鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/07/30 米澤穂信『可燃物』

「仕方がありません。それが、私とあの子が払う代償というものでしょう」


 ストイックな短篇集だ。定規やコンパスで作図された幾何学模様を思わせる。謎があって、解決がある。その抽象的な運動のために、ぎこちないほどに淡々とした文章と、警察小説の体裁が用いられる。いわゆる警察小説と聞いて想像する生きた人間たちの職場と云うよりは、ここで描かれる警察は、捜査するための装置に近い。彼らは粛々とデータを揃え、探偵役たる警部が安楽椅子探偵同然にデータを検討し、ある発想に至って、急転直下の解決を迎える。衝撃の真相や派手なサプライズはどこにもない。ぼくは中学の頃の図形問題を思い出す。与えられた情報からわかることを積み上げてゆく。知りたい情報から天下り式に知るべき情報を検討してゆく。それでもあと一歩、飛躍が必要になる。考える。補助線を引く。解ける。ざっとそのようなものだ。
 しかしもちろん、小説は抽象的な図式ではないし、定規やコンパスにも揺らぎはある(実のところ使用しているのは手一本、フリーハンドだ。小説とはどうしようもなく、手によって書かれるものでしかない)。何より、点Pも三角形ABCも、点Pや三角形ABCではなく、人間である。警察組織は生きている人間からなり、事件は生きている人間が起こす。そして、事件が終わってからも人間は残る。
 けれども捜査は捜査である。謎の解決は謎の解決以上を意味しない。図式からあぶれたものは突き放されるほかない。そうして突き放されたものが、苦い、と云うよりもいっそ、厳しい読後感を残す。