鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/03/12~03/20 ロバート・ダーントン『検閲官のお仕事』ほか

 全体的にコメント短め。もう3月終わるってマジ?

ロバート・ダーントン『検閲官のお仕事』(みすず書房

東ドイツ国家の中枢で行き交ったメモからは、検閲が検閲官の活動だけに留まらないことが見て取れる。検閲は文学のあらゆる側面に浸透し、著者の内心や、著者と編集者との最初の打ち合わせにまで及んでいた。フォルカー・ブラウンは一九八三年に『小説ヒンツェ・クンツェ』の草稿を中部ドイツ出版社の編集者に渡すのに苦労している時、自分のために走り書きしたメモの中で、検閲の性格をこう定義している。「このシステムはひとりでに機能する。このシステムが検閲をする」。

 何かを読み、書く、と云うことは決して読者と作者との一対一で完結するものではない。書き手は何かを読むなり聴くなりすることから書くことを開始するし、書かれたものが読者に届くまでのあいだには、読み手でもあり書き手でもある編集や校閲などが介入しており、出版されてそれを手にする読み手もまた実のところ最終地点なんかではなく、読み手は売り手になったり書き手になったりする――。書物はこのような読む/書くの複雑なネットワークのなかで流通しており、検閲のシステムはそれぞれの結節点において、常に具体的な読み/書きの干渉として作用する。ならば表現の自由もまた、このネットワークのなかで具体的に実践されなければならないのだろう。抽象的・観念的に検閲/表現の自由を考えるのでは実際的な議論にならない――と云うか、抽象的で観念的ななにがしかが具体的な書物の読み/書きのなかに埋めこまれてゆく過程にこそ気を払わねばならないと思わされた一冊。たいへん面白かった。

 

カルロ・ギンズブルグ『裁判官と歴史家』(平凡社

裁判官の道と歴史家の道とは、一度は一致しながらも、つぎには避けがたく分かれてゆく。歴史家を裁判官に還元しようとする者は、歴史叙述的認識を単純化し貧困化してしまうことになる。が、しかしまた裁判官を歴史家に還元しようとする者は、正義審判権の行使を取り返しがつかないほど損なってしまっているのだ。

 ここでもまた、抽象と具体が問題になる。と云うか次に読んだ『事件』でも語られているように、裁判とは抽象的な観念やルールが、具体的な事物へと適用されてゆく場なのだ。抽象と具体のせめぎ合うそこで、俎上に載せられるのは人間の意志と行動である。ギンズブルグが友人のかけられた裁判について論じた本書はその大部分が裁判記録の批判的な検討に割かれ、そのためにかえって裁判官と歴史家の比較と云うもうひとつの目的がわかりにくくなっているものの――歴史家が本書でおこなっているのは、裁判官の分析ではないだろうかと思うし、そもそも裁判官の論理が概念の運用以前のところで破綻している――そもそもこの不公正が、人間ひとりの意志と行動を大きく抽象的な論理のなかに埋めこんでしまうような裁判と歴史の取り違えにあると云うことか。本書を通して浮かび上がる言説空間としての裁判は、そこでひとりの人間が裁かれていると云う点において、ひどくおそろしいと感じる。この本を、そして『事件』を読むまで、そんなことを考えもしていなかったと云うことにも、また。

 

大岡昇平『事件』(創元推理文庫

検事の冒頭陳述も論告も、彼の弁論も、要するに言説にすぎない。判決だけが犯行と共に「事件」である。殊に最近のように、地裁、高裁、最高裁と、さまざまな裁判所で、さまざまな判決が出される現状においては、――しかもおのおのの裁判官の人格、またその時々の身体的精神的状況によって影響されるとすれば、「事件」となる。制定法はそれが制定されている故に正当である、という古い同義反復的観念は、未だに払拭されていない。しかしその正当性が、一人の人間による決定という可変的要素と結び付いているとすれば――いや、すべての制度による決定は「事件」ではないか、と論理が進展した時、菊地は自分の頭がおかしくなったのではないか、と思った。

『裁判官と歴史家』が裁判を題材として抽象的なほうへ議論してゆくとするならば、『事件』は裁判に関わったそれぞれの具体的な人間を語ってゆく。あるいはこうも云えるだろう。事件は判決として抽象化してしまうがゆえに、それぞれの生と死はある種のブラックボックスとして残されてしまう、と。過去には決してたどり着かない。人がひとを殺す、その一瞬には。ちょうどこの二冊を読む前に、映画『落下の解剖学』を見て、と云うかその映画を見たからこの二冊を読んで、真実へたどり着くことへの途方もない遠さに、ちょっと打ちひしがれる思いがした。確かに『事件』では、裁判の進行につれて、意外な事実が明らかとなる。けれどもそれは真実を詳らかにすると云うよりは、過去を知ると云うことの難しさを、人が人を裁くと云う手続きそれ自体のままならなさを意識させるのだ。真実はずっと遠くにあって見ることはできず、そのずうっと手前にあってわれわれは、言葉でしか語ることができない。事件とはその言葉のことであり、小説は中心にある一点のブラックボックス――少年の心――よりもむしろ、それを取り巻くコンテクスト、環境のほうを眼差しているように思われる。あるいはそれを、風景と呼んでも良い。