鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/08/13~2023/08/21 髙村薫『マークスの山』ほか


 大事な試験を間近に控えてどきどきしてきたので気を紛らわすためにブログを更新する。マストドンで投稿したものを再録したので基本的に短い。読書メーターのヘビーユーザーだった高校生の頃を思い出す。院試前にしては小説を読みすぎている、と云うあなたの疑問はもっともだが、テキストやノートを頭に詰め込んでいると言語野が活発になって心身ともに言葉で支配されてゆく感があってかえって読書が捗るのかもしれない。いや、正直に云おう、これもまた気散じなのだ。それなりに余裕を持って準備していたので隙間に夏休みを満喫しているとも見ることはできる。

有栖川有栖『白い兎が逃げる』

生きていくということには、どうして切れ目がないのだろう?

 中篇集。やはり謎解き小説は、100枚以上くらいのボリュームがいちばんだと思う。好ましく思ったのは「比類のない神々しいような瞬間」で、ネタそのものは作者も認めているとおり賞味期限があるけれど、ダイイングメッセージの解読が別物へ化ける発想は褪せていない。クイーンから引いたタイトルも洒落ている。犯人も被害者も予期しなかった、なるほどこれはクイーン的な、超越的幕切れだ。表題作は、ともすれば時刻表検討に終始するアリバイ崩し――そもそも何をどう崩せば良いのかも判然としない――を、跳ねまわる兎のイメージでまとめ上げる。やりすぎな感もあるけれど、イメージの威力は馬鹿にならない。犯人は何に追いついたのか。犯人は何から逃げていたのか。探偵もまたそれを追いかける。

 

コーマック・マッカーシー『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』

わかるか? おれがおまえの人生の中に登場したときおまえの人生は終わったんだ。それには始まりがあり中間があり終わりがある。今がその終わりだ。もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。だがそんなことを言ってなんになる? これはほかの道じゃない。これはこの道だ。おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでるんだ。わかるか?

 ずっと読んでいたいと思うような小説があってこれはそうした傑作のひとつだ。俯瞰することなく細かい記述を積み上げながら決して冗長になることなくむしろ寡黙なくらい研ぎ澄まされた文体は思いがけないところまでゆく。ところで『越境』では気にならなかったのだけれど読点を可能な限り排除したこの訳はつるつると滑るようでしかしだからこそ血腥い暴力から透徹した哲学へとシームレスに繋がるのかもしれない。ところどころ無理を感じたけれどね。澄み切った小説だと思う。暗闇の黒は澄んでいるから。

 

法月綸太郎法月綸太郎の功績』

本当はここも老人ホームの一室で、頭が白くなった退職刑事と元推理作家の老父子が、そうとは知らずに、脳内タイムスリップの一幕喜劇を演じているだけかもしれない。少しちがうけれど、クリスチアナ・ブランドの小説のように。突飛な想像だとしても、まんざらありえない話ではないだろう。人間の脳というやつは、思いもよらないことをしでかすものだから。

 中篇集、うち2篇は再読。「風通しのいいカジュアルな本格」とあとがきにあるように、謎の生起と解体、そのロジカルな過程に眼目がありつつ、ミステリの仮想的な空間に閉じこもることなく、人びとの暮らす世界に開かれている。結果として、いかにもパズラーと云う仕立てのなか、理屈っぽいディスカッションやアイデア先行の趣向が支配しているにもかかわらず、犯人や被害者は駒として処理されることなく、ひとりの人間として立ち現れる。逆に云えば、彼らが推理小説の図式に回収され、理屈や発想のなかに押しつぶされてゆくところに悲劇が見出される。「イコールYの悲劇」なんて、ダイイングメッセージの検討からともすればネタすれすれの発想を見せつつ、最後に現れるのは人間を呑み込むもっと大きくて理不尽な構図だ。そのほか、謎解きの向こう側に新たな物語が作り上げられる「都市伝説パズル」の幕切れ、最後のピースが埋まることでドミノ倒しに謎が解かれてゆくパズル的快楽がままならない情念を浮かび上がらせる「縊心伝心」、作者も無理筋と云っている通り合理性に欠けた発想ながらだからこそ合理や心理を超えてくる〝地図〟の発想がなるほどボルヘス的な「ABCD包囲網」、発想が本末転倒であることでかえって密室の抽象性が際立つ「中国蝸牛の謎」。「縊心伝心」の、自分たちはもしかするととっくに老いていて、これは耄碌した脳の見せる幻想ではないかと考えるくだりは本書の象徴的な一節だろう。セクシュアリティへの言及とかは読むに耐えない古さもあるけれど、全体としてはかなり満足できる出来。

 

髙村薫『マークスの山

 山とは何だろう――。水沢や《マークス》の男たちを狂気に駆り立てた山は、学生時代から登山を嗜んできた合田には、当初から避けがたく自身の身体の記憶や感情を呼び覚ますものだったが、それはなおも止まなかった。山に登ると、日常の雑多な思いは面白いほど薄れ落ちてゆき、代わりに仕事や生活や言葉の覆いをはぎ取られた自分の、生命だけの姿が現れ出る。凝縮され、圧延され、抽出され、削ぎ落とされてゆくそれは、自分でも驚くような異様な姿をしているのが常だったが、その体感は一言でいえばこの世のものでない覚醒と麻痺だった。登り続けるうちに鼓膜が耳鳴りを発し、皮膚は寒さを感じなくなり、筋肉や心臓の苦痛が陶酔になる。その麻痺が、ほとんど死に向かう爆発や開花のようになる。ザイル一本で天空にぶらさがった身体に満ちる歓喜は、生命の最期を待ち望む一瞬に近く、底雪崩の轟音に耳をすます身体の鈍麻は、おそらく死そのものの鈍麻に近かった。その異様な一刻一刻が、或る強烈な心地よさと解放感に変わる瞬間があった。

 いかに闇深く見えたブラックボックスも、蓋を開けてみれば男たちのちんけな保身と庇い合いにすぎない。逆に云えば、それだけのことが権力と身分によって複雑な網目のうちに守られてしまったことで、公正や司法だけでなく、男たちの人間性さえ蝕まれた。《法律という絶対に、権力という触媒を混ぜて生身の細胞に沁み込ませたら、壊死を起こして無機物になる》――上巻のささやかな、しかし印象的だった台詞が事件の底を象徴している。《マークス》とはそうして人間性を失った暴力の名であり、事件は《マークス》によるひとつの報復と見ることもできる。けれどもそんな見方では、犯人でもあり被害者でもある水沢の、メモ書きに残された僅かばかりの人間性が浮かばれない。彼は結局なんだったのか? それには合田たちも、小説自体も答えかねたまま、答えのない山のなかへ飲まれてゆく。この強烈な犯人像ひとつが、大きな山に対峙しえている驚き。いわゆる「ウェルメイド」なサスペンスではなく、水沢と云う強烈な犯人を扱いかねたまま、彼とともに深い山のなかへ分け合ってゆくような緊張があった。肝心のところを手記で済ませる思い切りは、妥協とも見えるけれど、こうでなければ書きえないだろうとも思う。そこで語られる《マークス》の盟約に、追いかける合田たちの情念が対置され、両者の網目を振り切るように、あるいは取りこぼされるように孤独な水沢が何よりも強い印象を残す。