鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

感想をどう書くか/なぜ書くか/何を書くか:あるいは、君たちはどう生きるか

 2024年がはじまりました。今年もよろしくお願いします。
 昨年末、周囲でブログがたくさん稼働している音が響いていたので、ここはひとつ、ブログを継続的に書く――感想を書き続けるために個人的に考えてきたことを公開しようかと思います。数ヶ月前、ミステリ研内で発表したものです。めちゃくちゃ説教臭いですが、伝えるか伝えないか、だったら、せめて言葉を残しておこうと思った次第。みなさんのブログ更新の一助になれば幸いです。

0. はじめに

「ご隠居、ご隠居!」
「なんじゃ、お前さんか。どうしたんじゃ藪から棒に」
「いえね、きょうはちょっと、ご隠居に教わりたいことがありましてね」
「ほう、珍しいこともあるもんじゃなあ。いつもはワシが何を話してもまたはじまったとばかりに呆れておるのに」
「それはご隠居の話がつまらないからですよう。でも今回は、そのご隠居のお喋りなところに助けてもらいたくって」
「ふむう、確かにワシは聞かれてもいないことをペラペラ喋るがな」
「はい、ご隠居は普段から、誰に聞かせるでもなく小説の感想を書き散らしてるじゃないですか。実はあっしも最近、小説を読みはじめましてね。だけどご隠居みたいに、感想をまとめることができないんでさあ」
「なるほど。それでワシに教えを乞いたいわけじゃな?」
「そうでさあ」
「しかしワシの感想の書き方なんて我流もいいところじゃ。それでもかまわんかの?」
「そんなこと最初からわかってますよう。そもそもあっしらがこうして召喚された理由のひとつは、感想ハウツーを後輩に伝えようとして、だけどあまりに我流なものだから、問答形式で相対化するためでしょう?」
「うむ、よくわかっておるな。ソクラテスの昔から、こうした記述の多層化と相対化は活用されておる。かつては柳田國男折口信夫も用いた手法じゃ」
「だからご隠居、ご隠居の考える書き方でかまわないから、ここはひとつ、一席ぶってくだせえ」
「よしきた。これをどこまで参考にするかはお前さん次第じゃ。究極的には、書くことはお前さんの手でおこなわれることじゃからのう。まあ、ゆっくりしていくがよかろう」

1. なぜ書くのか

「して、お前さんはいったい、なんのために感想を書くのかの?」
「ハテ……、そう云うものだからとしか」
「もちろん、目的なんてなくとも感想は書いても良い。書けるなら書けるだけ書く。それがいちばんじゃ。しかしどうやって書くかの前になんのために書くのかをわかっておけば、感想をまとめる方針も立ちやすいじゃろ? ワシの考えでは、感想を書く目的は大きくわけて三つある。【自分以外の読者のため】。【作者のため】。そして【自分のため】じゃ。この三つはさらにそれぞれ細かくわけられる。順番に見ていくぞ」

1.1. 自分以外の読者のため

「やっぱり感想は、ひとに伝えるためじゃないですかい?」
「うむ。言葉とは本来的にコミュニケーションのための道具じゃ。その点で、どんな感想もひとに伝えるために書かれると云えるな。しかしここで云うのはもっと卑近に、SNSやブログ、あるいは大学サークルで、読んだ本について語ることをさしておる。」
「あっしの友達にミステリ研の会員がいやすが、読んでいる本の感想を先輩から求められて困ったと云ってやしたね」
「そう云う先輩は実のところ、感想そのものを求めているのではない。感想を通して後輩と交流することを求めておるのじゃ」
「なんだか回りくどいですねえ」
「ミステリ研の人間なのじゃから、ミステリは共通の話題として持ち出しやすいと云う判断なのじゃろう。しかしもちろん、あんまりひとに強いるものでもない。さっきも云った通り、ここでは感想は一種のコミュニケーションツールなのじゃから、コミュニケーションを求める限りは、ほかに適切なツールが見つかればそれを用いても良いはずじゃ。それでもなお感想をひとに求めることがあるとすれば、単なるコミュニケーション以上の目的があると云うことになる。つまりは研究や論評じゃの。とは云えそれはここでは置こう。
 感想を通してコミュニケーションを取るときには、ふたつのパターンがあるのう。【同じ本を読んだひとに向けて】と、【まだその本を読んでいないひとに向けて】じゃ」

1.1.1. 同じ本を読んだひとに向けて

「これはつまり、読書会とかですかい?」
「そうとは限らん。SNSでの感想の云い合い――これがリアルタイム性を増すと「実況」と呼ばれる――や、たまたま同じ本を読んだことがわかって雑談するときも含まれるわい。そうした場をコミュニケーションと捉えるとき、小説そのものはあくまで媒介じゃ。たいていの場合はディテールについて「いいよね」と云い合ったり、悪口をこぼし合ったりする。あるいは違う感想をぶつけながら、互いのひととなりを理解してゆく」
「はあ、なんだか大変なことですねえ」
「そうかな? はっきり云えば、友達と共通の思い出やノリで盛り上がることと大して変わらん。ゆえに軽蔑する読書家も少なくないが、決して否定されるべきものではないと思うぞ。ひとりで黙々と小説を読みつづけられる人間なんてごく稀じゃ。友達と共通の話題で楽しみながら、気がつけばたくさん読んでいた。それも立派な読書じゃと思う」
「でもその場のノリばっかりで、コミュニケーションがかえって犠牲になることもありますよね」
「うむ。作品をミーム的に楽しむばかりではそうなってしまいかねん。それはそれで否定し得ないとワシは思うが、この問答は感想を書くためのものじゃから、一応避けたほうが良いことととして考えておこう(今後もそうして否定・批判する言説や態度が出てくるが、全面的に否定するものではないことを心に留めておいてほしい)。そのためには、先ほど云った「ひととなり」を自覚することが大切じゃ。ある作品をみんなで褒めそやしたり、逆に袋叩きにしたり、ミーム的に盛り上がったりすることはいずれも楽しい。ただ、そこでおこなった振る舞いは、翻ってお前さんの「ひととなり」を作り上げてしまうのじゃ。たとえば、何かにつけふざけたことばかり云うひとは、最初はその場の楽しさを優先したり、あるいはなんらかのカウンターとしてわざとやっていたりしたことであっても、いつの間にか芯からふざけた、何ごとも真剣になることのできない人間になってしまう。そんな現代の悲劇を、われわれはインターネットでたくさん見てきたはずじゃ」
「ご隠居、そう云えばこの問答って何時代なんです?」
「細かいことは訊かぬが花じゃ。これもまたコミュニケーションじゃ」

1.1.2. まだその本を読んでいないひとに向けて

「要するにこれは、プレゼンってやつですね?」
「まあ、そうじゃな。しかし、未読者に感想を云うときは、ひとに薦めるだけとは限らん。ここでは、すでに作品を読んだ者として、その作品がどのようなものであるのか紹介する、云わば道案内の役目を果たすことになる」
「責任重大だ」
「レビューとして感想を発表するのなら、まあ大変じゃの。過度なネタバラシは避けるべきじゃし、道を間違えると案内人の責任問題じゃ。とは云え、うまく案内すればひとの読書の可能性を広げることにもなる意義深い感想じゃな。それにただの雑談であれば、気軽な口コミでも構わん。」
「雑談するときに、相手が読んでいない本のことを話しますかねえ」
「それは話し方次第じゃろう。たとえばそうじゃあなあ……、ワシは最近、『鉄鼠の檻』を読んだ」
「いまさらですか。時代は鵼ですよ、ご隠居」
「せからしかっ。小説はいつ読んでもかまわん。ところでこれは禅寺を舞台にした小説じゃが、テーマとして問うているのはもっと普遍的なこと、すなわち「言葉」じゃ。禅における悟りとは言葉の彼方にある領域であって、『鉄鼠の檻』は言葉では届かないその悟りを、小説と云う言葉によって書こうとしておる。この逆説が面白かった」
「ははあ。そう云えばあっしはこのあいだ、小川哲の『君が手にするはずだった黄金について』を読みやしたよ。作家自身を語り手にした小説で、書くことによっては捉えきれないもの/書くことによって捉えられるもの、みたいな話がされていやした。奇遇ですねえ」
「言葉、あるいは、書くことと云うのは普遍的なテーマじゃのう。小川哲の小説はそのあたり、どう具体的に書いてあるのかの?」
「ええっと、そうですねえ……」
「……とまあこう云うように、互いに互いの言及する本を読んでいなくとも、共通点を探りながら話を拡げていくことは可能じゃ。そうすることによって読書家たちは本を紹介し合ってされ合って、まだ読んでいない本、考えてもみなかった視角を知っていくわけじゃな」
「まあ、あっしは『鉄鼠の檻』を読んでますけどね」
「ほう、ではお前さん、あの小説をどう思う?」
「化けネズミの正体が面白かったですねえ」
「あれは確かに驚かされるのう。しかし妖怪の正体とは得てして、あのようなものなのかもしれぬ。……とまあ、互いに読んだことのある本なら、こうして話を具体的に詰めてゆくわけじゃ」
「なるほど。目的の違いは感想のまとめ方、話題の繋げ方の違いになるわけだ」
「その通り。じゃからこそ、まず自分が何のために感想を喋る/書くのか、考えてみることが必要じゃ。SNSを眺めてみれば、ある小説を面白く読んだと云うこととその小説を薦めると云うことがイコールになってしまった読書家を多く見かける。もちろん前者は後者を含むじゃろう。しかしわれわれは、誰かに薦めるためだけに小説を読んでいるわけではない。目的に応じた文体を採用するべきじゃ。
 ただし、これは単にそれぞれを別ものと考えるべきと云う話ではない。それぞれの目的と適切な文体は相互に影響し合っておる。ひとに薦めるための表現は多くの場合、ネタバラシを避けるためにふわふわしたものになりがちで、それでは小説が具体的にどのようなものか評するために不充分じゃろう。一方でその小説がどのようなものであるか言葉にすることができなければ、ひとに紹介することもままならん。両輪合わせて回すことが必要じゃ。そしてそのためには、まず両輪があると云うことを知らなければならん。ワシがまず目的の分類を試みたのは、そんな意図もあるのじゃ」

1.2. 作者のため

「それでは次の分類【作者のため】を見ていこう。小説には必ず作者がおる。作者不詳の小説もあるが、少なくとも誰かが書いたわけじゃ」
「時代はChatGPTですよ、ご隠居」
「確かに生成AIの発達は著しいものがあるが、それでもAIが自律的に小説を書くのはまだ先じゃろう。執筆自体はAIがおこなったとしても、生成の指示を出したり、生成された文章を編集した者がおるはずじゃ。とは云えこのあたりはややこしい話じゃから避けておこう。ともかく小説には作者がおる。良いな?」
「へえ。ロラン・バルトの「作者の死」は否定するわけですね?」
「何も考えずそんなふうにバルトの名前を出す前に、厳然と存在する作者を考えるべきじゃと、こう云うておる。そもそもお前さんはバルトを読んだことがあるのかの?」
「うっ」
「安心せえ。ワシもこのあたりの学術的議論はよう知らん。けれども感想については、経験的に語れることがある。まず、作者もまた、ふたつのパターンにわけられるのう。【遠くの作者】と【近くの作者】じゃ」

1.2.1. 遠くの作者

「遠くと云うのは時間的・物理的・情報的な距離のことじゃ。すでに死んでいる作者や、会ったことも会うこともない作者のことを云う。こう云う作者を相手するときは、作者のことをあまり考える必要はない」
「めちゃくちゃエゴサする小説家とかいますよ」
「もちろん。じゃから好き勝手云って良いと云うことではない。別にエゴサされなくともこれは同じじゃ。ただ重要なのは、こうした場合、小説はすでに作者の手を離れていると云うことじゃ。小説は編集や校閲、卸しから小売りまでさまざまなひとの手に渡って、お前さんが読むことになる。このとき小説は作者のものではなく、お前さんのものじゃ。作者のことを忖度したところで仕方がない。むしろ、正直な感想を、自分がその小説をどう読んで、どう語ったのかを示すことが、かえって作者のためになることが多いと思うぞ」
「だからと云って、別に作者のために感想を書くことはないですけどねえ」
「じゃからこのとき作者は「遠い」のじゃ。遠くにありすぎて、意識もされないほどに遠い。ただし間違いなくそのひとはどこかに生きておる。あるいは、生きておった。それを尊重したうえではじめて、われわれは作者を死んだ者として扱うことができるのじゃ。つまり、いたずらに作者を意識することなく正直に、自分の読んだところのことを述べるわけじゃな」
「ご隠居の云うことは難しいや」
「まあ、ワシも普段からこんなことを考えて感想を書いているわけじゃなし。云うは易し、と云うわけじゃな」

1.2.2. 近くの作者

「作者は何も遠くにおるばかりではない。小説を書いている友達から感想を求められるかもしらんし、何かのイベントやSNSで作者に直接感想を伝える機会もあるじゃろう」
「ミステリ研の友達も、合評会なるものがあるって云ってやしたね」
「そうした場合、感想は作者と云う、厳然として生きている人間に直接伝えなければならん。いたずらに「作者の死」を云ってはいかんのじゃ。もちろん、好きに感想を述べてくれてかまわない、と云うひともおるじゃろうが、みんながみんなそれを前提にして感想を伝え合った先に待つのはかなりハードな言説空間じゃろうな。作者が近くにいるならば、感想は作者と読者のコミュニケーションの場になっておる。余計な忖度は要らぬが、それでも思いやりや礼儀が必要じゃ」
「なんだか窮屈じゃないですか?」
「それがコミュニケーションの難しさなのじゃ。もしもはっきりと考えたことを伝えたいならば、相応に場を整えなければならん。互いの信頼も不可欠。合評会をきちんと機能させるのは、とても難しいことなのじゃ。と云うのも、小説を書くことにはさまざまな動機があり得る。そこに生きてゆくうえでの切実なものを籠める書き手もおるじゃろう。作者は多くの場合、読者が小説を読むときとは比べものにならない労力をかけて小説を書いておる。お前さんは農家のひとを目の前にして、ただ嫌いと感じたからと云う理由で「この野菜は不味い」と云うかの? それは正直ではあるかもしれんが、誠実ではない」
「うーん。でもそんなことを気にしていたら、感想なんて云えませんや。不味いものは不味いんだもの」
「嘘をつけとは云っておらん。重要なのは互いにひととして向き合うことじゃ。作者が近くにいるからと云って、遠くに置こうとして読者のほうから遠ざかるのもいけない。不誠実な感想は、読者が自分を有象無象のひとりに落としてしまったときに生じやすい。お前さんはお前さんとして、作者に対して「不味い」と述べ、その責任を引き受けねばならん」
「なんだか作者に擁護的ですねえ」
「これは感想の話なのじゃから、読者について云々するのは当然のことじゃ。書き手としての態度のあり方などその辺の創作ハウツー本にいくらでも載っておるわい」
「でも、あっしがあっしの言葉ではっきり「不味い」と云ったところで、傷つく相手は傷つきますよ」
「ひとつには、相手に、このひとになら多少傷つけられても構わない、傷を受け止められる、そう思ってもらえるようになることじゃな。先ほど云った信頼とはそのような意味じゃ」
「大学サークルのような流動的な組織じゃあ難しいでしょうねえ」
「それが難しければ、作品の不味さそのものではなく、不味いと云う感想が発生してしまうこと自体について述べると云う手があるのう。ワシのお師匠さんは「作品を良くするための指摘よりも、作者がどうすれば良い小説が書けるのかを指摘すること」を心がけておった。ワシはとてもその領域には及ばぬが、一年ほど寺子屋ではたらいたとき、その心がけの重要さがわかったように思う。勉強のできない子に対して、間違えた答案を責め立てたところで何にもならん。自分で答案を見直して自分で成長できるような子は、あるいは自分の答案にすっかり満足しているような子は、そもそも寺子屋を訪れん。じゃからアドバイスとして適切なのは、なぜその答案が発生したのかを想像したうえで、その子がこれからどうすれば良いのか提案してみせることじゃ」
「それも難しいですよ。それに、下手すりゃ人格批判じゃないですか」
「繰り返すが、それがコミュニケーションの難しさなのじゃ。そもそも答案が間違っているかどうか、テストと違って小説は数字で評価できん。間違ったことを云っているのはお前さんのほうかもしれん。それでも感想を伝えると云うことは、その可能性を踏まえたうえで賭けてみると云うことじゃ。それがフェアネスじゃろう。作者はそれ以前に、小説と云うかたちで賭けに参加しているのじゃからな」
「ご隠居、なんだか説教くさいや」
「なんの。さらにワシはさらに説教くさくなるぞ」

1.3. 自分のため

「これまで述べた感想が実践として難しかったのは、いずれも自分以外のための感想だったからじゃ。それは大なり小なりコミュニケーションであり、コミュニケーションは難しい。けれども感想は、自分のために書かれても良いはずじゃ。これはいちばん簡単な感想で、しかしもっとも重要な、あらゆる感想の基盤にあるものじゃと、ワシは思うておる」
「説教臭いどころか自己啓発っぽいですぜ」
「実際、自己啓発じゃな。自分のために感想を書くと云うことは、自分が何を考えているのか知ることじゃ。それはひいては、自分と云う読者を作り上げてゆくことでもある」
「自分の考えていることは最初からわかっていないと、感想なんて書けませんや」
「そこが最初にして最大の誤解なのじゃ。感想は考えてから書くのではない。書きながら考えるのじゃ。具体的な手法は次の章に譲るとして、まずはたとえ話をしよう。これまた寺子屋ではたらきながらワシが学んだことじゃが、勉強がうまくできない子の多くに共通することがある。彼らはたいてい、書こうとしないのじゃ」
「書く? ノートのことですかい?」
「ノートだけではない。問題を解くときの途中計算や下書き、文章を読むときのメモ、やるべきことのリストや勉強のスケジュール表。彼らはいずれも書こうとしない。彼らは頭のなかだけで考えようとする。けれどもそれでは整理できず、混乱するばかりじゃ。何を考えているのか言葉にできない。何を考えていたのか憶えていられない。ゆえに、何がわからないのかさえわからなくなる。けれども本当は順序が逆なのじゃ。考えていることを文章や図にまとめて、やるべきことを整理し、記憶することで、ようやく自分の考えていること、考えるべきことがわかる」
「ははあ。ご隠居の云いたいことがわかりやしたぜ。自分が小説を読んで何を感じてどう考えたのかを知るには、まず書きはじめなくちゃならないわけだ。しかしご隠居、あっしもそうやって考えたことをメモに書きつけようとしたことはありやしたが、メモに書きつけた途端、何かこぼれ落ちるような感じがしたんでさあ。なんかちがうって感じた。あっしはそれが嫌だった」
「それはものを書く人間なら誰しも感じることじゃ。言葉は思考や事物そのものではない。言葉は豊かな感覚・思考・事物を単純化してしまう。けれども逆に云えば、そうして単純化することによってはじめて、世界の豊穣を知るのではないかの? 科学も文学も、究極的にはそのような営みではないかの? 言葉とはむしろ、言葉によっては捉えきれないものに近づくためにこそ駆使される。感想もそのようなものじゃ。小説に書かれてあること、そこから感じたこと、考えたことをすべてそのままに受け容れることが出来る人間は限られておる。お前さんがそんな人間でないならば、言葉と云う偉大な発明を補助線として用いるべきじゃとワシは思う」
「うーん」
「複雑微妙なところをそのまま受け止めたいお前さんの心意気は素晴らしい。けれどもワシらは言葉の生きものじゃ。いずれどこかで言葉に捕まる。するとどうなるか。「複雑だ」は「だからそれ以上何も云えないし、考えられない」と云う思考停止とイコールになってしまう。世界をモデル化することによってその複雑さを捉えようとする営為がひっくり返って、世界を「複雑」と云う言葉にしまい込み、切り捨てるための云い訳になる。なんとなれば、結局のところ最後に残るのは言葉だけだからじゃ」
「さっきも似たようなこと云ってやしたね、ご隠居。わざと不真面目にふるまっていたら、本当に不真面目な人間になっちまうって」
「うむ。お前さんがどんな人間かを決めるかは、実のところ、お前さんの内面ではない。日記でもつけてみればわかるが、人間の内面は、決して連続的なものではない。そもそも人間はひどく忘れっぽい生きものじゃ。ひとの人格を決定づけるのは、だから内面よりも外面、つまり、お前さんが世界に対して何をしてきたのかと云うことのほうじゃ。「世界に対して何をしてきたのか」と云うとわかりにくければ、「選択の集積」と云っても良い」
「まだわかりやせん、ご隠居」
「具体的な事例を示そう。先ほど寺子屋で、勉強のできない子はノートをとらないと云ったが、ではそんな子がある日いきなりノートを書けるようになると、お前さんは思うかの?」
「……できないでしょうねえ」
「そう思うのはなぜじゃ」
「ずっとノートをとらなかったんだから、ノートの書き方も知らんでしょう。面倒くさいとも思っちまうでしょうし。ただ書き写すだけならまだしも、考えてることを書き起こす訓練なんて積んでやせん」
「そう、まさしく「積んで」いないからこそ、次もまた積むことができないわけじゃ。ワシらの行動ひとつひとつを決定づけるのは、過去の行動の集積なのじゃ。お前さんが何か行動する。その行動は世界になんらかの影響を与えて、痕跡が残る。その痕跡は降り積もって、次のお前さんの行動を決める。お前さんは内面だけで動いているわけではない。その内面もまた、お前さんが周囲に残してきたお前さん自身の痕跡によって規定されてゆくのじゃ」
「しかしご隠居、それじゃあ人間は変わることはできないってことになるんじゃないですかい?」
「先ほども云った通り、人間の内面は不連続じゃ。痕跡はあくまで傾向しか決めない。何も考えなければこの傾向に従いつづけるじゃろうが、踏ん張れば無視することも可能じゃろう。けれどもそれは所詮一度きりじゃ。傾向の無視を積み重ねることでようやく、傾向自体を変えることができる」
「ははあ。何だか大袈裟ですが、要するに、感想を書くためには、感想を書きつづけておく必要があるってことですかい?」
「ひとつにはそう云うことじゃ。そして、そこで書かれる感想の内容にもこれは云える。お前さんと云う読者を――その考え方や信念、態度を作り上げてゆくのは、お前さんがそれまで読んだ本について感じてきたこと、考えてきたことであり、それは言葉によってようやく積み重ねられる。人間は忘れっぽい生きものじゃ。つい昨日読んだ小説のことさえディテールはすぐに失われてゆく。一年も経てば感想なんてすっかり忘れて、読んだと云う事実さえ失われるじゃろう。それでは何も読んでいないのと変わらん(ゆえに再読は面白い、と云うこともできるがのう)。
 お前さんが読む小説についてもっといろいろなことを感じて、考えたいのなら、そして感想で紋切り型のような「面白かった」以外のことを云いたいのなら、感想を書き溜めつづける必要があると、ワシは思う。それは誰に見せずとも良い。その感想はお前さんのために書かれるのじゃからな」
「ご隠居が自分のために書く感想を「あらゆる感想の基盤にある」って云った意味、わかりやしたよ。でもご隠居、具体的にはどう書けばいいのかまだぜんぜんわかりやせん」
「うむ。それでは次は、どうやって書くのか、とくにそのプロセスや観点を語っていくぞ」

2. どう書くのか

「どうやって書くのかってえと、何に注目するのか、とかですかい?」
「それは書かれる内容のほうじゃ。何を気にするのか、どう語っていくのかはごく個人的な話になってしまうので、最後に自分の書き方をいくつか抜粋して述べるだけにしよう。それに批評理論などはこんにち、よっぽど参考になる本も出ておる。参考文献も最後にまとめて紹介するぞ」
「じゃあ内容じゃなくて、どんなノートを使って書くか、みたいな?」
「冗談ではなく、それもひとつじゃ。ノートを書く習慣のない者は、まずノートを持たねばならん。書くと云う選択を取るためには、まず選択肢をつくらねば、な」

2.1. 書くことの習慣化

「要するにそれは、書くことの習慣化じゃ。とは云えこれは、何が最適なのかひとによるな」
「ご隠居はどうしてるんです?」
「ひとつには、SNSがある。twitterInstagramマストドンなんかも最近は話題じゃの。ワシは以前、読書メーターを使っておった。読んだ本の感想を250字程度で残せるサービスで、積ん読や読みたい本の登録もできる。ワシが高校生の頃は、これを使って読んだ本の感想をひたすら書いておったな。よっぽどのことがない限り炎上はないし、250字と云うのも短すぎなくて良い」
「それならどうしてやめたんです? ご隠居のいまの読書メーターって、感想をろくに書いてませんよね」
「いろいろ理由はあるが、もっとのびのびと書きたいと思うようになったからじゃ。いまはメモ的なつぶやきをtwitterで書くほかは、基本的にはマストドンで書くか、ブログで長文の感想を書いておる」
「ふーむ。いずれにせよひとに見せるんですかい?」
「ひとの眼があるとつづきやすいと云う面はあるじゃろうな。逆につづかないと云うひともおるじゃろう。お前さんがもし大学の文芸サークルに入っておるなら、連絡ノートやDiscordなんかに感想を書いてみるのも良かろう。SNSほどにオープンではないからいくぶん気楽じゃ。それに、そもそもさっき云った通り、誰に見せることもない。メモ帳を携帯して、読んでいて考えたことを書き残せば良いのじゃ。
 重要なのは、書く、と云う選択肢を持つことじゃ。ワシはこの春からスケッチを趣味にしはじめたが、実はかつて一度、趣味の継続に挫折しておる。そのときは大判のスケッチブックに書いておったのじゃが、それじゃと普段持ち歩かないし、取り出してスケッチするのも面倒で、いつの間にか描かなくなってしまった。一方で、いまは小さなメモ帳や、A6サイズの小さなスケッチブックに描くようにしておる。小さければ携帯できるし、そうして常に持ち歩いておれば、どこでも描くことができる」
「でも、感想を書くこと自体が面倒なんですよ。時間もかかるし」
「時間はかかる。当然かかる。とは云え、それを踏まえて習慣化することはできる。勉強だって同じじゃろう。感想を書こうと思ってタスクにしてしまうと億劫じゃが、何日かに一度、一時間、あるいは三十分だけでも、パソコンやノート、メモ帳に向かって読んだ本について書く。まずはその習慣を持ってみることじゃ」
「真っ白な原稿を前に、うんうん呻ってるだけのあっしが想像できまさあ」
「云ったじゃろ、まずは書くことじゃ。考えて書くのではない。書きながら考えるのじゃ」

2.2. 書きながら考える

「ご隠居、さっきからそう云ってますが、じゃあ具体的にどう書くんです? メモを書くことで考えることが整理できて、考えを進められるってんならわかりますが、それじゃあ感想としてまとまった文章を書くには断片的すぎやしませんか?」
「確かにそれでは、今度はまとめると云う作業がある。時間をかけて整理するのが正攻法じゃ。いちばん身のためになるじゃろう」
「ご隠居はいつもそうやってるんで?」
「いんや。そんな面倒くさいこといちいちしとらん。レビューの仕事のときくらいじゃの」
「ご隠居!」
「待て、待て。別に手のひらを返すわけじゃない。ワシが云う「書きながら考える」とは、文字通りのことじゃ。つまり、ブログなんかで書く感想は、本当に、書きながら考えておる。下書きなんぞワシはつくらん」
「信じられないなあ」
「もちろん、ゼロからいきなり書くことはできん。読みながら考えていることはあるし、メモ帳の走り書きも参考にする。とは云え基本は一発書きじゃ。もちろん、修正は随時加えてゆくがな」
「あっしには真似できそうにもありませんや」
「すぐに諦めるでない。お前さんにいきなり書かせてもそりゃあ無理じゃろう。誰しも最初はうまく書けん。そしてこれは、自転車の乗り方や逆上がりの仕方を教えるようなもので、ある程度以上はお前さんの身体感覚、つまり慣れによってでしか習得できん。書きつづけるしかないのじゃ」
「逆に云えば、ある程度までは方法を教えられるんですかい?」
「参考になるかどうかはわからんがな。それは、【フォーマットをつくる】こと、そして【問題意識を持つ】、と云うものじゃ」

2.2.1. フォーマットをつくる

「先ほどスケッチの話が出たが、スケッチも下描きを描くか、一発描きするかの選択がある。下描きをするとかたちは整うし、パースもしっかり取れるが、逆に云えばどこか退屈な絵になる。最近はもっぱら一発描きじゃな。微妙に狂ったパースや即興的な線の揺らぎが絵をダイナミックにしてくれる。このとき、助けになっているのが鉛筆のグリッドじゃ。下描きはしないとは云ったが、まず鉛筆で補助線のように画面をわける線を引いて、ペンはその構成に従って描いておる。感想のフォーマットとは、この鉛筆の補助線のようなものじゃ」
「事前に全体の構成を考える、ってことですかい?」
「ものわかりがいいのう。具体的には、【作品のあらすじ/紹介】【本論】【〆】と云う構成じゃ。もっとも、所詮は下描き未満の補助線。ある程度は無視しても良い」
「作品のあらすじから入るなんて、当たり前でさあ」
「もちろんここで、裏表紙や帯文に書いてあるあらすじを引き写したのでは意味がない。あらすじをお前さんの手で再構成して、文章の導入とするのじゃ。ストーリーの要約は、お前さんが小説をどう理解しているのかを反映するし、ストーリーを振り返ることで、お前さんがその小説をどんな小説だと捉えているのかもわかってくるじゃろう。世の中には実験小説のような、ストーリーを語ることができない小説もあるが、それなら小説の趣向や構成のほうを紹介すれば良い。そこで何をどう紹介するか、やはりお前さんの読解が示されるじゃろう」
「わかるようなわからないような。ご隠居、ここはひとつ、あっしに実践を見せてくだせえ」
「仕方がないのう。それじゃあ、最近読んだ山田風太郎太陽黒点』の感想を書いてみるぞ。まずは導入から」

 舞台は戦争の記憶も遠ざかりつつある東京。「死刑執行・一年前」と云うおそろしげなカウントダウンから小説ははじまる。群像劇的に複数の登場人物の動きが連鎖するこの小説において、前半の主人公は鏑木明と云う美貌の苦学生になるだろう。彼はひょんなことから社長令嬢の美恵子に気に入られ、特権階級に対する野心を燃え上がらせる。一方で明のガールフレンドである土岐容子は、様子の変わった彼に翻弄されるうちに人生の道筋がねじ曲がりはじめる。もちろん、明も同様に。そうして新しい日本を生きる若者たちの運命は奇妙に絡み合い、やがて悲劇的な破局へ転げ落ちてゆく……。「誰カガ罰セラレネバナラヌ」と云う怨念に導かれ、やがて浮かび上がる裁きの構図。「死刑執行」されるのは誰なのか?

「具体的なストーリーを語ってしまうと単なるメロドラマに見えてしまう。『太陽黒点』の勘所は、若者たちの悲劇的な恋愛模様の背後に、戦争と云う、忘れ去られたはずの過去が見えてくることにある、――と、ワシは思う。とすれば、各々のキャラクターの行動はある程度抽象化してしまって、彼らを絡めとる悲劇、その背景にある時代のほうを強調する。いや、逆じゃな。ワシは自分なりにこの小説をどう紹介するか、あれこれ書きながら、背景にある歴史が前景化してくるところを目の当たりにしたわけじゃ。ある程度方針が固まったら、細部を整えてやれば良い」
「一発書きって云ったじゃないですか」
「下書きをつくらない、と云う意味じゃ。スケッチでも修正液はしばしば使うし、線を何本も引き直してごまかすこともある」
「それこそごまかされた気がしやす」
「まあ、書きながら考えると云うのは、細かな書き直しも含まれると云うことじゃな。それは単に消しゴムで消すのではない。パリンプセストのように、その前に書いたことが積み重なりながら、お前さんの書くことを規定してゆくじゃろう。
 それに、先ほど述べた、以前の行動が現在の行動を規定すると云うのは、ひとつの文章を書くことにも当てはまる。それまでに書いた文章が、つづくべき文章を規定するわけじゃな」
「それなら感想をここまで書いた時点で、次の文章はある程度決まっているわけで?」
「もちろんじゃ。『太陽黒点』にはさまざまな切り口があり得るじゃろうが、ここまで書いた文章からいきなり、たとえば鏑木明と云うキャラクター個人の話をしはじめるのは唐突じゃろう。この文章につづくべきは、鏑木を含めた若者たちを呑みこんでしまう構図のほうじゃ。この構図を、ワシは「玉突き事故」あるいは「ピタゴラ装置」と喩えてしまおう」

 玉突き事故、あるいは不謹慎な比喩をあえて使えば、ピタゴラ装置のような悲劇の連鎖は、終盤、背景だったはずの戦後と云う時代を前景化してゆく。そうして明かされる悪意の正体は、たとえばクリスティーの諸作を思い起こさせるが、クリスティーがそうした悪意を普遍的で抽象的なものとして書いていたのに対して、本書は戦争と云う、具体的な歴史と結びつけてしまう。そこで問われるのは、人間を人間とも思わなかったあの時代だ。「誰カガ罰セラレネバナラヌ」……、「あの戦争は、そもそも何だったのか」。そう問いかける、最終章の語りの迫力は凄まじい。その語りは、三人称多視点だった本書のPOVを、一人称へと呑みこんでしまう。かつて戦争が、この国の若者たちを呑みこんでしまったように。

「これが【本論】。クリスティーの名前を出したのは、読んでいるときの連想じゃ。こう云う連想はいちいちメモしておかんと忘れてしまう。そしてクリスティーと云う名前が出たら、それと比較して、『太陽黒点』独自の達成を読み(「本書は戦争と云う、具体的な歴史と結びつけてしまう」)、その達成が何を書くことを可能にしているのかを考える(「そこで問われるのは、人間を人間とも思わなかったあの時代だ」)」
「それからいきなり語りの話が入りやすね」
「つづきをどう書こうか迷ったときに、とりあえず印象的だったフレーズをいきなり入れてみるのは手じゃ。すると違う種類の声が混じったことによって文章に動きが生れ、ふたつの声を統合させるようなかたちで文章をつづけやすい。今回の場合は、語りのほうへ話が移ることで、『太陽黒点』のテーマを多角的に語ることになったわけじゃ。そうして『太陽黒点』のテーマが見えたところで、感想を〆にかかろう。」

 けれども小説は結末において、そんな語りを突き放してしまう。ふたたび三人称に戻ることで、すべてを呑みこむ一人称の語りから、頭のなかだけの思い込みの一人称へ矮小化させられるのだ。思えば、なるほど本書で起こることは、当人にとっては重大な悲劇でも、若者たちのごく個人的な事件に過ぎない。ここに本書のシニカルな凄みがある。そう、所詮はただいくつかの死。けれどもその死のひとつひとつには、代え難い悲しみが、捉え難い憎しみが、そして、あまりにも巨大な、戦争と云う時代が結晶している。

「【〆】がどのような文章になるのかは場合による。【本論】である程度マクロなことを述べたあとで、細部に注目してみるとうまくいくことが多い。たいてい書くことは結末じゃな。小説が小説自体にどのような決着をつけているか。あるいは、どのような問いに開かれているのか。ネタバラシを避けるためか、インターネットでは結末には触れない感想を見かけることが多いが、小説はそこに向かって書かれるものである以上、検討するべきはむしろ結末じゃ。具体的な部分に触れればネタバラシじゃが、【本論】で見出したテーマをもとに抽象化して言及すれば良い」
【作品のあらすじ/紹介】で自分がその小説をどんな小説だと思っているのか掴んで、それをもとに【本論】で作品のテーマを見出し、そのテーマに基づいて【〆】で小説の結末を読む。と云うことですかい?」
「的確な要約じゃ。ひとつ注意してもらいたいのは、テーマとは「作者の云いたいこと」ではないと云うことじゃな。むしろ「問いたいこと」と云うべきじゃ。小説は常に何かを問うておる。【本論】ではその問いを見つけることが肝要じゃ」
「それができたら苦労しませんや。それにあっしが書きたいのは感想でさあ。小説についての批評じゃない」
「ふむう。批評と感想の違いは何か、と云う話はいったん置くが、確かに作品の分析ばかりで、ワシが感じたこと、考えたことが書かれていないように見えるのは事実じゃろう。けれどもここで書かれてあることは、間違いなくワシの視角からもたらされたものじゃ。ワシが感じて、ワシが考えた『太陽黒点』の問いじゃ。ゆえに「問いたいこと」の主語は、ともすると「自分」かもしれん。それでも良い、とワシは思う。自分なりの問いを持てば、感想は格段に書きやすくなる」

2.2.2. 問題意識を持つ

「とくにミステリのようなジャンルフィクションだと、読み手はしばしば「美食家」と化す。美味しいものをとにかく食べたい。美味しければそれで良い。それはそれで貫徹すればひとつの信念じゃが、多様な問いが噴出している現代にあっては、ひたすらに美食を求める態度は享楽的なニヒリズムと表裏一体じゃ」
「でも、美味しいものは食べたいですよ」
「うむ。もちろんワシだって美味しいものを食べたい。しかしたとえば、美味しいからと云う理由でウナギを食べつづける美食家がいたらどう思う? ワシは、絶滅の危機に瀕するウナギの現状についてどうお考えか、とチクリ、訊ねたくなるのう。美食を追求するのは構わん。しかし、料理をつくりだす社会や歴史、自然と文化の背景を一切考慮しない美食の追求は、無自覚に既存の差別・搾取・破壊の構造を肯定し、再生産してしまいかねん」
「いや……、それは論点がおかしい。料理の味の話をしているんだから、美味い、不味いこそが論点です」
「よし、平行線を辿りそうじゃから、いったんこの話は終わりにしよう。そもそもこれはたとえ話じゃ」
「ウナギの養殖だって研究が進んでいて……」
「わかった、わかった。ウナギ、ひいては美食はどうやら、お前さんにとって譲れないラインのようじゃ。だとすればお前さんにとっての問いは、まさしく美食そのものと云うことになるのう」
「当たり前でさあ。誰だって美味いものは食いたい」
「そこじゃ。お前さんは「誰だって」と云うが、美味しいものを食べたいのは、まず何よりお前さんじゃろ? ならばお前さんは、お前さんの名のもとに、美食を問うべきじゃ。そのとき「誰だって」と云うように逃げてはいかん。「誰だって美味いものは食いたい」ではなく、「あっしは美味いものが食いたいんだ」と云うべきじゃ。そして料理にまつわるさまざまな論点――味わい、素材、マナー、歴史、文化、社会――から、お前さん自身の手で「自分にとっての美食」を選り分けるのじゃ。お前さんに「美味い」と云わしめるのは何か。その対象。その背景。その構造を、考えてみなければならん」
「そんなに難しい話なんですかい?」
「むしろこれは、いたずらな複雑化を避けるための方法じゃ。後にも触れるが、個人の趣味嗜好や愛憎と云うものはとても複雑微妙で言葉にすることが難しい。下手をすると「好きだから好き」と云うトートロジーに陥る。そこから先は平行線じゃ。あるいは自分のなかで「好き」を普遍化してしまって、他人の嗜好を蔑ろにしてしまいかねん。それよりも、自分なりの問いを持って、その問いから作品を語るほうが、感想を習慣化しやすいし、共有もしやすいと思う」
「ご隠居にとっての「問い」はなんなんです?」
「たとえば「書くこと」がそれにあたる。あるいは「人間を数字にすること」、そして「生きてゆくこと」。これは極めて単純化した表現で、実際にはこれはこれで複雑で微妙な論点を含み、問うごとに、考えるごとに、細かく修正されては積み重なってゆく。十年後にはまったく別の問いに変貌しているかも知れんが、それは鞍替えしたわけではない。自分なりに訂正を繰り返した結果じゃ」
「ははあ。ご隠居が『鉄鼠の檻』を言葉についての小説と評した理由が、あっしにもわかりやしたよ」
「うむ。京極夏彦がどのような意図を持っていたのか、ほかのひとがあれをどう読むのかは置いて、ワシは『鉄鼠の檻』を、自らの問題意識のもとでそう読んだ。自分なりの問いを設定することで基準点が生じ、作品を評することが容易になるのじゃ。逆に、「面白い/面白くない」だけで作品を語ろうとすると、「「面白い」とは?」と云う自己言及的な問いがなされない限り、トートロジー的で空回りした感想になりかねん」

2.3. 作品の価値づけ

「そう云えばご隠居の感想には、「面白い」かどうかの評価があまり出てきやせんね」
「新刊小説の場合は意識して評するようにしておるが、それでも「面白い」から感想を切り出すことはめったにないのう」
「それはさっき云った通り、問題意識に基づいて読んでいるからですかい?」
「それもあるが、そもそも「面白い」「好き」から感想を語ることはあまり効果的ではないからじゃ。たとえばお前さん、パクチーは好きかの?」
「ええ、大好きです。あの独特の風味がたまらないんでさあ」
「そうか。ワシは嫌いじゃ。あの独特の風味が嫌でたまらん」
「ええーっ。あれが良いんじゃないですか」
「……な? 平行線じゃろ? けれどもここで重要なのは、ワシもお前さんも、パクチーが独特の風味を持っていることについては同意できると云うことじゃ。まずパクチーが独特の風味をワシらに与える。それをお前さんは好ましく感じ、ワシは厭わしく思う。先ほども云ったが、個人の趣味嗜好や愛憎は複雑微妙なものじゃ。たやすく言語化できるものではないし、いわんや共有をや。一方で風味自体はある程度、言語化できる。そうして言葉にした風味をもとにすれば、今度は各々の趣味嗜好を言語化し、互いにひとつの意見として受け止めることができるじゃろう」
「なるほどねえ。でもご隠居、それじゃあ作品の良し悪しや、優劣を語ることはできやせんよ」
「そもそも良し悪しや優劣を決めることが大事なのか、と云う論点もあるが、ここでは置こう。確かにパクチーの独特な風味を云々するだけでは、その良し悪しを決めることはできんし、パクチーの品評会があったとしたらその風味の優劣を決める基準がなくなってしまう。けれどもたとえば、パクチーの風味としてかくあれかしと云う基準があるなら、それにどこまで迫っているかで較べることはできるのではないかの?」
「でも、そんな基準、あるんですかい?」
パクチーについては知らんが、小説については、たとえば分析美学の分野で「批評の哲学」などが論じられておる。これもワシは詳しくないし、厳密な哲学的議論をしたいわけでもない。ただ、ノエル・キャロルと云う哲学者の議論は個人的にとても参考になったので、それを踏まえて「小説作品をどう価値づけるのか」を見ていくことにしよう」

2.3.1. 意図がどこまで達成されているのか

「ノエル・キャロルは『批評について』と云うその名もずばりな本のなかで、批評の本質を「理由に基づいた価値づけ」である、と主張しておる。そして価値づけるための根拠として、「作者の意図がどこまで達成されているか」が論じられるべきだと云う。批評と云うと日本語では複雑な文脈を持ってしまっているが、とりあえずここでは感想と云い換えておこう。読者は作中の記述や作者自身の言葉などを手がかりに作者の意図を見出し、その意図がじゅうぶんに達成されているとき、それが良い作品であると評することができる、とまあ、そう云う理屈じゃな。少し前、「作者の死」をそう易々と云うべきではないと語ったのは、キャロルの議論を踏まえておる」
「でもご隠居、それじゃあ、まぐれ当たりみたいな作品を褒めることができやせんよ。それに、なんでもかんでも作者の意図通りにいくわけじゃないでしょう。意図通りにいかないで失敗したら良くない作品、と云うのはわかりやすが、意図を超えて成功してしまったら、どう評すればいいんです?」
「ワシも、キャロルはそのあたりの疑問にうまく答えることができていないと思う。作品製作は、作者の意図を平気で超えてしまうものじゃ。じゃからワシはここで、「作者」を「作品」と置き換えたい。「作品の意図がどこまで達成されているか」と云うことじゃ」
「作品はものを考えませんよ」
「自分のために感想を書く、と云う議論を思い出すのじゃ。もともとどのような意図があったのであれ、その後の言動を規定するのは書かれてしまった言葉のほうじゃ。これは作品製作についても云える。小説なら書き出しの一文から、絵画なら絵の具のストロークから、音楽なら最初の一音から作品はつくられはじめる。そして置かれてしまった要素は、未だ置かれていない次の手をある程度定めてしまう。その規定はときとして、作者の意図を超える……。これが創作のダイナミズムじゃ。このいちいちの規定、作者の意図をも超える連鎖の流れを、作品の意図と考えよう。この意図は得てしてあとづけじゃが、そもそも物語るとはそうしたあとづけの繰り返しではないかの?」
「話が逸れてますぜ、ご隠居」
「おっとっと。まあ、ごく単純に云えば、作品そのものが何かしらを意図していると仮定したうえで、その意図を読み解き、どこまで達成されているかを考える。これが価値づけの根拠じゃ。キャロルの議論では読解の対象が作者の意図に限定されていかにも窮屈じゃが、作品の意図を読み取ることには読者ごとの解釈の余地が広い。そしてこの解釈をもたらすものこそ、各々の問題意識じゃ」
「作品の意図ねえ。でもご隠居、たとえば推理小説の場合は、トリックやロジックがその意図にあたるんじゃないですかい? それなら各々の解釈の余地はありませんや」
「それは違うな。もちろん、トリックの達成こそ意図とする推理小説は少なくない。むしろ作家はそれを意図しておる。けれども、作品の意図はほかにあって、トリックやロジックはそれを達成するための手段として読むこともできる。たとえば『鉄鼠の檻』はフーダニットの小説じゃが、禅についての知識に基づいた犯人特定の推理はあの小説の意図するところじゃろうか? それよりも、禅の歴史が犯人特定の推理と結びついてしまうこと、その結果としてフーダニットが禅の歴史の見立てと化してしまうことに、あの小説の意図があるのではないか?」
「いやいや、ご隠居、そもそもあの小説は動機がミソですぜ」
「ほれ、解釈が割れた。もちろんあの小説を特異な動機から読むこともできる。けれども動機が読解の終着地点ではなく、むしろ、あの特異な動機を通して、全篇にわたって語られてきた禅の思想がふたたび問われるのだと読むこともできよう。このように、読者の解釈の余地は相変わらず残されておるし、そこで各々の考えが問われる。作品の意図とその達成度合いと云う観点は、そうした各々の問題意識を、作品の価値づけへ接続するための物差しでもあるのじゃ」

2.3.2. カテゴライズと文脈づけ

「ところで、『鉄鼠の檻』はフーダニットか、それとも動機か、と云うのは小規模ながらジャンル論の様相を呈しておる。ジャンル論は得てして不毛に終わるが、適切に運用されれば、このように各々の立場の違いを鮮明にする。ここから妥協点を探ったり、統合した読みを試みることも可能じゃ。ノエル・キャロルも、価値づけのためには分類と文脈づけが助けになると云っておる。小説においては、両者はこの際同じようなものじゃ。推理小説を読むことは、推理小説として読まれてきた作品群の文脈に基づいて読むと云うことじゃからのう」
「でも、分類や文脈はひとそれぞれでしょう? だからこそ、これがミステリだ、みたいな議論は不毛に終わっちまう」
「もちろん。けれどもそれは、個別具体的な作品を相手にしていないからじゃ。そしてもうひとつ、フィードバックをしていないからでもある。カテゴライズも文脈づけも、あくまで作品を読むための手がかりに過ぎん。推理小説とされてきた作品群と並べながら、目の前の小説がその文脈においてどう読めるのかを考え、ときにはそれまでの文脈づけのほうを見直してゆく。そうして作品を自分のなかで定位していくわけじゃな」
「と云うことは、畢竟ジャンル論は不必要なわけで?」
「いいや。作品自らジャンルの文脈に則っていることもしばしばある。推理小説はたいていそうじゃ。そんなときは文脈づけが必要になるじゃろう。けれどもそのときも、これが推理小説、と云う固定された物差しのように考えるのではなく、当該作品が自らをどう文脈づけているのか、それを読者である自分はどう読むのか、自分なりの文脈づけと照らし合わせながら評価することになる。そんなとき、何を推理小説とするかなんてひとそれぞれだから、と云ってしまうのは評価の放棄であり、考えることの放棄じゃ。先ほども云った通り、ジャンル論は各々の立場の違いを鮮明にする。つまり、カテゴライズや文脈づけはときとして信念の問題になる。ゆえに泥沼化しやすいし、平行線になり、水掛け論になる。けれども互いの信念を尊重すれば、作品と読者のあいだで、あるいは読者のあいだで、建設的な対話が可能になる――、いや、そもそもそうでなければ対話なんぞできん」
「信念ですか。これはまた大きく出やしたねえ」
「最前の「問題意識」と、これは近しいものじゃと思う。つまり、自分にとって譲れない領域であり、お前さんをお前さんたらしめるものじゃ。それではこの章の最後に、ワシの敬愛する作家――リチャード・パワーズの小説『ガラテイア2.2』から引用しておこう。語り手の「僕」とはパワーズ自身の似姿であり、これは小説を読むことをめぐる小説じゃ」

本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題もまた現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。
――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房

「頭でっかちなワシ自身に刺さる鋭い一節じゃ。小説は虚構ではあるが、小説そのものは現実じゃ。それを読むお前さんも現実。そして、感想もまた現実なのじゃ。十八歳の大学一回生はまだこれを信じておらぬ。ワシもそうじゃったし、いまでもまだまだ信じきれん。それでも、いや、だからこそ、われわれは感想を書くのじゃ」
「お説教ですかい」
「そう思ってもらって構わん。もっとも、お説教はこのあたりで終いじゃ。次は具体的な実践におけるテクニックを幾つか話そう」

3. 何を書くのか

「ここまで、感想をどのような目的で、どう書くのかを語ってきた。それはそのまま、何を書くのかと云うことの云い換えでもある。あらためて整理すれば【一、作品が何を目指しているのか】【二、作品に何を求めているのか】【三、作品から何を引き出すのか】と云うことになるじゃろう。これらは整理のためにわけただけで、実際は相互に関係し合って、究極的には一体化しておる」
「【一】が「作品の意図」、【二】が「読者の問題意識」、【三】が「両者を踏まえて導かれる感想」ですね?」
「うむ。作品の価値づけに重きを置くならば【一】が中心になるじゃろう。自分の問題意識を見出し、考察し、深めてゆくことを目的とするなら【二】が、もっと自由に、小説を題材に文章を書いてゆくならば【三】が中心になる」
「ふーむ、方針についてはかなりまとまった気がしやす。でもご隠居、いざ書こうとすればうまくいきやせん」
「そうじゃなあ。前にも云ったが、ここから先は慣れてもらうしかない。ワシの思う作品の意図やワシ自身の問題意識を語ったところで、お前さんはワシの縮小再生産みたいな感想しか書けんじゃろう。青は藍より出でて藍より青し、と云うことになれば良いが、そもそもワシはワシの考えを誰かに受け継ぎたいわけでもない。ワシの問いはワシのものじゃ」
「じゃあ、この章は終わりで?」
「いんや。何点か、Tipsとしてテクニックを語ることにしよう」

3.1. 抽象化と比喩、あるいはイメージ

「お前さんは推理小説が好きなようじゃが、推理小説の感想において立ちはだかるいちばんの壁はネタバラシじゃ。推理小説の意図や読者の問題意識を語るにあたって、トリックやロジック、趣向の核心についての言及は避けられん。クローズドな場所でネタバラシありきの感想を書く、と云うのもひとつの手じゃが、これでは感想を共有できる人間が限られてしまう」
「自分のためのノートに書くならそれで良いんでしょうが、確かに文芸サークルや友達付き合いで、そりゃあ困りますね」
「ではネタバラシを避けるためにどうするのか。多くの読者はそこで、「驚きの結末」「どんでん返し」と云うような、紋切り型に陥る。よく馬鹿にされるが、それは決して考えなしの感想と云うわけではない。具体的な言及を避けるための苦肉の策じゃ。けれどもこれでは、作品の固有の達成を、お前さん独自の読みを、語ることができん。そこでワシがよく使うのは、抽象化と比喩じゃ。具体的な言及ができないならば、抽象的に語るか、比喩によって語れば良い
「それくらいで避けられるもんですかねえ」
「完全に避けることはもちろんできん。読者に予断を与えるかもしれん。けれども、ワシの経験上、抽象化や比喩は、うまくいけばまだ読んでいない読者に対して、読書の補助線としてはたらいてくれる。それに、どちらも作品の勘所を掴むにあたって不可欠な作業じゃ。一石三鳥くらい狙えるぞ」
「実例がわからないとピンときやせん」
「それでは、過去に書いたワシの感想のなかから例を出そう。まずは抽象化について。カーター・ディクスン『白い僧院の殺人』は、ワンアイデアのトリックが冴え渡った作品じゃが、感想ではこのトリックに言及するのは難しい。そこで、アイデアの眼目を抽象化し、トリックが作品全体にもたらす効果に着目して、こう書いてみた」

[…]そしてこの謎〔雪に囲まれた館に足跡が一本だけ伸びていると云うシンプルな密室状況〕はこれまたシンプルな発想で解き明かされるのだけれど、この発想が〝誰がやったか?〟〝どうやったか?〟〝なぜやったか?〟ではなく〝何が起こったか?〟を導くものであるのがミソで、発想の逆転と云って過言でないこのアイデア震源として波状的に、〈白い僧院〉の周辺にあった複雑な事件はむしろこの事態を引き起こすものとして組み直され、足跡のない雪の風景は事件の核ではなくむしろ一連の出来事の周縁へと裏返ってゆく。

「ここでおこなわれているのは、鮮やかな発想について「この発想は何をしているのか?」を考えることじゃ。その答えとして、ワシは謎の焦点のずらし、そしてそのずらしが解消されることによってこれまで起きていた出来事の意味合いががらりと変わることを挙げた」
「逆に、フーダニットやハウダニットホワイダニットの興趣が薄いことも指摘されていると読めやすね。実際、あっしは『白い僧院』を読んだとき、なんだか呆気なくてつまらなかった」
「うむ。これは先ほどのパクチーと同じじゃ。その作品がどのようなものであるかを分析して語れば、好き嫌いはあとからついてくる。逆に云えば、誰もが認める美点よりも、評価のわかれそうな点にこそ、作品の核心があるのかもしれんのう」
「一石三鳥の意味がわかった気がしやす」
「比喩も似たようなものじゃ。先の例でも比喩のようなことはしているが、別の例を示そう。米澤穂信『可燃物』の感想から」

ストイックな短篇集だ。定規やコンパスで作図された幾何学模様を思わせる。謎があって、解決がある。その抽象的な運動のために、ぎこちないほどに淡々とした文章と、警察小説の体裁が用いられる。[…]衝撃の真相や派手なサプライズはどこにもない。ぼくは中学の頃の図形問題を思い出す。与えられた情報からわかることを積み上げてゆく。知りたい情報から天下り式に知るべき情報を検討してゆく。それでもあと一歩、飛躍が必要になる。考える。補助線を引く。解ける。ざっとそのようなものだ。

「褒めているのか貶しているのかわかりやせん」
「まさしくそこが狙いじゃ。呆気ないと云えば呆気ない、ストイックと云えばストイック、素朴と云えば素朴。そんな作品の容貌をうまく掴むために、ワシは図形問題と云う比喩を持ち出した。力業では解けず補助線を必要とする、シンプルな問題の数々をな。比喩には良いも悪いもない。それは見立てであり、換言じゃ。けれどもいったん比喩を通したおかげで、具体的なアイデアの言及を避けながら、作品について論評できる。このあと、感想は「しかしもちろん、小説は抽象的な図式ではない」とつづく。小説は図形問題ではないし、人間たちもまた任意の点ABCではない。それでも小説を、人間を、図式に回収してしまうところ、そして図式からあぶれてしまった人間たちを突き放すところに、『可燃物』の凄みがある」
「単に喩えればいいわけじゃないと」
「うむ。喩えるだけなら畢竟、どのような比喩でも良い。多くの推理小説が図形問題に喩えることができるじゃろう。この感想において比喩が効果を発揮しているのは、図形問題に喩えたうえで、そのイメージを作品自体が裏切ってしまうところにある。これは『太陽黒点』の感想でもそうじゃな。比喩はあくまで語るための手段であって、そのうえで何を語るかが肝要じゃ」
「でもご隠居、ご隠居はなんだか、自分の考えたイメージに引っ張られすぎるきらいがありやすよ」
「うーむ、それはイメージの怖いところじゃ。けれども同時に、強力なところでもある。推理小説においてイメージを扱う天才が京大ミステリ研のOBである巽昌章じゃ。たとえば彼は、京極夏彦『絡新婦の理』の文庫版解説において、次のように抽象化を施し、比喩を用いることで作品のイメージを起ち上げ、比較してゆく」

[…]巨大なネットワークの生成とは、言葉の符合、イメージの連鎖を駆使して、作品を連想と類推の実験場に見立てることに他ならない。本来結びつくはずのないものたちが集まって壮麗な絵柄を織り上げるための場所、推論の飛躍や誇張をやすやすと受け入れる、いわばゆるんだ世界を準備することこそが、京極的手法の真髄なのだ。

 その果てに現われるのは、壮大な言葉の川である。内面と外面、さまざまな思想、それらが解体され、「固有の中身」を剥奪されるとき、残るのは言葉の集積であり、言葉たちは互いの響きとイメージを慕って流れはじめる。

[…]佐藤友哉にせよ、舞城王太郎にせよ、あるいは戸梶圭太にせよ、この五年余りという時間は、壊れた世界、壊れた人間を標榜する小説たちの氾濫によって記憶されるだろう。壊れるということの正体と、そこで営まれる活動から目をそらすことはできないが、だからこそ、壊れていない『絡新婦の理』の、あたかも静止画像で見た大爆発の寸前のような、極限まで膨らみながら不吉な穏やかさを保つ美しい球体に、もう一度注意をはらっておきたい。

「うわ、ご隠居が影響受けてるのがわかりやすいですねえ」
「せからしかっ。巽がここでおこなっているのは、具体的に作中で何が起こるのかではなく、小説が何を試みているのか、「巨大なネットワークの生成」や「壮大な言葉の川」と云ったイメージで抽象化することじゃ。トリックや犯人について直接書くことでは捉えきれない作家の手法の真髄を見出す。いや、逆じゃな。巽はここで京極堂よろしく、言葉によってそれが真髄であると見立ててしまうわけじゃ。そして同時代の小説家たちと比較しながら、「壊れた世界」と云う比喩に対して更なる比喩をぶつける。京極作品は「鈍器本」などと呼称されるが、ここで喩えられている「爆発の静止画」はそんな揶揄とは一線を画した表現じゃ」
「『絡新婦』が、なんだかますます凄い作品に思えてきやした」
「彼の解説や評論は、あまりに強力なイメージを与えるものじゃから、度の強い眼鏡でもかけさせられたかのように読者の読み方さえ変えてしまう。まったく、おそろしい評論家じゃ。ゆえに敬愛しているのじゃがな」
「ご隠居、なんだか眼が据わってますぜ」
「おっと。巽以外だと、北村薫有栖川有栖も比喩の達人じゃの。『日本探偵小説全集 名作集1』解説において、羽志主水「監獄部屋」を北村薫が評した際の短いひと言「落雷のごとき結末」は、単に「意外な結末」と云うのではたどり着かない深みで作品の凄絶な幕切れを捉えておる。あるいは有栖川有栖鮎川哲也を評した、ある座談会でのこんな表現――」

〝時間で解く〟を言い換えると〝手順で解く〟っていうか。鮎川先生は物理トリックは明らかに低く見てますよね。エッセイや作中人物のセリフにそういうのが出てきたり。物理的トリックの大技が決まった時っていうのも華々しくて興奮しますけども、手順で裏切られた時は本当に足許をすくわれたみたいな独特のショックがあります。時間イコール手順っていう感じ、手順を替えれば世界が変わる、乱丁になったらまた違う話が出てくる不思議な本みたいに。
――鮎川哲也鮎川哲也短編傑作選I 五つの時計』(創元推理文庫

「ワシはこれを読んだとき舌を巻いた。有栖川有栖推理小説のトリックとそれがもたらす面白さを、比喩を用いることで巧みに捉え、言語化できておる」
「物理トリックを「大技が決まる」ってスポーツみたいに表現するのはしっくり来やすね。実際物理現象の話だし、できる/できないじゃなくって、できてしまったことが面白いし、凄いって云う。それに、「乱丁になったらまた違う話が出てくる不思議な本」と来た、こいつはすげえや」
「うむ。とくに後者、ともすれば発想の奇抜さや計画の細かさくらいしか語られることのないトリックそれ自体に物語のイメージを与えることで、有栖川はトリックを楽しむための新たな視角さえ与えているのじゃ。比喩やイメージは言語化のための有効なツールであり、ときにはただ云い表わす以上の効果を発揮すると云うことが、これでわかったかの?」
「ご隠居が先ほどから説明のために比喩を使うのも、同じ理由で?」
「良く気づいたのう。比喩によって伝えにくいことが伝えられることもある。感想とはどのような営みか、どうあるべきとワシが考えているのか、そのまま伝えることは難しい。けれども料理や勉強と云った比較的身近なもので喩えることで、多少の具体性は犠牲になるが、伝えたいことを言葉にできているわけじゃ」
「うーん、でもご隠居の喩えはわかりづらいこともありやす」
「もちろん、うまく喩えなければ議論をかえって混乱させてしまうかもしれん。それに、あまりに一般的なものに喩えすぎると、その話題に固有のことを話すことができん。けれども巽昌章がやってのけるように、比喩によって別ものに見立てることで、主題を接続して大きなことを語ることもできる。比喩は劇薬。使えば絶大な効果を発揮するが、用法用量を守って使うことが大切じゃ」
「それもまた喩えでさあ」
「こりゃ、一本取られたの」

3.2. 細部と全体の呼応、あるいはメタローグ

「それでは、もうひとつのテクニックを。これまで語ったとおり、小説は書かれながらにして自分自身を規定してゆく。それをもう少し段階に分けて云えば、書かれた細部が全体を浮かび上がらせ、そうして仮想された全体が細部を規定してゆく、そんな生成プロセスじゃ。こうした細部と全体の呼応を前提に置くと、作品の全体像が作品の細部に埋めこまれているのを見つけることができる」
「なんだか怪しげですねえ」
「そんなに変な話でもない。要するに、これがどのような小説なのか、作中で明かされていると云うことじゃ。いや、あくまでそれは読みのひとつなのじゃから、作中の一部の要素を作品全体に当てはめて読んでみると云うことでもある」
「我田引水じみた読みになりやせん?」
「うむ。じゃから扱いには注意が必要じゃが、うまく指摘できれば感想をまとめるにあたって重宝するぞ。たとえば『太陽黒点』なら、作中の戦争や歴史についての記述を、ピタゴラ装置的な悲劇の連鎖と呼応させることで、作品のテーマを引き出すことができる。『鉄鼠の檻』なら、禅についての作中の議論と事件そのものを重ね合わせるような読みができるじゃろう。推理小説には全体の結構と細部の記述がわかちがたく結びついているような作品が多いから、このような呼応はしばしば見出せる」
「うーん、ご隠居がそうやって読んでいるだけじゃないですかい?」
「それはそうじゃ。これはあくまで読み方の話。小説を読みながら細部の記述から全体を起ち上げ、その全体から細部を読む、そんなフィードバックの繰り返しによって作品を捉えるのじゃな。けれどもその運動は、読んでいるその瞬間よりも、感想を書くときに発生する。なんとなれば、感想を書く行為=書きながら考える営為とは、細部と全体の呼応のなかで書き進めることなのじゃから」
「ははあ。この文章もそう云うことですね?」
「うむ。ワシらのここまでの会話も、そうして書きながら考え、考えながら書かれておる。それはひとりの人間の思想を語る文章であるのに、わざわざ問答形式にしていることからも明らかじゃ。この文章は書き手の思考を書き留めながら、いちいちお前さんに突っ込んだり要約してもらったりすることによって書き進められた。ワシらの問答自体が、問答の内容を反映しているわけじゃな」
「自己言及的だ」
「人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、このような会話形式をメタローグと名づけている」
「つまり、会話の構造が会話の内容を反映している会話」
ベイトソンが採用したのは父と娘の会話だ」
「そこには、自分の考えてきたことが自分の子供たちの世代にも伝わると良い、と云うベイトソンなりの切実な祈りが籠められている」
「同時にそこには、パターナリスティックなおこがましさもある」
「けれども書かずにはいられない」
「そうでなければ伝わらないから」
「それが、何かを書くものの悲しさであり、何かを書くことの面白さでもある」
「われわれは書く」
「書きながらにして考える」
「書きながらにして読む」
「書きながらにして生きる」
「なんとなれば、最後に残るのは言葉、ただ言葉だけだからだ」

――了


【まとめ:結局何が云いたいのか】

  1. 感想は書きながら考えるべし
  2. まずは書きはじめるべし
  3. 書くことを習慣化するべし