鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/03/03 北山猛邦『オルゴーリェンヌ』

0.
 ミステリ・フロンティアで刊行された直後に読んで以来だから8年ぶりの再読になる。そのあいだずっと好きな小説ではあったが、しかしオールタイムベストとして挙げるには自分のなかに呑み込めていない感がずっとあった。一度すれ違っただけのあのひと、同じクラスになった直後に転校したクラスメートとか、どう云うわけだか家を訪ねたことがあった友達の友達とか、潰れた写真館の前で雨宿りしているところに話しかけた異国の友人とか、それだけのひとが忘れられない印象を残すことは一般的に云ってしばしばあり、彼らが何者だったのか時を経てようやく知る、それが乱暴な云い回しならば自分のなかで文脈づけられる、比喩的に云えばあの頃のユーゴスラヴィアで何が起きていたのかこの歳になって知識を持って異国の友人とのあいだに橋を渡すようなことは感動的であると同時に少し寂しい。しかし、それが成長と云うものだろう。わたしもあなたもすでに少年ではないし、少女でもない。
 以下、結末に触れる。


 

1.
 文庫版の解説で「異世界ファンタジー」と述べられているように、北山猛邦の設定する終末世界は往々にして、幻想的・童話的・退廃的な世界の構築――要するに現実から離れるための雰囲気作りの一環として読まれてきた。『オルゴーリェンヌ』も例外ではなかっただろう。それは決して誤読ではないし、片山若子のイラストがよく似合う幻想的で童話的で儚くそれでいて底知れず暗い本書の雰囲気は、非現実的なまでに大胆な物理トリックや歪なまでに突飛な動機を小説のなかのリアリティラインへ組み込むことに貢献している。しかし、そこで貢献しているのはあくまで「幻想的で童話的で儚くそれでいて底知れず暗いその雰囲気」であって、終末世界そのものではない。それどころか『オルゴーリェンヌ』において、終末の設定は片山若子風の雰囲気を壊しかねないほどに、一定の現実性を持って設定されている。
 どう云うことか。『少年検閲官』から『オルゴーリェンヌ』へと続く連作の舞台は、書物の所有が一切禁じられているディストピアだ。その管理体制が構築された背景には、長引いた大戦と地球温暖化による海面上昇と自然災害がある。つまり回復不可能なレベルで壊れてしまった地球がまずあって、検閲のシステムは避けられない終末を穏やかに過ごすために構築されたと読んで良いだろう。誰もが人類文明の終焉を確信している。終末とディストピアは本書において不可分に、独特に結びついており、管理体制は敷かれていても監視機構は決して厳格ではない。まずインターネットが奪われている。検閲官たちが用いる技術も無線やレーダーがせいぜいで、『1984年』でイメージされたような未来社会からはほど遠い。管理社会自体も衰退のままに壊れつつある、自滅を待つばかりの世界。それは21世紀も20年を過ぎた現在から見て、かなり実感の持てる終末観ではないだろうか。戦争の火種は燻るどころか燃えさかり、気候変動がゆっくりと、あるいは急速に、人類から生存の可能性を奪ってゆく。グローバリズムを実現してくれるはずだったインターネットはむしろ分断と格差を深めるばかりで、冗談交じりであれ「インターネットをやめろ」と云う声は、どこか切実な叫びに聞こえてならない。
 『オルゴーリェンヌ』を8年ぶりに再読したときまず注意を惹いたのは、こうした終末の設定だった。それは現実から離れるための装置どころか、9・11を象徴として始まる21世紀において、リアルな肌感覚の反映だった。もちろんフィクショナルに設定され、曖昧に流されているところは多分にあるのだが、そうして曖昧なままにただ終わりだけが抽象的に、漠然と予感されている時代の不安は、いま、ここに生きている自分と響き合うものだ。

「それならば、我々を取り巻く環境がどれくらい深刻なものか、実体験として知り得ているだろう? どうかね。我々の未来は輝かしいかね」
「希望はあるかもしれません」
「どんな希望があるというのだね。いずれここも海に沈む。ここが沈んだら次の海墟が沈み、また次の海墟が生まれる。その海墟もいずれ沈むだろう。そうしてすべてが沈んでいく。我々人類の時代は終わるのだよ。これはもう誰にも止められない。希望など皆無だ」
「けれど都市の人たちは、何とかしようと考えているのでしょう?」
「彼らは何も考えてはいない。ただ自分たちがどうやって生き延びるかだけを考えている。住んでいるところが沈むのなら、今より高いところに行くだけだ。もちろん学者は、現在地球で起きていることについて、少しは頭を悩ませているかもしれないがね。しかし所詮、地球の歴史から見れば人類の存在など、一瞬の火花だ。地球は単なる自然現象を繰り返しているに過ぎんよ。凍ったり、融けたり、吹いたり、燃えたり。それだけのことなのだ」

 長い、それ自体がひとつの物語であるプロローグで交わされるこのやり取りは、なぜオルゴールを作るのかと云う問いに答えてのものだ。オルゴールは人間の手で作られ、人間の手で演奏せずとも音楽を鳴らす。それは何もかもが失われてゆく世界にあって、自らが生きたこと、美しいものを作ったことを刻みつける人間の意志の表れだ。テッド・チャンの「息吹」を思い出しても良い。あるいは、太陽系外まで飛んでゆく二機のボイジャーを。それに載せられた金の円盤を。

2.
 オルゴールと云う自動装置は、連鎖を開始すれば自動的に連続殺人を遂行する作中の物理トリックと重なる。建物それ自体が殺人装置と化し、密室を作り、オルゴールとして音楽を奏でる「王国最後の密室」はその極地だろう。精緻な歯車から構成された、人工的で冷たい、しかしひとの手によって作られているからこそ美しさ/怖ろしさを与える装置。
 そしてオルゴールの比喩は、捜査装置として育てられた少年検閲官・エノや、殺人装置として育てられた義手の少女・ユユについても云える。機械は心を持たないのか? ユユは自らを《犯人》として受け容れるほかないのか?
 しかし、クリスが云うように、ユユは決してオルゴールなんかではない。エノもまた、何も考えない機械ではない。もちろん人間は究極的に云えば化学的に再現可能な物質へ解体できる、ただ複雑なだけの代謝装置にすぎないかもしれない。ミステリはしばしば、人間の、世界の、そうした唯物論的な側面を暴き立てて利用する。書物はしょせん紙束に過ぎないと云うように。けれども、それでも、オルゴールが美しい音楽を奏でるように、人間は生きることができる。
 音楽はオルゴールそのものではない。ユユはオルゴールではないし、エノはロボットではない。
 『オルゴーリェンヌ』はそうして心の不在証明を暴く一方で、最後に残るのは形あるものでしかないことにも触れる。音はすぐに消えるがオルゴールはいつまでも残る。物語は忘れられても文字によって刻まれる。そして、ひとりの女性の命はオルゴールへと分解され、組み立てられ、愛が音楽になる。

『親愛なる友人へ
 私が彼女を音楽にしたように
 君が私を物語にしてくれ  キリイ』

 キリイのしたことをクリスは肯定しないだろう。しかし『オルゴーリェンヌ』と云う小説があることは、彼が恩師を物語として分解し、再構成してみせた証しにならないだろうか。その危うさは、ミステリそれ自体の非倫理性を含め、依然解決されていない。しかしそれでもクリスは書くはずだ。
 なんとなれば、人類が滅んでもなお最後に残る物語は、文字として書かれたものだけなのだから。

3.
 カリヨン邸の主人クラウリがオルゴールを作らせていたのも、同様の信念だった。もっとも、彼のそうした信念は犯罪との出会いによって歪んでゆく。彼を狂わせたガジェットは、検閲に対抗するためつくられた、それもまたオルゴールに通じる記録であり、記憶だ。たとえ死を扱っているとしても、文字通りにミステリの叡智の結晶であるそれは、美しくひとを惹きつける。
 とは云え本書は、その美しさとは何か、と云う話でもある。
 クリスが死体を見ても取り乱さないのは、幼い頃から自然災害でそんなもの見慣れているからだ。それはあまりに悲惨な「慣れ」ではないだろうか? エノが中盤で投げかけるミステリについての問いは、「ひとの死を娯楽にするのか」と云う散々叩かれ尽くした批判に留まらないテーマを含んでいる。
 つまり、人類の絶滅を前にしてなぜミステリを書くのか/読むのか。

「『ミステリ』では人が死ぬ。人が死なない『ミステリ』もあるが、ほとんどは人間が奇妙な死に方をしている。串刺しにされたり、バラバラにされたり……それは忌むべき物語だ。だがどうして昔の人たちは、『ミステリ』を書き、『ミステリ』を読んだのだろう。どうしてそれを喜んで受け容れたのだろう。人が殺されると嬉しいから、『ミステリ』を読むのではないのか? もっとたくさん、人が死ねば、君たちは喜ぶのではないのか?」
「現実ではこれ以上屍体なんか見たくないよ。それに『ミステリ』は『ミステリ』だよ。あくまで小説なんだ。本当に人が死ぬところを見て喜ぶ人間なんて、いるはずがない」
「それならどうして『ミステリ』などというものが存在したんだ」
「エノはわからないの?」
「わからないな」
「確かに、ほとんどの『ミステリ』では人が死んでいるかもしれないよ。残酷な殺され方をしているかもしれない。それでも、『ミステリ』の中で、それらの事件はほとんど解決している。それは名探偵がいるからだよ。彼らが忌むべきものを排除するからだよ。その姿がかっこいいから、美しいから、みんなが『ミステリ』を好きになるんだと思う」
「それは君の理想だろう」

 クリスの掲げる理想は、たとえば『蒼海館の殺人』で提示される《ヒーロー》としての名探偵に近い。あるいは「スイス時計の謎」で語られる、壊れてしまった世界で生き延びる手段としての虚構の秩序。しかし現実にはそんなもの存在しない、と云う一線において、クリスの願いは切実だ。そして『オルゴーリェンヌ』には、事件を解決する者はいても、名探偵は存在しない。多重解決の趣向のもとで、それぞれが推理する真相は物語として相対化される。
 その上で信じられるものこそ、「信じること」それ自体にほかならない。
 それは陳腐な結論だろうか? しかし、この、まさにこの、希望のない世界で手を取り合う少年と少女が「信じること」をやめるときこそ、本当の絶望ではないか?

4.
 クリスたちの物語は道半ばだ。クラウリもキリイも大人として自分の人生を結論づけて逝ってしまった。しかし彼らはこれからも、この終末世界で生きていかなければならない。そして、ここまで一貫しているかのように書いてきた本書の終末観も、キャラクターごとに異なっている。そもそも小説はあらゆる結論を相対化してゆく装置でもある。結論を急ぐべきではないだろう。

「なあ、君たちの出した答えは本当に正しいのかい? 焦って結論を急いでいるんじゃないか? ゆっくり話し合う間もなく逃げ続けてきたんだろう。何がどう絡まって、こんなことになっているのか、きちんと自分たちで理解しているのかい?」

 重要なのは、何もかもバラバラになって相対化されてゆくなかで、濁流に呑まれないように、自らを知り、自らの足で立つことだ。エノが機械ではなくなるとすれば、自分で自分のことを考えられるようになったときだろう。ユユがクリスたちと合流するのは、彼女が自分自身を受け容れられたときである。そしてクリスはこれからも、自分の目指すもの――書き手としての自分自身を探して旅を続ける。彼らのそうした道行きは、自分探しなどと云う陳腐な云い回しでは表現しきれない切実な旅だ。
 しかし少なくとも、その旅はきっと孤独ではないし、絶望ではない。そうだろう?

 

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