十月が終わる。〆切やイベントに追われて忙しくしていたせいか、長かったような、それでいて、瞬く間にすぎたようでもある。
有栖川有栖『日本扇の謎』(講談社ノベルス)
「私はこれから辻褄を合わせていきます」
洛北にある日本画家の屋敷。その離れで、画商の死体が発見される。日頃離れで寝泊まりし、事件当夜に姿をくらました当家の次男が重要参考人として浮かび上がるも、殺人に至る経緯がわからない。と云うのも彼は事件のしばらく前、舞鶴の浜辺で保護されて以来、記憶喪失のままだったと云うのだから……。ど真ん中ストレートを投げながら、奇妙な回転が掛けられて一筋縄ではいかない。そんなフーダニットだと感じた。
ほぼ全篇が関係者への事情聴取に割かれたソリッドな捜査パートも、細かな驚きや発見を繰り返しながら読ませるのは熟練のわざと云うほかないけれど、それでもやっぱり退屈の感が否めないのは、作中で火村も悩んでいる通り、事件全体が曖昧模糊としているからだろう。一応、現場が密室状態だったと云うわかりやすい謎があるものの、これは火村によってあっさりと解明される。代わりに謎として現れるのは上述した記憶喪失の男の存在であり、彼が浜辺で保護されたとき手ぶらの状態に扇をひとつだけ持っていたことから『日本扇の謎』となるわけだが、なぜ舞鶴にいたのか、それまで何をしていたのか、そもそも本当に記憶喪失であるのかを含め、巨大で輪郭の曖昧な疑問が残されて、いちいち分析の邪魔をする。火村はディスカッションのたびに明言を避ける。こうかもしれない、それともああかもしれない……。記憶喪失の男がふたたび発見されてもなお、その脳みその中身を取り出して解明することなどできはしない。喪失しているのかさえもわからない空白が、事件の中心に口を開いているのだ。
そんな事態のなか、思いがけないほどあっさりと記憶喪失の背景が明かされてから、火村もまたあっさりと犯人を絞り込む。白眉はやはり、その推理だろう。曖昧な部分を曖昧なまま、半ば無理やり辻褄を合わせながら、火村の推理はからくも見事にアクロバットを決める。ひとつの手がかりから階梯を昇るのではなく、云うなればそれは、全体像を大掴みするような推理だ。そのとき指摘される「そもそも」の視角から、「起こったこと」と「起こらなかったこと」はぐるりと反転して、世界が束の間、ふ、と消えたようになる。その反転を、あるいは「現実」と「虚構」に置き換えてみても良いだろう。両者は束の間、等価になって、交換可能になってしまう。それ自体は確かめようのない記憶喪失と云うモチーフ、そしてエピローグで仄めかされるメタフィクショナルな趣向――とは云えこれはおそらく『スペイン岬』オマージュなのだろうと思うが――を踏まえるなら、本作の主題は、おそらくその反転、ないし、交換可能性、およびその不可能性――要するに、交換可能であるかに見えたものが交換不可能であることにこそあって、そこに本書の推理の仄かな幻想性と不条理が、そして真相のやるせなさが宿る。道中は少々退屈したけれど、実に面白かった。
追記:2024/10/29
以前先輩が、犯人当ては畢竟、間違い探しになってしまうと云っていた。これはほかのミステリ研の方も云っていたように思うので、犯人当てを書くなら誰しもたどり着く問題なのだろう。間違い探しとは要するに『エジプト十字架』のヨードチンキなのだが、具体的に云うと、なんらかの矛盾点を忍ばせてそれを取っ掛かりにすると云うことだ。もちろんそこからいくらでも曲芸的な推理を組み立てることはできるのだけれど、いたずらな複雑化を招く。入り口を見えにくくして、道中を狭く暗く曲がりくねらせたら誰だって迷うだろうけれどもね、と云うことだ。扉は堂々と開いていたのに、誰もそのことに気が付かない、そんな犯人当てがあっても良いし(それもまた間違い探しではあるが)、さらに云えば、ちょっと見方を変えるだけで扉が浮かび上がる、そんな趣向が達成できたら理想的だろう。本書は、その理想にかなり近いことをしているように思う。火村があることを指摘するとき、それは矛盾ではない。ただ、誰もそこに扉があるとに気づかなかっただけだ。もっと云えば、誰もそこを見てみようとしなかっただけなのだ。思考停止のその先に、木戸は平然と開いている。
北村薫『ニッポン硬貨の謎』(創元推理文庫)
「いいですか、お父さん。ぼくは宣言します。リヨンの駅からオリエント急行が再び旅立つことがなくなろうとも、――ぼくたちの時代の古く懐かしいものの総てが、別れの歌と共に、過ぎ行く時の波間に没して行こうとも、――謎物語の作者達が、架けつつ渡り、渡りつつ壊し、壊してはまた架けて来たその橋が、うたかたのごとくに消えてなくなる、などということはありません。神かけて、あり得ないのです。――クイーンはそれを、厳かに宣言します」
巽昌章は本書の主題を《交換できないものを交換しようとすることの悲惨》と鮮やかに看破する*1。決まった場所、決まった時間に、両替される硬貨、その象徴的な意味は何か。それは連続幼児殺害事件と云う円環のなかで、いかなる鎖として機能しているか。《しかし、より大切なのは、これによって、犯人の狂気が描き出す神秘で巨大な構図の陰に、交換できないもの、取り返しのつかないもののささやかな姿が、点描されたということだ》。この紹介があまりに印象的だったので本書を手に取ったのだし、先の『日本扇』の感想でも「交換可能性」について書いた。いや、より正確には、この評を見て積んでおいたところ、『日本扇』からの連想で手に取ったと云うことだ。巽はさらに云う――
「ゲーム小説」の極点を国名シリーズで極め、その後、個人のちっぽけな生を無にしてしまう巨大な論理の暴走に心奪われたクイーン。そのクイーンに捧げる小さな花束は、取り返しのつかないものこそが、実は巨大な妄想的論理を生み出す一粒の種ではないかという問いかけを担っているのである。ささやかだがかけがえのないものを取り戻したいと願う不可能な祈り、それこそが、日本の推理小説における「構図」の母体ではないのかと。
ささやかだがかけがえのないものを取り戻したいと願う不可能な祈り。犯人はそのために、ほとんど呪いのようなものを仕掛ける。それが実行されたところで、おそらくは何にもならないだろう。それでも犯人は動かずにはいられない。冒頭、犯人は自らを運命の歯車に呑まれた人間であるかのように語るが、そうではない。なんとなればこの運命の輪を回しているのは、ほかならぬ犯人自身だからだ。犯人は自らを動かす運命を仮構することで、なんとか生き延びようとした。その車輪を回した先に、死を克服することを祈ったのだ。
そしてこの車輪を駆動するものこそ、北村の云う《天上の論理》すなわち言葉の体系なのだろう。まじないとは畢竟、言葉である。どうか届きますようにと記しづけられるものは、おしなべてみな、そうであるはずだ。そして、北村は云う――《小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います》*2。そうだ、小説もまた、ささやかだがかけがえのないものを取り戻したいと願う不可能な祈りから書かれるものではないのか。
言葉が届くことの不思議。言葉が読まれることの神秘。あるいは、言葉が読み替えられることの驚き。そのなかで絶えず繰り返される解釈の営みが、有限であるはずの言葉の体系に、ほとんど無限の豊穣を与える*3。張り巡らされた無数の地口は思いがけないイメージとイメージを接続し、多重に仕掛けられたメタフィクショナルな仕掛け――翻訳、引用、注釈、虚実の混淆――は、言葉の迷路を構築し、さながら万華鏡のようだ。そして本書の《天上の論理》に並ぶもうひとつの眼玉は、クイーンが仕組んだ――と、北村が主張する――メタフィクショナルなミスディレクションの指摘にあった。両者の眼目を――円環を――重ね合わせて立体視するとき、ダネイとリーが重なるようなかたちで、クイーンの姿も浮かび上がる。――本書の試みは、ざっとそんなものだろうと思う。
けれども――、その万華鏡にうっとりとしながら、また一方で思うのは、ここには言葉しかないと云うことだ。万華鏡が反射するのは、それでもしょせん、狭い筒に切り抜かれた世界でしかない。無限の曼陀羅は虚像なのだ。本書において、言葉の豊かな解釈の営みは、そのまま硬貨の両替に置き換えられるだろう。貨幣のやり取りをするように、言葉はひとの手を渡り、交換される。けれどもその果てに待つのは、もはや実体を欠いた価値の取引ではないか。具体的な事物に基づかないそれは、資本主義を駆動する経済システムに擬せられるだろう。あるいは単に、為替取引と云ってみようか*4。
すべてが《天上の論理》に回収されて、言葉はそれ自体で充足する。それは恍惚とした光景でありながらも、どこか虚しい風景だ。なんとなれば、人間の――と云うか、一切の――生が営まれるのは、どうしたって地上の論理だろうから。地に足ついていない、と云うとこれまた北村好みの言葉遊びになりそうだけれど、本書を読んでなんとなく、ぼくはそんな危うい浮遊感を覚えた。
米澤穂信『クドリャフカの順番』(角川文庫)
……それともいつか、俺にもその「順番」がまわってくるだろうか?
読書会の課題本。再読。シリーズのなかでもファンが多い作品と認識しているが、実を云うとぼく自身はあまり乗ることができていなかった。と云うのも、本書は残酷な才能の話だからだ。そしてぼくは、小説なり漫画なり映画なりなんでも良いけれど、創作物で才能の格差を問う話に強い忌避感を持ってきた。触れると面白いし心揺さぶられるのだけれども、なんと云うか、探られたくない懐に手を入れられている感覚があるのだ。それをこそ快いと思う向きも当然あるだろう。けれどもぼくは、そうではない。小説には、もっと遠くを見てほしい。ぼくが見たいのは天才の作品であって、天才に嫉妬する者の作品ではない。嫉妬だの期待だの諦めだのは、自分が味わうのでじゅうぶんである。
とは云え。こうして再読したことで、そのような一面的で直観的な拒否とはだいぶ折り合いが付けられたように思う。結局のところそのような信念は、作品ごとに曲げられないかぎり単なる偏屈で終わるのだ。そのために何よりありがたかったのは、本書においては才能と云うブラックボックスに手が突っ込まれることはなく、格差の問題はあっさりと、できることとできないこと、あるいは向き不向きの問題へと均されることだろう。それはまた、自分自身とどう折り合いをつけるのか、と云う問題へと繋がる。われわれは他人になることはできない。誰かに成り代わることはできず、誰かと一体になることもできず、他者とのあいだに開いた絶望的な距離は決して埋まらない。けれどもそれゆえにわれわれは手を伸ばすのであるし、そこにおいて小説は、言葉と云う主題を導くと同時に、群像劇と云う構造を要請するのだ。本書が実のところミッシング・リンクものではなく、ある種の見立て、もっと云えば、暗号解読ものであった意義も、そこに見出されるだろう*5。そして、そのメッセージに託されたものこそ、ささやかだがかけがえのないものを取り戻したいと願う不可能な祈りではないだろうか?*6
*
お祭り騒ぎの小説である。これまでの作品に登場した〝犯人〟たちが再登場することも、オールスター感を強めている。つまり、感謝祭であるのだ、と。けれども同時に、本書はひどく思弁的な小説でもある。韜晦混じりの折木の語りが1/4に過ぎないぶん、小説は福部に、伊原に、千反田に、(誂えたように)共通のテーマについて、さまざまな思考を語らせる。そんな本書の全体像を、構成的と見てみよう*7。あるいは、抽象性も見て取れる。祝祭の賑わしさ、雑然とした蠢きのなかを、言葉の円環が貫いている、と。わらしべプロトコルもその円環を印象付ける。このシステムを順番と云っても良いし、さらには運命と呼んでも良いはずだ*8。ひとはそのなかで人事を尽くす。なんとなれば人間は、配られたカードで勝負するしかないからだ。古典部の各々に割り当てられたトランプのスート、そのカードを並べ立て、トリッキーに組み替えながら展開される小説の構成には、そんな喩えが思い出された。ここには沢山の人間がいる。自らの手札をまだ知らない者。思い切って手札を切る者。他者の手札に期待する者。手札をじっと見つめ、何ができるか考える者。その生き方はさまざまだ。