶてしいものです。少年が何を叫ぼうと、少女が何を祈ろうと、彼らを食いものにして白々しく居座り続ける東京と云う日本の一応の中心。

 そこにあるのは、オメラスなど遙か遠く、ディストピアにさえなりきれない、肥大化した都市の姿です。

 

 不完全なオメラスと、その敵

 『天気の子』を見終わったあとの胸に沈む重さは、ル・グィン「オメラスから歩み去る人びと」(以下、作品のタイトルを表すときは「オメラス」)を読み終わったときのそれに通じます。もちろん、両者はその重みどころか同種のものとも云えないのですが。

 「オメラス」はもはや思考実験として使い古された感があるので、最低限の説明に留めておきますが、あの小説において描写されるのは、限りなく理想に近い都市の姿です。誰もが豊かで、誰もが幸せな都市――ただし、ひとりを除いては。ひとりの犠牲のもとに成り立つ美しい都市を、しかし去ってゆくひとびとがいる。彼らは、未だ見ぬ、さらなる高みを目指します。ただひとりの犠牲者も生まない、存在できるのかも怪しいユートピアを求めて。

 「オメラス」が重いのは、わたしたちに向けて問いかけているからです。ディストピア小説として挙げられがちなこの作品内で、実はル・グィンはオメラスをあってはいけないものとして否定していません。小説内で否定も肯定もせず、オメラスと云う都市を、云わば実験している。読み手はこの実験を前にして、オメラスを歩み去るのかどうか問いかけられます。この問いが重い。読後も、ずっと胸の中にわだかまる重さです。

 『天気の子』における東京は、オメラスではありません。オメラスは犠牲者の存在を都市の全員が知っていましたが、東京は知らない(詳細は次回、多分)。加えて、東京はオメラスのような美しい都市とはまるで違います。綺麗な場所もあるにはあるけれど、細部に目を凝らせば、汚く、うるさく、暗い。

 そんな東京が、だのに人柱を作り出すからいっそう度し難いのです。

 そう、人柱を作り出しているのは人間の側です。天は天として気まぐれに存在し続け、本来人間はそれに左右されるだけ。それでも人間と天とを結ぶ細い糸が《天気の巫女》であり、この細い糸を介して人間は天気を自分に都合の良い方へと変えてきた――と云うのが、劇中の老宮司の説明です。どこまで信用して良いものか怪しいですが、前作『君の名は。』も踏まえると、世界を変えようとするのは人間側だと云う解釈は妥当でしょう。

  天気を変える代償として、陽菜は空に消えてゆきます。彼女のいなくなった東京は、憎らしいまでに晴れやかで、おぞましいまでに夏らしく、このとき、白々しくふてぶてしい東京は、いよいよ強固にそびえ立ちます。

 しかし、こうして得られた晴れこそ、陽菜が祈ったものだったのでしょう。皆が晴れた空に喜び、はしゃぎ、言葉を交わす。そこには光が溢れ、ひとびとは半ば諦めていた明日への希望も抱けるでしょう。明日からは普通の毎日が戻ってくる、と。自分の役割を受け容れ、いままでのように東京のために祈った彼女の、これが選択でした。

 かくして東京と云う不完全なオメラスは、ひとりの少女の犠牲のもと、素知らぬ顔でいつもの姿を取り戻します。何やら叫んでいる少年の声も、封殺されるはずでした。

 はずでした、が。

 様々な人間たちの協力を通じて――後半のこの一連の展開は、陳腐なまでに王道ですが、丁寧に描かれ、見事に決まっています――東京から拒まれる少年は、ついに天へとその思いを届け、少女の手を掴みます。東京のために祈っていた彼女に、自分のために祈って、と願い、地上へと連れ戻す。

 ふたりが帰ってきたとき、いままで様々なひとびとを呑み込んできた東京は、今度は天に呑み込まれるようにして、力強い雨に襲われます。

 

滅びゆく東京で

 天とひととを結ぶ細い糸はかくして断ち切られ、不完全なオメラスのシステムは崩壊し、東京は天の気まぐれか悪意か、雨の中に沈められます。この破滅をもたらすのが雨と云うのは絶妙です。いつか止むかも知れない、いつまでも止まないかも知れない、急速に訪れるわけではないが、着実に破壊を進行させていく、雨。

 ここで、彼らの選択がこの結果にどれだけ影響しているのか、そもそもこのオメラスもどきのようなシステムがどのような実態で、それは完全に崩壊したのか、と云うことは、あまり関係がありません。

 重要なのは、東京に生きた彼らが、東京から弾かれた彼らが、自分たちの手で東京を相手取り、今度こそ、自分たちの世界を掴み取ったのだと云うことです。

 彼らは、世界を変えるのだと云う選択をしたのです。

 『天気の子』の爽快さと、重さは、同時に、ここに起因しています。不完全なオメラスを破壊する彼らの選択と現状の肯定、「大丈夫だ」と云う言葉は力強い。一方で、彼らが自らの選択を引き受けた様を目の当たりにしたわたしたちは、もしかすると「オメラス」より更に切迫した問いとして、「これで良いのか」と問われます。

 終盤、冨美や須賀との対話は、エクスキューズと云うよりは問いかけの細部の詰めです。街が沈んだことによって故郷を失い避難を余儀なくされた冨美を登場させ、「元に戻っただけだ」と云わせる。本気でそう思っているのか、あるいは、そう思わなければ現状を受け容れられないのか、定かではありませんが、『君の名は。』で直接の言及がなされていなかった故郷喪失者の姿まで、ここには描かれています。沈んでゆく東京と対照的に会社を上昇させた須賀は、世界なんてもともと狂っているのだと云う。それはあの3年間で得られた彼の実感でもあり、帆高への慰めでもあるのでしょう。ただ、彼の娘は東京にいる限り、公園を走り回ることができません。雨の犠牲者はここにも存在しています。

 冨美の言葉。須賀の言葉。両方を受け取った末に否定してしまう帆高。

 わたしは未だに、彼へかけるべき自分の言葉を持ち合わせていません。ただ、彼らの選択と言葉ははあまりにも力強く、彼らの切実な思いをラストシーンで目にするたび、わたしはこれからも涙するでしょう。

 

(次回へ続きます。多分拳銃の話をします)

 

小説 天気の子 (角川文庫)

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風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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  「オメラスから歩み去る人々」収録。他にも傑作が揃っているので、是非。

 タイトルの元ネタである倉田タカシ「トーキョーを食べて育った」収録。こちらも傑作。いま何かと話題の伴名練も寄稿してます。

『天気の子』以前としての『君の名は。』再考

(この記事は『天気の子』の感想をまとめるにあたってその冒頭に置こうとしていた「『君の名は。』再考」の章が肥大化したため独立させたものです。ゆえに、両作品の内容に触れています)

 

www.kiminona.com

 

 『天気の子』を観たあと、『君の名は。』をおよそ3年ぶりに観ましたが、極めて良く出来ている――脚本の切れが抜群であり、映像表現も美しい――と感じる一方で、改めて考えなければならない部分もあると気付きました。

 具体的には、以下の3点です。

  • 巻き込む側/巻き込まれる側
  • 瀧は何を救っているのか
  • 本当に世界は変えられたのか

 ひとつ目。『君の名は。』の後半で物語を駆動させるのは瀧です。視点もほとんど瀧が中心になっており、三葉と再会するために瀧は旅立ち、糸守を救おうと彼は奮闘し、終盤は「One more time, One more chance」ばりにどこかに何かを探し続けます。私も公開当初はこれを「ボーイミーツガールSFジュヴナイル」として気持ちよく飲み下しました。

 しかしいざ確認してみると、冒頭約30分、瀧は最低限の登場(はじめのモノローグと入れ替わり)に留まり、物語を進めているのは三葉の方であることがわかります。後半も、糸守を救うのは瀧の計画ではなく三葉による父親の説得です(変電所の爆破→偽の避難指示と云う計画はほとんど無駄に終わっています)。何より、作中では入れ替わりはいつか訪れる災厄から糸守を救うために宮水一族に与えられた特殊な能力であることが示唆されています。多少意地悪な見方をすれば、瀧は見事に古の糸守のひとびとが用意したシステムに巻き込まれ、思惑通りに糸守を救ってくれたわけです。

 平凡な少年が世界(本作では糸守と云う町ですが)の存亡をめぐるシステムに巻き込まれる――ボーイミーツガールSFジュヴナイルの典型と云っても良い構造ですが、本作の場合、瀧は実際のところ未来の出来事を過去に伝えると云う役割しか果たしておらず、前半が三葉視点で描かれていることもあり、巻き込まれる側と同じかそれ以上に巻き込む側にも重点が置かれています。そしてこの巻き込む側のシステムには全く批判的な視線が向けられていません。再び意地悪なもの云いですが、三葉と瀧は互いを思う気持ちまで含めて古の糸守のひとびとに都合良く操られたのです。

 以上の見方を踏まえると、『天気の子』は、特定の人間を犠牲にして人間にとって都合良く世界を改変しようとするこのようなシステムに反逆する物語と云えます。

 

 ふたつ目。『天気の子』では、帆高は陽菜を助けられるならば、天気なんて狂ったままで良いと云い切ります。一方で『君の名は。』では、瀧は三葉を救うにあたって糸守まで救ってみせます。この違いは何でしょうか。瀧は三葉を救いたかったのであれば、入れ替わったらすぐに隕石の被害範囲の外に出れば良かったはずです。なぜ瀧はそのような行動に出なかったのか。

(これは、そもそも『天気の子』で帆高は陽菜と世界を天秤に掛けているのか、と云う問いにも繋がるでしょう。詳細は次回です……、多分)

 瀧と帆高の人間性の違いでしょうか。では例えば瀧が、三葉か、糸守の町か、どちらかしか選べないとしたら……。おそらく三葉を取るのではないか、と云うのが、このたび再視聴した印象です。そして、三葉か世界かと云う二者択一にしていないことに、あの映画の巧妙さがあります。

 そもそも瀧の行動は奇妙にうつります。三葉と再び会うことと、糸守を救うことが何の疑いもなくイコールで結ばれている。なんとなれば、瀧にとって三葉=糸守だからです。どう云うことか。

 瀧と三葉は瀧視点から見れば(ややこしいなあ)3年前に出会っていますが、このとき瀧は三葉を認識できていませんし、3年の内に出会ったことさえ忘れています(忘却については後述)。そしてこれを除くと、瀧が三葉と対面するのは、後半の「かたわれ時」が初めて。つまり最初の入れ替わりが発生してからあの「かたわれ時」まで、ふたりは直接会うことなく、日記や顔の落書きを通して交流しているだけなのです。ふたりのやり取りはMVのようなダイジェスト形式によってさもリアルタイムにおこなわれているように描かれていますが、それは錯覚に過ぎません。であれば、ふたりは直接会っていない以上、彼らが惹かれているのは瀧/三葉本人ではなく、彼らの周囲の世界から想像される瀧/三葉の像であるはずです。例えば前半、三葉は瀧の日記を見て「マメなひと」だと評価します。三葉は瀧の身体で小野寺先輩とデートの約束を取り付けるに至りますが、そこまでしておいて、三葉が惹かれているのは瀧なのです。ここで三葉は、瀧が好きな先輩との交流を通じて、先輩のことが好きな瀧像を自分の中に形成していきます。こうして三葉は瀧への恋愛感情を抱くわけですが、同様のことが瀧にも起こっていたはずです。

 瀧が三葉の周囲の世界すなわち糸守を通じて三葉を愛するようになったのであれば、瀧にとって三葉と再会することは糸守を再訪することと同じであり、三葉を救うことは糸守を救うことと同じです。云い換えれば、瀧からすれば、三葉を救うためには糸守を救わなければなりませんでした。

 瀧は糸守を救うために奮闘しますが、彼の中ではそれは三葉を救うために奮闘することと同じです。とすると、彼は、糸守を救った結果として歴史が変わるのではないか、糸守の外側の世界に何か影響が出るのではないか、などとは考えなかったでしょう。彼は歴史を変えようとしているのではなく三葉と云うひとりの女性を救おうとしているだけなのですから。

 こうして、『君の名は。』からは『天気の子』と案外近い構造を取り出すことができます。だから両者を陰と陽のように全面的に正反対の作品として捉えるべきではないと云うのが、個人的な印象です。

(とは云え、他者を理解するときにそのひとの外部とそのひと自身との関係性からそのひとの輪郭を作ることによって内面を想像すると云う行為はわたしたちが普段おこなっていることです。『君の名は。』はその人間理解の在り方を極端にし、ひとを理解することの難しさと、それでも理解したいと願う痛切さ・尊さを端的に描いています。そして同様の、難しさ・痛切さ・尊さは『天気の子』でも見られるもので、しかし『天気の子』では陽菜=東京にはなっていない。色々理由があると思いますが、一番は、陽菜も帆高も東京から拒まれているものとして描かれているからでしょう。『君の名は。』ではイコールで結んだものをノットイコールにすると云う点で、『天気の子』は『君の名は。』の逆を打っている。ただしそれは『君の名は。』と真逆にすると云うよりは、『君の名は。』を踏まえていっそう極端化させたのだと考えます)

 

 三つ目。糸守を隕石から救うシステムを構築したのは、古の糸守のひとびとであるはずです。隕石を落とすのは神の思し召しあるいは気まぐれに過ぎず、糸守のひとびとはそれに抗って世界を変えようとした。だからこそ、「忘却」と云う防衛措置がはたらいているのです。

 『君の名は。』でおそらく最も重要な言葉は「忘却」です。「結び」も重要ですが、それは物語を駆動するにあたって大切な装置であるに過ぎません。この「結び」を通して、「大切なあのひとのことを思い出せない」と云う物語を語っているのです。だからこそ『君の名は。』なのでしょう。

 入れ替わっているときのことは、後になるとどんどん忘れていきます。現に、入れ替わりを自覚していない頃は夢でも見たのだろうと忘れていた。一日分の記憶が抜けているわけですから気付かない方がおかしいのですが、それも何らかの修正がはたらいているのでしょう。公開当初寄せられた「年がずれているのになぜ気付けない?」と云う疑問も、何らかの忘却が働いた結果だと説明できます。

 この忘却を、糸守のひとびとが仕込んでいたとは思えません。世界を変えるのに不都合だからです。この忘却はむしろ、世界を変えようとする企みに対して、世界自体が、あるいは神のようなものが施した防衛措置なのでしょう。

 改変と忘却、人間と神、その切り結びの果てに、人間側は世界を変えることに成功します。しかし、神は忘却によって、世界が変わったと云うことまでも消却していく。だとすれば、『君の名は。』は、代償なしに世界を変える物語であるどころか、世界はそう簡単には変えられないと云う物語なのではないか。

 最後、瀧と三葉は何度もすれ違った挙句ようやく出会いますが、これは糸守を救った彼らへのご褒美ではなく、世界の秩序の修正を図る超常的な何かに対して、赤く細い糸だけは何とか耐えきったと云う、世界への反逆であり、痛切な祈りの込められた結末なのではないでしょうか。

(もうひとつ。終盤の新聞記事をよく見ると、糸守のひとびとは全員救われたわけではなく、安否不明者が少なくない数出ていることが確認できます。また、三葉の父親には陰謀論が囁かれており、まるであとに起ることを知っていたかのように意見を翻した彼の置かれた立場は微妙です。故郷を失った糸守のひとびとは散り散りになり、命だけは助かったが悲惨な生活を送っているひとももちろん存在するでしょう。決して大団円ではないことには注意が必要です)

(もちろん、未曾有の災害をなかったことにする物語であることは確かです。それについては私たちひとりひとりが、それを希望を持って語るのか、絶望を滲ませて語るのか、各々で考えていく必要はあるでしょう。しかし、この物語が決して楽観的ではないこともまた事実なのです)

 何やらぼかしたもの云いになったのは、自分でもこれが『君の名は。』の真意だとは信じ切れていないからです。そもそも物語に真意などないと云うことはひとまず置くとしても、以上語ってきたことはあくまで『天気の子』以前としての『君の名は。』再考であり、『天気の子』から『君の名は。』を照射したときの印象に過ぎません。云い方を変えれば、『天気の子』は『君の名は。』に新たな視座をもたらし、その在り方を相対化する物語なのです。以上の再考と同様に、『君の名は。』以後としての『天気の子』を考えると、新たな視座が与えられるでしょう。

 

 以上見てきたように、『君の名は。』と『天気の子』は様々な点で比較対照できます。ただしこれは、両者が陰と陽の関係にあることを意味しません。「以前」「以後」と云う言葉を繰り返し使ってきたように、あくまで『天気の子』は『君の名は。』の後であり、でなければ描かれえない物語です(詳しくは次回。次に回しすぎるとあとが怖いのは重々承知していますが……)

 少なくとも、『君の名は。』と『天気の子』には3年の間があります。3年は、『君の名は。』で描かれたとおり、絶望的に遠い距離です。両者はもはや同じ地平にはありません。取り立てて比較せずとも、『天気の子』は『君の名は。』が3年前となった現在の物語であると云うことを踏まえなければ、大切なものを取りこぼしてしまいかねないでしょう。

 『天気の子』の感想を書く際、自分がそれを取りこぼさないことを祈りつつ――そもそも取りこぼすのだろうかと云う疑いは依然として存在します――この取り留めのない文章はここで終えます。 

 

君の名は。

君の名は。

 

2019年上半期ベスト

 上半期が終わるのを1か月早く勘違いしていた気もします。気のせいかも知れません。いずれにせよ6月が終わったので、今年読んだ作品の中からベストを挙げていきたいと思います。国内海外問わず、長篇(および短篇集)と短篇で20作品ずつ、順不同です。

 

長篇(および短篇集)

  ネタバラシを食らったので慌てて読んだ『名探偵に薔薇を』。名探偵の存在と能力に揺さぶりをかける。『本と鍵の季節』は久しぶりの感がある米澤穂信の青春ミステリ。自らポスト・米澤の地平を切り開くかのような意欲作。いまさら読んだ『生首に聞いてみろ』は読書会の課題本。もつれ合う偶然を探偵は見つめることしか出来ない。けれどそれこそが探偵の存在意義なのかも知れない。交響詩篇エウレカセブンは傑作ボーイミーツガールSFジョヴナイルの小説版。アニメや漫画を巧みに取り込みつつ、独自の魅力へと昇華する。『論理の蜘蛛の巣の中で』は名手・巽昌章によるミステリ時評集。様々な作品の間にはたらく力学を巧みに捉えた1冊、あるいは、強靱な言葉で作品の間に糸を張り巡らせる油断ならない1冊。いずれにせよ名著。

 ここからは海外作品。『チャイナ・メン』アメリカへ渡った中国人移民の歴史を神話的に語り上げる大作。こう云う物語をずっと読みたかった。『千舞の千年都市』の舞台は、騒々しい近未来のイスタンブール。濃密な5日間、6人の主人公を縦横に動かして、華麗な都市の絨毯を編み上げている。『ブラインドサイト』も鮮烈なSF。絶望的なファーストコンタクトを通じて、人間の意識の在り様を問いかけるスペキュレイティヴな長篇だが、何はともあれ語りがクール。『ねじまき少女』でバチガルピが現出させる未来像はごみごみとしていかにも不潔。それでも悪趣味さを感じないのは、そこで日々を営む人間たちの姿を誠実に捉えているからだろう。国名シリーズで初めて素直に高く評価できた『エジプト十字架の謎』。ロジックが物語を駆動した果てに浮かび上がる真相は立体的な構図を持ってこちらにいっそう大きな衝撃を与えてくれる。『ナイン・テイラーズ』も長篇ミステリの大作。ただしこちらは様々な因果を巧みに絡み合わせながら、最後に畏れさえ抱くヴィジョンを叩きつけている。両者ともに、ミステリを読む愉しみを思い出させてくれた作品。『貴婦人として死す』は一見、いかにもな足跡ミステリ。トリックもよく考えられたもの。しかしその本領は、意外な犯人像と事件の構図の結びつきにある。最後に全てを戦争が飲み込むかのような結末も含めて、すっきりとした謎解きでは決して終わらない。遂に読んでしまった、エルキュール・ポアロものの最終作『カーテン』。最後の最後にポアロと云う名探偵を完成させてしまったのだから畏れ入る。犯人の悪意さえ取り込んで操ってしまうかのような、恐るべき名探偵。『フォックス家』『十日間の不思議』『九尾の猫』はセットで、順番通りに。こちらの名探偵は、事件を操りきれずに取り込まれ、敗れ去ってしまうけれど、『九尾の猫』のラストシーンの美しさは、こうでなければ描かれ得なかったはずだ。クイーンは戦後の方が好みらしい。『ギャルトン事件』について、多くは云わない。こんなにも美しい探偵小説があるのか。美しさとは無縁なノワール『ポップ1280』はしかし、後半につれて妙な神々しさを獲得する。なんだこれ。とあるレストランを舞台にアルゼンチンの歴史を語ったブエノスアイレス食堂』ノワールに入るかも知れない。美食と暴力の歴史が行き着く果てとしてこの物語のラストはこれ以上ないものだけれど、そこから先には何もないと云う絶望も感じる。その絶望も含めて傑作。予告から待ち続けた何年経つだろう、ようやく刊行された『愛なんてセックスの書き間違い』。迸る激情と狂気に、悲哀と愛が滲む、一篇として捨てるもののない傑作短篇集。

 

短篇

 まずは国内から。「イヴァン・ゴーリエ」はロシアの歴史の中へ消えていったある芸術家を巡る美術ミステリ。あの絵を見た瞬間、余計にわからなくなると同時に、深い納得を抱かされる。ショートショート「花火」は、まさしく神品。ほとんど完璧な小説だと思う。構図の反転にこだわった短篇集『赤い博物館』の中でも頭ひとつ飛び抜けた逆転をやってのける「復讐日記」。どうすればこんな世界の反転を考えつけるのか。実はあんまり良くなかった青崎有吾への印象を改めさせてくれた「夢の国には観覧車がない」。観覧車の一周と物語の進行を一致させた上で、その舞台装置をキャラクターの心情にもミステリの仕掛けにも活かしてみせる、整った構造に感心した。「見返り谷から呼ぶ声」北山猛邦の更なる進化を感じさせる。物理トリックと切ない心情をどんでん返しでまとめ上げるこれが北山マジック。「有害無罪玩具」は一見、アイディアを並べ立てただけのようなSF。しかし、自分のアイデンティティや存在について思考実験することの怖さと楽しさまできちんと描くことで、優れた物語となっている。「PETRA GENITALIX」を巧く形容する言葉が見つからない。強いて云えばセンスオブワンダーか。宇宙と大地を繋ぐ、大いなる生命の神秘。「密林の殯」は別の意味で何とも云いようがない話。天皇についての話であり、天皇について語ることの話であり、しかし描かれていることと云えば配達業者の青年がデリヘルを呼ぶ話。なんだこれ。「POSシステム上に出現した「J」」は評論。本格コードvsバーコードと云う、冗談みたいな切り口からミステリを論じる刺激的な一篇。

 次は海外。「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は、人工的な知性の発達についてひたすら丁寧かつ意地悪にシミュレーションしていく近未来SF。良い話へまとめることすらしないが、それゆえに傑作となっている。「天使」のピーター・ワッツは『ブラインドサイト』のときにも述べたがとにかくクール。本作も、兵器ドローンの話にこんなタイトルを付けるセンスがまずクールだし、ドローン視点の叙述もクールだし、最後の「受胎告知」が極めつけでクール。なんとも怖い作家だ。「この歌を、ライアに」は愛の形を巡る中篇。最後にいったん訣別してみせるのがミソだろう。宗教の扱いの点で同短篇集収録「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」と併せて読みたい。『君の名は。』にも影響を与えたことで知られる「貸金庫」は、『君の名は。』よりある意味過酷で痛切。語り手が涙する理由に涙する。日蝕はアンソロジー内で不意打ちのように襲ってきたショートショート。底が抜ける感覚。いまさら読んだ乱歩編『世界推理短編傑作集』からは3作。「放心家組合」はオチに「そんなのありかよ」と素で呟いてしまった。梯子を外される感覚。「殺人者」は一言一句無駄がない、磨き抜かれたナイフのような読み味。台詞の応酬でこんな緊迫感を生み出せるとは。「妖魔の森の家」は云わずもがなの古典的名作。謎が全て解かれてもなお残る不気味さ。クイーンは後期の方が好みだと前述したが、後期を読んでいこうとするきっかけになったのが「キャロル事件」。あまりに複雑な「人間」と厳格な「法」を前にして、名探偵は立ち尽くすしかない。私的オールタイムベストに入る傑作。最近何かと熱い華文ミステリからは「見えないX」を。基本はディスカッション中心の密室劇なのだが、論理の応酬がキャラクターたちを印象付ける役割も果たし、最後の逆転を通して物語を外側へと拡げてくれる。最後に挙げるのは「Nine Last Days on Planet Earth」(未訳)。変わってゆく世界の中で受け継がれていく想いと愛を巧みに切り取ってまとめて見せる中篇SF。WEB上で読めるので気になる方はどうぞ(Nine Last Days on Planet Earth | Tor.com)。

 

  以上20冊と20篇でした。

小森収『短編ミステリ読みかえ史』第116回のハーラン・エリスン評に対する批判

 半年も前の記事にいまさら文句を付けるのもうざったらしい真似ですが、しかし『愛なんてセックスの書き間違い』がめでたく刊行され、『危険なヴィジョン』完全版がこれまためでたく刊行される運びとなり、ハーラン・エリスンがにわかに盛り上がりを見せ始めたいまだからこそ、批判すべきものは批判しておこうと思い立ちました。

 問題にしたいのは次の記事です。

www.webmysteries.jp

 『短編ミステリ読みかえ史』とは、ミステリ評論家の小森収東京創元社のwebマガジン《Wedミステリーズ!》で連載している企画で、海外短篇ミステリの歴史を追いながら毎回様々な作家や作品を紹介していくものです。短篇ミステリが好きな身としてはこの企画の趣旨は非常に面白く思っていますし、以下でおこなう批判も、企画全体に向けたものではありません。

 ただ、この連載の第116回で語られた内容について、異議を申し上げたいのです。

 

 問題の記事を箇条書きでまとめると、以下のようになります。

  • エリスンはミステリの書き手でもあったことの説明
  • エリスン作品の紹介(「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」「世界の中心で愛に叫んだけもの」「101号線の決闘」「サンタ・クロース対スパイダー」「プリティ・マギー・マネーアイズ」「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」)
  • 作品にはいずれも好意的ではない
  • エリスン作品は《単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけ》にしか見えない
  • エリスンはそのキャラクターで受けたに過ぎない
  • エリスンの名前は『危険なヴィジョン』の編者として残る
  • ゼナ・ヘンダースンの紹介

 最後のヘンダースンについてはここでは言及しません。

 さて、エリスンの熱心なファンでなくとも、ある程度SFに親しんでいる方であれば、取り上げられた作品を見て何かおかしいことに気付くはずです。

 「死の鳥」は?

 エリスンは傑作を多くものしましたが、「死の鳥」が技巧の点でひとつの極地に至っていることは、少なくない方に同意してもらえることと思います。少なくとも、ハーラン・エリスンと云う作家を語る上で取り落としてはいけない作品であることは確かでしょう。これを表題作とした短篇集も出ており、ただでさえ作品数に反して翻訳が少ないエリスンを語るために、これを外す手はありません。

 しかし、記事中では、「死の鳥」には一切、言及されない。同題の短篇集もです。

 なぜ?

 「死の鳥」は冒頭に読者への挑戦とも読める記述があり、事実、まるで読者を試すようにしてパズルのように複雑な構成を取っています。様々な手がかりを拾い集めながら、何が描かれているのかを解き明かす楽しみ――これはミステリにおける犯人当てにも通じるでしょう。ミステリのパズル性が、意図してか偶然にか、SFで発揮された例としても本作は読めるはずです。

 こんな特異な傑作に一切触れることなく、エリスンのことを彼はキャラクターで受けたのだ、編者としての名前が残るのだ、と云う、まるで作品には価値がないかのような書き方で紹介するのは――しかも、SFには馴染みがないひとも多いミステリ読者に対して――、プロの書評家の仕事として、かなりお粗末ではないでしょうか。

 他にも、「死の鳥」とはまた違った手法で技巧を凝らした「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」や、いつもの鮮烈な語りを抑えた切ないファンタジイの佳品「ジェフティは五つ」のような作品を取り上げていません。どうも『世界の中心で愛を叫んだけもの』を中心に作品を紹介しているようですが、『死の鳥』と読み比べればわかるように、あちらは玉石混淆の感があり、作家を論じるに当たって適切なものとは云えないでしょう(序文は、エリスンの当時の思想を知る上で重要なものですが)。

 さらに、エリスンについては長らく初期の犯罪小説を中心に集めた『愛なんてセックスの書き間違い』の刊行が予告されていました。記事公開当時は未刊でしたが、ミステリの流れにおけるエリスンを紹介するのであれば、触れておきたい部分でしょう。『愛なんて~』を直接挙げずとも、50年代から60年代にかけてエリスンがミステリに比重を置いていたこと、あるいは、ミステリ作家としてのエリスンの業績はあまり本邦で紹介されていないことくらいは触れておくのが、順当な「ミステリ史の読みかえし」では?

 国内ではミステリ作家として認識されていなかったエリスンを、せっかく『短編ミステリ読みかえ史』と云う題のもとで扱うのですから、これまでの歴史認識を改めるようなエリスン紹介をしてもらいたかった。だのに、記事内ではエリスン作品についてSFとして評価するばかりで、いちハーラン・エリスンを敬愛する身からしても、いちミステリファンの身からしても、たいへんがっかりさせられました。

 いまからでも遅くないですから、『死の鳥』と『愛なんてセックスの書き間違い』を踏まえた上で、もう一度エリスンについて論じてもらえれば、こちらの失望は幾分マシとなるのですが……。

 

 とは云え、いまさら論じ直したところで、有意義なものになるとも思えないのが、いっそう残念なところです。以下、もう少し細かく、小森収によるエリスン評を見てみましょう。

 はじめに、「鞭打たれた犬たちのうめき」について。都市の暴力に巻き込まれた果てに主人公は新たなる神の現出を目撃します。それに対して小森収は、

 初読時もそうでしたが、むき出しの暴力にさらされた都会の孤独と恐怖は、肌に迫るものがあります。ただし、十代の私が、なぜ、こういう結末になるのだろうと、訝しく思ったことは確かで、今回読み返しても、結末は釈然としません。共同幻想としても、それなら、なぜ、それがメンバーの安心と安全を保障するのかが分からない。本当に超越的な何かがあるのなら、ずいぶん安易で都合のいい超越者ではないでしょうか? それに、冒頭の殺人を見守る人々の心の中が一様だと言われて、はいそうですかと納得するほど、もう子どもでは、私もありませんからね。

 最後の嫌みたらしい一文が苛立ちを誘いますが、まあそこはそれ。こちらも批判するのにですます調をでおこなっているのですから、嫌らしさはどっちもどっちです。

 まず確認しなければならないのは、エリスンが描いているのはリアルな都市のスケッチではなく、無関心と暴力が錯綜する現代都市のカリカチュアだと云うことです。実際は遙かに複雑な力学が働いている都市から、無関心と暴力の構図を抜き出して叩きつける。過剰なまでに饒舌な文体、強烈なリフレインが、その異様さを煽ります。この抽出に「実際はこうじゃないから駄目」で返すのはいささか本質を外しているでしょう。私たちの中には、大なり小なり、暴力的な側面、冷酷な側面がある、そこを増幅して見せたのが本作なのですから。

 なぜそう云えるのか、と云う問いには、過剰だから、と答えることになると思います。過剰に書くのであれば、過剰に書くだけの理由があるはずです。いたずらにスタイルを批判する前に立ち止まって、それでもなぜこのスタイルを用いたのだろう、と考えるのが誠実な読書ではないでしょうか。《単に本質をはずれた技巧の末路を示しているだけ》と云ってしまう前に、小説のスタイルの追及について、考えるべきことがあるはずです(これは小森収に対してだけでなく、文体に対して比較的無頓着なことが多いミステリの書き手・読み手に向けたことばでもあります)。

 そしてもう一つ。この結末で現出する神を、エリスンが肯定的に描いていたとは思えません。小森収の云うように、確かに、ここで書かれていることはおかしい。現代の都市で、防犯錠なしで眠ることなどできるわけがない。しかし新たな神によって安全がもたらされるのだと云う。だとするとこの神は、都市の安全を守るどころか危険に晒す、気の狂った存在なのではないか? 都市で新たに創造されたのは秩序ではなく神話であり、それはあくまでも虚構に過ぎない。この気持ちの悪さ、危うさまで含めて、本作は都市の戯画として面白く読めるのです。

 私も、はじめからこのように読んでいたわけではありません。最初に読んだときはわけがわからず、しかしそのどす黒い暴力性と想像以上の奥行きに惹かれて繰り返し読む内、すとんと自分の中で腑に落ちた考えです。とても読み巧者とは云えない自分にとって、その過程で「死の鳥」は補助線として不可欠でした。どう補助線としてはたらくかは言及しません。読めばわかると思います。

 やや話は戻りますが、「死の鳥」はエリスンの思想を知るためにも重要な作品です。これを取り上げないのは、返す返すも残念でなりません。

 

 次に、「ソフト・モンキー」。黒人の老女が強盗に追われるクライム・サスペンスの傑作です。エドガー賞受賞作。これについて小森収は、

ここには、暴力と隣り合わせにニューヨークの底辺で生きる危うさが、確かに描かれてはいます。しかし「鞭打たれた犬たちのうめき」にあった、ひりひりするような恐怖はありません。そもそも、彼女の口封じを狙う男たちの行動に、いささか無理がある。殺しては、間違いだったと気づくのくり返しだったのでしょうか。だとしたら、ずいぶん愚かではないでしょうか。まあ、この結末では、少々ほのぼのとなってしまう(そのこと自体は、必ずしも悪いとは思いません)のは、無理のないところでしょう。

 ひりひりするような恐怖感では「鞭打たれた犬たちのうめき」に及ばないことは事実でしょう。しかし、その後の評がおかしい。前述しましたが、エリスンの描く都市は、そのいち側面を増幅させて提示したものです。それに、私はとてもじゃないですが、黒人の老女が虫けらのように殺されていく激烈な黒人差別社会の描き方に対して「無理がある」とは云えません。

 加えて、結末に対する「ほのぼの」と云う形容も、決して間違っているとは云いませんが、いささか見当外れだと感じます。暴力と悪意が渦巻く都市で、与えられた思いやりをアニーは拒んで、人形の坊やを抱きしめる。この歪な愛の光景は――「鞭打たれた犬たちのうめき」が幻視したような奇妙な超越者に頼ることなく、おのれでおのれを守り、救う、このアニーの姿は、いっそ神々しく映ります。

 

 「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や「プリティー・マギー・マネーアイズ」についても、問題があります。あのタイポグラフィックな表現がこんにちではいささか古びて見えるのは確かに事実でしょう。しかし、それでもなお古びない文章技巧を見ることなく、表面を雑になぞり、中心の構図を見て腐すのは考えものです。アマチュアブロガーならまだしも、プロの書評家の仕事とは思えません。

 一応、小森収は「世界の中心で愛を叫んだけもの」にこう云っています。

しかしながら、私には、この小説の示すヴィジョンが、よく分からない。愛と憎悪、暴力と平和といったものは、相反しないとか、ともに在るといった程度のことで良ければ、それは問題がないのですが、それなら、そう言ってしまった方が早い。私がエリスンのSFを読んで行きつくのは、大山鳴動鼠一匹。もっとも、その大山鳴動ぶりが面白いというだけでいいのなら、問題はありません。

 好意的に解釈すれば、「文体が好きなひとなら問題ない」となるでしょうか。小森収エリスンの文体がそんなに好きではないのでしょう。それでも取り上げなければならない事情があったのならば、その内心の苦悩をお察しします(が、だからと云ってお粗末な評論を書いて良い理由にはなりません)。

 しかしそれでも、「大山鳴動して鼠一匹」と云う評価は酷い。エリスンが描くテーマはその技巧の複雑さに反して確かにナイーヴですが、そのナイーヴなまでの情念があの複雑な技巧で描かれるからこそ肺腑を突くのです。テーマに対してスタイルの必然性がわからない、と感じても、それでもなぜそう書いたのか、一歩進めて考えれば、見えてくるものもあるでしょう。わからない、と云って批判するのは誰にだってできます。

 と云うか、これは思いきりミステリに返ってきてしまう批判であることをわかっているのでしょうか。明かされてみればシンプルな構図も、複雑な論理や因果の絡み合いの果てに、それらがひとつの像を結ぶからこそ衝撃を与える――そんなミステリは少なくないはずです。ミステリやSFに限らず、シンプルな言葉を、しかしそれでは語り尽くせないと思ったからこそ技巧を尽くして語り上げる、それは小説のひとつの在り方であると思います。テーマと技巧についての《それなら、そう言ってしまった方が早い》と云う言葉は、ミステリ評論家として、ひいては小説を論じることを仕事にしている人間として「あり得ない」と云っておきましょう。

 

 エリスン評の最後に、小森収はこう述べます。

遠目から眺めただけにすぎない私の感想です。

 自分にとってSF作家エリスンが手に余るのであれば、ミステリとの関わりを取り上げるなどして、自分に近づける方法はあったはずです。遠くからしか眺められないのならば、遠くから眺めるなりに語れることもあったでしょう。粗末な評論を書くくらいならば、黙っていて欲しかった。遠くにあるものを遠くから眺めているだけなのに、本質を外れたことをのたまい、《遠くから眺めただけにすぎない》と云い訳じみて終わらせる、それはあまりにも不誠実です。

 

 私は、ハーラン・エリスンと云う作家が大好きです。その破天荒なキャラクターだけでなく、彼の小説が、彼の文体が大好きです。

 そんなファンの存在を無視して、そのキャラクター性によって評価されたとし、エリスンの名前は『危険なヴィジョン』の編纂者として残る――と云ってしまうのは、作家に対しても、ファンに対しても、ファンのみならずエリスンを評価する人びとに対しても、随分と馬鹿にした態度でしょう。作家のカリスマ性だけで伝説になれるほど、SFは甘いジャンルではありません。

 

 小森収と云う評論家への信頼が、この書評で一気に消えました。

 

 小森収は2019年に東京創元社から刊行が開始されると云う海外ミステリ短篇アンソロジーの編者を務めるそうです。企画そのものは非常に楽しみであり、選ばれた作品に罪はありませんが、大好きな作家に対してプロの書評家としての姿勢を疑うような評論を書いてしまった方が江戸川乱歩と肩を並べるのか――悲しいかな、エリスンにも通じるアンソロジー編纂と云う仕事で、です――と、いまから複雑な感情を抱えることになりました。

 

(敬称は全て略しました)

 

読書日記2019/05/15 エラリイ・クイーン『フォックス家の殺人』

 アメリカの田舎町ライツヴィルはにわかに沸き立っていた。この町に生まれ、第二次世界大戦で活躍した英雄――デイヴィー・フォックス大尉が帰還したのだ。しかし、彼を褒めそやし祭り上げる周囲に反して、デイヴィー自身は自らが犯した殺人の罪と戦争の悲惨さによって精神を病んでいた。ある夜、彼は妻の首を絞めたいと云う激しい衝動に駆られる。このままでは愛する妻を殺しかねない……。デイヴィーとその妻は解決策を求め、名探偵エラリイ・クイーンのもとを訪ねた。いわく、デイヴィーを襲う殺人衝動は、12年前、彼の母が殺された事件に起因しているのかも知れない。妻殺しの犯人として投獄された父親、その殺人者の血が流れていると思っているからこそ、戦争による心の傷が彼を殺人へと駆り立てるのではないか。だとすれば、デイヴィーの父親が殺人者でないことを証明すれば、デイヴィーの殺人衝動も治められる――。夫妻の思いに心動かされ、エラリイは捜査を開始する。

 今回取り上げるエラリイ・クイーン『フォックス家の殺人』*1は、以上のような発端からはじまる《回想の殺人》ものである。一応、現代でも事件は起こるものの、それも12年前の事件をエラリイが再捜査し出したことによって発生したものであり、物語の焦点が当てられているのはあくまでも過去の殺人事件だ。ひとりが捕まり、殺人者として裁かれ、人びとの記憶と書類の記録に埋もれてしまった事件。エラリイは当時の記録や証言者を当たりながら、過去を再構成し、事件を掘り返していく。

 ゆえに本作は終始、大きな動きや派手な展開がない。凄惨な死体も登場しなければ、難攻不落の不可能状況も、スリリングな犯人追跡も、何なら、華々しい真相解明さえ存在しない。エラリイの振る舞いも、初期国名からは見違えるほど大人しくなり、物語はセピア色をした背景のもと、哀しい静けさが付きまとう。過去の事件について、状況をひっくり返すのが絶望的に難しいと云う事実も、作品全体の悲愴さを強めている原因だ。物語の前半をかけてじっくりおこなわれる検証を通して、犯人が他にあり得ないこと、些細な穴も塞がっていることを示される。エラリイによる執拗な追及も、かえって状況を悪化させるだけ。単に解けない問題を解くことより、すでに答えが示された問題をひっくり返すことの方が、遙かに難しいと云うことだろう。

 12年もの間、止まっていた時間。それを再び動かすことは容易ではない。12年前の事件の舞台となった家は、事件以来ずっと放置されているが、電気も通っていない暗い家に降り積もった塵・埃は、長い時間の経過と、拭い去りがたい過去を示している。時間を経て凝り固まってしまったこの過去が現在へとようやくすくい上げられるのは、物語も終盤になってからだ。

 この終盤にいたってからの急展開を、唐突に感じる向きもあるだろう。最後に新情報が次々と出てくるからだ。真実を特定するための手がかりの多くが、この終盤に集中している。しかし、過去が動かしがたいものであることを語るにはこれだけのページが割かれなければならなかったし、過去をひっくり返すためには静止した時間が動き始めなければならなかったのだ。思い出の品が掘り返され、過去に対する新たな見方が投げかけらる、そうして止まっていた時間が動き始めた途端、ささやかな穴から堅牢な状況が氷解していく様は感動的だ。狭い隙間を縫う論理が、大いなる壁を崩壊させる昂奮。

 しかし、過去の事件が解き明かされた先、エラリイが辿り着いた真実は、あるいは事件を終わらせたままにしておいた方が良かったのではないか――そんな後悔さえ覚える残酷なものである。真実は解かれるべきだったのか? 真実は告げられるべきなのか?

 自らの手で突き止めた真実に対してエラリイが取った選択は、名探偵と云う存在の責任を読み手に提示する。

 本作を読んで、同時期に発表され、同じく《回想の殺人》に挑んだアガサ・クリスティー『五匹の子豚』を連想するひとも少なくないはずだ。けれども、あのラストでエラリイに迫られる決断と彼の選択は、自分にはむしろ『象は忘れない』を思い起こさせた*2。『象』もまた過去の事件が解き明かされ、最後に「真実は告げられるべきか?」と云う問いが投げかけられる。

 もちろん、『フォックス家』と『象』では、真実の重みが異なるので、簡単に並べて較べることはできない。だが、過去の真実を眠らせることで未来を守るのか、過去の真実を暴くことで未来を向くのか――その選択の違いを考えると、同じ《回想の殺人》をテーマとしていても、探偵による、作家による差異が浮かび上がってくる*3

フォックス家の殺人

フォックス家の殺人

 
五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 
象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

*1:ハヤカワ文庫なので「エラリー」ではなく「エラリイ」

*2:偶然の一致かも知れないが、『フォックス家』を含め、いずれも動物がらみのタイトルである

*3:これ以上踏み込むと細かく比較して検討しないとならず、面倒臭いのでここまで

読書日記2019/05/13 ドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』

 前回の投稿が46日前だから、ほとんど1ヶ月半ぶりの更新だ。1ヶ月に一度は更新したいと述べておきながら、上半期を終えることもなくこの体たらく……、忸怩たる思いがある。これからはもっと更新頻度を上げたいですね。

 

 最近、海外長篇ミステリを読みたいと云うモチベーションが高まっているので、まずはドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』を手に取った。ピーター・ウィムジイ卿シリーズの第9作で、英国古典ミステリの傑作として名高い――他を読んだことがないので周囲の評判をそのまま書いています――この作品は、重厚で荘厳な趣を持った大長篇だが、読み手を選ぶような難解さ・複雑さはない。登場人物の多さやいささか癖のある文体に慣れさえすれば、むしろ親しみやすい部類に入るだろう。

 物語の幕開けを報せるのは、吹雪の大晦日に鳴らされる鐘である。小さな村に流行る流感がおさまってくれるよう、教会で鳴らされる祈りの鐘。偶然村を訪れ、鐘の演奏に立ち会ったピーター・ウィムジイ卿も、その神さびた鐘と、それを有する荘厳な教会に感激する。この大晦日から年始にかけてのエピソード自体は、特に事件も起こらない穏やかな場面だ。しかし、序章の終り、ピーター卿が村を離れるのと入れ違いに村へやって来た謎の人物が、不穏なものを運んでくる。

 そして、雪が解けた春。長く病の床に臥していたサー・ヘンリーがついに亡くなり、追悼の鐘が鳴らされたとき、再び物語が動き出す。彼を埋葬するため妻の墓を掘り返したところ、そこから身許不明の死体が出てきたのだ――。

 本作の事件の特徴は、全体の曖昧さだ。死体は誰のものかわからず、死因も、死んだ状況も判然としない。ミステリはまず事件の姿(らしきもの)を読者に見せた後で、それをひっくり返すと云う構造を取ることが多いが、本作の場合、まず事件そのものにつかみどころがないのだ。村の住人の関係や、徐々に解き明かされていく因果も、ひとつのはっきりとした謎へと像を結ばず、何かを掴んだと思っても、手からするりと抜けてしまう。デフォルメされた人物像やわかりやすい物語を逆手にとって読み手を騙すクリスティー流のミステリとは対照的に、本作はミスディレクションダブルミーニングを仕掛けない。複数の事件が何の因果かひとつの大きな形を取ってしまった物語を順に追っていく。それでも物語が取り留めないものとなっていないのは、目の前の謎を捜査すると云う地道な過程に加えて、事件が存在している村を――ひいては村から背景として見える世界全体をも丁寧に構築しているからだろう。

 物語はフェンチャーチ・セント・ポールと云う村を舞台としているけれど、事件は村に収束することはなく、いわゆる村ミステリのような閉塞感はない。読んでいて浮かび上がるのは、閉ざされた小さな村ではなく、どこまでも広がる平らな世界であり、そこに境界線を引くことは――大いなる世界を前にしては――無意味だ。実際、事件の因果の糸は海峡を渡ってフランスにまで伸びているし、その向こうには第一次世界大戦の灰燼がくすぶっている。捜査が進展するにつれ、視点が上へ上へとつり上がっていき、人を超えた何かによって俯瞰されているような印象を与える。そこにいては探偵さえも、無力な小さな人間に過ぎない。

 この印象を決定的にするのは、鐘と洪水と云う存在だ。こんがらがった因果を一顧だにせず村の全てを飲み込んでしまう洪水、それと共に鳴らされる警鐘。そして水浸しとなった世界には、鎮魂の鐘が響く――。事件の最後の謎が解き明かされるのは、このヴィジョンが展開された瞬間である。因果の糸をたぐり寄せた先に残された孔、そこにはめられた最後のピースは、謎の全てを説明づけていながら、大いなる世界とそれを見そなわす「何か」の存在を感じさせる。

 古い教会や神社、あるいは古くからある森林や河川を訪ねると、自分が何かに見られているような気がする。それを霊験あらたかだとか、神秘的だとかと云うのだろうけれども、その「何か」への畏れは、容易く不気味さへの恐れに転じるだろう。本作のラストで明かされる真実に抱くのはそのような恐れ/畏れだ。

 ミステリとして全てを解き明かすことで、本作は、かえって説明の付かない「何か」を現出せしめている。

ナイン・テイラーズ (創元推理文庫)

ナイン・テイラーズ (創元推理文庫)

 

週刊少年サンデーの現状についての雑感

まえがき

「『少年サンデー』を毎週読んでいる」

 そう云うと、初めて聞く相手は大概驚く。どうも自分は、漫画を、とりわけサンデーを購読するような人間には見えないらしい。確かに、自分の趣味の傾向からしても、その発想は不自然なものではないし、自分自身、漫画を読むとしても青年漫画や『ハルタ』(KADOKAWA)などの方が好きだろうと自覚している。

 そんな自分がなぜサンデーを読んでいるかと云えば、兄の影響だ。もともとサンデーは兄が購読しており、自分はそれを読んでいた。いつしか兄はサンデーを読まなくなったが、週に一度サンデーを読むことが習慣化していた自分は、それからもサンデーを読み続けた。サンデーとの付き合いは、もう十年ほどになる。その間、読むのをやめた時期は一度もないはずだ。

 自分の趣味ではない漫画雑誌をずっと読み続ける。これはなかなか得られる経験ではない。加えてサンデーは、自分の周囲では現在進行形で定期購読している人間がひとりもいない。ここはひとつ、いまのサンデーがどうなっているのか、それを自分はどう捉えているのか、語ってみても良いだろうと考えた。以下は、現在のサンデー連載作品への雑感である。

 あらかじめことわっておくが、自分は漫画に詳しいわけではない。較べる対象も、数少ない漫画読書経験と、過去のサンデー作品しかない。漫画評論としてのレベルは、あまり期待しないでください。

 取り上げる順番は五十音順である。

 

『あおざくら 防衛大学校物語』二階堂ヒカル

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 防衛大学を舞台にした青春学園ストーリー。金銭的な苦しさと何か大きなことをしたいと云う思いから防衛大に入学した青年が、厳しい大学生活を通じて仲間と共に成長していく。

 読者の多くにとって非日常であろう学校で、その特殊さならではの青春と、それでも若人たちが抱える普遍の苦悩と成長を描くと云うのは、荒川弘銀の匙』にも通じるが、農業高校と防衛大学の性質の違いに留まらず、キャラクターや彼らの熱さ・青さ・馬鹿さ・弱さの描き方によって、差別化はできているように思う。当初懸念していた愛国主義的思想への偏りもあまり見られず、いまのところはそれぞれのキャラクターを描きながら彼らが何を守りたいのか、どんな大人になりたいのかに焦点を合わせ、あくまで彼らの青春からぶれていないのが好印象。

 作者の二階堂ヒカルは以前サンデーで『ヘブンズランナーアキラ』を連載していた。当初はギャグ漫画としてはじまりながら、いつの間にか熱さほとばしる陸上漫画になっていた作品であり、おそらく後者の方が作者の本領なのだろう。『ヘブンズ~』の、ギャグと青春が混ざり合って混沌とした味わいも嫌いではなかったが。

 

『アノナツ -1959-』福井あしび

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 現代の高校球児が、1959年にタイムスリップ。名選手であった祖父と出会う。

 すっかり掘り尽くされたと思われた野球漫画に、時間SFの仕掛けを取り込んだユニークな作品(前例はあるのかも知れないが)。現代の野球理論で圧倒するような事態にはいまのところなっておらず、異世界転生的チートが好きではない自分にとってそこは一安心である。どこまで続けるのかわからないが、物語はまだまだ序盤、いまの時点で作品全体に何らかの評価を下すことはできない。

 ただ気になる点が一つ。この作品、全然続きが気にならないのだ。高校球児だった祖父が甲子園で優勝することは第一話、現代で明かされており、祖父と孫が時を超えて協力し甲子園優勝を目指し、しかもそれが達成されるのであろうことは見当が付く。すくなくとも、どうせそうなるのだろう、と云う予想を裏切ってくれていない。タイムスリップしてすわ歴史改変かと思われたが何だかんだでもとの歴史に収まる――と云う物語は沢山ある。野球漫画でそれをおこなうと云う斬新さだけでは(野球にあまり興味がない身としては)、興味を惹くにはまだ足りない。これから独自の魅力を築けることに期待したい。

 

天野めぐみはスキだらけ!ねこぐち

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 豊満な肉体を持った女子と、彼女の無自覚な誘惑に悶々する男子のラブコメ。少年漫画雑誌なら常にひとつはあるエロ枠である。

天野めぐみ』の特徴は、その健全さと日常性にある。女の子たちが裸になったり、性的に襲われたりと云った、あからさまなエロを描くことはあまりない。直接的な描写がないだけでほとんど成年向け漫画――と云う事態にはならず、ジャンプの某幽霊のアレなどとは差別化しつつ、日常の中のエロを追及する。例えば、前屈みになって胸元が見えてしまう、ちょっとしたことで身体に触ってしまう、と云った具合。その健全さが微笑ましい。

 このように、エロ枠としては大変好ましい作品だが、自分が気になるのは、男のキャラクターである。東大を目指していると云う彼の勉強法はしゃにむに勉強すると云うもので、見ていて危なっかしい。あんな非効率なやり方をすれば、受かる大学も受かるまい。頭もちょっと固いようだ。苦境に陥っても読者として応援より心配がまさってしまうキャラクター造形は、いささか失敗しているのではないかと思う。自分が大学受験にいろいろなトラウマがあるからと云えば、それまでだが……。ヒロインの隙たっぷりな振る舞いに妄想たくましくしている部分は、年相応で好感が持てる。

 

『妹りれき』西村啓

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 妹の検索履歴を見られるようになった兄が、それを通じて完璧美人に思われていた妹の新たな一面を知っていくギャグ漫画。

 完璧な外見と天然気味な内面とのギャップが可笑しく、可愛らしい。クスリとしてしまうギャグセンスも悪くない。が、次が読みたくなるほどの求心力は持てていない。『アノナツ』とは別の意味で、続きが気にならない。強いて云えば、twitterで流れてくる数ページのコンセプト先行な漫画に近い。twitterと云う場であればそれはひとつの強さだが、週刊雑誌では吉と出るだろうか?

 現在サンデーには、大きな柱を持たない本作のような一話完結形式の作品が増えたように思う。それを目当てに読むメインディッシュではなく、掲載していれば安心し、つい読んでしまう酒の肴のような作品。その存在自体は良いが、増えすぎるのは良いと思えない。次の号を買うモチベーションが惰性に近いものになるからだ。

 

『水女神(ウンディーネ)は今日も恋をするか?』三簾真也

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 水不足にあえぐ砂漠の国では、水を作り出せる能力を持った少女が重宝されていた。なんと彼女は恋にときめくことによって、能力が活性化すると云う。彼女と両思いである少年は、彼女をときめかせることができるだろうか……。

 第一話を読んで、大丈夫かサンデー、と本気で危惧した。恋にときめくことで身体から水が噴出するのだが、描き方が妙に性的で、あまりに安直なメタファーに思えたのだ。流石に何か云われたのか、現在は性的な描写は控えめになり、互いに恋を自覚しながら関係を深められない少年少女のもどかしい恋愛が主軸になっている。

 まだまだ序盤だが、こちらもtwitter漫画的なのが気になる。コンセプト先行から脱して、各キャラクターで物語を動かせるようになるかがポイントだろう。後に述べるが、『魔王城でおやすみ』などはその点、成功している。

 

君は008松江名俊

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 優秀なエージェントを父に持つ少年。彼はエージェント養成学校でエージェントとして成長し、仲間と友情を育み、父の死の真相に迫る一方で、世界の闇と対峙することになる。

 この作品を読むと、過去作にして代表作の『史上最強の弟子ケンイチ』がいかに王道少年漫画的熱さと無茶苦茶なほら吹きとを絶妙なバランスで成り立たせていたかわかってしまう。画力の高さ、男性の格好良さ、女性の美しさ(過剰な性的さは気になるが)、そして王道の熱さは本作でも健在だが、諜報員と云う設定を持ち出しておきながら国家間の虚々実々のやりとりなどなく、絶対的悪を登場させ、エージェントをそれと戦う正義の立場としてしまうのはかなり安易ではないだろうか。細かい設定だけ入れ替えて、全体の構図は過去作と共通しているように感じる。何か新しいものを見せてくれるかと期待していたが、ついに予想を超えることなく物語は世界説明からメインに移ってしまった。

 ただ、個々のエピソードや瞬間的な戦闘・ラブコメはやはり面白い。単行本を買おうとは思えないものの、載っていると読んでしまう。週刊連載としてはそれはそれで正しいのかも知れない。

 

銀の匙荒川弘

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 説明不要の大人気農業高校青春グラフィティ。長期休載を度々挟みつつ、物語はまだ続いている。普段は連載が続いていることも忘れてしまっているが、掲載されるとやはり面白く、毎週続きを楽しみにしてしまう。

 もう物語は終盤。『マギ』などに続き、サンデーはまた大きな柱を失うことになりそうだ。代わりに生まれているのが前述した一話完結式漫画なので、読者の心配は募る。
 なんだかネガティヴな話ばかりしているな……。

 

『クロノマギア ∞の歯車』ストーリー原作=河本ほむら・武野光 作画=東毅

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 原作はクロノマギアと云うデジタルカードゲーム。全く知らないので、どこまで原作要素を取り入れているのかわからない。ただ少なくともこの漫画版は、あまり面白くない。

 作画は『電波教師』の東毅だが、あの作品は画よりも魅力的なキャラクターたちと彼らの織りなす愉快な物語こそ魅力だったはずだ。それを作画担当にとどめてしまうのは、なんとも勿体ないように思う(もしかすると、原作にまで口を出せているのかも知れないが)。加えて、いざ読んでみると戦闘描写などは正直云ってあまり巧くなく、本領を発揮させてもらっていない東の扱いはいっそ可哀想なほどだ。

 ストーリーも上出来とは思えないが、序盤で読むのをやめてからは毎週流し読みしかしていないので、具体的なことは述べない。

 

五分後の世界福田宏

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 双子の少年と幼馴染みの少女。ずっと続くと思っていた3人の日常は、あるとき突然壊れた――。サンデーで続きが気になっている作品のひとつ。第一話の衝撃が半端ではないので、なるべく前情報を仕入れずに読んで欲しい。

 ひとつ云えるとすれば、前作『ムシブギョー』同様、生理的嫌悪を催す敵による絶望感が、さらに強調されていること。前作の面白さを踏襲しつつ、新たな境地を切り開いており、その点でも好感が持てる。

 物語は確かに進み、謎は解明されているのに、物語の行く先がさっぱりわからないのも見どころ。わりあい論理的に漫画を描く作家だと思うので、これからにも充分期待できるだろう。

 

古見さんは、コミュ症です。オダトモヒト

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 優れた容姿と並外れたスペックを持ちながらコミュニケーションが苦手な少女を主人公としたラブコメディ。とても面白いが、本作の人気が出たから同様の一話完結式コメディが増えたのではないかと邪推している。

 強烈にデフォルメされたキャラクターたちによるわかりやすさが、陳腐さではなく親しみやすさとして機能しているのが作者の巧さだろう。名前と一コマの描写だけでキャラクターを構築してしまうテンポの良さと、彼らが生み出す笑いと甘酸っぱさの絶妙な塩梅は一貫してレベルが高い。一話完結式ではあるが、メインの少年少女のもどかしい恋愛模様もしっかり描かれているので、続きも気になる。このままだれることなく、三年生の卒業まで走りきって欲しい。

 

『switch』波切敦

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 天才的なバスケットボールプレイヤーである兄と、双子でありながら存在する才能の違いに劣等感を覚える弟。だがあることをきっかけに、ふたりの立場は入れ替わる――。連載陣の中でも問題点が多い作品。悪くない部分も少なくないだけに、余計粗が目立つ。

 まず、弟のキャラクターに難がある。兄へのコンプレックスを抱えるのは良いし、それで文化系を気取るのも良い、だが実際は文化系を演じていただけで、人知れずバスケの練習を重ねていました、となれば話は違う。冒頭でこの事実が明かされたとき、スポーツから縁遠い世界で生きてきた自分にとってはじめに抱いたのは、怒りだった。読書やゲームに自分の居場所を見出している人間にとって、演じていただけ、としてきっかけひとつで居場所を体育会系的バスケに切り替えてしまうキャラクターに好感は持てない。何より、そう云う造形を大したフォローもなくやってしまう作者の姿勢に怒りを覚える。天才肌の兄と努力家の弟、として区別を図ることも可能だったはずだし、ふたりの違いと双子だからこその同一性のバランスこそ作者の腕の見せ所だろう。そのあたりをとても雑に描いてしまっているように思う。

 加えて、バスケ描写も問題だ。自分はバスケに疎いが、少なくとも本作のように必殺技的な特殊能力がバンバン出てくるものではないことくらいはわかる。リアルさを捨てて漫画表現ならではの面白さを追及するにしても、思い切りが足りない。結果、大枠は普通のバスケ漫画なのに、試合になった途端、不思議な名前の必殺技(「黒き監獄」って何?)が登場する――と云うアンバランスな事態になっている。

 最近では、前回敵だったキャラクターが味方につくまでの一連の過程などは充分面白かったし、良い部分がないわけではない。バランスの悪さも、リアルに走ろうと奇想に走ろうともっと面白い前例があると云う現状、仕方ないのかも知れない。以上挙げた他にも存在する細かな粗をなくせば、少なくともストレスなく読めるようになると思うのだが……。

 

絶対可憐チルドレン椎名高志

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名探偵コナン』に次ぐ長期連載。どう決着を付けようとしているのかは見えてきたが、最終回にはもう少し時間がかかりそうだ。

 サンデーを読み始めた頃からずっと連載しているため、最早空気のようにそこにあるのが当たり前な存在になっている。熱心に読んでいるわけではないが、もし最終回を迎えたらちょっとした喪失感に襲われるだろう。少なくとも最近は惰性に陥ることもなく、伏線をはったり回収したりしつつ、エスパーとノーマルの対立や人間の心の在り方など、テーマもしっかり掘り下げて、一定の面白さを維持しいる。流石の安定感。

 

蒼穹のアリアドネ八木教広

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 大きな戦争が終わった後の時代。かつて兵器として生み出された少年は人里離れた地でひっそりと暮らしていたが、広い世界への憧れを持ち続けていた。そんなある日、彼は宙に浮く能力を持った少女と出会う――。

 第一話は、「ボーイミーツガールSF冒険ジュヴナイル」として完璧と云って良い。世界観を提示しつつ少年と少女のキャラクターを立て、魅力的な設定と王道のストーリーで引き込んで、これからの旅と大いなる物語のはじまりを予感させる。リンク先から試し読みできるので是非。

 正直、第一話で最高潮にあがったテンションは話が進むにつれ低迷していくのだが、最近は持ち直してきた。SFバトルよりも、世界設定とそこで生きる人間たちの描き方に力を入れはじめたからだ。とりわけ最近のエピソードである、ドラゴンとそれを狩る種族のシステムは、予想を超えてきた上に倫理的に重いテーマを(少年漫画的熱さを忘れることなく)描いていて興味深い。広い世界のいろいろな価値観と出会いながら、ままならない運命をはねのけつつ、ふたりの旅路はこれからも続く。

 

双亡亭壊すべし藤田和日郎

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 どんな手段を講じても壊せない屋敷。そこに眠るのは一体……。

 巨匠が新たに手がけるホラーアクション。さらに和風ファンタジーやSFの要素も取り込んで物語は混沌とするが、縦軸は人間の強さと想いによって貫かれており少年漫画として充分面白く読める。この気持ち悪さと熱さの絶妙なバランスが堪らない。

 何より強烈なのはラスボス・坂巻泥怒のキャラクター。妄執とプライドと愛情と憎しみと、いずれも激しいそれらが内包された彼の個性は、色んな意味で強すぎる。漫画がどのような結末を迎えようと、彼のことは忘れがたい存在になるのは間違いない。

 

『第九の波濤』草場道輝

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 都会っ子だった少年は、ひょんなことから水産大学に入ることに。良き仲間たちに囲まれ、はじめは戸惑いを覚えていた彼もやがて成長していく。

銀の匙』『あおざくら』と同系統だが、過剰なデフォルメを廃しつつ、その緩やかさと誠実さ、リアリティで独自の味をしっかり出している。スロースタート気味だが、各々のキャラクターが構築されたいまはそれぞれの成長と苦悩が非常に面白い。個人的にはもっと親しまれても良い作品だと思う。サッカー漫画描いていた頃より好感が持てるのは、題材がぐっと身近になったからだろうか。地味ながら手堅い。

 

探偵ゼノと七つの殺人密室』原作=七月鏡一 作画=杉山鉄兵

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 建築家にして犯罪コンサルタントであった男が自分の作品の中に紛れ込ませたと云う《殺人密室》。建物自体が殺人のために機能する恐るべきそれらに、記憶をなくした名探偵が立ち向かう――。

 ミステリ漫画としては、現在コナンより好感を持っている。ラブコメなどに走らないソリッドな作風や、帝政が続いているらしい世界観、時折飛び道具のように不意を突いてくる展開が持ち味。メインである《殺人密室》のトリックはギャグ一歩手前のはちゃめちゃなものだが、長篇エピソードの合間、幕間劇のように挟まる短篇はミステリとして面白く読める(とりわけ「あの女を殺した日」のはなれわざは見事)。メインの方も、最近はミステリをしっかり描こうと云う気概が伝わってきて、とくに隠神島のエピソードは予想を裏切る展開の畳かけで非常に楽しかった。これからにも期待したいミステリ漫画である。

 

トニカクカワイイ畑健二郎

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 とにかく可愛い少女と彼女に命を救われた少年、ふたりはある日突然結婚することに。『ハヤテのごとく』と云う長期連載を終えた畑健二郎が隠居生活に入ったような、ゆるめの新婚生活漫画である。

 後半はもう何をやりたいのか混乱していた印象が否めない『ハヤテのごとく』と違い、可愛い女の子とのイチャイチャが描きたい、と云う目的がはじめからいままで一切ぶれていない。少女の正体については小出しにされている情報からしてシリアスに持ち込めそうだが、いまはがっつりそこに踏み込む気配はなさそうだ。方針が定まっているからか、ギャグの切れもかなり良くなり、毎回クスリとしてしまう。そうそう、こう云うので良いんです。

 

『BIRDMEN』田辺イエロウ

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 町で噂の《鳥男》。屈託を抱えた少年少女たちは、図らずもその噂の真実に巻き込まれてゆく。

 サンデー連載陣と較べるまでもなく、圧倒的面白さを誇るSFジュヴナイル巨編。序盤こそスロースタートだが、キャラクターたちの心理や伏線、謎と設定の提示をひとつとして疎かにしないその着実な足取りは、やがてとんでもないヴィジョンを展開する。ストーリーだけでなく、コマ割、演出、台詞回しも細部まで考え抜かれており、隙がない。第一話から最新話まで、一話も面白くない回がないのだ。

 しかしその割に名前が知られていないのは、その面白さの説明が非常に難しいからか。本作は、どうせこうなるだろう、と云う読者の予想を少しずつ裏切り、王道や定石をなぞらない。だからと云って、斜に構えているわけでもない。キャラクターひとりひとりが抱える物語がいくつかの流れを造り、大いなる物語へと発展していく様を描く筆致はむしろ極めて誠実だ。世界の変容が加速する一方、それぞれの物語はむしろ解像度を増していく。驚異的なストーリーテリングの巧さ!

 そんなわけで、本作の面白さを確かめるにはまず読んでもらうのが手っ取り早いだろう。現在、次のリンク先で3巻まで無料で読むことが可能である。

www.sunday-webry.com

 3巻ラストに登場する《EDEN》が本篇に絡みはじめたあたりから物語は加速する。ぜひ、そこまで見届けていただきたい。

 

初恋ゾンビ峰浪りょう

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 男は初恋をすると、その相手をモデルにした守護霊のような《初恋ゾンビ》を得る。彼女たちの存在は普通知られていないが、主人公の少年は額の怪我をきっっかけに、見ることができるようになり……。

初恋ゾンビ》と云う特殊設定をこれでもかと使い倒したラブコメディ。序盤で驚きの――少なくとも、自分は初読時に驚いた――展開があるのであまり深くは触れないが、一見すると一発ネタで終わりそうな設定を、かなり巧く利用して展開を作り出し、作品の根幹のテーマにも繋げている。個人的に面白く感じたのは、主人公自身の初恋ゾンビの存在だ。妄想が生んだ守護霊である彼女は、物語が進むにつれ、どんどん自我を獲得していく。自分の妄想を愛せるか――こんな問いまで投げかけてしまう本作はスペキュレイティヴ・フィクションの趣も漂う。

 なお本作は今週3月27日発売のサンデーでめでたく最終回を迎えた。難しいテーマも孕みながら、物語と誠実に向き合い続け、至ることが出来た良いラストだと思う。

 

『BE BLUES!~青になれ~』田中モトユキ

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 幼い頃から日本代表を目指し、日々の特訓に余念がない少年。次々と襲い来る逆境を乗り越えて、彼は未来を見つめ続ける――。イチロー的サッカー少年の一代記、現在は高校編。

 サッカーのルールはよくわからないし(オフサイドって何?)、競技への関心も薄いのだが、それでも、本作は充分面白いと思う。興味がない人間を引き込むだけでも、筆力の高さがうかがえる。画の巧さ、展開の巧さ、キャラ立ての巧さ、いずれもハイレベルで、連載陣の中でも信頼を置ける作品のひとつだ。

 本作の面白さのひとつは、必殺技や派手なプレーを極力廃し、素人なら何がすごいのかわかりづらいはずのテクニックを重視しながら、各々のすごさが表現されている点。かと云って詳しい解説をおこなうわけでもなく、実写なら地味な画を絵によって鮮やかな瞬間として捉え、すごいことが起こっていると云うことを端的に説明してしまう。作者側に高い技量がなければできないことだ。

 もうひとつ、面白いのは主人公の造形。まず、彼は平凡ではない。けれど、天才肌として描かれるわけでもない。前述したが、冷静に理論と計画を組み立て、着実に実行に移し、見事に目標を達成していくその姿はイチローも彷彿とさせる。その隙の無さ、出来すぎ具合はいっそ気持ち悪いほどで、読者側の感情移入を拒んでいる節がある。しかし、実際に大成するのはそう云う人間なのだ。このリアルさがたまらない。登場する女の子たちが軒並み彼に惚れていくのもリアルだ。他の男キャラにはフラグなんてほとんど立たない。それが哀しいほどにリアルで、素晴らしい。

 難点があるとすれば、試合に入ると展開が遅くなることだろう。これはスポーツ漫画の常ではあるが。

 

『FIRE RABBIT!!』ひらかわあや

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 プロゲーマー志望だった少年は、命を賭して自分を救ってくれた消防士の意志を継ぐようにして、消防士を目指す。

 作者のひらかわあやはこれで連載3作目(いずれもサンデー)。可愛らしい絵柄で特殊な仕事と業界を舞台とするのが特徴である。前作『天使とアクト!』は声優、前々作『國崎出雲の事情』は歌舞伎をメインに、漫画ならではの表現を駆使してその魅力やドラマを描いてきた。本作も消防士漫画だが、リアルではない漫画的フィクションを多々含んだ、それでいて消防士の漫画としか表現できない、特異なひらかわあや流の消防士世界を構築している。

 キャラクターの立て方などが自分の好みからは外れてしまうが、特殊な業界を扱いながら広く支持されるような物語を作るその技量は高い。

 

保安官エヴァンスの嘘栗山ミヅキ

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 開拓時代のアメリカ西部。一流のガンマンでありながら、モテたいと云うだけで保安官になった男の勘違いコメディ。

 舞台こそ西部劇ではあるのだが現代日本的恋愛観で占められており、時折「なんでガンマンなの?」と疑問も浮かぶが、ガンマンとしての高い力量があるからこそ、こと人間関係になると弱くなるギャップが映えるのだろう。内面描写やナレーションによるツッコミがなければ、主人公は普通にイケメンである。女にもてるかは別として。

 基本一話完結式のギャグ漫画だが、サンデー連載陣の同様の作品に較べるとギャグのセンスが飛び抜けて良い。毎回、勘違いが勘違いを呼びながらなんだかんだ一件落着してしまう、良質なコメディに仕上がっている。若干マンネリの兆しが見えてきたのが心配だが、新キャラクターたちで巻き返しできるだろうか。

 

舞妓さんちのまかないさん小山愛子

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 京都の舞妓さんたちが暮らす《屋形》で、まかない係としてはたらく少女。彼女の作る美味しい料理が、きょうも舞妓たちを支える。

 大きなドラマなどはほとんどないものの、ゆったりとした日常と京都の四季、舞妓の世界に生きる少女たちを丁寧に優しく描いた、滋味深い作品。毎回「ほっこりする」と云う形容がぴったり合う。ここまで結構な作品を腐してしまったが、そんな自分がひどく醜く思えるほど清らかで、綺麗だ。

 一応、少女たちの甘酸っぱい関係なんかもあるのだけれど、その酸っぱさも鋭すぎることはなく、柔らかな空気感が作品全体を包み込んでいる。毎週サンデーを読むときは、本作でほっと息をつくのが恒例。それを狙ってかは知らないが、ちょうど中間に来ることも多いように思う。

 

魔王城でおやすみ熊之股鍵次

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 魔王に囚われた姫。しかし彼女の一番の悩みは、牢獄の環境が最悪なせいで、安眠できないことだった――! 一話完結式のギャグ漫画だが、ゆるゆる続いて気付けば単行本も10巻。まさかこんなに続くとは思っていなかった。

 あれこれ悪戯をやらかすものの、愛嬌で許される姫が好き放題するうちに魔王城の男どもを攻略していくラブコメ、とも読めるだろうか。はじめは「睡眠」をテーマに絞ったギャグで進めていたが、そのうち勘違いやすれ違い、ラブコメ的ネタも投入して、当初のコンセプトに縛られることなくキャラクターと設定でギャグを回している。そのさりげなさが巧い。いまのところ面白いし、話自体はいつでも終わることが可能、と云うある意味最高の状態である。後はこれで、やれることをやり切った果てに潔く終われば云うことはない。

 

名探偵コナン青山剛昌

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 サンデー最古参のラブコメ漫画。よく殺人が起こって推理する。

 一応ラスボスの名前は明かされたし、物語を進めていこうと云う意志もうかがえるのだが、『名探偵コナン』の無いサンデーは想像が付かない。安室透の大波に乗りながら、まだまだ続くのではないだろうか。

 前述したとおり、ミステリとしての質を求めるならば現状、他を当たった方が良い。悪くないエピソードもあるにはあるのだが、その評価も(最近のコナンの中では)と云う括弧書きが付いてしまう。それでも時々、ヒットを打ってくれることがあるので侮れない。結局、毎週読むことになる。

 

名探偵コナン ゼロの日常』新井隆広

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 安室透がイケメン――第一話から最新話まで、高い画力で、ずっと、ひたすらに、それだけを描いている。すごい。スピンオフは普通、そのキャラをじっくり掘り下げるものだと思うが、本作は「安室がイケメン」と云う期待に応えるために存在している。稀に踏み込むこともあるが、あくまで物語が描こうとしているのは「安室がイケメン」、それのみだ。いっそ好感が持てる。

名探偵コナン』において安室がどれだけ大きい存在なのかわかりづらい方は、pixivの小説ランキングを見てみると良い。上位を占めるのは大体コナン関連、その多くが安室関連である。初めてそれを見たとき、「安室の女」などと云う言説を冗談半分に聞き流していた自分を恥ずかしく思った。安室は最早、コナンに限らず絶大な人気を誇る、重要なキャラクターなのだ。道理で頻繁にサンデーの表紙を飾るわけだ。

 妙に斜に構えた文章になってしまったが、これは決して、皮肉ではない。安室はいまのサンデーを支えてくれている偉大な存在であるし、本作で描かれる安室のイケメンっぷりには男である自分も感服してしまう。これからもそのイケメンっぷりで、サンデーを支えて欲しい。

 

MAJOR 2nd満田拓也

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 大人気野球漫画『MAJOR』の続篇。あの男の息子による、新たなる野球物語。

 この作者は、読者から求められているであろうスポーツ漫画を描きながら、断じて過去作の焼き直しをしない。その挑戦の姿勢が素晴らしい。本作も、長く続いた名作の続篇としての要件を満たしながら、独自の面白さを獲得している。

 現在は長期休載中。再開が待たれる。

 

湯神くんには友達がいない佐倉準

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 我が強く、自己完結しがちな少年と、彼に振り回される周囲の人々を描くお一人様コメディ。

 ちょっとした関係のこじれが波及して大きな問題になっていく過程の自然さ、人間の面倒くささや人間関係の鬱陶しさを笑いに変えてしまう巧さに、作者の洞察力がうかがえる。見る人によって人間の印象なんて容易く変わるし、人間の性格なんて一面的なものではない――この厄介さを、作者は見事に捉え、コメディとして描いてみせるのだ。

 人間は決して綺麗なものではないし、基本的にはみんな薄情で、どんな関係も儚い。けれどそれでも、良いことはあるし、大切なことがある――斜に構えているようで誠実な、この人間観が癖になる。

 

妖怪ギガ佐藤さつき

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 妖怪たちの悲喜こもごもなドラマをオムニバス形式で描く短篇集。

 妖怪よりも怖い人間や、人間よりも怖い妖怪、人間と妖怪の切ない恋、人間と妖怪の愉快な関係……。様々な形で描かれる、ひとと妖怪の姿。恐ろしさと可愛らしさが同居した絵柄で綴られる彼らは、ひとひとりが愛おしい。小粒だが、愛に満ちた作品だと思う。

 定期的に描かれる縦軸のエピソードで読み手の興味を引き続けるのも心憎い手法だ。なるべく悲惨な結末にはならないことを願うばかりだが……、同じ筆致でハッピーエンドもバッドエンドも描いてしまう作品なので、最後まで目が離せない。

 

『RYOKO』三ツ橋快人

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 食材が自我を持つようになった世界に生きる少女と家族のサバイバルライフ。荒削りな部分もあるが、細かな瑕疵を気にさせないだけの熱量がほとばしっている。

 まず、食材が襲ってくると云う設定が良い。怪獣化した野菜や海の幸を狩る、そのシュールながらシリアスな画のインパクトで面白く読めてしまう。白米のラスボス感が半端ではないし、ブロッコリーの長老感も良い。文字に起こすとギャグなのに、作中では生きるか死ぬかの物語なのだ。このギャップが魅力である。

 どこまで続けるつもりかはわからないが、物語はおそらく後半戦。長期化してだれてしまうより、これくらいの長さで綺麗にまとめ上げて欲しい。

 

 以上、他にも連載企画はあるが、現状のサンデーに対する自分の印象はざっとこんなものである。思ったよりも分量が多くなったので、総評として長く語るのはやめておきたい。お付き合いいただきありがとうございました。

 

週刊少年サンデー 2019年 4/10 号 [雑誌]

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