鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/04/20~04/29 米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』ほか

 世界が壊れる音が聞こえる。小市民の時代は終わる。
 あるいはそれでも、わたしたちは小市民でしかいられない。

米澤穂信『巴里マカロンの謎』

「パティスリーはパティスリーにふさわしく、ホームメイドはホームメイドなりに、駄菓子は駄菓子として素敵ならそれでいいのよ。いつだって最高のものを求めるのは求道者っぽくて恰好よく見えるかもしれないけど、実際は何を食べても『あれに比べればね』なんて言っちゃうスノッブに過ぎない」

 『冬期限定』が出るので読んだ。書き下ろし以外は雑誌掲載時に読んでしまっているのでこれまで読まずにいたわけだけれど、年に一度のある種のイベントのように読むのと違って*1、まとめて並べて読むことによって初めてわかることもある。たとえばそれは……、これがディスカッションの小説だと云うこと。あるいはこう云ってみよう。ここで重要なのは過程なのだ、と。思えば小鳩はこのシリーズでたびたび、推理の手法を論じてきた。ぼくが思うにと小鳩は云う。これは推理の連鎖で片がつく。それは小鳩の癖であるだけでなく、小鳩にとっての世界との関わり方でもあるのだろう。日常のちょっとした疑問さえも推理しようとする彼は、日常の発見(驚き)と探偵小説の謎解きを近づけてゆく北村薫流の〝日常の謎〟を、アイロニカルに再構築した存在と云えるかもしれない。彼が取り組む謎解きは、日常を、ひいては世界を発見するようでいて、実のところ、自分のなかの探偵としての体系に世界をなんとか回収しようとする。
 だから小鳩の不意を打つのは、謎解きを通して発見した世界そのものではなく、むしろ回収され得なかった世界のほうであり、『冬期限定』で焦点となるのはまさしくそこである。とは云え、話を先走りすぎた。『巴里マカロン』の場合、小鳩の推理はどちらかと云えば世界を回収しおおせる。収録された作品の多くがその大部分を割くディスカッションは――それはテンポ良く進みながらも丁寧で、謎そのもののスケールに対して小説の分量を膨らませている――小鳩たちが世界を見いだしてゆく過程であると同時に小鳩のなかに世界を収めてゆく過程だ。それはおそらく、『秋期限定』を踏まえてある種の屈託を乗り越えた、小市民的な名探偵/名探偵的な小市民の像ではないだろうか?
 もっとも、そんな名探偵の活躍は毎度、微妙に挑発され、揺さぶられ、小鳩の世界を閉じたものにしない。円が楕円になるような、ほのかな歪みがそこには与えられている。そのとき、もう一方の焦点に立っている人物こそほかでもない、小佐内ゆきだろう。

 

米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』

花の季節なら、もっと色とりどりだったのかもしれない。新緑の季節なら、目にも鮮やかだったのかもしれない。いま、十二月も終わろうとしている時期、屋上庭園はさみしかった。常緑の植物も葉がしおれ、花壇らしき場所は土がならされているだけだ。だけどぼくは、冬とはこんなに美しい季節だったのかと思った。空は澄み、太陽の光は澄んで、肌には冷風が吹きつける。

 小鳩にとって小佐内とはどのような存在だったか。本書のあらすじが公開されたとき、その反応の多くが――ぼくを含めて――彼女をある種の「犯人」とすることを想定していたように思う。実際、シリーズの多くにおいて彼女は犯人だった。あるいはこう云い換えてみるが、クイーン的な意味において交換可能な位置関係で探偵と対峙する存在だった。ふたりはまるで戯れるように、互いに互いの腹を読み、操った。
 ……本当に?
 本書はぼくにとって、そしておそらくは多くの、小鳩と小佐内を狐と狼としか読むことができなかった読者にとって、あなたちょっと、わたし(たち)を冷たく見積もりすぎじゃないの!とでも云うような小説だ。彼らはなるほど傲慢な人でなしかもしれないが、どうしようもなく人間である。拒絶されれば傷つくし、ままならない世界に苦しむし、車に轢かれれば大怪我をする。そして相方が怪我をすれば、心配するのだ。
 本書の大半を占める回想において、彼らふたりの辿る捜査行は、歳不相応なほど熟れていながらも、歳相応にうまくいかない。なんとなれば彼らは所詮、等身大から少しばかり大きく、それゆえに等身大である、少年と少女だから。テンポ良く捜査を展開しつつ、推理そのものは核心を掴めない。そして彼らの、おそらく決定的な失敗は、街中に出現した誂え向きなほどに抽象的な密室空間から眼を逸らし、具体的な人間そのもののほうへと踏みこもうとした点にある。そこは中学生だった小鳩にとって、とても扱えない世界だったにもかかわらず。
 そうして拒絶された少年が、長い眠りを経て少女とようやく再開し、根底から状況をひっくり返してゆく終盤の痛快さと云ったらない。ふたりは推理を畳みかけながら、事故現場を、病院を、そして日常を抽象的な謎解きの空間として塗り替えてゆく。けれどもそれはいつかのような、世界を、人間を、そこから取り逃してしまいかねない傲岸不遜な名探偵のそれではない。わからないことはわからないし、できないことはできない。それでもふたりが揃えば、こんな冒険だってやりおおせる。
 だからこう訂正すべきだろう――ふたりは対峙していない。
 ふたりはきっと、いっしょに歩くのだ。その歩みは完璧ではないし、きれいにぴったり合うこともない。互いに互いの歩調を読み、ときに外し、距離を取り、近づいて、それでもふたりは一緒に歩く。破れ鍋に綴じ蓋でさえない、そのいびつな軋みこそ、けれども人間であり、日常であり、そしておそらくは、生きると云うことではないか?

*1:小市民シリーズの短篇は、これまで決まって冬の季節に発表されている