鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/06/02~06/15 笠井潔『バイバイ、エンジェル』ほか

笠井潔『バイバイ、エンジェル』(創元推理文庫

「観念という、現実のかたちは決して持ちえないもの、どこにもないもの。生存の露骨な具体性から見れば馬鹿馬鹿しいほどに影の薄い、抽象的なもの。目も口もない、手も足もない、虚ろな宇宙に漂う亡霊に似たもの……。これが時として人間に憑くのです。その時、人は真空状態で放電する火花のような状態になる。ぶよぶよした細胞の塊が、なにかまるで別のものに変わってしまうのです。これに憑かれて行なわれる殺人は、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人です」

 ぼくが子供のころからずっと、父はぼくに、現象学を教えようとしてきた。食卓のコップをこちらに差し出しては、これがなぜコップだとわかるのか、と。そんな話が始まるときはたいてい、父の機嫌が良いときだった。母と兄は、また始まったよ、と呆れて席を外したものだ。ぼくの家族で、父の話を聴いてやれるのはぼくだけだった。父が大学へ進学する際、成績で云えばじゅうぶんに挑戦できていたはずの東大や京大を家庭の事情で諦めざるを得なかったことを知るのはもう少しぼくが成長してからの話だ。父の書斎の一角に、七〇年代~八〇年代に人生の春を過ごしたインテリ学生なら熱狂したであろう栗本慎一郎ニューアカの名前を見つけるのは、そしてその隣に、古ぼけてすっかり背の色あせた『バイバイ、エンジェル』を見つけるのは、もう少しだけ、ぼくがものごとをよく知ってからの話だ。その一角には昨年久しぶりに、真新しい本が追加された。『煉獄の時』。それらはきっと父にとって、青春の書物に違いなかった。
 矢吹連作を読むとき、だからぼくは、いくらか感傷的な気分になる。そこには、存在しないはずの、抱いたことのないはずの憧憬が入り混じっている。辿り着きえない場所へ、言葉によって手を伸ばそうとするかのような憧憬が。それは若かりし父の抱えたものであったろうし、ぼくがいま父に抱えているものであるだろうが、何よりもこの連作が持っている、どこか頭でっかちな希求に通じているだろう。小説は何か、観念的なものへ迫ろうとしている。「人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人」を、云うなれば、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが書くような小説によって描き出し、アポリアにぶつかろうとしている。けれども笠井には、本書の試みを十全に達成できているだろうか? ここで語られる現象学的推理は名ばかりのもので、実際のところはクイーンふうのアブダクションに留まっているし、犯人がめぐらせたはずの巧緻な計略は最初からずたずたに引き裂かれている。言葉ばかりが前に出る。過剰なまでの都市描写。素朴なまでのヴァン・ダイン趣味。材料がいまにもばらばらに砕けそうで、いまにも転びそうになる……。けれども、そう、それでもなお、この小説は結末まで走り抜ける。若書きと云ってしまえばそれまでの、矢吹と犯人との切り結びに、けれども胸が熱くなる。とは云えその熱は革命と闘争の思想によって滾っているからと云うのではなく、ひとりの青年がここに、それでもなお、と言葉を傾ける、その書きぶりに圧倒されるからだろう。
 もっとも今回、中学生以来の再読を通してもっとも面白く読んだのは、殺人犯の悲哀だった。彼はなぜ首を切ったのか。もとい、なぜ切らねばならなかったのか。最終盤で響くのは、自分ではもはや止めることができない犯罪の歯車に呑まれてしまった男の叫びだ。笠井は本書で、自分が描こうとしているほどには完璧な犯人を描くことはできなかったかもしれないが、けれどもそれゆえに、ここには犯人をも超えて駆動する犯罪のシステムが描き出されている。それはともすると後期クイーン的と呼ばれるものよりもずっと、後期クイーン的であるだろう。

 

円城塔『文字渦』(新潮文庫

「表示される文字をいくらリアルタイムに変化させても、レイアウトを動的に生成しても、ここにある文字は死体みたいなものだ。せいぜいゾンビ文字ってところにすぎない。魂なしに動く物。文字のふりをした文字。文字の抜け殻だ。文字の本質はきっと、どこかあっちの方からやってきて、いっとき、今も文字と呼ばれているものに宿って、そうしてまたどこかへいってしまったんだろう。どう思う」
 と境部さんが繰り返す。
「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」

 文庫版で再読。単行本で読んだ当時は後半が何を云っているのかさっぱりわからなかったけれども、いま読むとだいぶインゴルドっぽいなと感じて楽しく読めた。つまり、記号としての文字、と云う捉え方を覆すような、それでいてあくまでも飄々とすり抜けてゆくような、線としての文字。メディアである以前の文字。生きものとしての文字。どこまで本気で語っているのか、いやすべてが本気なのだ、と思ったところで繰り出されるスペースインベーダーにずっこけつつ、その一切が文字で書かれていると云うことに慄かずにはいられない。読んでいるうち、これらが文字であることそれ自体の不思議を思わされた。自分は何を読んでいるのか? そしていま、自分は何を書いているのか?
 正直云えば、本書をある種の実験小説として読んだとき、ここで試みられている仮説も、実験も、その結果と考察も議論を追いきれているわけではないのだけれど、読みながら体験それ自体を揺さぶられるような感覚を抱いた時点で圧倒されたことは間違いない。そして何より、本書は抽象的な実験小説に見えながらも、多分に政治的だ。と云うか、文字とは歴史であり、政治であり、文化であり、それらの一切に先立つものだった。ここにあって、この射程は驚くべきものである。加えて、かなとは「女手」とされた。現代において実験室がどうしても男たちの世界にされてしまうように、実験小説もまたその抽象性の陰に隠れて男性的なものを押し付けてきた。本書はそこに、ひとつの罅を入れにかかっている(十全であるか、は別として)。これはただの実験ではない。と云うか、実験とはここまでやっていくものなのである。面白かったし、感動した。

追記:ポッドキャストで感想をしゃべりました。

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fudaraku『竜胆の乙女:わたしの中で永久に光る』(メディアワークス文庫

「本当の地獄よりも作り物の温い地獄の方がずっとましってものじゃないか」

 読書会の課題本。これからはライトノベルライト文芸を積極的に読んでいこうと思っていて、その入り口としてはちょうど良かったのではないか。ライトノベルの新人賞、それも大賞からデビューしながら、本書はぼくのライトノベル観を鮮やかに裏切るものだった。それは単にラブコメディやアクションではないから、と云うだけではなく、小説自体が、自らの印象を裏切ろうとして何度も変貌する。そのことは帯でも予告されているのだけれど、まさかここまでひっくり返されるとは思わなかった。その仕掛けの達成以前に、驚かされたことは認めなければならない。小説を読んでいて、おや、と驚いたのは本当に久しぶりだった。
 そして仕掛け自体もまた、よく作られているのではないか。ちゃぶ台返しが梯子外しに終わっていない点で、それは優れた達成であるだろう。わけても最初の変貌から先、物語それ自体を問うていく展開において、自家中毒的な物語礼賛を回避している点は注目したい。物語は人を救うか? 救わない、とぼくは思っているけれど――少なくとも、救うことを信じられるとは思えないけれど、本書は物語が届くこと、それを踏まえて自らが物語ることを通してひとりの少女が救われる過程を描き出している。いたずらにフィクションを実体化するのではなく、語られるものとしてそれを扱っている点で誠実だ。もっともそのために、小説の後半、物語られた物語自体が現実に呑まれて、いくらか小さなものとなってしまっている――とくに、遡及的に前半が矮小化している――きらいはあるけれども。とは云え、物語るメディアそれ自体は現実である、と云うことはぼく自身の物語観によく合致するものであるし、そのうえで物語ることに賭けようとする態度は好ましいと思う。それが畢竟、ある種のなのだ、と云う結論も含めて。

本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題も現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。
――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』

遠い過去の残像、現実だったかもしれないし想像の産物かもしれない像、もうその違いが私にはわからない。現実と想像はひとつだ。思考は現実である。非現実の物たちをめぐる思考ですら現実である。見えない星、見えない空。私の息の音、カーチャの息の音。就寝時の祈り、子供のころの儀式、子供のころの厳粛さ。われ目覚むる前に死すれば。すべてはなんと早く過ぎていくことか。昨日は子供。今日は老人。いま以降、心臓の鼓動はあと何回か、呼吸は何回か、あと何語話して何語聞くか?
――ポール・オースター『闇の中の男』

 

三津田信三『首無しの如き祟るもの』(講談社文庫)

「でも、これは小説じゃありませんか」

 読書会の課題本。読書会出すぎだろ。
 最前の感想で物語るメディアそれ自体は現実であると書いたけれども、そのことをミステリの仕掛けとして十全に組み込んで、目の前に書かれている小説そのものをふたたび虚構のほうへ押し返したのが本書だと云える。いま自分は何を読んでいるのか、と云う驚き。ここにはいったい何が書かれているのか、と云う慄き。首切りを題材とした物語は徹底した作り込みの果てに、これ以上踏み込めばミステリがミステリではなくなって、それどころか小説自体が成立しなくなってしまうかのような臨界へ至る。それは同時に、人間が人間でなくなってしまう臨界でもあるだろう。そこで問題となるものこそ、首である。それはとりもなおさず人間の顔であり、脳みそであり、小説はそれを繰り返し切り落とし、すげ替え、隠したかと思えば取り出してみせる。ここにおいてアイデンティティは揺さぶられ、人間を飲み込む抽象的なシステムが姿を現すのだ。もっとも『バイバイ、エンジェル』において、それはある種の観念であったのに対し、本書においてそれは文字通りに〈首無〉と云う怪異として立ち現れる。それはシステムをハックしようとした者さえ吞み込んでしまう、おそるべき祟りのシステムである。本書が横溝的である所以は、単に舞台となる村や首切りの禍々しさ以上に、そのようなシステムの手触りにこそ見出される。