鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

ジキルとハイド

いろいろと思い出したことなどを、断片的に。



先日、Fridays For Future Kyotoによる気候変動についての交流会に参加した。久しぶりにひとと会う活動をしたので足を動かしただけでもう気力が残って折らず、後半のマーチには参加しなかったけれども、交流会に参加しただけでも良かったと思った。語られた内容は講義で聴いたような話ばかりだったが、講義では気候変動をどこか遠いことのように聴いてしまう、と云うか、この問題を真剣に考えているひとたちが隣にいると云うだけで、問題との距離を考え直すことができた。


 

本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題も現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。

――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房

 



交流会でも話したことに通じるのだが、子供のころの話を。ぼくが小学生のとき、つまりちょうどゼロ年代の後半、マスメディアでは地球温暖化をはじめとした環境問題が頻繁に取り上げられていた。海面が上昇する。未知の感染症が広がる。未曾有の災害が発生する。資源が枯れる。あの頃、まだ小さかったぼくは、もう自分に未来はないのだ、と思っていた。



あるテレビ番組の記憶がある。何かと楽観的なキャラクターと何かと不安を煽るキャラクターが、あり得べき未来について交代で語る。前者はジキルと呼ばれ、明るい未来の話を。後者はハイドと呼ばれ、暗い未来の話を語った。――と云うことらしいのだが、ぼくはジキルを見た憶えが一度もない。彼がやたらと楽観的であると云う話も伝聞に過ぎない。毎週見ているわけではなかったから、たまたまではあるのだろう。それは自分でもわかっていた。しかしだからこそ、ぼくはあの番組が嫌で仕方がなかった。茶の間にあの番組がかかっているたび、ジキルであれ、頼むからジキルであれ、今度こそ噂の明るい話を聴かせてくれ、と願いながら、ぼくはいつも裏切られた。ハイドは絶望を語った。食糧危機を語り、地球温暖化を論じた。いま思えば現実的な話をしていたと云えるのだが、あれは現実的である域を超えて不必要なまでに脅迫的だった。待っているのは絶望なのだ、とぼくは思った。ぼくには未来がない。ぼくは大人になれない。



人間の強力な正常化バイアスの作用によって、ぼくの心は壊れずにすんだ。結局のところ、不安は子供に現実を受け止めさせるどころか、現実を見ないようにさせた、と云うべきだろう。中学受験がはじまると環境問題のことはすぐに忘れ、中高生のあいだは男子校のなかにぬくぬくと閉じ籠もった。『まんがサイエンス』を何周も読み、科学館を嬉々として巡っていた、これから科学少年になろうとしていた子供はどこかへ消えた。ぼくは代わりに小説を読みはじめ、ミステリを読みはじめた。



別の思い出を。まだぼくが科学少年の、ついに孵化することのなかった卵でしかなかった頃、家族とどこかの高原の天文台に行ったとき、『まんがサイエンス』の系列にある教養漫画――要するに、「先生」が子供たちに宇宙や地球について教える漫画が置いてあって、ぼくはどんな土産よりもそれを求めて、旅の途中もそれを読みふけった。「先生」は確か、宇宙のどこかの星の姫様だったはずだ。彼女は長い旅の最後、子供たちに地球の未来の話をした。環境問題の話だった。あなたたちには暗い未来が待っている。あなたたちにあげられる美しい地球はもう、ない。そう教えられた子供たちは涙を流し、ひとりはパニックに陥ったように、もう車に乗らないよ、と云い出す。排気ガスをもう出さない。それなら大丈夫でしょう? 先生は困ったような表情を浮かべ、彼女のお仕えの助手か何かは、子供になんて思いをさせるんだ、と彼女を叱った。そのくだりだけを何度も読んだことを憶えている。ただ、そのあと先生がどう云って子供たちを諭したのかは、もう憶えていない。確か、あなたたちがしっかりしていれば大丈夫、云々。あなたたちの身体には、ずっと昔に砕けた星屑が混じっているのだ、云々。



それを読んだとき、ぼくは何かに気づきかけていたと思う。ただ、それがなんなのか気づくより先に、ぼくは考えることをやめた。ジキルには会えないまま、ハイドから逃げるようにして。受験がぼくを呑みこんで、思春期がぼくを押し流し、震災と安倍政権があらゆる問題を有耶無耶にした。



ぼくはいま、自分自身が、子供になんて思いをさせるんだ、と云って叱られる側になろうとしている。ぼくは何か重要なことに気づきかけているが、未だに確信を持っていない。なんとなれば、ぼくはまだ有耶無耶のなかに生きているからだ。生きていると云う感覚さえ持たないまま、なんとなく毎日寝ては起きているからだ。



この秋の目標は、生活を手に入れること。生きている、暮らしている、この社会のなかで、この現実とともに。そのような実感を手に入れる、さらに前段階の取っ掛かりを手にすること。これである。


 

季節はきっと秋。修正の季節だ。

――リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』(新潮社)

 



さしあたり、生活をつづける目標は、パワーズ最新作が出るまでに。

創作「学問の厳密さについて」

 書いた掌篇の出来に多少の自信があるときだけブログに公開するならば、ますます何も出さなくなるだろう。自信があるかどうかは問題ではない。うまく書けるかどうかは重要ではない。書き続けること。これだ。
 機関誌の掌篇競作のために書いた。字数制限は1600字前後。タイトルは、「学問の厳密さについて」。以前書いた掌篇と内容は多少かぶる。



 祖父が死んだときはちょうど高校三年の冬、大学受験を目前に控え、だから通夜以外にぼくは、祖父の死をめぐる一切の儀式に参加していない。危篤の報せも塾の自習室に籠もるぼくへ伝えられることはなく、死が明かされたのは通夜の直前だった。死に目にさえ立ち会うことは許されなかったわけだ。
 動揺させたくなかった、と父は云った。翌週はセンター試験だろう、と。
 その判断をぼくは受け容れた。受け容れなければならないと思った。会場ではぼくだけが制服だった。通夜振る舞いではずっと単語カードをめくっていた。頭のなかに英単語を詰め込まなければ、冷たい水のような感情が頭蓋を満たしそうで怖かった。
 巧くんは偉いね。名も知れぬ親戚の男性が云った。京大目指してんの?
 口調は単なる疑問だった。けれどもぼくは咎められた気がした。はいと答えるか黙殺するか決めるコンマ数秒前に、彼の向かいの女性が云った。伯父さんも確か、京大やったよね? 教授やったっけ?
 はじめて聞く話で、ぼくは顔を上げた。
 ちゃうよ、と女性が云った。お祖父ちゃんは役所の職員。ま、大学の先生みたいなひとやったけどね。
 その印象にぼくは同意した。ぼくが憶えている祖父は、ずっと誰かに何かを教え、自分も常に学びつづけるひとだった。役所の何課だったのか訊くと、おそらくは叔母なのだろう彼女は、確かね、と記憶を辿ってくれた。
 ――都市計画。
 そのひと言で、記憶が一気に開かれた。
 都市はツリーではない。現代の都市にヒエラルキーはなく、一切の中心を持たず、すべてはパッチワークのように混ざり合う。その布ひとつひとつを織り上げることが仕事だと、祖父は語った。ぼくが十歳にもならない頃だ。
 ぼくたちはふたりで歩いていた。帰途だった。夕暮れの、住宅街の。
 ぼくの両手には地図が握られていて、いまならばその名がミウラ折りとわかる折り目の機構が面白くて何度も閉じては開いていたはずだ。それはぼくたちの街の地図だったけれど、表記があまりに微細でぼくはそこに自分が住んでいるとは思えなかった。そう伝えたとき、祖父は自分の仕事を語ったのだ。
 都市はあまりに複雑だ。完璧な地図はだからあり得ない。その地図は、この街の圧縮ではあっても、街そのものではない。
 もちろんぼくはそんな言葉を記憶していない。それはあくまで想起した瞬間の記憶であって、ぼくは自分の言葉で、空白だらけだった祖父の言葉を埋めてゆく。記憶は過去の圧縮ではあっても、過去そのものではない――。
 地図は現実を反映してくれない。祖父はつづける。ぼくの肩に手を置く。なんとなれば、世界はあまりに微妙な歪みと変化を抱えており、それを測量する絶対的な基準はどこにもなく、そして、人間は必ず間違うからだ。
 なら、とぼくは問う。どうして地図を描くの。
 そうしなければわたしたちは、何も見ることができない。自分たちがどこにいるのかも、自分たちが何をつくろうとしているのかも、想像してみないことには、何も作り出せないんだ。
 じゃあ、とぼくは云う。地図は記録ではないの? いまのぼくがそう云い、いまのぼくが祖父を通して答える。もちろん、地図は記録でもある。しかしそれは、わたしたちがどう世界を見ていて、何を伝えようとしているのか、そんな物語の記録だ。学問と読んでも良い。記憶と呼んだって構わない。
 ミウラ折り、とぼくは口にする。叔母は戸惑ったように首を傾げ、親戚の男たちは何も聞いていない。ぼくは首を振って、云う。大丈夫です。
 単語帳をふたたび開く。Atlas。地図帳。その由来は、天空を負う巨人。あの帰り道のぼくのとっての祖父のように巨きなひと。あるいはそれも物語だろう。しかし、物語がなければ、ぼくはぼくでいることもままならない。
 叔母たちは自分の会話に戻る。このあたりの空襲もひどかったってね、と女性が云う。うん。だから、お祖父ちゃんも一からはじめんとあかんかった。伯父さんは、と男性が笑う。土地の測量からはじめたんやってな。
 その話憶えてる、と父が云う。ぼくはそれを聞いている。



 即興で話をエモくする技能はある程度備わっているらしいことがわかりつつある。思いついたことをぱらぱらと散りばめておけばなんとなくまとまってくれることも理解できた。ならば次に考えなければならないのは、そこから習作の領域を超えるためにどうすれば良いのか、だ。

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ③

前回、前々回からのつづき。

washibane.hatenablog.com

washibane.hatenablog.com


語りすぎている。いい加減終わらせたい。

どこまで?

トイレだったことはよく憶えている。ぼくがその推理を思いついたのは、実家のトイレの便座に腰掛けていたときだった。何も考えていないところから突然思いついたはずはないから、おそらくかたちにならない推理の断片をああでもないこうでもないと組み合わせていたんだろう。それがトイレでふと気を抜いたとき、ひとつの発想となって浮かび上がった。通路を遠回りして移動する犯人。そのときはまだそれがなんなのかもわからなかったが、考えるうちに手応えを得た。

ロの字形をした通路を想像してほしい。並行するふたつの長い廊下を繋ぐふたつの短い通路と考えても良い。あるいは実作がそうなったように、ふたつの廊下とふたつの階段としても良いだろう。犯人がその通路をどのように移動したのか、どの部屋からやって来てどの部屋へ帰ったのか、事件が発覚した段階ではどんな可能性もあり得る。ではここで、犯人がある部屋を訪れたとわかったら? ――犯人もすぐにわかってしまう。あるいは、犯人の行動は不可解すぎる。前者はつまらないし、後者は謎が増えるばかりだ。では、犯人が通路のうちのひとつ、たとえば階段の一方を通ったことがわかったとしたら? ――これだけでは何もわからない。階段を上ったのか下りたのか定まらない以上、可能性は収束しない。しかしここでさらに、もうひとつの通路、たとえば一階の廊下を通らなかったことがわかれば? ――可能性は一気に収束する。少なくとも、廊下を上ったか下りたかが特定できるし、階段を上って/降りてどの部屋に入ったかもわかる。どうだろうか。手がかりをふたつ(階段を通ったこと、廊下を通らなかったこと)組み合わせることで、犯人の動きを推理することができた。しかもその移動は遠回りなのだ。わざわざ廻り道をしたと云うことは、そこには犯人の意志がある。その意志を推理する手がかりを与えれば、犯人がさまざまなルートの可能性からひとつの道を選んだように、読み手もさまざまな可能性からひとつのルートを選んでくれるだろう。

いま振り返って、もう少し一般的な話に云い換えてみよう。ここでぼくが考えていたのは事件当時の犯人の行動を、歯ごたえのあるロジック(ふたつの手がかりを組み合わせる)によって推理させると云うことだった。前回ぼくは「書き手が用意したルートを読み手がなぞることができる」ことが重要であり、そのためには「こちらが正解なのだとわかるような目印が必要」だと書いたが、容疑者が消去されること戸は別のもうひとつの目印が、この犯人の行動である。推理を進めることで事件当時の状況(犯人が何をして、そこで何が起こったか)がわかっていくと読み手としても推理に自信を持ちやすい。まあ、結局はこれもまた先輩の受け売りであって、一連の記事はぼくが先輩から聴いてきて、それを自分なりに咀嚼したものをこうして整理しているに過ぎない。

皆が寝静まった夜。殺人者が蠢いている。暗闇のなかを歩き回って、殺人者は何かを企んでいる――。そのイメージを描き出すのは、ほかでもない探偵役であり、犯人当ての場合は読み手であるあなただ。推理することで犯人の影が浮かび上がり、そうして輪郭が捉えられ、ただひとりの人物へと収束してゆく。ぼくはケメルマンの短篇「九マイルは遠すぎる」が大好きで、ミクロからマクロを導く推理があると堪らなくなるのだけれど、ただ推理を膨らませるのではなく、その推理が犯人のイメージを作り出すことを望む。「九マイル」の推理がやがて道を歩く犯罪者の、企みをうちに秘めたひとつの影を描き出すように。そこにはミステリにおける、推理と云う営為のスリルがある。同じ理由でクイーンだと『エジプト十字架』のパイプの推理が好きだ。

要するに、犯人の行動(または事件の全容)の推理と犯人を特定する推理とが一致していること、それが犯人当ての満足度を上げる。おそらく。もちろん犯人当ては究極的には犯人を当てることさえできれば良いので、ほかの要素を一切無視してもかまわないのだが*1、無視することによって犯人当てが面白くなるとすれば、その面白さにはやはり推理は事件の全容を推理するものであると云う前提があるはずだ。あえて外すのならば、外していることに自覚的でなければ、ただ外れているだけで面白くない。これは①で書いたような、趣向の問題にも繋がるだろう。

加えて、犯人の行動を推理させようとすると自然、書くときも犯人の行動から考えることになる。しばしば犯人当てでは趣向が先立って犯人の行動かあまりに不合理だったり、煩雑ゆえに推理のノイズになったりするが、犯人の行動から考えると解いてもらいやすくなるだろうし、もし解いてもらえなくとも真相に納得感が増して、解答篇や感想戦で文句が出にくくなるはずだ。②で書いたような犯人側のミスも作りやすくなる。とは云え「鴉」はそこがうまくいっているとは云い難い。犯人の動きに納得感があるのは、結局、この廊下の移動くらいだった。

さて、ぼくは歯ごたえのあるロジックと書いた。これに関してはまだ言語化できていないものの、解けるひとと解けないひとがわかれるような、一定の発想の飛躍を要する推理、としておこう。どんなパズルもゲームそうであるように――犯人当ても解く解けないで考える以上、ある程度はパズルないしゲームである――問題を解決するには歯ごたえがなければ面白くない。犯人当てにおいてこの歯ごたえはさまざまな方法で獲得できる。手がかりを記述のなかに巧妙に隠したり、複数の手がかりを組み合わせたり、存在ではなく不在を手がかりとしたり(“鳴かない犬”)、発想を逆転させたり。ありふれたロジックでも、ワンステップ踏むだけでぐんと歯ごたえが出ることがある。

たとえば――利き手は前回書いたような理由でぼくはめったなことでなければ用いないけれども、思いついたので――犯人は左利きだったから犯人はお前、とするのは単純であるし、乱暴だ。しかし「犯人はペーパーナイフを使って新聞を切り抜いた」「ナイフは戸棚のなかにあるものが持ち出されていた」「テーブルのうえには右利き用の鋏があった」と手がかりが揃えば、「犯人は右利き用の鋏を使えなかったので(細かな作業には使いたくなかったので)、テーブルの鋏ではなく戸棚を漁って左右兼用のナイフを用いた」と推理できる。このロジックには一定の歯ごたえがあるし、利き手の問題を無造作な手がかりではなく、犯人の行動に結びつけたうえでその思考を読み手に考えさせることで、利き手をテーマ(利き手による差別・抑圧)に結びつけることができる。だからすなわち倫理的だとは思わないが、手がかりをただ容疑者を消去するための入れ替え可能なものではなく、物語と有機的に結びついた無二のものとする点で、最初の推理とは一線を画す。歯ごたえを考えることはそのまま、犯人当てと向き合い、推理を検討することにもなるだろう。

話を戻す。犯人の動きを推理させようと思いついたら、それを中心にして、いままで考えていた推理――犯人が何を持ち帰ったのか、など――が一気にまとまっていった。拳銃、羽根、鴉の彫像。それら漠然とした小道具は、彫像に撃ちこまれた弾丸、階段に落ちた黒い羽根、軋む廊下、拳銃の入れ替えへと具体化した。もう書ける、と確信があった。物語が一斉に起ち上がる瞬間だ。ただ、これでようやく確信を持てるのは遅いと云うべきで、ぼくはいつまでもこの瞬間を待っているから長篇が書けない。

正解の推理をメモに書いてもよかったが、メモでは細部を詰めきれないと感じたぼくは、解答篇をいきなり書きはじめた。と云ってもそれは、探偵役と助手役が会話しているだけの簡素なものだ。これは正しい判断だった。探偵役が推理を語っていく、その過程でアイデアはどんどん具体性を帯び、言葉となり、自分でも想定していなかった細部が見えてきた。そうして見えてきた細部、まだ検討できていない細部に、助手役はぼくも当初想定していなかった反論を入れ、探偵役はこれにこたえながら細部を詰め、ぼくは自分が問題篇で何を書くべきなのかを知った。小説を書いているとしばしば訪れる、キャラクターが勝手に喋る現象だが、この場合はキャラクターの自走と云うよりも小説自体が要請しているものが勝手に明らかになっていったと云うべきだろう。大まかな伏線や人物の動きも、ここで決まった。

館の間取図も、たぶんこのタイミングで書いたはずだ。いちばん楽しい作業だったと記憶している。なるべく犯人当てのためにつくった感じが出ないよう、一般的な洋館の間取図もいくつか参考にして、そこで暮らしが営まれていたことを忘れないようにした。まず世界があって、生活があって、人間がいて、そこに事件が起きる。犯人当てにおいて容疑者は駒だが、彼らははじめから駒だったわけではない。駒ではないものが駒にさせられてしまうこと、そこにミステリの衝撃はあり、悲劇がある。とは云え、犯人当てのために振り切った舞台設定も、それはそれで味わい深い。

解答篇の草稿が一段落すると、今度は問題篇である。プロットに関しては、加藤元浩の作品を真似することにした。導入、容疑者の提示、事件の発生、容疑者各々への事情聴取、解答篇。これである。それだけ決めて早速書きはじめたぼくは、ここでもやはり、自分でも想定していなかった細部に振り回されることになった。ぼくは実際に書きはじめるまで、被害者が、容疑者たちがどんな人間なのか知らなかったし、事件の舞台がどのような場所なのかもわかっていなかった。駒ではないものが駒にさせられてしまうこと。ミステリ小説を書くことは、作者の用意した抽象的な構図と、その網目から逸脱する細部との鬩ぎ合いであることを、ぼくはこの経験から確信した。具体的な描写、具体的な言葉のなかに、論理の手がかりを埋め込んでいく。これが伏線である。とりわけ「鴉」の場合、父の証言と執事の証言の食い違いが、クローズドサークルクローズドサークルではないことへの伏線となる趣向が気に入っている。一見エモーションな語りのうちを、伏線が貫いている。

一方で、具体的な記述は書き手の用意した論理からすり抜けるばかりではなく、むしろその論理を思いがけずサポートすることもあった。問題篇の執筆は解答篇と相互にフィードバックさせながら進められたが、そのなかで、問題篇の何気なく書いた記述がぼくも想定していなかった伏線になることがあった。叔母が軋む廊下の存在を知っていたのは、ぼくが問題篇を書くときなんとなく彼女に廊下を歩かせたからであるし、容疑者としてひとり残った彼女をさらに排除するための線条痕の推理も、問題篇を書きながら思いついたものではなかったか。祖父の自殺や、割れたガラスも、確か即興で思いついたことだ。犯人である警官の設定や行動も、書いていくうちに固まった。

どうやらぼくは、構想やプロットを考えているあいだより、文章を実際に書いているときのほうが、無意識下を含め、小説についてよく考えているらしい。こうして文章を書いているいま、いつになく犯人当てのことを考えているように。重要なのはその語りにある。とぼくは①で書いた。いま、ぼくがここで打鍵している、その一瞬、そこだけに。これもまた、自分でも想定していなかったことだ。

これ以上なく綺麗に嵌まってくれたポーの引用も、後付けである。「もはやない」と云う言葉がここまでぴったり合うとは思わなかった。ほとんど奇跡のようだ。ただ、カルヴィーノからの引用は、たぶん最初から考えていた。いまこれを書くまですっかり忘れていたが、最初に容疑者を全員消そうとしたのも、そうして最後に外部から犯人を持ってこようとしたのも、「最後に鴉がやってくる」からの連想だったかもしれない。

こうした奇跡みたいな偶然が続いたとき、ぼくは小説の完成を確信する。まるではじめから意図されていたかのような偶然の連鎖。あるいは、偶然のなかに見出される意図。ひとはそれを運命と呼ぶ。その瞬間が気持ち良くて、いまも書いているふしがないではない。ただ、「鴉」におけるその瞬間を詳細に語ることができないのは心苦しい。もう大部分を忘れてしまった。

書き上げた問題篇をもとに解決篇を書き直し、それに基づいて問題篇も細部を調整しながら、とりあえず完成させたのが例会の半月程前だったか。ぼくは先輩に第一稿を読んでもらい、かなり詳細な朱入れをいただいた。推理ひとつひとつを検討し、褒めてほしいところをきっちり褒めてくれ、誤魔化したところをしっかり見抜いて指摘する、いま思っても素晴らしい朱入れだ。どのように解いてもらいたいのか意識するようになったのも、ここでもらったアドバイス――このままでは解けないことと、なぜ解けないのかの詳細な指摘――を踏まえるようになってからだ。軋む廊下の存在が地味であることを指摘されれば、軋みをはっきり描写するようにした。拳銃の入れ替わりが想定できなかったことを指摘されれば、拳銃が唯一の品ではないことを記述した。②で書いた、正解のルートを整える作業がこれである。伏線をわかりやすくし、石のように拾ってもらうことで道を辿ってもらう。容疑者から父親を消去する推理については、先輩からもらった修正案をそのまま採用した。ひとによって何を合理的とするかは異なる、とそのときに云われた。だから、限定条件にはあまり合理を持ち込むべきではない。――作品を読めばおわかりの通り、このアドバイスについては、取り入れ切れなかった。どうにも悔やまれる。

驚くべきことに、ぼくはその朱入れで指摘されるまで、クローズドサークルとその外側を行き来する経路をまったく考えていなかった。しかしここでぼくを救ったのもまた、ぼく自身の書いていた細部だった。事件の舞台が昔炭鉱で栄えていたと、ぼくは設定していたのだ。鉱山ならば山のなかにも通路があるはずだ。それを探偵に指摘させたとき、急場しのぎの対処だったにもかかわらず、ぼくはむしろ自信を抱いた。まるで小説が自分自身で自分自身を書こうとしているかのようだとぼくは感じた。小説が生まれ、自立し、巣立ったようだ、と。

あるいはその瞬間から、「鴉」はぼくの手を離れ、ぼくはもう「鴉」を書けなくなってしまったのかもしれない。

どこかへ

「鴉はいまどこを飛ぶか」が発表されたのは夏の合宿だった。伏線のわかりやすさと数の多さを褒めてもらえたことを憶えている。先輩のアドバイスを取り入れた結果だ。ぼくがいまだに「鴉」がいまいち自作と思えないのは、それが理由かもしれない。だからこんな文章を恥ずかしげもなく書けるわけだ。

ほかにも発表時、拳銃の入れ替えまで見抜いてもらえたことは印象深い。ルート整備は、少なくともそこまではうまくいっていたわけだ。そこまで解いてもらったなら大成功やね、と先輩も云ってくれた。

完全解答者こそ出なかったが、警官が怪しいと目をつけてくれたひともいた。だからたぶん、解くのは不可能ではないと思う。

ひとつ、明確に失敗したことがあるとすれば、「どこを飛ぶか」と云うタイトルとそのイメージが強すぎて、はじめから正解のルートを外れて彫像の場所の特定をしようとしたひとたちが出たことである。こうして書いてきたように、イメージは理屈を超えて小説を完成させるのに役立つけれど、あまり頼り切りになるのも考えものだ。

たぶん、まだ語っていないことはたくさんある。自分でも忘れてしまった細部や、あまりおもてでは語りたくない私的な記憶が。とは云えいったん、このメモは閉じよう。いい加減疲れた。

booth.pmbooth.pm

*1:その発想に基づいて書いたのが拙作「はさみうち」である。犯人以外なんの情報も確定することができないと云う趣向はわりと攻めていたと思う。誰かがもっとうまく書いてほしい

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ②

前回の続き。

washibane.hatenablog.com

 

どこへ?

趣向をとりあえず考え、犯人を警官とすることまで考えたので、次に具体的な推理・手がかりを考えることになる。が、正直、あれこれ書いては消してみて、正確なところはやはり憶えていないと云う結論になった。どのようにして細部を詰めたのかさっぱり思い出せない。だから以下、書いていく文章はあとから作品を振り返った語りが大半を占めるため、前回よりも「指南」や「分析」の側面が強い。ぼくはひとに指南できるほど犯人当てを書いてきたわけではないし、分析するにはもっと適したテキストがあるはずだけれど、はじめてしまったものは仕方がない。何よりぼく自身が、もういまとなっては書けない小説から何かを学び取ろうとすること、実を云うと、それがこの一連の文章の目的である。

犯人を警官とするにあたって、事件が発覚してから捜査が始まるまでのあいだに現場に変更を加えることができると云う特徴を活かした推理を考えていたが、変更がどのようなものでも良い以上、そこにはなんの取っ掛かりもなく細部を詰めることができない。書きはじめるにはもうひとつアイデアが必要だった。そこで、ぼくが思いついたのが、犯人に失敗させると云うアイデアだ。これはのちに「はさみうち」でも用いた方法で、おそらく普遍的な犯人当ての技法である。麻耶雄嵩もやってる。もちろん推理小説は探偵に謎を解かせるために犯人に何らかのミスを犯させるものだが、この場合はミステリの謎と真相を作るための技法だ。どう云うことか?

つまり、犯人が完璧に計画を実行できれば謎も手がかりも何も残らないはずであり、何かしらの謎や手がかりはたいてい犯人のミスや計画の粗から生まれるのである。たとえば犯人が現場で怪我をしたとか、被害者が予想外の行動を取ったとか、事件当日の思いがけない機器の故障だとか。犯人の逃走経路として偽装しようとした扉が実は開かなかったので密室と化した、なんてのはカーもやっていることだ。「鴉」の場合、犯人にとって想定外だったのが土砂崩れである。より正確には、現場がクローズドサークルと化したこと。これによって犯人の警官は現場を訪れることができず、結果的に鴉の彫像を盗むことになってしまった――とは云え、この辺はかなり粗い部分だ。死体発見から通報を受けてすぐに現場へ駆けつけられても、彫像の不在くらいすぐバレそうなものである。しかしどうであれ、メタ的には犯人を容疑者圏外へ出すことになったファクターが、作中では犯人を追いつめることになった。「鴉」がしばしば褒められるのは、意外性がこのように、意外性のためだけに終わっていないからだろう。

やや先走ったので整理しよう。ぼくは犯人に失敗させることで、こう考えついたわけだ――警官である犯人は警察の捜査が始まるより先に現場へ「何か」(最終的には彫像となった)を戻すつもりだった、しかし土砂崩れのせいで駆けつけることができなくなってしまい、戻すべき「何か」を戻せなくなった、だから現場からはその「何か」が失われることになった。探偵が辿るべき推理の順序はこの逆で――「何か」が失われているのは、犯人が戻すつもりだったからだ、それが土砂崩れによって阻まれた、だから犯人は屋敷の外部にいて且つ捜査が始まるより先に屋敷に戻ることができる(はずだった)人物、つまり警官。Q. E. D.

警官が犯人と云うこともあって、ほぼ連想ゲーム的に使われる凶器は拳銃とすぐに決まった。ここまで読めばおわかりの通り、ぼくはあまり論理的に作品を詰める書き手ではなく、基本はなんとなくの連想ゲームを繰り返しながら、ぴったりピースが嵌まるかどうか調べているに過ぎない。もしも一連の記事になんらかの欺瞞、記憶の改竄どころではない語りの違和感を覚えるとすれば、論理的ではない偶然の連鎖をさも論理的必然のもとに並べ替えているからだ。しかし、ミステリとは元来そのようなものではないだろうか? 偶然の連鎖をあとから図式のなかで理屈づける作業。それを経て偶然は運命になるだろう。もしかすると、はじめから図式を考えるより、どのような偶然があったのかを考えてから図式(論理)に当てはめるよう逆算して考える方が、あるいは犯人当ては作りやすいかもしれない。まあ、これも趣向の話ではある。

閑話休題。銃を選んだのは直観だけれど、直観を採用したのは理屈だ。銃は、銃声に弾丸、射線、硝煙と、推理の手がかりに使えるものが山ほどある。少なくともロープや毒物、ナイフ、鈍器よりも推理のなかで扱いやすいはずだ。たぶん「鴉」を書いた当時は、同じく銃を使った先輩の犯人当てや、クイーンの「見えない恋人の冒険」のロジックを念頭に置いていたのだろうと思う。ほかにも、銃は引き金を引くととりあえず弾が出るシンプルな機構なので個人差が出にくい――つまり、毒の有効無効のような、例外的な作用が起こりにくい――と云うのも扱いやすい理由だろう。理屈で割り切りやすい暴置と云って良いし、そこにこそ銃の暴力があるとも云える。

ここまで考えると、それまでは抽象的でしかなかった事件の全貌がぼんやりと浮かんでくる。犯人は何を持ち帰ったのだろう? なぜ持ち帰らなければならなかったのだろう? 犯人が銃を使ったとすれば、おそらく持ち去られるのは拳銃か、弾丸だろう。夜な夜な屋敷に忍びこみ、銃を撃って去ってゆく警官――。ここまで考えると、なんだか書けそうな気がしてくる。あとは容疑者をいったん全員消すための推理――当時のミステリ研ではいったん全員を消してから趣向を明かすことが手っ取り早く意外性を与えることのできる定石であり、それ以外の選択肢をぼくは考えもしなかった――を作りさえすれば、自動的に細部は詰められるのではないか。

もちろんそんな考えは甘かった。ここに至るまでも相当悩んではいたが、ここから構想は完全に停止する。デッドロックと云うかなんと云うか、何か決まらなければ次に進めないが、何かを決めるには別の何かを決める必要があって、つまりアイデアの連鎖は膠着に陥ったのである。後述するように――後述するはずだ――この状態から抜け出したのはほとんど天啓めいたひとつのロジックだが、それを得ることができたのは、いろいろなひとに相談しつつ手をつけられるところに手をつけていったからだろうといまとなっては思う。以下、そのあたりのことを散発的に書いていこう。

クローズドサークルや犯人の設定が決まるなかで、相変わらず鴉が空を飛ぶイメージはぼくのなかで脳裡に残りつづけ、ストーリーの雰囲気も出来上がりつつあった。山中の洋館、そこで暮らす一族を、嵐の近づく不穏な気配のなか、探偵たちが訪れる――。大学サークルの合宿、と云う設定は使わなかった。手垢がつきすぎていると云うのもあるが、何より登場人物にグラデーションが出ない。先輩後輩やより個人的な友情・恋情こそあれ、サークルの集まりと云うものは基本的に均質な集団だ。ホテルに居合わせた客たちとなるともう少し色彩が出るけれど、長篇でなければそれは難しいし、登場人物がお互いに他人過ぎると、そこからひとりを犯人として指摘することの面白さがない。ぼくが理想とする犯人当ては無機質な名前のリストからひとつを指さすのではなく、有機的に各々が結びついたネットワークから犯人を指摘するものであって、そのためには容疑者たちにも一定の個性が必要だった。――こんなことを考えるのも、おそらくぼくにとって犯人当ての原型がアガサ・クリスティーだからだろう*1。ある一点に注目してもらえれば、「鴉」の犯人当てとしてのストーリーがクリスティー中後期のある作品を下敷きにしているとわかるはずだ。そうでなくともクリスティーは、容疑者圏外から犯人を持ってくる(犯人を容疑者圏外に追いやる)名手である。いま読み返しても学ぶ点は多い。

探偵の設定もなんとなく決まりつつあった。鴉の濡れ羽色をした髪の、おそらくは女性。射命丸文だろうと云われたこともあるが、「鴉」で念頭に置いていたのは『さよなら絶望先生』の加賀愛である。こう云うことも書き残さなければ忘れてしまいそうな気がする。助手役の、おそらくは男性だったろう語り手の設定も考えてはいたが、話を詰めていくにつれ彼は排除された。屋敷の客人がふたりに増えるのは面倒だったし、登場人物=深山家の一族を書くにあたって部外者の助手をいちいち噛ませるよりも深山家の一員を語り手としてしまった方がスマートだからだ。何より、探偵と助手を事件関係者から切り離してしまうと捜査する理由がそもそも発生しない。ただ助手=語り手=依頼者とするこれは一度きりの切り札でもあって、探偵の設定を折角考えたのにシリーズをつづけることができなくなってしまった(「鴉」以外の作品では助手も部外者になるから)。

鴉から連想ゲームをつづけるなかで、鴉の羽根が入った枕をサイレンサー代わりに銃を撃つ(現場は鴉の羽根が舞う)と云う絵を思いついたのはわりあい初期のタイミングだったと思う。元ネタは『刑事コロンボ』の「歌声の消えた海」。よく憶えている。はじめて観たコロンボだった。枕越しに発砲するシーンをさして、父親が訊いた。「どうして枕を使ったかわかるか?」。まだ倒叙ミステリなんて言葉も知らなかった頃の、思い出深いやり取りだ。鴉の羽根の舞う殺人現場を思いついた時点で、ヴィジュアルイメージの点ではすでに成功していたと云えるだろう。

鴉の羽根を単にモチーフだけで終わらせなくなかったから、手がかりとして使うことにした。こう云う思考をするとき、犯人当ての面白さは小説元来の面白さとは違うところにあるのではないか、と思う。はじめに思いついたのは、容疑者のひとりが羽毛アレルギーだから犯人ではない、と云うものだった。思いついたときは手応えがあったので数日こればかり考えていたが、推理を組み立てようとして挫折する。容疑者のひとりが羽毛アレルギーであると推理できるだけの手がかりを作ることがまず難しいし、犯人は羽毛アレルギーだったからこそ自分を容疑者圏外に置くために枕を使ったかもしれないからだ。もちろん重篤な反応が出れば命の危険がともなうが、それほど重度のアレルギーの存在を直接描くことなく手がかりからフェアに推理させるのはさらに困難がある。そもそも、羽毛アレルギーとはどのようなものなのだろう? 枕をサイレンサー代わりにするのは「そう云うものだ」で押し通せるが、アレルギーについて誤った記述は押し通せるだろうか、それだけの知識や覚悟があるだろうか? 所詮は手がかりのひとつに過ぎないのに? ――不採用の理由は要するに、銃を採用した理由の裏返しだ。理屈で割り切ることが難しいからである。

いまとなって振り返ると、不採用は結果的に良い判断だったと思う。「鴉」についてぼくからひとつ、褒められる点があるとすれば、容疑者を限定する推理に容疑者の身体的・生理的特徴を含んでいないことだ。容疑者を絞りこむ推理は、拳銃と廊下について知っているか、鍵を手に入れることは可能かと云ったものであり、利き手だとか身長だとか性別だとかは本作において関係ない。もちろん扱い方によっては人間の身体・生理を手がかりやトリックに取り入れることはできるだろうが、少なくとも「鴉」においてそれがひとつでも混じれば瑣末な扱いを免れ得ない。手がかりの質が異なるし、何よりそこには、犯人当ての倫理的な問題が含まれている*2

犯人当てはどうしようもなく、人間を要素に分解してしまう。分解することで見えてくるものもあれば、分解されることで踏みにじられることもあるだろう。ぼくは「鴉」を倫理的な小説だとは思わないけれども、犯人当てに何ができるのかを当時のぼくなりに考えた結果、一定の誠実さを獲得しているとは思う。もちろん、人間の描写はクリスティーを意識するあまり多分にステレオタイプで、そのくせ厚みが出ていない。誠実さはだから、あくまで限定的な評価だ。

以上、散発的でいつまでもまとまらない構想を、ぼくはどこかでまとめなければならなかった。少なくとも、容疑者をいったん全員消去するための推理は、ひとりひとりを離散的に消すよりも、連続的に消すようなものでありたかった。つまり、5人消すなら5つの推理で消すのではなく、ひとつの推理があって、それを進める過程で5人とも消える、と云うような。どうしてそう考えたのかと云えば、先輩からどう解いてもらいたいかを意識した方が良いとアドバイスをもらっていたからだ。

犯人当てをある程度の量、実際に解いてみるとわかるが、解ける犯人当ては完璧な犯人当てとイコールではない。同様に、余詰めや推理の穴を排除したところで、解ける犯人当てになるとは限らない。犯人当てが解けるかどうかは、書き手の思考(趣向)を、読み手がうまくトレースできるかどうか――つまり、書き手が用意したルートを読み手がなぞることができるかどうかによって決まる。そして読み手に解答をなぞってもらうためには、ほかのルートを潰す(=ほかの可能性を消す)よりも、正解のルートを整える方が重要であるはずだ。自分はいま作者の用意した推理を辿れているな、と云う手応えを感じてもらうこと。もちろんそのためには別解の消去も不可欠なのだが、別解を消去しようとするあまり手がかりが増えては推理が煩雑になってかえって解けない。むしろ、こちらが正解なのだとわかるような目印が必要だ。

「鴉」の場合、その目印は容疑者の消去である。推理を進めるうちに、容疑者がひとりふたりと消えてゆく。そして全員が消えたときに、原点に立ち返って前提を疑ってもらう――何よりここのひっくり返しが眼目なのだから、前段階でなるべく迷ってもらいたくはない。正解のルートは、だからひと繋ぎの方が良いと考えた。容疑者は5人、まず2人消えて、次に2人消えて、最後にひとり犯人と思われた人物も消える、と云うのが綺麗だろう。――当時、そんなことをひとに話していたことは、なんとなく憶えている。

とは云え、抽象的なルートを考えるだけなら誰だってできる。この記事でもわかるとおり、犯人当てを書くうえで最も難しいのは、こうした抽象的な発想をいかに具体的な記述・手がかり・推理へと落とし込んでいくかだ。ぼくが執筆に取りかかるには、その具体化を可能にする発想を待たなければならなかった。

今回はここまで。正解のルートを辿ってもらうためのもうひとつの目印も含め、実際の執筆については次回書くと思う。

*1:ミステリ研の会員ならば、ぼくが「はさみうち」を気に入っていない理由もこれでわかってもらえるはずだ。同作は今後も公開するつもりはない

*2:「はさみうち」では身長を容疑者限定の条件のひとつに含んでまったが、明らかにひとつだけ浮いている。ぼくが「はさみうち」を気に入っていない理由がこれでわかってもらえると思う、以下略

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ①

小説を書くときに何を考えていたかと云うものは所詮後付けに過ぎず、文章を綴る、鉛筆を走らせるその一秒、文字を打鍵するその一瞬に何を考えていたかと云えばそのとき書いている文章以外にはないはずで、つまり、小説を書くときに考えていたことが小説である、とひとまずは云える。もちろんそれをどう制御すれば良いのかと云うことが問題なのであって、ほとんど身体感覚に近いその「書く」ことにどう手応えを持たせるかと云う話が最近の興味のひとつではある。わたしたちはどうやって小説を書くのか? わたしたちはどうして小説を書けるのか?

とは云え、そんなことは考えはじめたばかりのことだしまだ手がかりも揃っていないしそう云う話を読みたければ乗代雄介でも読んでいれば良い。ぼくがここでとりあえず書き残しておきたいのは、ボールを投げるときの言葉にならない感覚を言葉に留めようとするような切実な問題より何段も手前、ボールをどう握ってどう振りかぶれば良いのかを指南するようなもの、さらにはそれにさえなりきらない、いち個人の思い出語りでしかない。いかんせん4年も前のことだし、この想起はつねに現在――鷲羽巧として作品を発表するようになってしまったいま、ミステリ研でそれなりの年数を経て先輩として意見を訊かれるようになった現状――を参照する以上なんらかの改竄と歪曲を避け得ないはずだが、それでも注意深い読み手ならばその歪みさえも読み込めるはずだと信じているし、だからこそオーラル・ヒストリーと云ったものもあるのだろう。重要なのはその語りにある。いま、ぼくがここで打鍵している、その一瞬、そこだけに

前置きが長くなった。要するに、この記事はぼくがミステリ研1回生のとき、まだ「鷲羽巧」と云うペンネームで小説を発表するより前に書いて、それなりに評価を受けた犯人当て小説「鴉はいまどこを飛ぶか」について、あれを書いた夏にぼくが何を考えていて、何をしようとしていたのかに関するメモである。それが結局どの程度成功し、失敗したのか、あなたは『WHODUNIT BEST vol.6』で確認することが可能だ。

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犯人当てとは小説の形式――挑戦状を挟む――の一であり、ミステリファンのあいだではごく一般的な名詞だが、ぼくの所属している京都大学推理小説研究会ではそれ以前に毎週の例会としての意味を持つ。当然、そこでどのようなものが書かれ、どのように読まれ、どのように評価されるのかはサークル内の文脈に強く依存する以上、あなたが犯人当てを執筆しようとしているとしてどれだけ参考になるかはわからないし、何より、同じ言葉を喋っていても実のところまったく別のことを想定している可能性もある。留意したうえで了承していただきたい。

「鴉はいまどこを飛ぶか」のような小説を、おそらくぼくはもう書くことができない。『WHODUNIT BEST』に収録されたことで言及される機会は増えたけれど、そのたびにぼくも悔しく歯痒い思いがあった。もう一度無邪気に書きたい気持ちもあるし、書き手としてはこれくらい自在に書けるようになっておきたいとも思う。今回書き残すのは、誰かの参考になることを期待する面もあるが、何より自分自身のためでもある。

当然ながらネタを割るので、以下は作品を読んだうえでお読みください。ついでにもう一回宣伝。こちらは電書版です。

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どこから?

さて。

どこから書きはじめるのかを考えたときに、やはりどこから考えはじめたかを書くべきだろうと云うことになった。この辺はとくに記憶が曖昧ではっきりと云うことはできないのだが、一応ひとつ挙げるとすれば、ずばりタイトルである。このブログの名前の由来にもなった、山野浩一の短篇「鳥はいまどこを飛ぶか」。特殊な語彙も複雑な文体も使うことなく、いっそ清冽な印象を与えるにもかかわらず、見る者に問いを投げかけイメージを幾重にも膨らませる優れたタイトルだ。犯人当てについて考えるときになんの取っ掛かりもなかったぼくはひとまずタイトルから考えはじめ、このタイトルに蒼鴉城の「鴉」を加えた「鴉はいまどこを飛ぶか」が案のひとつとして浮かんだ。ぼくはいままで2本の犯人当て小説を書いたが、もうひとつの「はさみうち」も当時考えていた候補のひとつである。こちらは後藤明生――ではなく、クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』のもじり。より正確には、これをもじった先輩の犯人当て小説「ちからわざ」(傑作。『WHODUNIT BEST vol.5』所収)のような、ひらがな五文字のシンプルな響きでしかしさまざまなイメージを広げさせる恰好良いタイトルを真似た結果である。そもそも、ぼくが犯人当てを書く際に参考にした『WHODUNIT BEST vol.5』には同様に古典名作をパロディした作品が幾つか収められており、当時は先輩も「屍人島の殺人」(傑作。『vol.6』所収)と云った作品を発表していたこともあって、犯人当てとはまずパロディからはじまるものだと勝手に刷り込まれていたのだろうと思う。ミステリの歴史は絶えざる引用の伝言ゲームである、と一席ぶつ程のことでもない。先輩に憧れた。それだけのことだ。これは楽しそうだと思ったのだ。しかし、それ以外に何があるのか?

「鴉はいまどこを飛ぶか」(以下、「鴉」)と云うタイトルが思いついたとき、ぼくは、それをタイトルに冠する犯人当てとはどんな小説だろうか、と考えたはずだ。「鳥はいまどこを飛ぶか」から「鴉」に変更されたことで、そこには清冽さの代わりに妖しさがあった。透徹した思考実験ではなく、鴉なる悪意がこの町――そう、鴉が飛ぶのは、大空よりもわれわれの暮らしに近い――のどこかにいると云う、優れて犯人当て的なイメージを獲得したわけだ。思いついたときにはすでに、これで犯人当てを書こうと決めていた。以降もぼくは、小説を書くときはまずタイトルと、タイトルが持つイメージから考えるようにしている。

本家「鳥はいまどこを飛ぶか」が章の入れ替え可能な実験小説だったことを踏まえて、問題篇の並び替え――犯人当てとして犯人が一意に定まるように問題篇を正しく並び替える――などを考えてもみたが、実現に多大な労力がかかることが容易に想像できたので断念。具体的なアイデアも思いつかなかった。そこで、山野浩一はいったん忘れて、作品タイトルに戻ってみることにした。鴉はいまどこを飛ぶか。鴉はここにはいない。鴉は上空にいる。われわれを嘲笑うかのように、文字通り鳥瞰しながら。――もう、そのイメージが頭から離れなくなった。犯人は外部にいる!

では、外部とは具体的にどこだろう? 犯人はどこで探偵たちを見ているのだろう? そこで自然に警察と云う答えが出た。犯人は容疑者圏内ではなく、捜査にやって来た警察のなかにいたのだ。とは云え本作の中核にあるこのアイデアもゼロから出たものではなく、元ネタが存在する。ひとつは、明言は避けるがクイーン。もうひとつはバークリーの『第二の銃声』で、屋敷で演じられる犯人当てゲームの犯人として設定されていたのが、屋敷の外部にいた警官だった(これはネタバラシではない。その警官を語り手が演じ、ゲームが本当の殺人になってしまって容疑がかけられることから、探偵の捜査がはじまるのだから)。「鴉」を読んでいただけたなら、とくに後者の影響を受けていることがわかってもらえるだろう。

解決篇。探偵役が犯人として指さしたのは、容疑者の誰でもなく、容疑者たちの周辺で、黒子かのように動く警官だった――。鮮やかな幕切れだ。ぼくは酔いしれた。結局実現はしなかったが、「鴉」を執筆させたいちばんのモチベーションはこの鮮やかさである。ぜったいに意外な真相だと云う確信があった。犯人は容疑者圏外にいるのだから。

『WHODUNIT BEST vol.6』を読むとわかるように、犯人当てを書く際にミステリ研ではしばしば趣向が重視されるが、個人的に気になるのは、なぜそんな趣向を選んだのかと云うことだ。もちろん、究極的には思いついたからでしかないのだが、思いつきを実行したうえで何をしたいのかこそが趣向であるはずだ。ぼくもいまこれを書きながら、その通りだなと思ったので、これからの例会ではそれを訊くかも知れません。いずれにせよぼくの場合、犯人を容疑者圏外から持ってきた理由はぜったいに意外な真相だと思ったからである。素朴だ。いまのぼくが忘れてしまったものだ。


では、犯人を警官にするとして、どのような小説があり得るだろう? とくに、容疑者圏外から犯人を持ってくるにはそれなりの説得力が必要だ。そこでぼくは、警官、とくに事件の最初にかかわるような巡査を犯人として指摘するために、彼以外には持ち得ない性質を考えた。事件が発覚してから捜査が始まるまでのあいだに現場に変更を加えることができると云うものだ。実を云うとこれも元ネタがある。マイナーなクラシック・ミステリで、そちらの犯人は警官ではないが一見事件と関係のない、しかし現場に最初に立ち入っていた人物だった。「鴉」の真相について、ぼくがゼロから考えついたのは拳銃まわりのロジックしかない。基本はどれも何らかの元ネタが存在する

疲れたので今回はここまで。続きはまた近いうちに書くと思う。

創作「鳥はいまどこを飛ぶか」

 サークルの会誌に書くための中篇が汲々として進まないので息抜きに書いた。リョコウバトを題材とすることはエモすぎるので国際条約で禁止されるべきとの向きもありますが、本作ではニホンリョコウバトと云う別種なので大丈夫です。



 大学三年の夏、わたしはリョコウバトの鳩舎ではたらいたことがある。その年の初め、鳥類学者の伯父から紹介されたバイトだ。生物に詳しくもないわたしは断ろうと思っていたけれど、懐寂しさと幾らかの興味があって返事をだらだらと引き伸ばすうち、伯父は春を迎える前に亡くなった。わたしはイエスと云わざるを得なくなった。勤務地は日本海の離島。いまでこそ全国的に増えているが、当時は日本で唯一の保護施設だった。
 専門知識を持たないわたしに鳥の世話が任されるはずもなく、与えられた仕事は鳩舎の掃除と書類の整理。けれども籠のなかの止まり木で休むその姿を眺め、逐一積み重なる観測データを入力するうち、リョコウバトについての知識は蓄えられていった。ハト目ハト科、アメリカの同名種と区別して、正式にはニホンリョコウバト。冬は繁殖のために南へ渡り、春を迎えるとまた日本へ帰ってくる。その移動距離は東アジアで最も長い。
 赤いと云うより緋色の羽根が、羽ばたくたび燃えるようにちらつく。
 しかし直近の三年間、施設のリョコウバトは渡りをおこなっていなかった。命の保証ができないからだ。ニホンリョコウバトはレッドデータブックに記載される、絶滅危惧種だった。野生の個体は、もう十年近く観測されていない。
「昔は大群をなして渡っていたらしいけどね」飼育員の飛永は語った。「渡りがはじまると、列島の端から端が覆い尽くされたと聞くよ。群が去るまで何日も、空は暗いままだった。糞が雨のように降ってくると、鴎外も日記に書いている」
「それがどうして、こんなに数を減らしたんですか?」
「それだけたくさんいたからさ。一羽くらい殺しても平気だと思われた。空に向かって撃てば必ずあたった。もう一羽。あと一羽。そうするうちに、空はからっぽだ」
 わたしは実家から持ってきた本を繙いた。『姿を消しゆくリョコウバト――彼らはいまどこを飛ぶのか』。著者は伯父だった。
 羽根は柔らかく、肉は臭みもなくて美味だったと云う。戦前は手軽な資源として狩り尽くされ、強い帰巣本能が見込まれて戦時中は伝書鳩としても用いられた。本土と南方の戦場をリョコウバトが繋いだ。ニホンリョコウバトに棄てるところなし。羽根も。肉も。本能さえも。
 メディアとしての伝書鳩が廃れたあとも、戦後はレースの興業が盛り上がった。弱い個体は殺され、強い個体は掛け合わされ。空に放たれたリョコウバトが過酷な旅を経て死なずに戻ってきたとき、ひとびとは涙を流して抱き合った。
 そのようにしてニホンリョコウバトは姿を減らした。
 バイトが終わる頃、繁殖に成功したリョコウバトの一部が野生へ還されることになった。万一にも刺激しないよう、わたしたち木っ端の職員は遠くからその解放を眺めた。秋の風は涼しく、空はどこまでも高かった。一帯の田園は稲穂を実らせ、見渡す限りのその黄金に、ほむらが瞬いた。
「行け!」飛永が叫んだ。「生きて――」
 続かなかったその言葉を、わたしは補った。生きて、還ってきて。
 大好きな伯父だった。博学で、優しくて。けれどもわたしはいつも自分から喋るばかりで、伯父が何を守ろうとしていたのか、ろくに聴こうとしなかった。最後に会ったとき、バイトの返事を渋るわたしに伯父は、ゆっくり考えな、と笑った。――返事を聴くのは、入院から帰ってきてからやな。
 ニホンリョコウバトは磁気を感知し、方角を理解できる。果てしない空のなかでも、彼らは自分がどこに向かい、どこを飛んでいるのか知っている。その緋色の翼に携えた世界地図には、人類の歴史より昔、歴史なんてものが始まるより前から繰り返された旅路が刻まれているに違いない。それは地球規模の旅だ。かつてこの空を覆い尽くした、遥か南への旅。
 死ぬためではなく、生きつづけるための旅。
「生きて!」わたしも叫ぶ。「還って!」
 どこからとは云わなかった。どこへとも云わなかった。ほむらはいつしか、一切の青のなかへと消えた。
 休みが終わり、わたしは故郷へ帰った。服が鳥臭いと母は顔を顰めた。読みこみすぎて背骨が折れた伯父の本は、いまでもわたしの机の上にある。



 たぶんこれも会誌に載せると思います。

ツイートの代わりに:2022/07/24

今福龍太『原写真論』を読んだ。主として今世紀に書かれた写真論を集成したもの。総じて面白く読んだけれど、ポストコロニアリズムについて著者のある種楽観的な態度と、ラテンアメリカや沖縄をめぐるシリアスな現状とのあいだで軋みを上げているようなものがある。反論のために夜の囁きのようなあのトーンがしばしば失われているのは悲しい。あと褒めようとしすぎてほとんど滑稽なものもある。とは云え、ちょうどいま考えている小説について得るものは多かった。



ガンダムモダニズム→ターンゲーガンダム


 

題して、「建築学科1回生(SF研所属)の夏」
まあ、こう云う読書がいちばん楽しいよ。



この夏の目標。
・建築パースやスケッチを描けるようになる
・週に1度は建築か庭園を見に行く



観た動画。SCPはやはりこう云う、説明しきらないものが好きだ。残るのは手触りだけ。残るのは言葉だけ。

youtu.be



やはりぼくは、人生を俯瞰したいのだろうと思う。



感想の書き方メモ。

  • 褒めるのか貶すかはあとで良い
  • まずどんな作品なのか、を考える。それは何をしようとしているのかを
  • それを考え、言葉にする過程で褒貶は勝手に定まるだろう
  • ロジックやトリックは作品がしようとしていることの足がかりに過ぎないと思え
  • もちろんトリックのための小説もあり得る。しかしそう判断できるのは、どんな作品なのかを考えてからだ
  • 具体的に感想を書くときは、勘所となる部分を全体に繋げるように書く

 



面白くないものを語るのは端的にストレスであり、そのストレスを処理するために過剰に口汚くなったり、ためにする批判、不当な読みへと陥ったり、作者やファンダムへの人格非難に走ったりする。これは自戒を込めているが、自戒を込めていると明言するツイートはしばしば嫌われる。



面白くないものを面白くないとわざわざ口にするストレスを超えるために一種の自己顕示欲が作用する。「これ面白くないよね」と云うコメントの持つ嫌らしさはそこに起因する。面白くないと思っている自分を肯定しなければやってられないので、仕方ないことではある。



Wordle 400 4/6

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この2年間ほど、オンライン講義とレポート課題と休学で甘やかされてきたので、期末試験の勉強方法を完全に忘れてしまった。もとよりそんなに熱心に取り組んでいなかったような気もする。

原写真論