何かを考えたいときは散歩する。何かを考えながら散歩するときに公園が目に入ると立ち寄る。そこにはたいていブランコがある。両脚をピンと伸ばして、勢い良く漕ぐ。振り子の周期をその身で感じながら、何かを考える。多くの場合、それは夕暮れから夜中だ。ひとけのない公園に、ブランコの鎖の擦れる音が響く。
『SFマガジン』2022年8月号(No.752)掲載の小川哲・逢坂冬馬対談では、日本人が外国の戦争を書く意義について最後に話している。微妙な問題なので部分的な切り抜きや要約も避けるが、当事者とは云えないものを書くことについては自分もしばしば考えることがあり、今後も考えていくしかないなと読んでいて思った。
当事者ではない過去の戦争を、しかし小説で書くことによって、当事者として受け止める、と云うのはひとつの意義であり、効用だろう。とくに戦争は過去ではなく、いまも世界で進行している。内戦や、形を取らない暴力はそこら中にある。これはまったく他人事ではなく、だから外国の戦争を小説であれ研究であれ書くことは大切だ。もちろん書くことが無条件で肯定されるわけではないし、たやすく陰謀論や歴史修正主義、偏ったプロパガンダへ滑り落ちる。けれどもゆえに、考え続けなくてはならず、書かなければならない、と云うこともできる。
当事者ではないことを普遍的な問題として受け止めたり、当事者として引き寄せたり、当事者へと入りこんだりすることは、たとえば男性が女性に、性的マジョリティが性的マイノリティに、アングロサクソン系がアフリカ系に、と云った関係に置き換えてみると、必ずしも肯定できないことがわかる。そこには「他人」と云うだけではない格差・勾配があって、小説として語ることによる一般化や相対化はその構造を覆い隠すだろう。黒人の命を蔑ろにするな、と云う声に、誰だって命は大切だ、と反論することの醜悪さを考えなければならない。
本来なら具体例をもっと挙げていたが、断片のなかで語るのは難しすぎるので省いた。
音楽についての小説を構想していて、その音楽家は耳が聞こえなかったと主人公が気付く、と云う展開を思いついた。この思いつきに対して、自分の倫理が待ったをかけた。もちろん単なるサプライズとして書こうとは思っていなかった。主人公がなぜそのことに気付かなかったのか(なぜその音楽家が気付かせなかったのか)、そしてなぜ主人公は気付いたのか、そこに作品のテーマがあるだろうと思った。しかし、そのテーマをあとから並べ立てても、云い訳にしか感じられなかった。
当事者にとっては当たり前で、切実な問題を、小説のフックやツイストとして消費するのはやめるべきだ。しかし、ミステリはしばしば、その認識の差異が生む衝突や暴力にこそテーマを落とし込んできた。『断たれた音』のラストシーンの、耳が聞こえないチェスプレイヤーと視聴者の見ている世界の断絶をつきつけるラストシーンは忘れ難い。しかし、それは云い訳に過ぎないのかも知れない。こっちは啓蒙してやってンだから、と云う態度で障害を扱うミステリ小説に出会うことも、ある。
ミステリはポーを意識することから始まって、ホロコーストを考えるところで終わる。チェスタトンのように、世界をあえて単純化することで豊穣を謳うような逆説は、いまやその手続きが持つ暴力が看過できなくなりつつある。
犯人当ては人間を属性に分解してしまう、と云う先輩の言葉を思い出す。障害や性差を手がかりとして消費するその書き方は批判されるべきだ。しかし、これはうろ憶えなのだけれども、人間を属性に分解するから犯人当ては面白いと先輩は云う。ひとがしょせんは要素の集合でしかないことによって癒される痛みもある。その実感が与える豊かさもある。リチャード・パワーズがよく難病患者を小説に登場させるのも同じような動機だろう。われわれはしょせんタンパク質の塊であって、遺伝子やら反応式やらで記述される存在に過ぎない、と。しかし、パワーズの小説に登場する難病が、たやすくエモや涙を誘うことも事実である。
当事者でなければ書いてはいけない、と云うのも極端だ。何より、ぼくはぼく自身のことをあまり詳らかにしたくない。ぼくには、文学の題材になりそうな当事者の問題が幾つかあるけれども、それを小説で書こうとは思わない。しかし、だから自由に、想像を逞しくして書くのだ、と云って書いてきた小説が、ステレオタイプに嵌まり込んで当事者を蔑ろにしたものである危険は常に存在する。
結局は、考え続けなければならない。そもそも最近は小説を書くことさえうまくできていない。
尻が痛くなってきたので、ブランコを降りる。ブランコに乗ったときしか感じられない尻の浮遊感をおぼえながら、公園をあとにする。コンビニでアイスもなかを買って帰る。ラップトップを起ち上げる。この文章を書く。