鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/06/12~07/01 フランコ・モレッティ『遠読』ほか

野村美月文学少女と死にたがりの道化【ピエロ】』(ファミ通文庫

「わからない――わからないよ。もしかしたらぼくは間違ってるのかもしれない。きみにひどいことを言ってるのかもしれない。けど、やっぱり死んだらダメなんだ。どうしてダメなのか、今はうまく説明できないけど、きみが生きる理由を探す手伝いをするから! だから死ぬのはもう少し待って! もう一度生きて! 生きようとして! 一緒に考えるから。一緒に悩むから! それならぼくにもできるから!」

 青春はおしなべて保留である、と誰かが云っていた。ぼくは本書を読んで、ようやくその意味が理解できた。保留とはつまり、問いを、問いのままに、保つことである。留めおくことである。それはだから問い続けると云うことであり、考え続けると云うことであり、畢竟、生きると云うことだ。《生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることは出発地と目的地をむすぶことではない》とインゴルドは云う。《むしろそれは、無数の物たちが流動しながら生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくことであるはずだ》*1。逆に云えば、その生成変化のプロセスを諦めた途端に、生きることは断ち切られるだろう。答えの出ない問いに対して、問いを問いのまま保つことをやめてしまえば、答えの先に続いているのは自己破壊的なプロセス以外にあり得ない。そのいきどまりは、死だ。本書に登場する少年少女たちが死にたがるとき、あるいは大人たちが過去に囚われるとき、《生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくこと》は諦められてしまう。はっきり云えば、そちらはそちらでとても苦しいプロセスであり、終わることのない罰のようでさえあるだろう。けれども彼らはひとりではない。もう一度生きて! 生きようとして! そう声をかける存在がいる。一緒に考えるから。一緒に悩むから! そしてこのとき隣には、いつだって文学があるだろう。それは物語である以上に、読まれるものであり、同時に、書かれるものである。インゴルドが『生きていること』を――その表題通りのことを考え続けた大著を――書くことについて書くことによって締めくくろうとしたのはきっと偶然ではない。ひとは忘れるために書き、憶えておくために書く。知るために書き、伝えるために書く。ここにおいて、書くことと生きることは同じことである。そのとき指摘しておかなければならないのは、その営為は読むことと共にあると云うことだ。書くことも読むことも究極的には孤独な営みだけれども、書くことと読むことは常にひとつであって、われわれは誰ひとり、独りきりでは読むことも書くことも完結しない。書くことが生きることであるならば、読むこともまた生きることであるだろう。死のうとする相手に心葉少年がかけた言葉と、遠子先輩がかけた言葉は、この点において対比されると同時に、ひとつの、生きる、と云う方向を向いている。そして少女は――あるいは、心葉少年は――書いたものが読まれると云う自覚においてふたたび書くことへ向かい、その自己破壊的なプロセスから救われるのだ。
 そうして書かれたものをむしゃむしゃと食べる遠子先輩の姿は、そんな読むことと書くことと生きることの結びつきを、わたしたちに印象付ける。食べちゃったら残らないじゃないか――「残る」と云うこともまた、書かれることの重要な意義ではないか――と思わないではないものの、彼女はそれを食べて生きているのだし、その営みはきっとテーマとか、比喩とか、そう云うものより以前の場所にいる。そんな先輩を筆頭にキャラクターたちが生き生きとして、まさしく《生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆく》ストーリーや、それを可能にする文体のしなやかさ――軽重自在、硬軟自在――も含め、とても面白かった。そのうち続きも読むだろう。

 

上遠野浩平ブギーポップは笑わない』(電撃文庫

「夢が見られない、未来を想えない、そんな世界はそれ自体で間違っている。でもそのことと戦うのは、残念ながらぼくではない。君や宮下藤花自身なんだ」

 セールで買って、いまさら読んだ。ある種の古典として親しまれているのが不思議なほどにとんがったつくりで、小説はいったん組み上げられたものに切れ込みをいれて、あえて核心が映りこまないようにコラージュしている。けれども断片のひとつひとつは、語り手たちにとって一回限りの人生の一幕であり、物語は――ブギーポップを含めて――ある種のシステムのようなかたちで彼らの生きる世界そのものとして姿を現す。さながら切子細工の硝子越しに見える、おぼろげに反射して光る像。それは小説そのもののイメージであり、小説の描き出す世界観でもある。つまり、何かが起こっている。それは遠く遠くの話ではなく、われわれの暮らす街角の路地裏でも進行している事態だけれども、それが表に出ることはない。いつの間にかわれわれの世界が基盤から掘り崩されていることを、けれどもわれわれは、自分がその穴に落っこちるまで気づくことがない。何かが起こっている。それはとっくの昔にわれわれを吞み込んで、ここには出口がないような気がする。その全体を、われわれを捉える全体を、われわれはぴったり同じかたちでは、決して知ることができない。いや、そもそも、われわれとは誰か? いますれ違った彼はわれわれなのだろうか? 彼は、彼女は、いったいだれか? わたしはいったいどこまでわたしか? わたしは何になることができるか? 本書がそのハズしたつくりを持っていてなお真っ当なジュヴナイルたりえているのは、だからきっと、そのあたりが理由なのだろう。いまとなっては素朴に映る精神分析や、いっそ懐かしくさえあるやたらと不健全な高校生たちの姿も、ここではひとつの世界、ひとつの時代、ひとつの精神の反映だ。たいへん面白かった。

 

アレックス・ライト『世界目録をつくろうとした男:奇才ポール・オトレと情報化時代の誕生』(みすず書房

ある日、ポール・オトレが孫のジャンと散歩していたとき、浜辺に打ちあげられたクラゲを見つけた。何年もたってから、ジャンはそのときのことを、オトレの伝記を書いたフランソワーズ・レヴィに話している。オトレはしゃがみこむと、クラゲを1匹ずつ砂から引っぱりだしては、積みかさねていった。そして上着のポケットから索引カードを取り出すと、そこに「59.33」という数字を書きこんだ。国際十進分類法で腔腸動物をあらわす数だ。そして濡れた無脊椎動物の山の上にそっとカードを置くと、歩き去っていった。

 クラゲのうえに置かれたインデックスカード。この滑稽で、可愛らしく、けれどもどこか哀しい情景に、オトレの夢が象徴されている。彼は世界中の文献を、書物に限らないあらゆるドキュメントを集成し、秩序立てることを目論んだ。それは文字通りに、世界を数字にすることだった。ゆえにこそ、オトレは本書で情報学の始まりに置かれる。その思想の意義が確認される。けれどもぼくにはその試みが、結局のところクラゲの、おそらくは死骸のうえに置かれたインデックスカードほどのことでしかなかったと思われてならない。それはクラゲを分類し、整理することにはなっても、クラゲについて知ることにはならないのではないか。彼の構想するユートピアは、ヘンリー・ジェイムズから間接的に非難されたように、途方もないもの、膨れ上がった巨大なもの、繰り返される単調で巨大なものである。ずらりと並んだ数字、数字、数字。世界をいくら細かい箱の中に分類したところで、世界そのものを収めることはできず、むしろ彼の世界は内へ内へと、頭蓋骨の内側へ閉じてゆくかのようだ。著者に指摘されているように、あらゆる情報を統制する彼のユートピアは、裏返して見れば知識の独占を敷くディストピアである。そしてオトレは結局、自らの構想が帝国の覇権主義と表裏一体であることに気づくことがなかった。彼にとって世界は複数のものではあり得なかった。それはひとつの秩序へ統合されなければならなかった。けれどもそれは他者から見れば、雑多なコレクションの寄せ集めにしか見えなかった。ぼくはそのことを本当に切ないと感じる。これは単なる同情ではない。おそらくは本気で世界平和を希求した人間が失敗してしまった、それどころか憎むべき帝国主義と表裏一体となっていたこと、その逃れがたい歴史の皮肉と、人間の営為のちっぽけさに対する、ほとんど怒りのような切なさである。インターネットと云う巨大な図書館、その索引システムが世界平和をもたらさないどころかますます分断を深めてゆく二十一世紀、オトレの構想から百年経ったいま、いったい誰が彼を笑えると云うのだろう?

48歳にして、積極的な活動家の背後にある苦労が姿をあらわしはじめていた。1917年には、自信喪失の危機に襲われた。息子のジャンは未だ行方不明で、設立した団体は戦争の影響で機能不全。愛する国もドイツの占領下にあった。妻のカトーは夫の精神状態を心配し、心理療法を受けさせた。オトレは戦時中の心の痛みについて、メモにこう吐露している。「私の命? 仕事、旅行、思考、執筆、組織、単純[な作業]。戦時中の私の冒険を伝えるのは難しい。私の放浪、私の困難、思考の状態、行動の方向」。それでも、「私の命と仕事は続く」と、希望を感じさせる言葉で締めくくっている。
(太字引用者)

 

フランコモレッティ『遠読:〈世界文学システム〉への挑戦』(みすず書房

たぶん、「世界」と「未読」は、同時に取りくむには手にあまるのだ。だが、これぞ最大の好機とさえ、私には映る。なぜなら、課題のあまりの巨大さゆえに、世界文学は文学ではありえず、もっと大きいものでもないことがはっきりするからだ。[…]つまり、世界文学は対象ではなく、問題なのだ。しかも、新しい批評の方法を要請する問題なのだ。その方法は、もっとテクストを読むだけでは、誰にも見つけることができない。理論がいかにこの世に生まれるかの話をしているわけではない。必要なのは、着手するための跳躍、賭け――仮説なのだ。

 たとえば、「近代ヨーロッパ文学」注釈の、次のような一文。

生物の歴史にも似て、文学の歴史は、もはや不要となった可能性の巨大な屠場なのだ。

 あるいは本書には、その名もずばり「文学の屠場」と云う論文も収められている。ここで「屠場」は、われわれが肉を食べるにあたって家畜を殺すための施設と云うよりも、不要とされたものを処分するための施設、つまり、強制収容所ガス室のようなものが想定されているように思う。なぜならそこに入れられたものは、その姿を永遠に消すからだ。彼らは誰にも読まれなくなって、目録にその名を留めるだけになる。つまり、それらは名前と数字だけになる。そこまで考えたとき、エラリイ・クイーン『九尾の猫』を思い出すことは、ぼくにとって自然なことだった。

「その単純さこそが事実を見えづらくしていたと思います。単純であること、殺害件数が多く、事件が長期に及んだという事態のせいです。そのうえ、殺人が度重なるにつれ、被害者の特徴はしだいにぼやけて混じり合い、ついには、振り返れば均一の死体の山、処理場送りの九頭の牛に見える、そんな事件でした。ベルゼン、ブーヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、マイダネクで撮られた強制収容所の死体の公式写真を見るときと、人は同じ反応を示しました。だれがだれだか見分けがつかない。死があるだけです」*2

 振り返れば均一の死体の山、処理場送りの九頭の牛。モレッティの云う遠読とは、そのようなものとして文学を読む(あるいは、読まない)ことであるだろう。あるいはこう喩えてみよう。精読は云わば、文字通り、地に足をつけてじっくり歩いてゆくことである。それはひどくのろい進みで、ときには足踏みばかりすることになるかもしれないが、大地を踏みしめて歩く限りにおいてわれわれは自由であり、どこにでも行くことができる――《というのも、どこに行こうとも、人生が続く限り、彼にはさらに次なる場所が待っているからである》*3。一方で遠読とは、少なくともモレッティが本書で試みているのは、ロケットを打ち上げて衛星写真を撮るようなものである。その眼差しは良くも悪くも、地上をあまねく平らに均す。その俯瞰においてはともすると、土地の、そこで生きる人間の、固有の生が失われてしまう。けれどもその代わり、われわれは途方もなく広いものを見ることができる。つまり、世界を。これはそれだけの価値がある賭けだ。必要なのは、着手するための跳躍、賭け――仮説なのだ。そしてエラリイ・クイーンの、あるいは「文学の屠場」で論じられるホームズたちの、つまりは名探偵の眼差しもまた、そのようなものではなかったか。巫弓彦は云う。

「飛躍です。そこにこそ、昔ながらの名探偵の意義もあった。あることとあることの、思わぬ結び付きを発見する。常人では分からぬ一本の道を、空から見たかのように示す」*4

 どうしたことだろう? モレッティの眼差しは、名探偵のそれに漸近している。彼が「文学の屠場」で探偵小説を取り上げたのは、いったいどうした偶然なのか? 実のところおそらく、偶然ではない。モレッティがここで注目する「手がかり」と云う要素は小説において《過去が不意に現在と結びつく、ばっちりど真ん中のポジション》にある。それは《二つの物語をくっつけて、物語を各パーツの合計よりも大きなものへ変える蝶番。つまり構造だ。ぴんと張りつめることで、物語のあらゆる各部を改良する形態学的な好循環が始まる。手がかりを探せば、一文一文が「意味を持ち」、登場人物の一人一人が「面白い」ものとなる。つまらない描写もなくなる。すべての言葉が冴えわたり、不思議に満ちる》。どうだろう、これはモレッティがおこなっていることそのものではないか? モレッティは「手がかり」それ自体を、過去の推理小説を読むための手がかりとしている。そうすることで《過去が不意に現在と結びつく》。樹形図に並べられることで、《一文一文が「意味を持ち」、登場人物の一人一人が「面白い」ものとなる》。かくしてホームズは巨大な樹形図に回収され、脱魔術化される。そうして《小説世界を脱魔術化すること、これぞ手がかりの大いなる達成だ》。いかにも。
 もっとも最後になって、モレッティの手法は批判を受ける。《わたしたちが一つの装置のみを求めてアーカイヴを探すとしたら、それがどんなに重要なものであっても、見つかるのは装置の劣化版だけでしょう。なぜなら、本当にそればかりを探し求めていたのだから。意図がどういうものであれ、研究プロジェクトは同語反復トートロジーになります》。モレッティは答えて曰く、《ジェシカ・ブレントは正しい。以上》。このあたりの笑ってしまうほどの素直さは本書の美点だが、それはさておき、進化論的な淘汰のモデルは、そもそもがトートロジー的である。生き残ったものが生き残る。あるのは無数の分岐であって、そこからひとつが選び取られるのは、実のところなんの必然でもない。誰が優れているとも意味しない。モレッティは反論する。少し長くなるが引用しよう。

それでは最後の当て推量だ。読まれざる巨匠たちには多種多様な人間が見つかるだろうし、「ライバル」と呼んだものもその一例に過ぎない。だからこそ、ツリーは有益なのだ――文学史を「開く」方法。それが示すのは、ヨーロッパの大衆によって選ばれた道(コナン・ドイル、カノン)が、(実際には選ばれなかったが)同じく選ばれた可能性をもつ他の多くの枝々とともに存在する、ほんの一本の枝に過ぎないということだ。文学史が今のものとは違ったかもしれないとツリーは語る。「違う」のであり、「よりよい」と言う必要はない。それに、今のものである強力な理由もあるのだ。私の論の大半は、コナン・ドイルの選択が意味をなすのか、まさにその理由を説明しようと試みている。だが「説明する」とは、所定の結果の原因を明らかにするために、手持ちの証拠を系統立ててまとめるという意味だ。つまり、結果がそれしかありえない、不可避なものだったと主張することは意味しない。そんなものは歴史学ではなく神義論だ。不可避なのはツリーであって、あっちの枝やこっちの枝の成功ではない。実際、一八九〇年代の手がかりの枝がどれほどありえないものか、私たちはすでに見ている。
(太字引用者)

 後から説明づけることと、最初からすべてを決定づけることの混同。これは進化論にもついて回る誤解である(適者生存、優生学!)。そしてこの陥穽は、まさしく探偵小説が仕掛けているそれと同じであるように思われる。過去に何が起きたのか――探偵小説において再構成されるそれは出来事が偶然の連鎖であることを明かし、無数の「もしも」を想像させる。けれども同時に、手がかりと合理に基づく探偵の推理は、起きたことがそれ以外にあり得ないと云う感覚を強く与える――犯人が計画し、探偵がすべてを見抜いている。まるで最初から決定づけられていたかのように。まさかこんなことが起きたなんて、と云う探偵小説の驚きは、まさにこの撞着に由来する。それは合理的推論と決定論のすり替えであり、偶然から運命への転化であり、モレッティの云うようにそんなものは歴史学ではなく神義論だ。そして巽昌章がトーマ・ナルスジャックを引きながら――《ポオの天才は必然性と決定論を混同したところにある》――云うように、《「名探偵はすべてお見通し」的な決定論幻想にまで突き進んでしまうのが本格ミステリである》*5モレッティの論文にどこか恍惚とさせられるところがあるとすれば、単なる文体の名調子や大きなことを云い続ける気持ち良さだけでなく、そのようなミステリ的幻想、あるいは脱魔術的幻想とでも云うべき作用があるからだ。モレッティはこれに対して、明晰に抗することができていない。結局のところ、彼は「手がかり」でしか樹形図を描けないし、いくら譲歩したところで、それがすべてを決定づけているかのような幻想を呼び寄せてしまうだろう。けれども探偵小説がそうであるように、そこにこそ本書の緊張があり、誤解をおそれずに云えば、面白さがある。

*1:ティム・インゴルド『生きていること:動く、知る、記述する』(柴田崇ほか訳、左右社)

*2:エラリイ・クイーン『九尾の猫』(越前敏弥訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)

*3:ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』(工藤晋訳、左右社)

*4:北村薫『遠い唇:北村薫自選日常の謎作品集』(角川文庫)

*5:巽昌章「見えない手を描くために」(『本格ミステリ・ディケイド300』(探偵小説研究会編、原書房))