鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/05/21~05/30 宮田眞砂『セント・アグネスの純心』ほか

ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌:ゴミと資源のあいだ』(工作舎

廃棄や衰退を直截に取り扱う過程で、対峙すべき技術的かつ経済的な問題が、世の中には、数多くあるが、最大の問題は、私たちの心の中にある。純粋さと永続性に焦がれつつ、私たちは永遠に衰退してゆく術や、流れの連続性、軌道や展開を見据える術を学ばねばならない。動きも交わりもしないものより、これらの動きは、現在が過去と未来をしっかり結んでいる事実を示してくれる。一九世紀は、もはや遠い。私たちは、今を生きている。緩急の差はあれ、すべては変化する。生命は、成長であり、衰退であり、変様であり、消滅である。

 輪読会の課題本で、半年くらいかけて読み終えた。何を云っているのかわかるようでわからない本で、それもそのはず、本書はリンチの遺稿を一冊の本として再編集したものだからだ。都市計画論の範疇を逸脱したような観念的な議論、と云うか、アフォリズムめいた断片が並び、たとえば『時間の中の都市』でボストンを取り上げていたような具体的な事例分析も欠いている。けれどもそのためにかえって輪読会では身の回りの暮らしを事例にして議論が盛り上がった面もあるし、そもそもここで提案されているのは都市計画でどうこうできる範疇を超えた、価値観そのものを塗り替えである。それはすなわち、廃棄の肯定、廃棄であることの肯定だ。
 われわれは永遠を望み、死ぬことを恐れ、滅亡の痕跡であり残骸であるところの廃棄物を遠ざける。けれどもそれは、目に見えなくなればなかったことになると思い込んで片付けるべきゴミを絨毯の下に押し込むような逃避でしかない。あらゆるゴミを呑みこんでくれる無限の穴は存在しない。地球の資源が有限であるように、地球の空洞もまた有限であり、これ以外にないこの惑星の大地を、わたしたちは掘り崩しながら積み上げてゆく。そうして廃棄物を振りまきながら人間は生活し、やがては自らも廃棄物となる。リンチは云う。私たちは、廃棄の悠久の流れの要素であるという事実を受け止め、そこに居場所や拠り所を見いだせるだろうか?
 リンチが試みるのはこの、廃棄物はどこからもたらされどこへゆくのかと云うところから始める、廃棄観の刷新であり、生きることをめぐる総合的な提案であり、それはもうほとんど生命哲学の域だ。緩急の差はあれ、すべては変化する。生命は、成長であり、衰退であり、変様であり、消滅である。惜しむらくはその思想が、どこまで行っても具体性を欠いていることだろう。実際的な廃棄の方法についてはさまざまな提案がなされているけれど、それらを取りまとめるヴィジョンとなると途端に断片へと散ってしまう。リンチの思想は完成されなかった。われわれの手に遺されているのは、その断片の寄せ集めでしかない。
 けれども。そう、けれども。まさしくこの、遺されたものの再編集こそ、ひとつの廃棄のあり方ではないだろうか? リンチの肉体はごみとなる。焼却されるか、埋葬されるか。そうして彼の身体は世界へと還るだろう。そして同じように言葉は残され、新しい本が作られる。ここで読まれる彼の言葉は、書かれてから数十年経ついまもなお通じるどころか、ますますアクチュアリティを増すばかりだ。純粋さと永続性に焦がれつつ、私たちは永遠に衰退してゆく術や、流れの連続性、軌道や展開を見据える術を学ばねばならない。記されたリンチの言葉を呑みこんで、新たな言葉が残されるだろう。そこにはすべてを解決する答えは書かれていないかもしれないが、根気強く考えるための問いが記されているはずだ。

 

宮田眞砂『セント・アグネスの純心:花姉妹の事件簿』(海社FICTIONS)

「ええ、風に揺れる小さな花。あやうく見すごしてしまいそうな花。そんなの謎とは関係ないの。別に解かれても解かれなくてもいいの。でもたぶん、この世界はそういうものが集まってできているのだと思うのよ。春の野原のようにね」

 読書会の課題本。
 本書を読み終えたとき、次のような一節を思い出した。

 ですからお爺さんがもしも又奇蹟を見たいならば、それは僕等の周囲で常に発見されるのです。至る所で。世界は無量の謎であり、お伽話の中にある幾ら経っても減らない打出の小槌なのです。毎日毎日が新らしい奇蹟の啓示です。
――地味井平造「魔」

 これは探偵小説の肯定であると同時に否定でもある。この短篇を掉尾に収めたアンソロジー『日本探偵小説全集〈11〉名作集1』に、北村薫による解説が付されていること、それどころか北村は編纂に関わっていること、そしてその解説もまた上記の台詞を引くことで締めくくられていることを思えば、ここに〈日常の謎〉の中心的発想と批評的眼差しを見ることは、そんなに外れた読みではないはずだ。すなわち、世界を発見すること。
 
そして巽昌章倉知淳『過ぎ行く風はみどり色』の解説において和歌を引きながら指摘している〈日常の謎〉の要諦もまた、そのようなものだ。

  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

 日常の謎派の要諦はこれだ。元祖北村薫をはじめ、その作中にはひんぱんに、「今日は風の感じが違う。そうか秋が来たんだ」的な小発見のエピソードがちりばめられているが、これらは決して感傷的な飾りではない。世界には自分が気づいていない顔があり、それは時々刻々に変化していて、ごくささいなきっかけからそのことが見えてくる。日常の些事を手がかりにして世界の広がりと変転を実感させることこそ日常の謎派の身上であるとともに、このような発想が謎解きの仕組みに呼応し、事件の解明と「世界」の不安定性の発見とがシンクロするように小説が仕組まれているわけだ。
――巽昌章「『過ぎ行く風はみどり色』解説」

 そしてこの「日常の些事を手がかりにして世界の広がりと変転を実感させる」方法に、作家たちの個性が現れる。巽昌章倉知淳がこのテーマを「人々が閉じこもる無数の壺が並んでいるような光景」として変奏していると指摘する。これが北村薫であれば日常に触れるさまざまなものが何かを示唆しているかのような万物照応の世界を立ち上げ、反対に米澤穂信の場合は、誤解や誤読、誤配によって断ち切られ続けるかのような世界を浮かび上がらせるだろう。
 では『セント・アグネス』はどうだろうか? そもそもこの小説が北村-米澤らの系譜に置けるような〈日常の謎〉であるのかどうか、その糸に絡めとってよいのかどうか難しいところであり、けれどもそこにこそ本書の〈日常の謎〉としての面白さがあるだろう。謎とその解決を通して万莉愛が経験することは間違いなく世界の発見であるけれども、それは『空飛ぶ馬』で〈私〉が世界を眼差すようなそれではなく、むしろ閉じられていた彼女の瞼を開くものだ。けれどもその発見は、現実を叩きつけるような露悪とは正反対に、あなたは孤独ではない、と寄り添うような温もりに満ちている。この寄宿舎セント・アグネスではね、誰もひとりのままではいられないの。
 本書において謎解きの仕組みは、巽の云う「「世界」の不安定性の発見」ではなく、むしろ、この理不尽と悪意に満ちた世界から少女を守るような、囲われたの発見として作用する。『セント・アグネス』が従来の〈日常の謎〉の系譜と明白に異なっている点は、学内からの遠景描写がかなり省かれていることだろう。窓の向こうにあるのは庭の花であり、山の緑や空の青ではない。ここはあくまで庭であり、世界から隔絶された、守られた場所なのだ。その内側に、花が豊かに揺れている。それは人によっては窮屈に感じられ、時と場所しだいではおそろしい息苦しさを与えるヴィジョンだが――正直に云えば、ぼくはそちら側の読者である――そこに賭けられた切実な祈り、その深度はおどろくべきものだ。とりわけ第一話と第四話の、まるでこちらを呑み込んでしまうかのような畳み掛けには、波状的に世界を広げてゆく北村の書きぶりをぐるりと裏返したかのような迫力がかよっている。それはある一点へ急速に閉じる一方で、万莉愛と云う少女の眼と、その生を通して世界へ(と云うか、生きることへ)向けて開かれてゆくことだろう。
 思えば、学び舎とはある意味で、そのような場所ではなかったか。われわれを囲い込み、閉じ籠めると同時に、開いてゆく場所。そこにはそれ自体の歴史があり、ゆえにこそ、最終話の消失のトリックには膝を打つ*1。ここにおいて謎解きの仕組みは、歴史を発見する。多くの少女がここを訪れ、そして去った。季節は廻り、庭の花は移ろうだろう。

 おそらくぼくは、そんな庭に立ち入るべき――立ち入ることを想定されている――人間ではなかったのではないかと思う。ぼくがここまで、百合小説や少女小説の系譜を一切たどっていないことから明らかだ。けれどもそのような疎外感は、庭を踏み荒らして良いことを意味しないし、何よりそれは、ぼくの本意ではない。むしろぼくは本書を、自分の好ましく思うもの、自分が切実に賭けているものから微妙に隔たっていると感じながらも、生垣に開かれた木戸のようなささやかな結節点を見出して興味深いとさえ思っている。この寄宿舎セント・アグネスではね、誰もひとりのままではいられないの。この言葉にぼくは、最愛の作家であるリチャード・パワーズを思い出さずにはいられない。他人から切り離された存在はありえない。

モーズリーの机の周囲の植物バリケードががさごそ動いて、葉のあいだのすきまから、当の稀有な種が顔をのぞかせた。メイズのまわりじゅうに――このすぐそばにも、町の向こうの「トレーディング・フロア」にも、さらにははるか遠く、安価で入手容易なハロゲン化銀に対して以外二度と開かぬであろう十年のなかのぬかるんだ道にも――あの何より捉えがたい、あまねく執拗に在りつづける、つねに外からの助けを必要としている、〈仲間〉ジ・アザー・フエローがいるのだった。
――リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』

 われわれは誰ひとり、ひとりきりではありえない。しがらみも絆もときとして重く、人間を縛りつけ、群体のなかに吞み込んでしまうが、それによってひとは世界に繋ぎ留められもする。世界から切り離されたとき、待っているのはチェスタトンの云う「狂人」だろう。〈日常の謎〉が発見してきた世界とは、このような〈仲間〉ジ・アザー・フエローではなかったか。
 もちろん、ここでパワーズ〈仲間〉ジ・アザー・フエローとして書くものと、『セント・アグネスの純心』が描き出す〈花姉妹フルール〉あるいはそう名付けられていなくともシスターフッド的な関係は全く異なるものである。これはぼくの連想に基づいたこじつけに過ぎない。ただ、そう思い出した、と云うことに、ひとつの回路を模索しているのだ。
 もっとも、そんな回路から悪しきものは忍び寄って来る。いい加減な言及はそろそろやめて、外来種は立ち去るべきかもしれない。

 

澤木喬『いざ言問はむ都鳥』(創元推理文庫

科学者にとって、好奇心は唯一絶対の神に等しい。だからぼくたちは、その命ずるままに行動するべきだと思う。しかしそうしてぼくたちが知りうることは、「実際に起こったこと」とは違う、「実際に起こった可能性が高いこと」に過ぎない。その自覚が、好奇心という神に忠実であることの代償なのだと思う。

『セント・アグネスの純心』の読書会で紹介されたので読んだ。ぼくは同書について「人によっては窮屈に感じられ、時と場所しだいではおそろしい息苦しさを与えるヴィジョン」と述べたけれど、本書の場合、それは文体レベルから、ちょっと信じられない密度で展開される。沢木と云う、おそらくは作者と重ねられている語り手の、何を見ても何かを思い出すどころではない、連想に次ぐ連想が思いがけないところへ繋がってゆく語りは探偵小説の文体として類を見ない。いや、たぶん、これをさらに薄め、読みやすくしているのが北村薫なのだろう。本書は北村の文体=世界観をいっそう鋭利に研ぎ澄まして、抽象的な領域まで踏み入ってしまう。沢木とその友人、樋口たちによって展開される、ほとんど妄想に近いいびつな世界を、読み手はくぐり抜けなければならない。いささか偏狭な自然観を含め、ひとつひとつは断片的であるはずの日常世界が巨きな物語へと絡めとられてゆく連環の恐怖にさえ近い驚き。書かれていることはむしろ幻想を解くような営みであるのに、その過剰な徹底はむしろ幻想へと漸近し、読み終えて抱くのは夢でも見ていたかのような気分である。――まあ、このあたりの話は解説で巽昌章がとっくに指摘していることだ。この解説もまた良くて、探偵小説を考えるうえで新しい指針を得た気がした。
 本書の表紙では、標本を思わせる箱に花が飾られているけれども、それぞれが対応しているのであろう四つの物語がつくり出すのは、まさにこの箱のような世界だ。言葉によってつくり出された、この小さくも精緻な箱のなかには、生と死、そして謎が、濃密に封じ込められている。本を閉じるたび、ぼくはふうと息をついた。それは感嘆の溜め息ではなかった。ようやく息を吸えた――そんな安堵の息である。読んでいて、窒息させられそうになった。

*1:近しい発想を以前から温めていた、と云う悔しさもある。なるほど。このアイデアはこう書けばよかったのか、と