『20世紀の幽霊たち』を読んでいたら一日が終わった。そんな馬鹿な。しかも読み終わらなかった。そんな馬鹿な、とは云えない。700頁近い分量なので。
きょう読んだ分では、「ポップ・アート」「挟殺」「寡婦の朝食」「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」「おとうさんの仮面」が良かった。いずれもホラー的なモチーフ、恐怖に近い感情を扱いながら、むしろ読後に覚えるのは哀感だ。ホラーを読む態度としては無粋かも知れないけれど、いやホラーについては右も左もわからないのでそれすら判断できないのだが、個人的には「こわくて、せつない」話は、ついつい評価を上げてしまう。筒井康隆「母子像」とか。
あるいは、ホラー・怪談についての話。ホラーの愉しみ方がまだわからないからこそかえって、メタな構図そのものを面白がってしまう。この短篇集ではたとえば「年間ホラー傑作選」や「二十世紀の幽霊」など。別の作家だと、小沢信夫「わたしの赤マント」は良かった。
「母子像」と「わたしの赤マント」はどちらも『日本怪談集 奇妙な場所』所収。
兄の部屋は思いのほか快適で、ものでごちゃごちゃ溢れているのに全てが我が兄へ収束してゆくこの空間では不思議と終日過ごしても飽きない。ぼくの部屋にとっての本棚の代わりにCDラックや楽器や音響機材が置かれ、かろうじてその隙間を縫うように兄の趣味の小説や音楽雑誌が並ぶ。そしてなにより、ぼくの部屋には決してない、お洒落さがある。
いまこの文章は、兄の机で書いている。兄が高校時代に友人たちと撮った写真が視界に映る。すこしばかりの罪悪感。
日々のニュースを追いかけるのはやめた。もちろん、不満は不満として表明しなければならないし、twitterのTLも定期的にチェックしている。それでも、やはり、どこか、そう、正直に云ってしまえば、以前のままではいずれ、疲れ切ってしまうのだ。
以前ならきょうのように趣味の小説を読むだけで一日が終われば、そこはかとない不安や焦燥に駆られたものだけれど、いまはどちらも、ないとまでは云わずともささやかで、穏やかにこの文章を書けている。