鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/11/08~11/15 ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』・松井和翠『和翠の図書館I』


 卒業研究の進捗が芳しくない。それはそれとして本は読む。

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

写真は繰り返し立ち現れる。写真は単純化する。写真は扇動する。写真はコンセンサスという幻覚を創り出す。

 藤原辰史先生の《現代史概論》に潜っている。「現代史を」語るのではなく「現代史とは何かを」語る講義で、マクロな政治史・外交史からはじまって、社会史、経済史、環境史、思想史、文化史、そして文学や哲学を経由しながらミクロな個人史へ、その内容は多岐にわたる。それも、シームレスに話題が変わり続けるのでついてゆくのは難しい。けれども毎回、確かな熱を与えてくれる講義だ。
 先日もその講義を終えて帰りがけ、昼休みに向けてわっと流れ出す学生たちの波にもまれながら階段を降りていると、後方で、おそらく同じ講義を受けたばかりであろうひとりがこんなことを云っていた。「面白いけど、結局、何が云いたいのかわからなかったな」。ぼくは振り向いて「違う」と云いかけた。そうじゃないんだ、と。けれども、その言葉のどこにも否定できるところがないと考え直して、そのまま階段を降りつづけた。講義は確かに、興味深く刺激的であると云う意味で、とても面白い。けれども、何が云いたいことなのかよくわからないことも事実だ。先生は多面的に「現代」を語る。それは必然、「戦争」を語ることになる。戦争が悪しきものであることは論を俟たないが、それは問いかけの始まりであって結論ではない。では先生は結局、何が云いたいのだろう? 歴史は大事? 歴史は面白い? それは真実かも知れないが、答えではない。いや、そもそも答えなどあるのだろうか? もっともこれは、答えなんかないんだと云う諦念や開き直りではない。問い続ける、と云うことだ。結論づけることができずとも、結論がすぐに相対化されたとしても、それでも、と。《現代史概論》が次々と違う歴史叙述のあり方を繰り出すのは、絶えず「それでも」と云うためではないか? ひとりひとりが違うことを考えている。そのひとりひとりのなかにも、たくさんの違う考えがある。だからわれわれは問うことをやめてはならないし、だからわれわれは問うことができる。
 問うことはおそらく、「それでも」と云うことである。それは相対化であり、抵抗であり、屈折であり、しばしば議論を錯綜させるものとして嫌われるが、何よりも議論を駆動させる一歩でもある。それはまさしく歩くことに似ている。片足を前に出すだけでは前進できない。右足の次に左足を出し、それからまた右足を出すことで、ようやく歩くことができるわけだ。「しかし」や「それでも」と打鍵するとき、ぼくはそんなふうに次の一歩を進める気持ちで書いている。これまでの文章にもやたらとそんな逆接が繰り返し現われていることに、あなたは気づいただろうか? おそらくその癖を最初に指摘したのは母である。小学生のとき、母はぼくの書いた読書感想文を読んで、「しかし、で論を曲げることが多いね」と呆れた。「何が云いたいのかわからへんわ」。
 ソンタグもおそらく、そんなふうに書いていたのではないか。
 本書においてソンタグが何を云いたいのか、それは非常にまとめづらい。けれども何を問いたいのかはわかる――写真、そして、それが伝える/伝えない戦争の苦痛。本書では問い続けるために、何かを述べた次の瞬間にはそれに疑義を唱えるような書き方がなされている。写真について、報道について、戦争について、文学について、彼女がどんな立場を取っているのかわからず、読んでいて迷子になってしまった。けれどもそもそも本書は、そうして「立場」によって読まれること――それはすぐさま「分断」を導くだろう――に抵抗するようなエッセイである。もちろん、末尾における《そのとおりだと、言わねばならない》と云う言葉は、断絶に対する諦めのように聞こえる。じゃあどうすればいいんだ、とも云いたくなる。しかしわれわれは、続くべき言葉を知っているはずだ。断絶を知ることによってはじめて、われわれは想像することができる。考えることができる。知ることができる。だからこそ、それでも、と云わねばならない。

 

松井和翠『和翠の図書館 I』

 しかし、世界のシロとクロの間には、広大なグレーの世界が拡がっており、私たちにできるのはそのグレーの世界を漂うことでしかないはずである。とはいえ、世界はグレーに過ぎないと達観してばかりもいられない。グレーの世界に生きていると認識しつつも、シロとは何か、クロとは何かを絶え間なく問い続けること、つまり《事実》とは何か、その向こう側にある《真実》とは何かを探求し続けること、それがノンフィクション作家に、そして《名探偵》たちに、ひいては我々に課された《宿題》のように思われる。

 となれば、やはり我々はその《宿題》を取りにいかねばならない。

 掌篇、戯曲、シナリオ、童話、漫画、ノンフィクション。さまざまな形態をとった古今の「ミステリ」を渉猟し、精選したアンソロジーの目録に、解説と座談会を付したもの。大変な労作で、最初の蔵書目録が発表されたときが2019年の初め*1だから連載をまとめるまでに五年がかり。現在の目録と比較するとその様相も随分と変わり、執筆にかけられた月日を物語っている。――いや、選定はずっと昔から始まっていたわけで、これはもうライフワークと云うべきだろう。それも、本書はまだ『I』なのである。

 ――ごくごく私的な思い出から書く。
 ぼくがtwitterをはじめた頃、読書メーターからの繋がりを除けば、最初期にフォローしてくれたのが松井和翠さんだった。以来ぼくにとって氏はずっと、ファンダムのなかに屹立する高みであり、憧れであり、道標でありつづけた。ぼくが巽昌章を知ったのは氏のnote記事がきっかけだったし、そこに並んでいたタイトルをはじめとして、ATB企画や架空アンソロジーの数々は、推理小説を読むと云うことに片足を突っ込んでしまった子供にとって、重要な道標だった。何を読むか。いかに読むか。そして、どう語るか。以前ぼくはブログについて、「短評が巧い」と褒められたことがある。ぼくがそんな技能を得ることになった理由のひとつには、松井和翠さんの記事やtwitterにおける、短く、鋭く、作品の真髄を貫くような言葉への憧れがあったはずだ。
 本書を読んでいると、あらためてそんな影響関係を自覚させられた。一見すると関係のない作品を並べることで星座を起ち上げてゆく切り口、そうしてあらたに物語を「編む」ことの面白さを、ぼくは巽昌章ではなく、氏の企画で知ったのだ。あるいはトリックのイメージや、文体へのこだわり、抽象性への憧れ。大学での日々を通していまでこそ読書傾向は変遷を遂げたが、それでも読書の道はひと続きであり、ここには間違いなくその源流がある。それはつまり、ミステリに何ができるか、と云うテーマだ。謎がある。解かれる。ただそれだけのことが、何を物語るのか。翻って、ミステリとは何か。謎とは何か。解くとは何か。本書はそこに「批評」を見出し、本書もまた批評してゆく。古今の作品を渉猟し、並べ、結びつけながら展開される、ときに慎重で、ときに大胆な読み。そのどれもが興味深く、ひとつひとつの指摘にいちいち唸らされ、思考を促される。そしてミステリを読むこと、語ることの、素朴な面白さを思い出す。美味しいお菓子をひと袋ずつ開けるようにして読むつもりだったのに、ついつい、ほかの読書を差し置いて、一気に読んでしまった。

 ――とは云え。
 美味しいお菓子、とぼくは書いた。これは単に褒めるための比喩ではない。そうだとすれば比喩としてなんの面白みもない。ぼくにこの比喩を使わせたのは、全篇通して感じた「美食家」的な嗜好だ。もっともそれは、たとえば小森収が『二百年』で繰り広げたような美食家的態度とは似ても似つかない。そもそも小説を読む者は、大なり小なり美食家であることから抜け出すことはできないし、この『図書館』の主人は、同時にすぐれた在野の研究家である。本書において、氏は小森収が陥ったような嗜好の追求と文学研究の混同、あるいは美食家的態度がもたらすトートロジーの横暴――好きなものは好きだから好き、嫌いなものは嫌いだから嫌い、それがすべてであるような思考停止――を慎重に回避している。けれどもそうして作品を丁寧に並べ、読み、語ることで浮かび上がる「タペストリ」が、最終的にはふたたび美食家的な満足感――美味しい料理をテーブルに並べ、たらふく平らげてしまうような「閉じた」ものに見えるのはなぜだろうか?
 ひとつには、作品を論じるにあたって自分の読みであることを強調する誠実な態度が、繰り返し留保を重ねることで自己満足的な領域へしばしば裏返るからだろう。そしてもうひとつはおそらく、アンソロジーが独特な――良くも悪くも、作品リストだけでは一見してわかりにくい――選定基準=問題意識に貫かれている都合上、来館者との座談会が主人による解説と作品に対する「美味しい」と云う感想が大半を占めることによる。選定基準が明かされるときの驚きや納得は間違いなく快楽であるし、それはミステリそのもののの快楽にも通じるが、けれどその結果どうしても、座談会の場はコース料理をふるまう料理人とそれを味わう客たちと云う図に漸近するのだ。これを美食家的と云わずしてなんだろう。
 もちろんぼくは、だからと云って本書を否定するつもりはない。素晴らしく面白い労作であることは繰り返し書いても書き足りないし、自己満足で、美食家で、いったい何が悪いのかとも思う。個人的な嗜好だって、貫徹すれば信念だ。それに、図書館のなかに優れた作品をアーカイヴする行為はそのまま、本書で論じられるユートピアへの志向に重ね合わされ、その先には高山宏を筆頭とする文化論・都市論が開かれてもいる。そもそもポーからして、そうしたユートピア/都市の作家ではなかったか。
 ただ、ぼくはこうも問えると思ったのだ。
 ――ならば、巽は?

 『論理の蜘蛛の巣の中で』が、すべてを呑みこむかのように周到な手さばきで糸を張り巡らせる評論書だったとしても、それが決して閉じた営みとはならなかったのは、同書が同時代の作家・作品たちを相手にして書かれたことによる。つまり巽昌章がそこでおこなっているのは、気に入った宝石を集めて自らの家に囲い込むような内側への志向/嗜好/思考でもなければ、人里離れた庵から世界を睥睨する外側への逸脱でもない、この世界で、この時代に書かれ、現われ、多様に分岐してゆく作家・作品たちと出会いながらその複雑な力学に身をさらし、絶えず「ミステリ」なるものを編み直しつづける、内と外の切り結びである。
 ぼくは何もここで、新刊に眼を通すべきだと云うつもりはない。ぼく自身、新刊ミステリはどんどん読まなくなっているし、それで良いと思っているし、新刊を読みまくったところでミステリについての思考が開かれてゆくわけではない(かえって巨大で疲弊した「ミステリ業界」に囲い込まれるような気がするし、ぼくが最近、あまり新刊を読まなくなったのはそのためだ)。けれども「ノンフィクション」の章の最後で語られるように《我々はその《宿題》を取りにいかねばならない》のだとすれば、ただアーカイヴを渉猟するだけでは足りないのだと思う。

でも私たちは今何かの崩壊局面に立ち会っているのではないでしょうか? 学ぶべきはむしろ崩壊を見る感性なのかもしれない。それに近代建築が未来を幻視しながらむしろ過去の遺産を読み替えることだったとしたら、あなたは今何に取り組みますか? 結局私たちは、人類の作品と知見というアーカイブを漁りながら不気味な時代と格闘し、ふと気づいたら新しい地平が見えていたというところまで生き残るしかないのです。これはぜひ希望として理解したいところです。
――青井哲人『ヨコとタテの建築論』

 もちろんアーカイヴは重要である。本書は何より『図書館』であり、その編者は云うなれば司書である。いや、館長か。だからこれは館長に対する言葉ではなく、来館者である自分自身への言葉として書く。ぼくは《宿題》を取りに行くだろう。けれどもそれはぼくの宿題だ。そうしてぼくは問うだろう。読むことで問うだろう。書くことで問うだろう。それはつまりアーカイヴから何を引き出すかであり、引き出されたものによってこの不気味な時代――極端な白と黒に塗りわけられて引き裂かれようとするあまり、すべてがグレーに呑みこまれてゆくかのようなこの現在――と切り結ぶことであるはずだ。巽昌章が語ろうとしたことも、そして彼が語った作家たちが取り組んだこともおそらくはそうした切り結びであり、ぼくもまた自分なりにどう切り結ぶかを考えるなかでリチャード・パワーズと出会い、写真や建築、環境と云ったテーマと出会ってきた。来館者はだから、そのようにして各々の問いを持ちながら図書館を訪れ、帰ってゆく。ふたたびこの世界と切り結ぶために。

 ――さあ、あなたも図書館を訪れよう。

note.com


 ――さて。ぼくもまた現代ミステリからは距離を取ってしまったけれど、同時代の書き手たちのなかにもまた、時代と切り結んでいる者がいることは疑いない。巽昌章の名前をあいだに挟みながら交わされた最後の松井和翠-千街晶之往復書簡を読みながら、ぼくはひとりの現代作家を思い浮かべていた。自作を含めたメディアを通して「自己商品化」を目下、飄々とこなしている人物。そのなかで記憶をテーマとすることで「自己隠蔽」を書いている人物。そうして事実と虚構について、正面から問いかけている人物。彼はまた、作品としても「魔術師」あるいは『君のクイズ』と云う《岳葉の友》をものした。
 その名は、小川哲である。

 ――本当はこの続きとして、『地図と拳』を再読した感想が書かれるはずだったが、流石に長くなりすぎるのでやめた。まだ読み終わってないし。次回、自分なりの「切り結び」の実践として『地図と拳』について書けたら良いと思っている(あるいはトークーショーレポ?)。

*1:noteの記事に先行してtwitterで発表されたのは、その年の元日だったはずだ