鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

言葉だけが最後に残る

 一つひとつの行為を通して、我々は自分の伝記を書く。私が下す決断一つひとつが、それ自体のために下されるだけでなく、私のような人間がこういう場合どのような道を選びそうかを、私自身や他人に示すために下されるのでもあるのだ。過去の自分のすべての決断や経験をふり返ってみるとき、私はそれらをつねに、何らかの伝記的全体にまとめ上げようとしている。自分自身に向かって、ひとつの主題、ひとつの連続性を捏造してみせようとしている。そうやって私が捏造する連続性が、今度は私の新しい決断に影響を与え、それに基づいて為された新しい行為一つひとつがかつての連続性を構成し直す。自分を想像することと、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の気質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。

――リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』


 ミステリ研の新入生はだいたい例外なく、自分の感想を言葉にできない。何を云えば良いのかわからないし、どう語れば良いのかもわからない。そもそも、なぜそんなことをする必要があるのか、上回生でも自分の意見を持っているひとは少ないだろう。多くの先輩はこれについて、ごく個人的なコミュニケーションや、意見交換を通じた相互作用を挙げてきた。ぼくも半分は同意する。鑑賞した作品について語り合うことは有効なコミュニケーション方法であるし、互いに感想を語り、聞くことによって鑑賞が多角的に、いっそう奥深く楽しいものになる。集団としてのミステリ研とはそのような場所としてある、と云うのはそれ自体がひとつの見方だ。
 しかし、ぼくはもうひとつの考えを持っている。つまり、感想を語るのは、何より自分のためだ、と云うこと。とくにそれを文章に起すとき、なんのために書いているかと云えば、誰よりも自分のためである。
 なんとなれば、あとに残るのは、言葉だけだからだ。



 最近はtwitterやブログを書かなくなった代わり、日記を書いている。ノートにペンで直接書きこむ、それはこれまで使ってきた記録とは比べものにならないほど内省的な営為であり、物理的な痕跡だ。その日何をして、何を考えたか、可能な限り書いて、残す。日付、場所、それと天気も。
 そろそろ一ヶ月経とうとしているが、最初のページに書いてあることを読むと、自分がどれだけ多くの細部を積み重ねて生きているのかわかる。それら一切は、日記を書かなければ失われていたものだ。いつも通り過ぎるばかりだった喫茶店に入ったこと。煙草臭くてたまらなかったこと。カウンターに通されて、椅子がいささか低かったこと。ケーキは甘くて美味しかったこと。背後で漫画家と編集者らしいふたりが会話していたこと。彼らが話すあまりに陳腐な人生観と、それがひとひとりの人生を規定していると云う切実さに驚いたこと。
 いや、本当のことを云えば、これら一切はすでに失われているのだ。聞いた会話も抱いた思考も煙にとけて霧散している。あとに残るのは、ノートに書かれた言葉だけだ。ぼくはそこから、書かれたときに失われたものを取り戻そうとする。



 言葉とはかつてポンペイを呑みこんだ火砕流のようなもので、この世界を覆い尽くさんばかりに溢れていながら、そこに生きていたひとびとや営まれていた暮らしそのものを再現することはできない。呑みこまれた人間たちはすでに腐って消え果てた。言葉が記述するのは、あとに残った空洞である。後世のわたしたちにできるのは、残された空洞に石膏を流し込むことだけだ。それは人間そのものとはならないが、それしかできないのだからしかたない。しかし、とりあえず出来上がった石膏像より、もっと複雑で豊かなものがそこにはあったはずだ。



 感想の話に戻ろう。新入生たちが述べる感想は概してつたない。「面白かったです」以上のことを云えるほうが稀だ。しかし、それでは彼らは「面白かった」以上のことを考えていないのだろうか? そんなことはない、と思う。小説を読んでいるときにあれやこれやと感じたこと、言葉にはならないさまざまな細部の情感、自分でも認識できない一切が、いざ文章に起したときすり抜けてしまったではないか。なんとなれば、ぼく自身がそうだから。小説についてどれだけそれらしいことを述べようが、こぼれ落ちてゆくあらゆる細部を諦めながら、自分なりに書いているにすぎないから。もちろんひとによるだろうけれど、ぼくは人間をそんなに馬鹿だとは思っていない。これは信念と受け取ってもらって構わない。
 だから、「面白かったです」としか云えなくても別に気にしなくて良いと思う。それらしいことを語りたければ文芸批評の本は揃っているし、お手本にできる書評やブックガイドもたくさんある。
 問題は、「面白かったです」しか残らないことだ。
 あらゆる細部は失われる。残るのは言葉だけだ。もしも「面白かったです」としか書き残すことができなければ、おそらく一年もせずに、その小説にどんなことを思っていたのか、一切の記憶が失われているだろう。いや、「面白かったです」だけならば人畜無害だ。しかしもしも、その場のノリや借りものの表現だけで書いてしまった言葉だったら?



 たとえば『火の鳥』。人間の生と死、歴史や信仰を作家の人生を懸けたような深度で問いかける文字通りのライフワークである。最近〈鳳凰編〉を読んだ。この漫画に登場する火の鳥について、超然とした振る舞いと人間くさい卑俗な執着とが同居したその仕打ちを「ファッキンクソバード」と揶揄するのはいかにも容易だ。あるいは、茜丸の多面的な人間性やその数奇な人生を一部分だけ切り取って「クソ男」などと評するのも安易だろう。それらの感想は、漫画を読んでいるその瞬間に抱いた感想としては、たぶん否定できないかもしれない。しかし『火の鳥』とはそれだけの漫画ではない。
 あなたが『火の鳥』について「ファッキンクソバード」と語るひとと知り合って、「なるほどファッキンクソバードですね(笑)」とでも語りあったとしよう。twitterにはそのやり取りが記録される。それ以外の感想はすべて消え去る。あなたがあとから『火の鳥』について自分のログを検索しても、見出されるのはその軽薄なやり取りだけだ。あなたは残された空洞になんとか石膏を流し込もうとするが、よっぽどうまくやらない限り、出来上がる石膏はあらっぽい*1。あなたの『火の鳥』は――戦争や仏神、人間の尊厳をめぐって胸打たれた感動はかくして失われ、あとには軽薄な読者が残る。



 一度だけなら構わない。そんなことだってあるだろう。しかし、もしも軽薄な言葉だけを撒き散らしてしまったら? あなたがあなた自身のまわりにそうした言葉の火砕流を作り出したら、あなたはいったいどうなるのだろう?
 日記を書いては読み返す毎日を送っていると、人間は記憶からできていること、その記憶は実のところ不連続であることがわかってくる。断続的に消え去っては形成され直す石膏像。それがぼくだし、それはあなただ。
 残した言葉によって自分自身が記述される。悪く云うならば、われわれは自分で自分を騙している。悪辣な言葉を残しつづければ、悪辣な人間になるだろう。軽薄な言葉しか残せなければ、軽薄なことしか云えなくなる。はじめはネタとして喋っていたことが、いつの間にか洒落にならなくなっている。もちろん、こうして書いている言葉もまた、ぼく自身に返ってくるに違いない。



 うまく感想を書けるようになるコツを教えよう。いや、うまいかどうかは知らないが、少なくともおそれなくなるための方法を。それは、とにかく感想を書いてみることだ。的を外していることをおそれつつ、的を外していたとしても、とりあえず書いてみる。ひとに見せなくとも良い。自分が読めればそれで良い。そうするうちに、自分で自分が何を読んで、どう語っているのか見えてくるはずだ。そうなったとき、書いた言葉があなたになり、あなたが言葉を書くことになる。
 そうして一切が失われたとき、言葉だけが最後に残るだろう。

 This is a present from a small, distant world, a token of our sounds, our science, our images, our music, our thoughts and our feelings. We are attempting to survive our time so we may live into yours.
(これは小さな、遠い世界からのプレゼントで、われわれの音・科学・画像・音楽・考え・感じ方を表したものです。私たちの死後も、本記録だけは生き延び、皆さんの元に届くことで、皆さんの想像の中に再び私たちがよみがえることができれば幸いです。)

――ボイジャーのゴールデンレコードに記録されているジミー・カーターの言葉*2

*1:もちろん、当時の日付ややり取りした相手とのほかの記録、そのほかの情報から細部を詰めることは可能だ。あなたにそれができるならそれで良い。他人が残したログからそう云うことを立ち上がらせるのに長けたひとびとはいて、一般に歴史家とされる

*2:翻訳はWikipediaの記事から。見てわかるとおり意訳がすぎる怪しい翻訳だが、まあ、書いたもの勝ちではあるし、今回の記事の趣旨からしてちょうど良かったので採用した