同人誌をつくったり盆休みに祖母を訪ねたり集中講義に潜ったり犯人当てを書いたりしているうちに八月はあっと云う間に過ぎ去っていった。何がやばいって就活とか研究とか一切手を付けなかったことだよ。同期はインターンに行っとるぞ調査に行っとるぞそれでお前は?
――それでも割と虚しさがないのは、結局のところ、同人誌をつくることも祖母を訪ねることもメディア論の講義に潜ることも五年ぶりくらいに犯人当てを書き上げることも自分にとっては重要で充実したことだったからだろう。初の同人誌『オブスクラ』は通販予約ぶんがめでたく完売しました。ありがとうございます。それでは文学フリマ大阪でお会いしましょう。
――とか云って、終わってはいけないのだった。これは読書日記である。ほかにも何冊か読んでいるのだが、写真と云う言葉で緩やかに繋がった以下の四冊について、感想を残しておく。
- トム・ガニング『映像が動き出すとき:写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』(みすず書房)
- 日高優『日本写真論:近代と格闘した三巨人』(講談社選書メチエ)
- はやみねかおる『少年名探偵 虹北恭助の冒険[新装版]』(星海社FICTIONS)
- 田中純『過去に触れる:歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店)
トム・ガニング『映像が動き出すとき:写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』(みすず書房)
私が悲観的ながらも目標とすることは、文化的テクストが有する両義性に重きを置くこと、そしてそのテクストが私たちを取り巻く脅威と共謀していても、それでもそれらを理解せよと主張することにあり、それはテクストを非難することなどよりもずっと緊急でずっと困難なことなのだと思う。[…]強力な批評への道は、抽象化し計算しようとする「力への意志」の顕現に立ち向かうところに開かれるのであって、それを避けて通るところにはない。
世紀転換期において、映像と近代は並走していたと云って良いだろう。そこにはまた、探偵小説も並走していたはずだ。本書でガニングが論じる映像の歴史を読みながら、ぼくは語られていないその第三者――探偵小説をたびたび思い出さずにはいられなかった。たとえば、マイブリッジやマレー、そしてリュミエール兄弟らを比較しながら映画の起源としての瞬間写真を論じるなかの、次のような一節がある。
そして最後の点として私が主張したいのは、[世紀転換期における]これらの視覚的な探求が、写真の正確さと科学的な価値――見ることは知ることであるということ――に対する強い信念と、アマチュアたちの貢献を規定していた楽しみや余暇の娯楽という一段と気軽な、悪戯好きでさえある感覚とを組み合わせたということである。
あなたが探偵小説に親しむ人間であるならば、ここで論じられる《科学的な価値》と《悪戯好きでさえある感覚》との組み合わせに、世紀転換期探偵小説の姿をだぶらせることが可能だろう。ホームズを筆頭とする探偵小説こそ何よりも《見ることは知ることであるということ》を謳い、同時にそれを《楽しみや余暇の娯楽》として提出してきたのではなかったか? そしてその娯楽に熱狂するアマチュアたちこそ、探偵小説の豊穣をつくりあげてきたのだし、そこで書かれてきた探偵たちもまた、アマチュアではなかっただろうか。
ガニングには「個人の身体を追跡する」と云う、写真と近代の関係を犯罪と探偵小説から照射すると云うぼくの関心どんぴしゃりの論文もあって*1、ぼくのこうした連想は、決して無理あるものではないのだと思わされる。その論文のなかでガニングはホームズを引き合いに出しながら、その探偵法と近代を結び付けてみせる。ホームズの観察は《日常生活の様々な力が人々に徴をつけてしまう、近代世界の特異さと通底しているのだ》。そこでは見ることは知ることである。けれどもその「見ること」とはいったい何なのだろう? 近代において、それはいかなる経験として現れたのか?
本書に戻って云えば、こんな忘れがたい一節もあった。
ときに最大のトリックは、何かがトリックでしかないと主張したり、容易にそれを暴くことができると主張したりすることのうちにあるのだ。
映像とはトリックである、としばしば云われる。それは不連続な瞬間を繋ぎ合わせる錯覚の作用に過ぎない、と。あるいは、いわゆる偽造写真がある。デジタル技術の出現は嘘の写真を氾濫させて、写真そのものの信頼を損なうだろう――。けれどもガニングはこうした素朴な映像・写真観に待ったをかけて、そうしたトリックをこそ「見ること」の眼目に置いてみせる。不連続な瞬間を眼が繋ぎ合わせているのなら、どうしてそれをこそ眼の機能であると、真なる運動であると見なしてはいけないのだろう? そうしないで、運動を不連続な瞬間へと解体することで、何が見えなくなったのだろう? あるいは、写真の真実性が失われた世界で、いったい誰がトリックの施された偽造写真をつくると云うのか? 偽物であること、歪められていることは、実のところ真実性と云う前提に依っている。反対に真実性もまた、虚構を否定することによって成り立つだろう。そして映像の歴史において、デジタル技術など登場するずっと昔から、ひとびとは真実と虚構の綱引きに戯れてきたのではなかったか?
見ると云うこと。撮ると云うこと。あるいは、映像が動くと云うこと。それらはいかなる体験として人類に持ち込まれたのか。そこにいかなるトリックが仕掛けられたのか――あるいはそのイリュージョンに、種も仕掛けもありはしないのか? そうして体験と歴史から映像を論じてゆくガニングの視座、そこで両義性に重きを置く語り口には、結果として主張されること以上に惹きつけられるものがある。実に楽しい本だった。
日高優『日本写真論:近代と格闘した三巨人』(講談社選書メチエ)
もう一度言おう。在るものを観て、在るものをいまも在るものとしている過去を撮って、おしとどめる――そうするのは、過去の生の流れ、生きる努力の流れを忘却の淵から掬う/救うとともに、流れの突端に創造されてくる持続の現在を、生の沸き立ちをいま感受するからだ。言い換えると、過去の全体である世界をいま、どう知覚して受け取るかが生きることを創造とする源泉なのであり、それをかたちにしておしとどめる写真の撮影は、過去を受け取って〈いま〉を深くし、未来へと向かう深き生の創造たり得るのである。
写真論が続く。
ものが在り、それが映ること。その限りない豊穣を、けれども言葉にすることはできない。何よりも本書が格闘しているのはそこ、あまりにも豊穣であるがゆえに捉えがたい世界に対する言葉の絶望的な不足だろう。それは写真と云う硝子窓に、べたべたと指紋をつけてまわるようなもので、世界はむしろますます曇って遠ざかるばかりに思われる。けれどもわたしたちには、結局のところ言葉しかない。言葉の外に、この硝子窓の向こうに出ることはできないのだ。
ゆえにこそ、写真家たちはカメラを構える。そして写真は世界の豊穣を、沈黙のうちに焼き付けるのだ。本書はそんな写真家たちの営みを、饒舌なまでの言葉によって、逆説的に明かしている。
[…]写真は人間にとっての意味の次元、記号の記録であることを突き抜けてしまう。どんなに記号の意味範囲内に押し込まれたような写真の見かけが仮構され、それが自然裡に働こうとも、写真は記号に収まり切らない。世界は視えない底なしの深さとして蠢いて在って、視える表層が僅かに意味化されるに過ぎない。意味という記号は、人間の領域内で蠢く。
最終的にはずいぶんと通俗的な日本論に逢着してしまうことや、こうしたもどかしいまでに《人間の領域内で蠢く》文体に、『現代アメリカ写真を読む』の切れ味を見いだせなくていくらか寂しくなったけれども、写真とは何か、と云う根本的なところを語る言葉はやはりぼくの胸を衝いてやまなかった。やはりぼくの写真観の根底には、このひとがいる。
はやみねかおる『少年名探偵 虹北恭助の冒険[新装版]』(星海社FICTIONS)
「一つ。誰も、他の人の気持ちを完全に読むことはできない。精神感応者(テレパス)じゃない限りね。二つ目。人は、自分の気持ちにすら、気付かないときがある。三つ目。この世の中は、そんな人たちが集まってできている。そして、これが一番大事なことなんだけど――」
わたしは言葉を切って、少し間をおいてから続けた。
「だから、この世の中はおもしろいのよ」
読書会の課題本。以下は、そのときに提出したレジュメの文章をほぼそのまま再録する。ちょうど読み返していた巽昌章の影響が色濃い。
*
虹北商店街の売りは《揺り籠から墓場まで》、必要なものが全部そろうことだ。学校は存在しないようだけれども(学習塾ビルの建設はかなわなかった)、逆に云えばここに学校を加えた野村響子の生活空間(すなわち商店街+学校)は、少女の人生を丸ごと一つ包み込むかのように自足した小世界である。本書に収められた事件はすべて、この小世界のなかで発生し、完結する。
また、各話のプロットは捜査過程を省いた、もしくは(一見すると不足した)最小限の手数のみを踏むもので、恭助が《魔術師》と呼ばれる所以はまさしくそこにあるのだが、こうした筋立ては作中に登場するすべての出来事や人物、ひいては記述の一切が直接的に謎とその解明に奉仕する緊密なミステリをつくりだす。たとえば、「心霊写真」の除霊シーンにおいてさり気なく描写された教室の壁、そこに貼られた《ジャガイモの澱粉を顕微鏡で見て描いたスケッチ》は、《写真を撮るとき両眼を開けてる》ことへの伏線として機能するし、いささか唐突に挿入される飛行船の記述はもっと直接的に真相に関わっている、と云ったぐあいに。こうした伏線の敷き方は、有象無象の情報ひしめき合うこの世界から謎とその解決と云う一連の仕掛けが浮かび上がるようなミステリではなく、反対に、謎とその解明と云う仕掛けのためだけに人物や風景が召喚されるような、ミニマムで自己充足的な、これもまた自足した小世界をイメージさせるものだ。
けれどもそうした小世界がつくりだされることは決して、この小説が閉じたものであることを意味しない。小学校に通うことなく、最後には旅に出てしまう恭助は、響子の世界に揺さぶりかけ、穴を開けてしまうような存在である――もっとも、そこから響子を外へ連れ出すわけではないところが興味深いけれども。加えて云えば、そんな恭助が解き明かして見せる真相の数々は、この自足した小世界にも響子の未だ触れない陰翳があることを示すものだ。その陰翳とはすなわち人生の陰翳である。同級生の家庭事情や秘めたる思い、あるいはままならぬ恋、長く影を落とすいじめ。そして響子の暮らす世界の裏側ではたらく見えないシステムが仄めかされる第四話「祈願成就」において、けれども一連の〝犯人〟は、あくまでも自らを「人間」と称する。その限界を理解しつつ、そのなかで懸命に生きることを説く。そうして虹北商店街と云う小世界に召喚された人々は、各々に与えられた生を全うし、世界を豊かに彩ってゆく。
もっとも、そうして彩られた世界の豊穣を響子はすでに確信しているらしい――ともすると、恭助以上に。だからこそ響子はそれらの陰翳をまっすぐに受け止めて挫けることがないし、作中において彼女だけが、恭助の意表を突き続けるのだ。連作のラスト、少女は少年に告げる。だから、この世の中はおもしろいのよ。
田中純『過去に触れる:歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店)
歴史叙述者は、歴史の「逆撫で」によって局所的に流動化し未決定となった過去の空隙――「いまだ生まれざるものの痕跡」――に触れる。[…]この生成しつつある痕跡こそが、死者たちのための「希望」にほかならない。それは死者たちの救済や解放を直接もたらすものではない。その本質は何ものも確実ではない宙吊り状態のサスペンスにある。しかし唯一、事態がいまだ確定していないことだけはそこで確実なのである。希望はこの不確定性の確実さにこそ宿る。たとえ「逆撫で」をなしえたとしても、その後の帰趨はけっして定かではない。死者たちはもう一度辱められるかもしれない。歴史叙述者もまた敗北するかもしれない。歴史叙述はそのとき、みずからを危険なサスペンスに晒す。
本書において、田中純は写真がもたらす歴史経験――それは主として、震災や原爆、ホロコーストと云った破局的な歴史である――を「サスペンス」と云う文字通りの宙吊りとして捉えながらそこに希望を見出そうとするけれども、ここで彼が云う《歴史叙述者》とは、やはりミステリにおける探偵に近しいものなのだろうと思う。実際、彼は本書中、それ自体が探偵小説的であるエッセイ「アーシアを探して」において、歴史叙述者として《或る人物の日記や手紙からその人生を再構成しようとする場合、日時や場所、行動の動機・内容・関係者を特定するために行なう一連の作業を、まるでミステリー小説やドラマにおける探偵か刑事による捜査であるかのように感じることがある》と書いている。《こうした感覚を抱くのはなぜなのだろうか。》
その一因はもちろん、証拠を集めて過去に起こった出来事を再現するという、わずかな痕跡から獲物の所在を読みとる狩人にも似た「徴候的知」(カルロ・ギンズブルグ)が、ちょうどシャーロック・ホームズが体現しているような推論的パラダイムに拠っていることだろう。ギンズブルグに従えば、これは「物語ること」という、太古から存在する人類の営みのパラダイムであり、歴史という知の形式でもある。
ふむ、と思っていると、《だが、おそらくそれだけが理由なのではない》と田中は続ける。
この感覚の底には何か、死者に対する負債を返そうとするかのような、誰から与えられたのでもない使命感に似たものが隠れている。だから、これが一種の捜査であったとしても、それは法の執行者として犯人を捜し出し罰するために、警察や探偵が社会的役割として果たす営みのようなものではけっしてないだろう。この負い目に似た感情はもっと個人的で、それにともなう使命感とは、死者たちに対する秘められた約束のようなものだからである。
この主張を反対から読むのなら、ミステリにおける探偵の営みを駆動するのは、単なる知的役割や、社会的役割に留まらない《死者に対する負債を返そうとするかのような、誰から与えられたのでもない使命感に似たもの》であるだろう。それは《死者たちに対する秘められた約束のようなもの》である。
そして田中は云う。
そんな理不尽な負債感とは、自分が甦らせるべき死者を選んだのではなく、その死者から自分が選ばれてしまったという、本来ありえない事態の錯覚である。
探偵が対象を選ぶのではなく、対象が探偵を選ぶ。その理不尽な負債感は、たとえば〈古典部〉シリーズにおいて、折木が抱えるものの通じるではないだろうか。彼もまた自ら選ぶと云うよりも、何者かに選ばれたようにして、何某かを背負わされた感覚に衝き動かされながら、過去に触れてゆく。そうして死者――と云ってしまっては『氷菓』しか射程に収められないが、少しだけ位相をずらして〝いなくなってしまった者〟とでもすれば、かのシリーズは一貫してそのような不在と喪失を扱ってきたことになるだろう――の経験した危機を経験し、言葉なき言葉を汲み取ろうとする。そこでは探偵自身もまた、危機に曝されずにはいられない――それは外傷ではなく、心の傷として刻まれるものかもしれないが。そして〈古典部〉に限らずこのようなミステリにあっては、そうして探偵が《みずからを危険なサスペンスに晒す》のだ。
本書がそうして過去に触れることの緊張を、基本的にミステリではなくサスペンスと云う言葉によって表現するのは、いちばんには宙吊りと云う語義を強調するため、あるいは念頭に置いているのが探偵小説ではなくサスペンス映画だからだろうけれども、もうひとつには、いわゆる〝本格〟の探偵小説が、しばしば探偵を超越的で安全な場所に置くからだろう。探偵みずからが危険に晒されるためには、それはサスペンスでなければならない。
けれどもこのサスペンスをもたらす《逆撫で》は往々にして、ミステリにおいて探偵が事件に、起こってしまった出来事に対して、投げかけてきたものではなかっただろうか。
いまだその死を贖われていない死者たちに対する負債感は、「あらゆる過去の出来事は確定して変化しない」という決定論――大文字の「歴史」の必然――の受け入れを歴史叙述者に許さない。歴史叙述者にはそのとき、死者たちが経験した危機的状況の想像的再構成が課される。
死者たちが経験した危機的状況の想像的再構成――探偵がしばしば解決篇でおこなってみせる推理は、それにほかならない。そこでは起こった出来事が後付けによって物語られる。けれども探偵の推理は、そうして逃れようのない決定論的な――運命論的な――因果のタペストリを織りあげる一方で、途方もない偶然を繋ぎ合わせることによって〝もしも〟と云う想像を喚起する。もしも、このとき雨が降らなければ。もしも、彼が帰ってこなければ。そうした〝もしも〟がもたらす《不確定性の確実さ》に、田中の云う《死者たちのための「希望」》は宿る。そしてこれからの探偵小説が、その根源に抱え込む死から眼を背けることなく書かれるためには、このような《サスペンス》こそ必要なのではないか、と思うのだ。
大著だったけれど、面白かった。もっとこのようなミステリ論が書かれると良い、と思う。――本書は決して、ミステリ論として書かれているわけではないけれど。