鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/09/14~10/12 石牟礼道子『苦海浄土』ほか


 この一ヶ月くらい、『蒼鴉城』原稿と『苦海浄土』にかかりきりであまり本を読めていなかったが、一ヶ月ほどまえの感想を放置するのもどうかと思うので更新する。『蒼鴉城』に書いた作品のほうは現在朱入れ校正中で、来月にはお目にかけられると思います。久しぶりにこう云うのかいたな、と云う小説です。『苦海浄土』はカモガワGブックスの企画用。こちらは原稿の締切が近い。はい、書きます、今週中には……、いや、しかし、この本を「レビュー」しろって……、ううむ。
 感想はいずれもマストドンで書いたものを再掲した。

打海文三ハルビン・カフェ』

また、事件の記録からなんらかの教訓を導き出そうという考えを、本書はとらない。過去と現在の間には断絶があり、両者は基本的に不連続である。それがリアリティというものだ。相互に関連のない断片の散らばりにすぎないものを、いちいち意味づけて、一貫した枠組みのなかに収めようという欲望を、本書は拒否する。現在を生きる人々にとって、過去とはentertainmentである。まずは愉しんでほしい。

 難民が押し寄せ、大陸マフィアの跋扈する日本海沿岸の架空都市を舞台に、主として警察内部の暴力的な抗争と隠微な企みを描き出し、その背後にひとりの男の肖像を浮かび上がらせる。解説ではハードボイルドと紹介され、あらすじからはノワールっぽい印象を受けるけれど、人間を、言葉を刻みながら組み上げてゆくその精緻な構成から、読んでいて想起したのはル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』だった。丸ごと呑み込めたとはとても云えず、ディテールを把握するにも忍耐と記憶と思考を要する(白状すれば、中盤は情報を処理するのを諦めていた)。エピグラフ原広司を引いていることからも明らかな通り、都市を描きながら、それ自体が都市であるような小説。ハードボイルド小説における都市を眼差す一人称をひっくり返し、無数の三人称から都市をつくりあげる。途方もない。

 

山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき:庭園の詩学と庭師の知恵』

庭は変わり続け、文はつねに遅れている。

 京都のとある庭がじっさいに造園される過程を取材したレポートだけれど、多くを語らない職人の意図や、彼を取り巻く人びとのやり取り――交わされる言葉、調整される身体――そして置かれてゆく石と植えられる植物について丹念に分析することで、フィールドワークはさらに広く、普遍的な〝製作〟を論じてゆく。何が驚くって、ここで語られていることは、造園ひいてはランドスケープデザインについて以前から持っていた興味と、小説についてぼんやり考えていたことを結びつけ、補強し、訂正し、調整し、より先へと示してくれるものであり、まるで最初からすべてが意図されていたかのようだ。しかし本書で分析されている通り、石の造形や配置は最初から意図されてデザインされたのではない。むしろ石をさまざまに並べるなかで、意図は遡行的に現れる。まるで自然に、石が求めるかのように。ものをつくるとはそのようなことか。

 

東浩紀『訂正可能性の哲学』

家族は観光客でつくられる。家族は誤配で生まれ、訂正可能性によって持続する。それがぼくの考えだ。/これは抽象的な理論であるとともに、きわめて具体的な記述でもある。ぼくたちは家族をつくる。その過程で、思わぬひとと出会い、思わぬひとと結婚し、思わぬ子どもをつくる。あるいは思わぬ別れや死に直面する。なにひとつ予想どおりのことなどない。家族や人生の運命なるものは、遡行的にさまざまな訂正によって、いってみれば捏造されたものでしかない。誤配と訂正の連鎖こそが、現実の人生の特徴である。

 読書会の課題本。わたしたちが参加を強いられているこのゲームのルールは固定ではない。新たなプレイヤーやさまざまな出会い・別れによってルールは遡及的に「訂正」される。それは開かれた社会とも閉じた社会とも異なる、柔軟で持続的な社会ではないか。「家族」の捉えなおしから始まって、ウィトゲンシュタインアーレント、ルソー、ドストエフスキーへ。東はぜんぜん読んでこなかったのだけれど、『動ポモ』の頃からずいぶん変わった印象を受けたし、その変化を自分なりに受け止めた結果が本書であるようにも思う。ひとは一回限りの人生を生きていて、その路程はまったく予想がつかない、だから観念だけ、思想だけ、ルールだけではやっていけない、と云う、さまざまな思想以上に自身の経験から来るのだろう実感には多分に頷けるところがあった。ただそう云う割には思想の話をずっと検討するのと、「訂正」と云う言葉を広く捉えながらその字面に引っ張られすぎている感があって、煙に巻かれた印象もある。
 ところで、自然は遡行的に再構成されると云う後半の議論は『庭のかたちが生まれるとき』に通じていると思った。図らずもと云うか、これもまた遡行的に再構成された必然と云うか。『訂正可能性』も、古典の読み直しだけでなく、ああした具体的な観察や経験を踏まえてもらえると読むほうとしても実感を得られたのではないか。正直云うと仮想敵や危機感が、現実の問題をどこまで的確に捉えられているのか疑問が残った。あくまで自分がフィールドとしてきた「哲学」をやるぞ、と云う信念の問題かもしれないが。

 

石牟礼道子苦海浄土

かつて一度も歴史の面に立ちあらわれたことなく、しかも人類を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた。もっともやわらかな情念の世界に生まれ育ち、他にむいて、ひけらかして語る文化的用語を持たず、いかなる情報社会にも深層においては無縁に暮し、腐りはてていることを伝統的純血と思いこんでいるスペシャルな階級にもかつて所属したことのない生民たちがほろびるのである。そこには、退化しきった活字メディアなどへの信仰は歴代にわたって存在せず、次なる世紀を育む〈言霊〉のるつぼが、静かに湧いていた。海と空のあいだの透明さは、そのゆえにこそ用意されていた。ことに椿の海からたちのぼる、いのちのかげろうは。

タイトルだけは教科書で習うが、こんな小説だとは思いもしなかった。内容も、その射程の広さも。公害の悲惨と抵抗の悲壮に付きそうルポルタージュと云うにはとても汲み尽くせない。単に内容が豊穣・濃密だからではない。解説でも、眼についた感想でも、水俣病はおそろしい、公害はいきどおろしい、と云うことが述べられているが、実のところそこさえ崩し得る作品だろう。そこが難しい。と云うのも、そうでなければ患者たちについて、ここまで瑞々しくは書かれないからだ。公害は憤ろしい。そのとおり。近代は根源的なところでこの世界を壊してしまった。いかにも。しかしここで書かれるのは、機能不全に陥ったこの世界からそれでもわれわれ生者は抜け出ることができない、と云うことではないか。むしろ死者こそが美しい。本書の記述は抵抗に付き添いながらも、その辺りに両義的な態度がある。絆はひとびとを結びつけ連帯に至らしめるが、同時にわれわれを縛りつける。そもそも連帯だの何だのさえ近代のものである以上、丸っきりは肯定され得ない。そうした両義性が、本書を読むのも語るのも難しくしている。

 

藤原辰史『歴史の屑拾い』

言葉の群れは、やがて偶然出会った読者によって批判され、解体され、次の書物や思考の肥やしになる。少なくともそうなるように工夫されなければならない。謝辞や註や参考文献が必要なのは、それらが偶然の出会いの記録でもあり、歴史書の解体に役立つからでもある。やがて歴史研究者自身も、老いて寿命を迎えることで、自分の放った言葉とともに、歴史にただよう「屑」の一つになる。現世のしがらみから切り離され、誰の所有物でもない「屑」に分解されるのである。そんな歴史研究者の自覚においてこそ、歴史叙述は生成し始めるのだと思う。

苦海浄土』を読んでからいきなり明るいものを読む気がせず、さりとて長大なものを読むこともできないので、ちょうど講義に潜っている藤原先生のエッセイ集を、と手に取ったらすいすい読めて、つい丸っと一冊読んでしまった。手軽すぎて歯応えのないところもあるけれどそれは著者の研究を参照すれば良い。ここで試みられているのは研究に基づく歴史叙述ではなく、歴史叙述そのものについて語ることであり、屑拾いになぞらえたそのあり方を提案することだ。断片を拾い集めながら試行錯誤して全体を組み上げつつ、しかし単純な「全体」へと回収されることを拒む。答えよりも問いを、統合できずとも共有を、けれども安易な感動を与えるのでもなく、ともすれば断絶を見つめながら、いかにして過去を語るか。そうして書き上げられた「物語」もまた断片となるだろう。それは「屑」であり、ある意味で死だが、われわれは生き物たちのそうした死から生を得てきたのではなかったか。ここにおいて著者自身の問題意識は、実践と重なり合うだろう。