鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

舞踏会へ向かう/から伸びる幾つかの道

 次に、椅子に座って、きみの背骨にあたる椅子の背を感じてみよう。それに室内の音を意識してみる。そうすることで、心に変化が生まれ、メンタル・モデルが変化するあいだも、きみはこの本を読み、文章を見ている。これらの文章は、紙に載った単なるインクにすぎない。インクが一連のおかしな小さなシンボルを描き出し、その意味がメンタルレベルに伝えられる。そして、きみの理解のフレームワークが変化しているあいだ、きみはこの文章を読んで写真の本質を考え続けている。

――スティーヴン・ショア『写真の本質』


 2023年1月6日に大学ミステリ研で開催した読書会のレジュメをここに転載する。読み上げ原稿をそのまま文字に起こしたような、半ばエッセイです。

はじめに

 小説が自分を射抜く、と云うことがある。この小説は自分のために書かれている、と云うそれは錯覚なのだが、この錯覚は小説を読むと云う行為の本質と関わっているように思われてならない。わたしたちは紙の上のインクに過ぎない文字列から何を読み取るのか。文字のかたまりを言葉として解読しながら、そこではいったいなにが起きているのか?
 小説を読むことについて筆者がよく好んでいる比喩に、小説を楽譜、読書を演奏になぞらえる表現がある。小説はそれ自体では音楽を鳴らさない。音楽を演奏しているのは、その楽譜を読んでいるわれわれであり、われわれが聴いているのはわれわれ自身が演奏している音楽なのだ。この比喩が正しいかぎり、小説を読んでいるのはわれわれであり、その読んでいる小説を(読み取りと解釈を通して)作り出しているのもわれわれであり、そして小説そのものは、われわれのなかにしかない。小説自体と作者、読者の三者は、そこに一致しているわけだ。これは一面では読書を自己完結させてしまう孤独な比喩だが、読書を通じて他者が、場所を越え、時を超え、自分のなかへ流れこんでくるひとつの出会いと云うこともできるだろう。
 本読書会の課題本である『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985年、以下『舞踏会』)は、一枚の写真をめぐる多面的な鑑賞を語りながら、より普遍的で一般的な読むと云う行為――写真論を多少囓ってみればわかるが、しばしば写真にも「読む」と云う動詞が用いられる――を考察する。物理学の観測者問題まで引き合いに出しながらそこで論じられるのは、読む/読まれると云う一方的な関係ではなく、読者自身もまた何かを作り出して読み取られてゆく、相互的で共同的な営為である。
 もちろん、こうした読解もまた、筆者の読んだひとつの『舞踏会』にすぎない。『舞踏会』から引き出され、『舞踏会』へと投げ返される読みはさまざまにあり得、読者ごとに、読む場所、読む時間、読む機会ごとに異なるだろう。そもそもこうした読みがどこまで的を射ているのか。この読みが『舞踏会』そのものであることはあり得ない以上――もしそうだとすれば『舞踏会』本文がそのままここに書かれていなければならない――ここには何らかのズレが生じているはずだ。
 しかし後述するように、そのズレこそが、『舞踏会』を立体像として起ち上げる。『舞踏会』の作者はリチャード・パワーズだが、『舞踏会』を本当に作り出すのはパワーズとわたしであり、パワーズとあなたたちなのだ。まさしく『舞踏会』において、一枚の写真に対しさまざまな解釈がなされるように。
 この小説は自分を射抜いている、とはつまり、そう云うことである。そのとき自分自身も、小説を射抜いているだろう。それは『舞踏会』でザンダーの写真に出会う瞬間に起きていることだ。もしそのような読書を達成できたとすれば幸福だと筆者は思う。そしてパワーズは、そのような読書を喚起する作家である。
 リチャード・パワーズが、彼の作品が好きだと云うひとはおそらくみんな、こう語るのではないだろうか。まるで自分のために書かれているような気がした。

 本読書会の目的は、『舞踏会』を解釈するひとつの読みを提示することではなく、上述したような多様な読みを呼び込むためのいくつかの観点を、註釈ないし補助線として並べてみることである。そこで、第1作にはその作家のすべてがある、と云う使い古されたことわざを逆手に取り、パワーズがのちに書いてきた作品群から補助線を伸ばしてみることにした。
 かつて『舞踏会』を読んだときの筆者同様、おそらく参加者の大半は、『舞踏会』がそもそも何なのか、と云うことがよくわからないはずだ。そこでストーリーやテーマについてあまり細かな解説や批評を加えても仕方がない。そもそも、自分もまだそうできるほど読み込めているわけではない。だからここで筆者が提示するのは、一種の地図である。それは『舞踏会』への読書案内であり、『舞踏会』からの読書案内を兼ねるだろう。一石二鳥と云うわけだ。
 前置きが長くなった。そろそろはじめよう。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』と写真

 あの写真をめぐる、わずかに異なった二つの見方――いわば説明的な見方と、想像された見方――が並んだいま、あとはステレオスコープそのものさえあれば、あの像を、肉付きの備わった三次元のものにすることができる。雪の吹き寄せた闇の街を歩きながら、その機械がはたしてどんな形をとることになるのか私は想像してみた。薄いフィルムに浮かぶ像が、二つの方向に広がっていくのが見えた。一方では過去を貫き、大惨事を抜けて、撮影者と被写体たちとを一堂に会させたあのうららかな日まで。そしてもう一方では、時を先に、はるか先に進んで、あの日の産物が、見る義務を引きうける者(たとえば私)の行く手と交叉する地点まで。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』


 午後遅く、三人の男がぬかるんだ道を歩いている。二人は明らかに若く、一人は年齢不詳。彼らはのんびりと歩く。そこにひとりの写真家が声をかける。写真家の名はアウグスト・ザンダー。ここでザンダーが撮った三人の男の写真から、『舞踏会』と云う小説は過去へ未来へと分岐してゆくことになる。この写真――「舞踏会へ向かう三人の農夫」と云う同題の写真を、さまざまに見ようとすることがその小説の目的だ。小説はそのために一章まるごと使って写真史を繙き、写真論を一席ぶち、あるいは被写体となった三人に名前を与え、物語を綴る。何のために? あるいはその理由を探ること自体が、探究の目的である。
 各章の考察について細かく補足・解説していると膨大な尺になってしまうので――それに、筆者もそこまで読み込めているわけではないので――ここでは、細部よりも全体の構成に触れておこう。『舞踏会』は全27章を、次の3つのパートによって構成している(章の数を3で割った余りでわけた)

  • [3n+1]〈私〉による写真の考察
  • [3n+2]写真に撮られたシュレック兄弟のその後
  • [3n]メイズが写真にたどり着き、フォードの遺産を手にするまで

 これら3つのパートは終盤にかけて収束していくかに見えるが、パズルのようにぴったりと組み合わさるわけではない。[3n+2]はいわゆる「過去篇」のようでいて、「現代篇」である[3n+1]と[3n]にまっすぐ接続されるわけではないのだ。3つのパートはどれが答えとなるわけではなく、どうやら額縁構造らしいと仄めかされてからも、メタレベルでどれが最上位にあるのか判然としない([3n+2]では、むしろ「現代篇」こそ作中作ある可能性が仄めかされる)。三者が互いを相対化し、それぞれの写真に対する視線は一致しない。
 しかし『舞踏会』の主題は、そのズレにこそある。このセクションの冒頭で掲げたとおり、平面的な写真であっても、その像を微妙にずらすことで、立体的な奥行きを起ち上げることが可能だ。三重奏の構造は、この考えを反映している。つまり、[3n+1]と[3n]は[3n+2]と云う過去に対する「説明的な見方」と「想像された見方」をそれぞれ代表している、と云うこと。あるいは[3n+1]から[3n+2]と[3n]と云う異なる読み方が引き出されたとも解釈できるだろう。――ほら、こうして、また幾つかの角度が見いだされた。
 多少なりとも写真史や写真論を囓った身として云えば、『舞踏会』で展開されるひとつひとつの写真論やメディア論、芸術論はいまとなってはかなり素朴に映る。『舞踏会』における写真をめぐるさまざまな言説で見るべきは、だから全体の構造、その仕掛けのほうだ。ひとつひとつのパーツはいささか古びていても、それが構築した装置は読まれることによって駆動する。パワーズは小説によって一種のステレオスコープを作ったのであり、その驚異――平面から立体が起ち上がる――は素朴ではあるものの、素朴であるがゆえに古びていない。

 

囚人のジレンマ』と歴史

「簡単さ」とディズニーは明かす。その無音の、折り目正しい無秩序を避ける道はある。世界は無数の人間ではない。一人、一人、一人、その足し算である。それら一人ひとりが放棄しはじめるまでは、袋小路にはならないのだ。そして、もし彼らが、ほかの人たちの善意とつながりを保つなら、放棄する必要も生じはしない。「そこで私たちの出番なのさ」とアニメーターはあやすように言う。「一人の人生、きみの人生が、それに触れる人生すべてをいかに変えるかを示すんだ。見た目にしたがってではなく、信頼にしたがって歩むかぎり、ゲームをつづける価値があることを証明するんだ」 


――『囚人のジレンマ


 現在から解釈されることによって記述される「歴史」と、物理的な時間の流れのうちで人間や社会を中心として捉えたときに使う表現としての「歴史」が、『舞踏会』では混同されているきらいがある。あるいは両者を接続しようとしているとも云えそうだが、本書を読みにくくしている要因の一つであることには違いない。
 後者の「歴史」を「時間」と読み替えたとき、主題として取り組んでいるのは『われらが歌う時』である。時間は一方向に向かって真っ直ぐに流れているわけではない、とするその時間観は『オーバーストーリー』でも年輪になぞらえて登場しているが、それは要するに小説は時間を超える装置である、と云うことだ。『舞踏会』でも、一枚の写真を通して時間を跳躍するさまが描かれている。
 一方で、現在から解釈される来し方としての「歴史」を主題とするのがパワーズの第二作『囚人のジレンマ』(1988年、以下『囚人』)だ。題材となっているのはパワーズの父、『舞踏会』でもわずかに触れられた、第二次世界大戦における兄弟の死によって人生を変えられてしまった男である*1

 どちらも間違っている。大戦は、遺産と受容の混成物として、前例と合意の組合せとして勃発したのだ。その時期に生きていた人間はすべて、事件の原告かつ遂行者として行動したのである。私の叔父ロバートがやがて第二次世界大戦で戦死することになったのは、そしてその結果私の父の人生が、さらにその結果私の人生も永久に変わることになったのは、一九一八年にナポレオン三世の有蓋車のなかでフォッシュ元帥がマティアス・エルツベルガーに署名させた休戦条約に対し、ヨーロッパの大半が加えた解釈のあり方に起因している。実に多くのことが、経験的な事実と個人的な必要性とを区別することの不可能性から生じているのだ。両者はたがいを創造しあう。作ることと、理解することとが、たがいを創造しあうように。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第十六章

 この歴史観は、歴史を個人の行為によって決まるものとも、不可避な因果関係の連なりとも考えない、個と全をまるごと引っくるめて見なすような云わば生態系的な見方であり、正解の出しようがない迷宮だ。『囚人』で描かれる父親は、この迷宮に閉じ込められてしまった歴史教師である。あるいは、子供たちをその迷宮にさまよわせるミノタウロスか。あらゆる事物を歴史の所産と見なし、自分がどこにいるのか、自分に何ができるのかを考え抜き、教えつづけた父親は、得体の知れない病気におかされてたびたび卒倒する。子供たちは彼を病院に連れて行こうとあれこれ画策するが、肝心なところで見て見ぬ振りをくり返すばかりだ。家族のこうした攻防になっていない攻防を通して、『囚人』はアメリカ中西部の一軒家に戦争を持ち込もうとする。それは時間的にも物理的にも遠く離れている第二次世界大戦と、いま、ここで生きている人間とを接続する試みだ。
 タイトルにもなっている「囚人のジレンマ」とはゲーム理論の用語のひとつで、各々が合理的な選択を取ろうとすると全体にとっては望ましい結果にはならないジレンマをさす。20世紀以降、社会全体がこのジレンマに陥ってしまっているのではないか。全体に対して個人は何ができるか。個人は全体とどのように関係を結べるか。それは『舞踏会』で、シュレック兄弟やヘンリー・フォードたちがぶち当たることになる問題でもある。
 次作『囚人』のこうした内容を踏まえたとき、『舞踏会』が何をしようとしているのか、なぜあの一枚に〈私〉が執着したのかもわかりやすくなる。〈私〉が模索していたのは写真の向こうの三人と、それを見る〈私〉との接続だ。小川哲による文庫版解説でも引用されているが、作中でザンダーが述べる仕事の内容は、そのままパワーズ(=〈私〉)の仕事として読めるだろう。

 ――自動車ってのは、出発点から目的地にできるだけ早くたどり着くためのものだ。わしはそのあいだで起きることを人に見せて飯を食ってるんだよ。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第二十六章

 個人と全体のあいだで何が起きているのか。それは『舞踏会』から『惑う星』まで、パワーズが一貫して取り組んでいる問いである。この問いはやがて「歴史」から「エコロジー」へと姿を変えることになるのだが、その変遷はここでは追わない。ミッシングリンクとして未訳長篇『Gain』(公害訴訟の話らしい)の紹介が待たれる*2

 

『黄金虫変奏曲』と翻訳

 翻訳はかつて述べられたどんな文にも宿っている。何物も、対比、解読、移す行為によらずして、それそのものにはなれない。発話とは隅々まですでに比喩なのだ。

――『黄金虫変奏曲』

 複雑なのは構成だけではない。パワーズは文体もまた、さまざまな分野を横断しながら説明抜きの固有名詞や独特な比喩表現を連発する、凝りに凝ったものだ。英語の原文では関係代名詞や倒置法により文構造はいっそう怪奇的な様相を呈する。個人的に、パワーズは決して難解な作家ではないと思っているものの――ナボコフのように謎かけめいてもいなければ、ピンチョンのように情報の洪水で圧倒することもない――その文章のアクロバットを見れば、間違いなく難読の作家ではあるだろう。
 パワーズの文体はデビュー作からますます複雑さを増していき、第三作『黄金虫変奏曲』(1991年、以下『黄金虫』)あたりでひとつのピークに達する。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」に準えながらある生物学者をめぐるラブストーリーを展開したこの小説では、音楽、文学、科学が互いに参照されながらレトリックの限界に挑むようなめくるめく冒険的文章が繰り出されるのだが、それは決して、いたずらに奇を衒うためではない。いや、奇を衒っているのは事実なのだが、それが作品の主題と結びついているのだ。
 『黄金虫』の主題とは、驚きである。何に対する驚きかと云えば、たった四つの文字から生命と云う混沌として複雑なシステムを作り上げる、遺伝子の仕組み――要するに、翻訳だ。あるものを別のものへ移すこと。それがひたすらくり返されることで、この世界の豊穣が作り出されている。『黄金虫』はこの翻訳を発見することの驚き・喜びを語り上げる小説であり、多分野横断的な比喩の数々は、まさしくこの翻訳に対する比喩なのだ。あるいは、翻訳と云う比喩を多分野へ拡張するための実験。
 事物を別の言葉で記述することは、その事物に豊穣をもたらすことになる。それこそが翻訳と云う営為だ。バンドゥー語にシェイクスピアを持ち込むのではない。シェイクスピアにバンドゥー語を持ち込むのである。

 翻訳とは、移したいという飢えとは、シェイクスピアをバンドゥー語に持ちこむという話ではない。バンドゥー語をシェイクスピアに持ちこむのだ。自家製の文以外に、言語に何が言えるかを示すために。目指すべきは起点を拡張することじゃなく、目標の幅を拡げること、それまで可能だった以上のものを含みこむこと。

――『黄金虫変奏曲』

 こうした試みは何も『黄金虫』からいきなり始まったわけではない。むしろ『舞踏会』から実践してきた文章表現の最も適切な題材が『黄金虫』で発見されたと見るべきだろう。翻訳=比喩が単純な文字から豊穣な世界をつくり出すのは、その移す=写す過程でさまざまなズレを生じさせるからだ。出発点と目的地のあいだで、あらゆるものは姿を変えている。一枚の写真からは、さまざまな鑑賞が引き出される。『舞踏会』の奇を衒ったような表現やまったく別分野の専門知識・固有名詞を持ち込む語りもまた、『黄金虫』同様、主題の反映だ――世界の見え方をほんの少しでもずらして、立体的な像を起ち上げるための試み。

 

『ガラテイア2.2』と技術 

 彼女は知りたがった。人間が自然発火で死ぬことはありえるのか。ドアの下からもぐりこませた手紙が絨毯の下にもぐりこんでしまわない可能性はどれくらいか。イシュメールの実名は。この「読者」とは誰か、そしてなぜ彼は誰が誰と結婚したのを知っているとみなされるのか。財産を持っている紳士は本当に妻を娶る必要があるのか。プラムツリーの肉缶詰がない家庭とはどんなものか。あらゆる神話を解く鍵を手に入れるにはどれだけの時間がかかるか。魚の息子とはどんな恰好をしてきるか。トービー叔父さんはどこに怪我をしたのか。その静かな大地に眠る者たちのことを想って夜も眠れないような人間がいるのだろうか。コンラッドは差別主義者か。なぜ『ハックルベリー・フィン』が図書館からなくなったのか。卵のどっちの先端を割るのか。なぜ人間は読むのか。なぜ人間は読むのをやめたのか。「ただの小説」とはどういう意味か。割れたロケットの半分にどんな用途があるか。なぜ力のかぎり生きようとしないことが間違いなのか。

――『ガラテイア2.2』


 自動車と云う工業製品はわれわれから距離を奪い、写真と云う複製技術は本物をめぐる概念に揺さぶりをかけ、近代兵器と云う殺戮機械は戦争を全世界的な破局へ至らしめる――。技術が人間に何をもたらし、何を奪うのか。フォードやベンヤミンを引き合いに出しながら考察される文明批評は、『舞踏会』のもうひとつの主題である。
 幾何級数的に発展してゆく文明のなかで、技術が人間を、社会を、変容させるのは避けようがない。しかしそれでも、人間が自律的に生きられる余地は残されているはずだ。とくにデトロイトの工場――人間を歯車のように交換可能な部品として支配してしまう生産ライン――から出発して、自動ピアノによる演奏へとたどり着く[3n+1]の章では、人間と技術の共同が模索されている。このパートの、わずかに残されたストーリーと云える部分で中心となるのは実のところ写真の分析ではなく、ある老女との出会いがもたらす、写真と云う複製技術への人間的な解釈だ。老女と写真、そして自動ピアノとの関係には、技術が発達してもなお残る人間のあり方が描かれている。

 機械的に複製された音楽は、キーボードを操る人間の能力を補足するのではなく駆逐してしまうのではないか、そう今日の人々は懸念する。たしかにやがてはそうなるかもしれない。が、二人で足を駆使してペダルを動かし、手をキーの上で丸めて名演の錯覚を得ていたミセス・シュレックと私の心には、そんな思いはこれっぽっちも浮かんでいなかった。私たち二人にとっては、編集の手を加える余地もまだまだたっぷりあると思えた。ロールを選ぶ、トップをセットする、スタイルを決め送風のスピードを決める……。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第二十五章

 パワーズの第五長篇『ガラテイア2.2』(1995年)では、『舞踏会』の[3n+1]同様にパワーズ自身が語り手となって、AIと対話するにとなる。重要なのは、作中のAIが小説を「書く」のではなく、小説を「読む」AIだと云うこと。AIに文学を教えながら、パワーズは読解とは何なのか、コミュニケーションとは何か、思考し、苦悩する。AIはどのようにして読むのか――それはそのまま、人間はどのようにして読むのかを、見返して問いかけてくる。云い換えれば、読むと云う行為に残された人間らしさを。
 AIの発達著しいこんにち、上記の引用で語られる「余地」はどんどん削られているように見える。もちろん、AIもツールとして使われるかぎり、どうやって結果を生むのか、生まれた結果をどう使うのか、そこに人間が存在することは可能かもしれない。逆に云えば、そこに人間の生きられる余地を残すことが、考えられうるAIとの繋がり方だ。
 しかし、作品を追ってみれば、パワーズは技術に対する人間側の退却を確信しているように思われてならない。『オーバーストーリー』のラストでは人間に代替わりするものとしてAIのシンギュラリティが仄めかされ、『惑う星』では環境破壊の結果として人類の滅亡が予感される。何もかもがフォードの生産工場となった地球上で、人間が生き残る場所はもうないのだろうか?

 

『われらが歌う時』と家族(あるいは、音楽)

 祭司は記録を塗り替えようとしている。しかし、それも聴衆に助けられてだ。私たちは宙に挙げた手を振る。私たちは手に握りしめた金を渡す。赤の他人と抱擁し合う。歌を歌う。そして、このクラシックの素養があるヴァイオリニストが私たちに告げる。「家に帰りなさい。家に帰ってこの贖罪を成就しなさい。生まれ変わった姿で、家に戻りなさい」終わりとは、やはり、過去に起きた、そして、これからやってくるすべての過去において起きることになってしまっていた、不発の、燦然たる自己再創造と同じだった。家。他に行く場所が残されていない時に、私たちが戻らなければならない唯一の場所。

――『われらが歌う時』

 写真に撮られた三人の男たちは、パワーズと云う作者=鑑賞者によって、シュレック兄弟と云う名前と関係を与えられる。三人が兄弟らしく言葉を交わし、顔を揃えるのは『舞踏会』においてはぬかるんだ道の上だけだ。ザンダーが撮った彼らの写真は、最初で最後の家族写真であり、遺影でもある。知的な仕掛けや思索が前面に出てしまう本書だが、その知性が向けられるのはあくまで、歴史のなかで姿を消した三人の兄弟だ。はじまりへと帰ってきた第二十六章でアドルフが口にする感情は、そこまでの膨大な思索に裏打ちされているからこそ痛切に響く。三人がこれから向かう舞踏会が何なのか、われわれ読者はよく知っている。そこで彼らを襲うさまざまな悲劇も。しかし、それでもなお残るものがあることも、ここでは語られている。『舞踏会』はだから、そうして受け継がれた記憶――すなわち家族史の小説とも云える。
 もっとも、それは安易な家族賛美や、保守的な血統主義ではない。そもそもシュレック兄弟の三人は互いに血の繋がりがない。第五章で語られているとおりシュレック家の来し方はかなり複雑で、その行く末も含めると、欧米の歴史に丸ごと組み込まれている。欧米では多くの場合、家族史とは移民史なのだ。『舞踏会』ではそのようにして、個人と、個人のスケールを超えた歴史とが接続される*3

 家族と云っても、他人は他人だ。しかし逆に云えば、他人同士であっても、家族と云う枠組みのなかで繋がりを持てる。この絆――もちろんネガティヴな意味も含んでいる――を、パワーズはしばしば題材としてきた。『われらが歌う時』(2003年、以下『われら』)で描かれるのも、亡命ユダヤ人の父とアフリカ系黒人の母とのあいだに生まれたこれまた三人きょうだい(兄、弟、妹)の家族史である。差別に拒まれる過去と公民権運動に揺れる現在とを振り子のように行き来しながら、そこでは家族の崩壊と再生に、アメリカを分断する人種差別問題の悲しみと希望が重ねられる。
 同じ場所に生きていながら、どうして一緒になれないのか。まったく他人同士なのに、どうして一緒になれたのか。『われらが歌う時』においてばらばらになった家族を繋ぐのは、その表題からわかるとおり、母が託し、父が愛し、子供たちに授けられた音楽である。音楽は誰も救わない。音楽は何も解決しない。それでも音楽は、まったく違う音同士から、豊かな和声を生むことができる。それは掛け値無しに、希望ではないだろうか?
 『舞踏会』へ立ち返ろう。一枚の写真と出会った〈私〉の旅は、自動ピアノの演奏へたどり着く。反対に、メイズの旅のはじまりは、あまりにうるさくてばらばらの粒子になったパレードの音楽だ。そして舞踏会へ向かうシュレック兄弟は、音楽を聴き取る。それが聞こえなくなっても、今度はペーターが歌い出す。帰っておいで、帰っておいで、帰っておいで。『われら』ほどには主題でないけれど、三つの異なるパートがそれぞれ異なる音を鳴らしながら、そのズレによってこそ立体的な響きを生むと云う意味で『舞踏会』は実に音楽的だ。

 

『エコー・メイカー』と反響

 本から顔をあげた時、ウェーバーは粉々に砕け散る。守るべき全体は残らない。堅固な実在は網目となって火花を散らす細胞だけだ。ウェーバーは畑でスキャン装置が示唆するものを間近に見た。自分の脳幹に今でも載っている古い親類が、つねに輪を描いて戻ってきて、蛇行する川のほとりへ降りてくる。ウェーバーはまごつきながらその事実のほうへ進んでいく。あらゆる思考で壊され作り直されて。それもまた消えてしまう前に、誰かに話しておく必要がある思考。

――『エコー・メイカー』

 鳥の群れが舞い降りる。たくさんの、別個の生き物たちが、しかし見えない繋がりを結んで、大いなる全体を作り出している――。リチャード・パワーズの小説を読むとき、筆者の脳裡に浮かぶのはそんな光景だ。実際にそれが描かれる『エコー・メイカー』(2006年)だけではない。他人同士、ひとりひとりが、世界と云う網目のなかにいる。パワーズの小説はそれを描き、それ自体がそのようにして書かれているのだ。これまで表現を変えながら繰り返し述べてきたことではあるが、ここでは「それ自体」と云う点に注目しておこう。ポイントは「エコー」だ。
 9・11の悲劇を引き摺るかのように、『エコー・メイカー』はパワーズ作品のなかでも群を抜いて仄暗く、静かで、痛ましい物語である。交通事故で脳機能に障害を負った弟は、姉を姿形がそっくりの偽物だと思いこむ。話の通じない、別人に成り果てた弟の面倒をそれでも見ようとする姉。しかも、事故が単なる事故ではなかった可能性が浮上する――。出口が見えず、掴み所のない、謎に満ちた不穏な物語に、鳥の群れが飛来する水辺をめぐっての環境問題と同時多発テロ以降の不安と分断が深まるアメリカが覆い被さってくる。
 『エコー・メイカー』では、怪我によって断たれてしまった脳細胞のネットワークと、事故によって壊れてしまった家族と、テロによって引き裂かれてしまったアメリカと、破壊によって脅かされる生態系は相似をなしている。さながらフラクタルのように小さなスケールと大きなスケールが響き合うこの構図は、それ自体が脳機能の似姿だ。ほかにもさまざまな相似・類似を根拠としながら、黒原敏行は脳をテーマとする小説それ自身を一つの脳として構成していると指摘する*4。しかし、小説はあくまで文章の集まりに過ぎない。これを脳として機能させているのは読者自身であり、エコーは読者の頭のなかで響いている。そして読者自身もまた、網目のなかへ身を投じることになる。
 小説の構造自体が小説のテーマを反映している。云い換えれば、小説それ自体についての小説。この自己言及性は、『舞踏会』ですでにこう語られている。

 逆説的なことに、超進歩はやがて、静止と化す。過去三十年において世界はキリスト以降の年月以上に変わった、という命題はいまだに真である。いまだに真だということは、ペギー以来何も変わっていないことになる。社会的文化はおのれの尻尾を口にくわえ込み、ベンゼン環を形成した。芸術はいまや芸術自身を主題かつ内容としている。絵画についてのポストモダニズム、作曲をめぐる十二音技法、フィクションに関する構成主義小説。さらに言うなら、世紀はそれ自身についての世紀、歴史についての歴史となった。それは静止した、折衷主義の、あまねく自己反映的で、均一に多様な閉じた円環であり、新星出現につづいて宇宙空間に生じる均質的な残骸である。この世紀にあっては、何かが起きればかならず、何か同時に別の出来事が生じてそれと結びつき、共謀してひとつの全体を形成せずにはいない。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第七章

もちろん、この文章自体も、次々と別の分野を重ね合わせ、共謀してひとつの全体を形成せずにはいない。自己言及性はパワーズにとって小説の書き方そのものであるらしい。現代のための現代となった現代にあって、そのエコーに支配されることなく、自律的な人間として、かえってエコーを用いていかなる表現が可能かを模索する――パワーズはずっと、その実験を試みているように思われる。

 

『幸福の遺伝子』と記述

「簡単なことです」耳を傾けるすべての人に向かって、世界中のタッサ・アムズワールが声をそろえる。「私たちはもっと良くなる必要などありません。私たちはすでに私たちだ。そしてすでにある全てのものは私たちのものです」

――『幸福の遺伝子』


 小説に何ができるのか? パワーズの文学的実践を、括って折りたたんで押し込めてしまうと、そうまとめることができる。――もっとも、それを問わない文学があり得るだろうか? 重要なのは自覚的であるかどうか、だ。多くの小説がその根源的な問いを回避するか、抽象的な言葉でくぐり抜けるなかで、パワーズは自覚的に、真剣に取り組む。
 しかし、ともするとそれは、自壊へ突き進む挑戦だ。どう云うことか。
 あらゆる発話は比喩である。あらゆる記述は翻訳である。何かを書くと云うことは、どうしたって事物をずらしてしまうことだ。そのズレがもたらす変化を祝福したのが『黄金虫』だったとすれば、そのズレにとことんまで苦悩したのが『幸福の遺伝子』(2009年)である。かつて他人のことを書いたせいでひとを傷つけ、以来書くことができなくなった作家は、悲惨な過去を生き延びながら幸福を振りまきつづけるひとりの女性と出会う。彼女の幸福は遺伝的要因ではないかと推測されるが、であるならばそもそも、幸せとは何によって決定されるのか。国中を巻きこんだ議論にまで発展するその問いは、記述の不完全性と云う意味で、作家自身の苦悩と接続される。われわれは遺伝子によって記述されているのか。意識は神経細胞の発火に過ぎないのか。そうでないとしたら、あらゆる記述をすり抜ける現実は、どのようにして捉えられるのか。そもそも、現実とは? 虚構とは? 『幸福の遺伝子』が取り組むのはこの答えようのない問いであり、その語りには袋小路に突き進むような痛ましさがある。
 真実の記述不可能性については、『舞踏会』でも写真やジャーナリズムを通して考察されているが、そこでの態度はどちらかと云えば楽観だ。記述は常に現実からはずれていく。なんとなれば、観測者の解釈抜きに成立する事実はあり得ないからだ。
 しかし、そうした解釈――それによるズレ――がもたらす豊穣を無邪気に享受してもいられない。『舞踏会』が発表されたあとに世界を覆ったインターネットの網目――文字通りに、ウェブ――は、有史以来最大の言葉を氾濫させ、現実と虚構をめぐる状況はまるで変わってしまった。そしてますます発展してゆく生命科学は、遺伝子の翻訳に手をつけ、生命の記述を改変しよう目論んでいる――。
 では『舞踏会』の考察はもはや時代遅れなのか? いささか素朴だったとは云え、筆者はそうとは思わない。結局のところ、記述以外の記述はあり得ないならば、記述しつづけるしかないのだから。重要なのは、そこに真摯な読者がいるかどうかだ。『舞踏会』が求めているのは、一枚の写真をじっくりと見つめ、考えをめぐらせる鑑賞者である。と云うか『舞踏会』は、写真の内容そのものではなく、写真を見ることについての小説であり、『舞踏会』自体も、記述された内容以上に、それを読んでもらうことが眼目にある。

 明らかにグリフィス公園で撮られたシーンに我々がなぜ心を動かされるのか、ここにようやくその説明が見出される。我々はフィルム上の出来事に反応しているのではなく、自分の心のなかにおいて同時進行で編集している無数のリールに反応しているのだ。言い換えれば、我々自身の希望と恐怖から成る映画に我々は反応している。グリフィス公園、ヴェルダン、人けのないパリの街路、ぬかるんだ道に立つ三人の農夫――それらよりも、自分を巻き込もうという機械的決断、場面を作り直し物語を拡張しようという決断の方が、より大きな意味を持っているのだ。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第十九章

記述を機能させるのは常に読者側なのだ。戦場がグリフィス公園になってしまうことに作者が苦悩するとしても、読者が自覚的に小説へと参加する限り、作者の袋小路も回避できるだろう。

 パワーズの小説にはしばしば、真剣に問題と――多くのひとがそれを回避するか、そもそも問題として考えない問題と――取っ組み合ったばかりに、自己破壊的なプロセスへ至る者たちが登場する。『幸福の遺伝子』の語り手、生命の真理を知ろうとしてアカデミアから姿を消した『黄金虫』の生物学者。社会や音楽に本気で身を捧げる『われら』の兄妹。次のセクションで取り上げる『オルフェオ』の主人公もそうだ。『舞踏会』のフーベルトを思い出しても良い。
 パワーズの小説は、そのプロセスを辿った挙句に姿を消した者たちへ共感を寄せる。なんとなれば、彼らはパワーズの似姿だからではないだろうか?
 柴田元幸による訳者あとがきによれば、パワーズは『舞踏会』を書くために全力を注いだ。そうして小説の可能性を模索した挙句に、小説としての読みやすさはわきに置かれ、以降も答えのない問いに突っ込んでゆく。だからパワーズ自身も、苦悩する彼らに含まれるように思われてならない*5
 とは云えもちろん、この読みはパワーズ本人の人格を云々するものではない。ここで、と云うかこのレジュメで語られるリチャード・パワーズとは、筆者の心のなかで回転するリールのなかのリチャード・パワーズである。

 

オルフェオ』と人生

 説明はとてもできなかった。生命。四十億年にわたる偶然が想像を絶するほど複雑な楽譜を書き、生きている全ての細胞に刻み込んだ。そして全ての細胞は同じ第一テーマの変奏で、果てしなく分裂し、自己を複製して世界中に広がったものだ。何ギガバイトもある長さの連鎖が皆、待っている――オーディションを受け、複写され、アレンジされ、いじられ、同じ楽譜が組み立てた脳によって増やされるのを。人はその媒体(メディア)を使って作業することができる。自由奔放な形式と新鮮な響き。永遠のための音楽、そして誰のためでもない音楽。

――『オルフェオ


 拡張され、同時に収縮してゆく世界に、言葉が撒き散らされる。『幸福の遺伝子』以後、パワーズの小説では、登場人物の言葉がメディアを通じて拡散されるシーンが必ず書きこまれている。それは『舞踏会』の結末で、メイズが試みることに通じるだろう。そのとき言葉と云うそれ自体がメッセージであるメディアは、生命そのものに重ねられている。
 もっとも、こうした拡散はテロへと転化し得る現象だ。『オルフェオ』(2014年)で主人公となる老いた作曲家エルズが企むのは、そうした危うい芸術だった。彼は家で細菌を培養していたことからバイオテロの容疑をかけられて逃亡することになる。道中で回想されるのは、決してうまくいかなかった彼の人生だ。科学から音楽への転向。愛する人との出会い。友人との決裂。さまざまに期待されながら、ついに応えることのできなかった作曲――。それらカットバックされる過去と、その過去へ再会してゆく現在とのあいだに、アフォリズムめいた音楽論が挟まれてゆく。なぜ彼はここへ至ったのか。そのときそのときに彼が下した決断が、いま、ここへと彼を連れてきて、また新しい決断を迫る。それは彼自身を記述する、と云うことでもあるだろう。そして読者は、その記述を読むわれわれもまた拡散に侵されていることを知る。

 『黄金虫』との対応が特に顕著だが、『オルフェオ』は過去のパワーズ作品の語り直しと云う側面がある。もちろんそれは、怠惰な再生産ではない。家族、生命、科学、音楽、そしてメディア。これまで自分が主題としてきたものを、別の角度で見直して、再構成する。そうして立体的に起ち上がるリチャード・パワーズと云う像は、彼が小説によっていったい何をなし得たのかを問いかけるだろう。

 一つひとつの行為を通して、我々は自分の伝記を書く。私が下す決断一つひとつが、それ自体のために下されるだけでなく、私のような人間がこういう場合どのような道を選びそうかを、私自身や他人に示すために下されるのでもあるのだ。過去の自分のすべての決断や経験をふり返ってみるとき、私はそれらをつねに、何らかの伝記的全体にまとめ上げようとしている。自分自身に向かって、ひとつの主題、ひとつの連続性を捏造してみせようとしている。そうやって私が捏造する連続性が、今度は私の新しい決断に影響を与え、それに基づいて為された新しい行為一つひとつがかつての連続性を構成し直す。自分を想像することと、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の気質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第十六章

 

『オーバーストーリー』と抵抗

 本は、孤島に生きるフィンチのように容易に変化し、広がりと多様性を持っている。しかしそこには共通する中核部分があり、それはあまりにも見え透いているので当然の前提と思われている。最後に重要となるのは、恐れと怒り、暴力と欲望、驚くべき〝許し〟の能力と結び付いた憤怒──品性──だと、誰もが思っている。もちろん、それは子供っぽい思い込みだ。創造主が、連邦裁判所の判事のようにいつか一人一人に裁きを下すと信じる段階から一歩進んだだけのこと。満足のいく物語と意味のある物語を取り違え、生命を大きな二本足の生き物と思い込むのが人間だ。だが違う。生命ははるかに大きな規模で動員されるもの。そして世界が今行き詰まろうとしているのはまさに、小説が世界をめぐる戦いを魅力的に──失われた少数の人々の間の争いと同じように──描くことができていないからだ。しかしレイは今、誰よりも虚構を欲している。英雄、悪人、そして今朝、妻が語り聞かせてくれている端役たちの話は真実よりも優れている。彼らは言う。私はにせものだ。私が何をやっても世界は変わらない。でも、私は遠いところからこの電動ベッドの枕元までやって来て、あなたの話し相手となり、あなたの心を変える。

――『オーバーストーリー』


 再びこの問いに帰ろう。小説に何ができるのか? ひとつには、拡散だ。『オルフェオ』のエルズが生命と音楽を通して試みたように、『舞踏会』のメイズが手紙を送るように、パワーズは小説を通して、小説そのものを蒔く。小説が世界を変えることはないかもしれない。しかし、小説はいま、ここにいる、あなたを変えることはできるかもしれない。どのようにして? ――あなたがこの小説を読むことによって。
 では、そうして蒔かれた種子は、どのように実るのか。
 パワーズ作品の登場人物たちは、ほとんどの場合、退却を決定づけられている。彼らが取り組むのは答えのない問いであり、変えようのない構造であり、抗いようのない圧力だ。彼らは引き裂かれ、打ちのめされ、歴史の記述から姿を消す。しかしそれでも、それぞれの信念を持って彼らは立ち向かう。それでもなお、と。パワーズの小説がもたらすのは、この抵抗である。どれだけ笑われようと、どれだけ潰されようと、それでもなお、希望を持ちつづけること。それ自体が希望だ。
 『舞踏会』は20世紀と云う解決困難な問題に、それでもなお、と抵抗する者たちの小説であり、小説自体がその実践である。第十五章、メイズがサラ・ベルナールの伝記劇を見に行くエピソードでは、[3n]のパート、ひいては『舞踏会』が語っているものを明かしている。他人から切り離された存在はありえない。しかし、ここで注目したいのはそのあと、一見さり気ない会話だ。

 彼女は死の床は演じなかったし、臨終の言葉にも触れなかった。暗くなっていく舞台の上で、単にもう一度、しばしば唱えてきた自前のモットーをくり返しただけだった。“Quand même”――でも、どうしても。それでもなお。
 休憩時間に入って場内が明るくなると、アリソンはひどく興奮していた。
 ――これ、すごい。これこそあたしが言おうとしてたことよ。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第十五章

 アリソンの興奮には、パワーズの声がオーバーラップして聞こえる。でも、どうしても。それでもなお。この言葉は三十年後、森林破壊とそれに抵抗する者たちを描いた『オーバーストーリー』(2018年)でも変奏されることになる――STILL。じっとして、それでもなお。ここまで紹介してきたパワーズ作品を貫くのは、こうした抵抗の意志だ。
 小川哲は云う。パワーズはたったひとりで、そして彼にしかできないやり方で、文学と、そして世界と戦った。*6しかし、筆者はこの表現に修正を、自分なりの書き換えを施したい。パワーズはたったひとりではない。なんとなれば、ここには読者がいるからだ。『舞踏会』は極めて内省的な作品だけれども、それを読むことは内省を会話へと押し広げる。読者がそこに参加することで、小説は変貌し、読者もまた変貌している。

 私にはプリントしかない。というより、プリントを根拠づける権威はプリントしかない。大事なことは、ミセス・シュレックが、消え去る前に、私がプリントを見る見方を永久に変えてくれたことだ。私の物語をここまで読み進めてくれた読者もみな、同じことを言う気になることを私は願う。誰かがじかに共謀すること、誰かが通訳となり敵側協力者となることによってのみ、過去に隠された生存のコードを我々は拡げることができる。眼を喜ばせる形には行動の処方箋が書き込まれている。眼の喜びこそ、眼自身をもっともよく語っているのだ。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第二十五章

 あるいは、メイズの物語の到達点を思い出しても良い。他人から切り離された存在はありえないパワーズも、われわれも、ひとりきりで小説を書くことはできないし、ひとりきりで小説を読むこともできない。

 モーズリーの机の周囲の植物バリケードががさごそ動いて、葉のあいだのすきまから、当の稀有な種が顔をのぞかせた。メイズのまわりじゅうに――このすぐそばにも、町の向こうの「トレーディング・フロア」にも、さらにははるか遠く、安価で入手容易なハロゲン化銀に対して以外二度と開かぬであろう十年のなかのぬかるんだ道にも――あの何より捉えがたい、あまねく執拗に在りつづける、つねに外からの助けを必要としている、〈仲間(ジ・アザー・フェロー)〉がいるのだった。

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第二十七章

 パワーズの小説の登場人物たちは、退却を決定づけられている。しかし彼らは仲間を得る。友人、恋人、家族、同志。呼び名はなんであれ、たとえ彼らが敗北を喫したとしても、その繋がりは残りつづけるだろう。

 

『惑う星』と世界

 森の中で何かが呼んだ。それは鳥の声でも、私が聞き覚えのある獣の声でもなかった。その声は闇を貫き、大きな川の音をものともせず響き渡った。苦痛なのか喜びなのか、何かを悲しんでいるのか祝っているのか、わからなかった。ロビンはぎくりとして私の腕をつかんだ。私は何も声を発しなかったが、彼は私にシッと言った。さらに遠い場所から、再び叫び声が聞こえた。別の声が別の反応を引き出し、でたらめな和音が重なり合った。
 それから声が止まり、夜は別の音楽で満たされた。ロビンは私の方を向き、さらに力を込めて腕をつかんだ。彼の顔は月明かりに照らされていた。あらゆる生き物は体が感じるように作られているものをすべて感じる。
 聞いて、あれ、と息子は私に言った。そして次に彼が口にした言葉は、決して色あせることなく、決して消え去ることがない。僕たちすごいところにいるよ。信じられる?

――『惑う星』


 STILL。じっとして。それでもなお。自分を押し流そうとする時代の濁流に抗って、自分の足で立ちつづけること。『舞踏会』から三十年以上、短くない旅の先でパワーズがたどり着いた境地は、『舞踏会』から何も変わっていないようにも見えるし、『舞踏会』から大きく変貌しているようにも見える。少なくとも、移民と移動の歴史を書いた『舞踏会』と、種子が芽吹いたその場から動かない森林を題材にした『オーバーストーリー』は、一見すると正反対だ。しかし、樹木はその場で動くことなく絶えず変化している。同じ瞬間は二度と返ってこない。『オーバーストーリー』で、久しぶりに題材として取り上げられた写真と云う装置は、じっとしたまま枝葉を繁らせる栗の木の成長を、タイムラプスで撮りつづける。
 あるいはこう考えてみよう。樹木から発される種子は、動物や風に搬ばれて、遠くまで移動する。これを繋がりのひとつとする生態系と云う巨大な網目は、地球と云う惑星全体に張りめぐらされている。全体では動かなくとも、全体は変化をつづけているのだ。
 宇宙全体で考えたとき、地球は孤独だ。一方で、地球のなかにいる人間は孤独ではない。そこには豊穣な世界があり、人間もその網目に加わっている。けれども、人類はその豊穣に気付かないようだ。地球にいるのは人間だけだと思いこんで他者を破壊し、網目自体を引き裂いていく――。
 『オーバーストーリー』が抵抗の書だったとすれば、『惑う星』(2020年)は諦念の書である。主人公となるのはひとりの、繊細な少年だ。彼は絶滅してゆく動物たちに心を寄せ、絶滅に瀕したこの世界を憂う。そうして心が壊れかけていた彼は、ある実験を通じてこの世界の豊穣に気づくことで、仲間を得て、いっとき癒されるかに見える。しかし、周囲へとその祝福を振りまく少年を、分断と破壊のシステムは逃がさない……。中心にあるのは、ひとりの少年の心と云う、極小の、それでいて巨大な世界。
 ある意味で、パワーズはずっと変わっていない。しかし、その作品はずっと同じことを書いているようで、その都度、変化をくり返している。同じことをさまざまに観点を変えながら語ることで、悲観と楽観、希望と絶望が絶えず入れ替わってきた。
 『惑う星』で描かれるのは、ある親子の悲劇だ。それをパワーズはなんとか救おうとしているが、抵抗はいままで以上に敗色が濃い。
 その理由を、パワーズの変化と捉えるか、この世界の変化と捉えるか。
 しかしいずれにせよ、パワーズは常に、いま、ここにいるわれわれを射抜いている。出口の見えない感染症との戦い、深刻の度合いを増す環境問題、加熱するナショナリズム、災禍、戦争、格差、それらを置き去りにするごとく加速度的に成長するAI。『惑う星』の暗さが反映しているのはこうした現代の不穏である。先が見えない不安。あるいは、『舞踏会』の結末近くで帰ってくるはじまりで語られた、もっと素朴な感情。

 ――ペーター、僕たち、痛い思いするかな?

――『舞踏会へ向かう三人の農夫』第二十六章

 パワーズは変わったかもしれない。しかし、少なくとも彼はずっと、この不安へ、助けを求める声にならない叫びへ、手を差し伸べてきた。小説は世界を救わないとしても、それでもなお、と。



おわりに――「メジャーズ滝へ」と読書

 きみはまたその本を読む。もちろん、最後までは読まない。最後まで読めるものなんて、きみにはひとつもない。

――「メジャーズ滝へ」


 最初にリチャード・パワーズの小説を読んだのは3年前、2019年の秋だった。半年後に世界が様変わりしていることなど想像もしていなかった頃だ。しかしそれより前、2018年の夏にも一度『舞踏会』へ挑戦している。本書が文庫化され、小川哲の解説と云うこともあって手を取った直後だ。
 しかしそのときは、読めなかった。多分野横断的な語りはあちこちへ跳んでしまう散漫な語りに思えたし、20世紀と云う暴力の時代や写真と云う複製技術にもまだ関心を持てずにいた。そのときはザンダーの名も知らなかった。確か彼について記述する第四章あたりまで読んで、ずっと放置していたように思う。
 読み直したきっかけはよく憶えていない。『オーバーストーリー』が刊行されたからか。あるいは、いまなら読める、と云う根拠のない確信を抱いたからか。いずれにせよ驚いたことに、ぼくはこの小説を一気に読めた。一度も止まらずに、数日で。かつて読みにくいと感じた文体はこれこそ理想の文体だと思えた。相変わらず何が語られているのかはきちんと理解できていなかったけれど、何か凄いものを、自分にとって大事なものを読んでいると云う確信がぼくを推し進めた。
 読み終えたとき、自分のなかの何かが変わった、と感じた。

 何が云いたいのかと云うと、読書会の最初に戻る――小説に射抜かれる、と云うことだ。この小説は自分のために書かれていると云う霊感めいた確信。ここまで長々と語ってきて、その錯覚こそパワーズ特有の性質であることをなんとか説明しようとしてきた。
 けれども、結局のところ、自分のことばかり語ってしまったような気がする。読書会の参加者諸氏――つまり、この文章の読者――には、付き合ってもらって申し訳ない。そして、どうもありがとう。
 このセクション冒頭で引用したのは、パワーズの未訳短篇である。ある女性(作中では「きみ」)が、古本屋で一冊の本を手に入れる。その小説『メジャーズ滝へ』は、決して面白いわけではないし、文学的価値が高いわけでもない。しかしそれでも、彼女はその小説に、人生のなかで何度も立ち返ることになる。
 おそらく彼女もぼくと同様に、この小説は自分のために書かれたと云う確信を持ったのだろう。それはまったくの錯覚だ。しかし、それは幸せな錯覚だ。
 彼女は一生かけて一冊の本を読み、ついに読み終えることができない。何度読んでも、そこに書かれていることは変わっているように思える。なんとなれば、小説の評価も、時代も、彼女自身も変わっている。けれどもそれは、ほかのどんな読書よりも豊穣ではないだろうか?
 彼女にとっての『メジャーズ滝へ』が、ぼくにとってのリチャード・パワーズになるだろう。そんな錯覚がある。

 この読書会に参加したあなたもまた、自分にとっての『メジャーズ滝へ』を見つけられることを願ってやまない。

www.newyorker.com

*1:『囚人』の内容を踏まえると、「叔父」は「伯父」と訳すほうが正確だろう

*2:第六長篇『Gain』ほかに、パワーズの未訳長篇は第四長篇『Operation Wandering Soul』と第七長篇『Plowing the Dark』が残っている。今回の読書会では、未訳だからと云うより未読だったため触れられなかった。とくに評価の高い『Operation~』に触れないのは、子供と云うパワーズを語るにあたって外せない要素が主題となっているだけに避けたかったが、仕方ない。英語が難しすぎる。なんだよあれ。

*3:『囚人』以降で描かれる家族はどちらかと云えば核家族的で、大きなスケールを展開するのは『われらが歌う時』くらいである。しかし『オーバーストーリー』では、原点に立ち返るようにして長大な家族史=移民史が綴られた。家系図は樹形図だ。あちこちに伸びてゆく家族の歴史は、樹冠を豊かに繁らせる

*4:『エコー・メイカー』(新潮社)の「訳者あとがき」より。筆者のパワーズ理解も、黒原によるこの解説に多くを依っている

*5:同じような思いを、エラリイ・クイーンに対しても抱く。彼――彼ら――もまた、袋小路へ突き進んだ作家だった

*6:『舞踏会』文庫版解説より、同書の帯や書籍紹介にも引かれている小川哲の評。この解説はそれ自体がエコーを作り出すパワーズ的実践によって書かれており、作品解説として正直、申し分ない。『嘘と正典』の文庫版解説も、これくらいできたら良かったのに。