鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/02/05~02/11 カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』ほか

有栖川有栖『長い廊下がある家』『妃は船を沈める』(光文社文庫

「いい心掛けだ。力余って尻餅を搗くようなスイングは見ていて気持ちがいいからな。もっと大きなものをひっくり返してくれ。有栖川有栖ならできるだろ。マジックじゃなくて、イリュージョンが見たい」

――「長い廊下がある家」

「なんて不思議な推理でしょう」目が虚ろだった。「砂の上に築かれた楼閣なのに、ちゃんと建っているように見える。建つわけないのに。あなたは、どこからでも、どうやってでも、解いてしまうんですね」

――「残酷な揺り籠」

 連続して読んだので、まとめて感想を述べる。『白い兎が逃げる』同様、光文社文庫の新装版で読んだ。と云っても、内容としてはあとがきも解説も旧版から再録しており、変化と云えば巻末の著作リストと表紙くらいのようだ。けれども表紙の変化と云うのは馬鹿にならない。帽子や靴、手袋と云った小道具が前面に出される落ち着いたトーンの表紙は〝モノから語る〟と云う探偵小説のある種の技法を思い起こさせる。探偵は残されたモノ――死体、現場の証拠、繰り出される証言――から、過去に何が起こったのかを推理するのだ。モノは事件の痕跡であるがゆえに過去へと接近するための手がかりであり、ゆえに探偵小説はモノから語られる。この点を踏まえているのかどうか、いずれにせよ小道具から構成された一連の新装版表紙はぼくにとって探偵小説の真ん中を象徴するものであったし、それは同時に、有栖川有栖と云う作家をも象徴する。なんとなくミステリが読みたいな、と思ったとき、彼の小説は必ず期待に応える――大好き、と云うほどでもないのについ読んでしまうのは、そのまっすぐさゆえだ。
 もっとも、まっすぐであることは陳腐であることを意味しない。歴史家ではなくあくまでも犯罪学者である火村が殺人者と正面から対決する「ロジカル・デスゲーム」において、事件は火村の目の前で、火村自身を当事者として進行するし、あるいは「猿の左手」において重要な手がかりとなるのは事件と直接的な関係のない短篇小説の読解だ。小説家は新たな趣向を試みては手堅くまとめ上げる。もっともその挑戦を支えているのは、マンネリを脱すると云う撤退的な意志ではなく、思いついたことを実践してみたいと云う素朴な好奇心ではないか。そしてそれもまたこの作家の、まっすぐさと云うべきだろう。この点において、アイデアの実践が画的なインパクトをもたらし、見えていた景色が文字通りがらりと反転してしまう「長い廊下がある家」を、個人的にはもっとも面白く読んだ。ただ事実を説明しているだけであるのに妙な不気味さを与えるタイトル――『妃』の解説でも触れられているが、有栖川有栖はタイトルがうまい――や、かなり無理やりな舞台装置を《神よ、地の底でさまよう者を救いたまえ》と云う祈りによって作品の象徴に落とし込んでしまうあたりも流石のわざだ。
 けれども一方で、そうしたまっすぐさがもたらす残酷――人間をモノへとおとしめてしまう残酷を、有栖川有栖は自覚している。そのバランス感覚はときとして説教臭いと感じないではないが、たとえば作中で地震を起こす「残酷な揺り籠」において、そうした自覚はじつに良く発揮されていると思う。

 

カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』(みすず書房

歴史家たちは(そして、様式こそ異なれ、詩人たちも)万人の生の一部をなしているものを職業としている。わたしたちがこの世に存在するということのプロット〔筋立て〕をなしている、真実のものと虚偽のものと偽って真実であると見せかけているものとの絡み合いを解きほぐすというのが、それである。

 藤原辰史先生の講義を受けていることはここでも何度か書いているが、そこで紹介されたいくつもの歴史書のなかで紹介されたのがカルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』だった。同時期、たぶんそれよりすこし前だったと思うが、同じく講義で紹介された『記録を残さなかった男の歴史』を読みながら、探偵小説における探偵の仕事は、手がかりから過去に起きたことを起ち上げると云う点で歴史家に漸近するのではないか*1、と云う旨のツイートをしたらフォロワーからギンズブルグを薦められた。そんなわけでギンズブルグを読みたいな、と思っていたところに、『糸と痕跡』と云うどんぴしゃりなタイトルを見つけて手に取った次第だ。何が「どんぴしゃり」か。今年のはじめに読んだ『ラインズ』で、ティム・インゴルドが分類していたふたつのラインこそ、それ自体が独立した線としての〝糸〟と、表面に残された線としての〝軌跡〟すなわち痕跡だったからだ。線はこのようにして延びて、絡み合う。ぼくが手繰るのは、そのような糸だ。
 そしてギンズブルグが本書で論じるのは、そのような糸――《わたしたちが現実の迷宮のなかに入っていくのを手助けしてくれる物語の糸》――と、残された痕跡との関係である。

 ギリシア神話によると、テセウスアリアドネーから一本の糸を贈られたという。その糸でテセウスは迷宮に入っていき、ミノタウロスを見つけて殺す。しかし、テセウスが迷宮をさまよいながら残した痕跡については、神話は語っていない。

 正直なところ、本書を読んでその関係を把握できたとはまったく云えない。文学作品から過去を探ること、あるいは物語的な叙述と歴史叙述との関係を論じる本書自体、引用には慎重にならざるを得ず、結果としてその文体は磨りガラスを何枚も重ね合わせながらそれでもなにがしかを見定めようとするようなもどかしさと複雑さがある。読めば読むほどそのガラスには指紋がべたべた貼り付いて、過去はますます遠ざかるような気がする――。具体的な仮想敵や論争の文脈、実践のあり方をまるで把握しないまま読む本ではなかったと反省させられた。それでも最後まで読んだのは、くねくねと折れ曲がりながら文献と文献のあいだを往還して織り上げてゆく、著者の筆致が読んでいるうち、面白くなってきたからだ。数頁ほどは声に出しさえした。
 ――それはたぶん、これがぼくの文体と近いからではないか。
 歴史学についてなにがしか読むたび思い知らされるのは、何枚もの磨りガラスを隔てたその叙述はいかにも曖昧で、実のところわれわれにとって、過去とはひどく不確かなものであると云うことだ。けれどもそれを云うならば、あらゆる学問がそうである。われわれが手にできる確かな手がかりのなんと少ないことだろう。しかし「ほとんど」不可能であることは、「まったく」不可能であることを意味しない。真実とはなんであるのかと云う問いをいたずらに相対主義へとうっちゃることなく、真実を記そうとする営みに巻きこんでゆくこと。ギンズブルグの思想も実践もまだまだわからないと感じるが、とりあえず読み続けようと思った。この手応えはそう、ちょうど昨年、『生きていること』を読んだときのそれと通じている。こちらのほうが断然、手探りだけれど。

*1:もっとも、それでも両者が一致しないところにミステリをミステリたらしめるものがある、と思っている