鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2024年上半期ベスト

 生きている世界では永遠に続くものはありませんが、だからこそ、生は無限に続いていくのです。
――ティム・インゴルド『応答、しつづけよ。』(奥野克巳訳、左右社)

 何かが終わりかけていると云う感覚のなか、読むことも書くこともなんとなく行き詰っているような今日この頃で、出口を求めていろいろ読んでいる。けれども振り返ってみれば、それなりにたくさん面白いものを読んで、ひと束の線が描き出されるだろう。そうして書き、読み続けている限り、どこかには辿り着くはずだ。希望と絶望しかないのなら、前者に賭け続けるほかない。世界の終わりみたいな顔をしている場合ではないのだ。
 以下、十二タイトル、再読含む。順番は優劣を意味しない。

ティム・インゴルド『ラインズ』(左右社)

 人々が思いのままにそのあとを追いかけ、つかまえられるようなたくさんの緩やかなラインの端っこを、私は残すことができただろうか。私の望みは蓋を閉じることではなく、蓋をこじ開けることだ。この本の終わりには来たのかもしれない。でもそれは私たちがラインの終点に到達したことを意味するわけではない。ラインは生命のように終わりのないものなのだから。重要なのは終着点などではない。それは人生も同じだ。面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。

 何度彼に励まされたか知れない。今年の上半期は、ずっと線を引いていた。

 

J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ』(河出文庫

 ねえエズメ、人間ほんとに眠くなれるならね、いつだって望みはあるのさ、もう一度機――き・の・う・ば・ん・ぜ・んの人間に戻る望みが。

 言葉が届くこと。その奇蹟。

 

九井諒子ダンジョン飯』(ハルタコミックス)

ダンジョン飯
そこには上も下もなく
ただひたすらに食は生の特権であった
ああダンジョン飯

 物語、テラリウムとしての。そこには上も下もなく、ただひたすらに食は生の特権であった。

 

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(東京創元社

 初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。これは初めから神とともにあった、そして敬虔な修道僧の務めとは異論のない真理と断言しうる修正不可能な唯一の事件を慎ましやかな頌読によって反覆することであろう。それなのに〈私タチハイマハ鏡ニオボロニ映ッタモノヲ見テイル〉。そして真理は、面と向かって現われてくるまえに、切れぎれに(ああ、なんと判読しがたいことか)この世の過誤のうちに現われてきてしまう。それゆえに私たちは片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意志にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならない。

 過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名がいまに残れり。けれどもあるいはそれだけで、じゅうぶんではないだろうか?

 

米澤穂信氷菓』(角川文庫)

 思い出したい過去がある。それはとりもなおさず思い出す価値のある過去があるということだろう。俺のモットーに照らせば、それは随分と奇異なことに思える。おまそこにある危機を回避するだけの俺に、思い出などなんの意味があるだろうか。
 だが千反田は、落としてしまったものを過去から取り戻そうとしている。思えばそうだ、千反田はその好奇心で現在を掘り下げているようなやつだ。そいつが過去を掘ろうとするのは不思議でもなんでもない。伯父への手向けに、そして多分それ以上に自分のために千反田は過去を掘ろうとする。そして、不幸にしてこいつにそれを成し遂げるだけの力がないとしたら。

 記憶。歴史。言葉。時間。それから鍵と、本。こんな深度の話だったのか。

 

ロバート・ダーントン『検閲官のお仕事』(みすず書房

 東ドイツ国家の中枢で行き交ったメモからは、検閲が検閲官の活動だけに留まらないことが見て取れる。検閲は文学のあらゆる側面に浸透し、著者の内心や、著者と編集者との最初の打ち合わせにまで及んでいた。フォルカー・ブラウンは一九八三年に『小説ヒンツェ・クンツェ』の草稿を中部ドイツ出版社の編集者に渡すのに苦労している時、自分のために走り書きしたメモの中で、検閲の性格をこう定義している。「このシステムはひとりでに機能する。このシステムが検閲をする」。

 読むことと書くことのエコロジー。その歴史を描き出す本書も、それを読むわれわれもまた、そのなかにいる。

 

大岡昇平『事件』(創元推理文庫

 検事の冒頭陳述も論告も、彼の弁論も、要するに言説にすぎない。判決だけが犯行と共に「事件」である。殊に最近のように、地裁、高裁、最高裁と、さまざまな裁判所で、さまざまな判決が出される現状においては、――しかもおのおのの裁判官の人格、またその時々の身体的精神的状況によって影響されるとすれば、「事件」となる。制定法はそれが制定されている故に正当である、という古い同義反復的観念は、未だに払拭されていない。しかしその正当性が、一人の人間による決定という可変的要素と結び付いているとすれば――いや、すべての制度による決定は「事件」ではないか、と論理が進展した時、菊地は自分の頭がおかしくなったのではないか、と思った。

 裁きとは、言葉である。これに加えて、『落下の解剖学』と『十二人の怒れる男』を見た。

 

ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』(工作舎

廃棄や衰退を直截に取り扱う過程で、対峙すべき技術的かつ経済的な問題が、世の中には、数多くあるが、最大の問題は、私たちの心の中にある。純粋さと永続性に焦がれつつ、私たちは永遠に衰退してゆく術や、流れの連続性、軌道や展開を見据える術を学ばねばならない。動きも交わりもしないものより、これらの動きは、現在が過去と未来をしっかり結んでいる事実を示してくれる。一九世紀は、もはや遠い。私たちは、今を生きている。緩急の差はあれ、すべては変化する。生命は、成長であり、衰退であり、変様であり、消滅である。

 不変なものは何一つなく、一切は食べて食べられ、生きて死ぬ。そこには上も下もなく、ただひたすらに……。

 

澤木喬『いざ言問はむ都鳥』(創元推理文庫

 科学者にとって、好奇心は唯一絶対の神に等しい。だからぼくたちは、その命ずるままに行動するべきだと思う。しかしそうしてぼくたちが知りうることは、「実際に起こったこと」とは違う、「実際に起こった可能性が高いこと」に過ぎない。その自覚が、好奇心という神に忠実であることの代償なのだと思う。

 読んでいて溺れるかと思った。言葉に。

 

笠井潔『バイバイ、エンジェル』(創元推理文庫

「観念という、現実のかたちは決して持ちえないもの、どこにもないもの。生存の露骨な具体性から見れば馬鹿馬鹿しいほどに影の薄い、抽象的なもの。目も口もない、手も足もない、虚ろな宇宙に漂う亡霊に似たもの……。これが時として人間に憑くのです。その時、人は真空状態で放電する火花のような状態になる。ぶよぶよした細胞の塊が、なにかまるで別のものに変わってしまうのです。これに憑かれて行なわれる殺人は、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人です」

「このシステムはひとりでに機能する。このシステムが首切りをする」

 

アレックス・ライト『世界目録をつくろうとした男』(みすず書房

 ある日、ポール・オトレが孫のジャンと散歩していたとき、浜辺に打ちあげられたクラゲを見つけた。何年もたってから、ジャンはそのときのことを、オトレの伝記を書いたフランソワーズ・レヴィに話している。オトレはしゃがみこむと、クラゲを1匹ずつ砂から引っぱりだしては、積みかさねていった。そして上着のポケットから索引カードを取り出すと、そこに「59.33」という数字を書きこんだ。国際十進分類法で腔腸動物をあらわす数だ。そして濡れた無脊椎動物の山の上にそっとカードを置くと、歩き去っていった。

 世界を数字にすること。

 

フランコモレッティ『遠読』(みすず書房

 たぶん、「世界」と「未読」は、同時に取りくむには手にあまるのだ。だが、これぞ最大の好機とさえ、私には映る。なぜなら、課題のあまりの巨大さゆえに、世界文学は文学ではありえず、もっと大きいものでもないことがはっきりするからだ。[…]つまり、世界文学は対象ではなく、問題なのだ。しかも、新しい批評の方法を要請する問題なのだ。その方法は、もっとテクストを読むだけでは、誰にも見つけることができない。理論がいかにこの世に生まれるかの話をしているわけではない。必要なのは、着手するための跳躍、賭け――仮説なのだ。

 たぶんぼくは、ある種の撞着に陥っている。インゴルドのように地上を歩くことを志しながら、モレッティのような鳥瞰にも憧れている。そしてぼくにとって探偵小説とは、ふたつの眼差しが両立してしまうような永遠の謎だ。


 以上、十二タイトル。世界が平和でありますように、と先日、七夕の笹の葉に吊るした。

追記:実はもうすぐ誕生日だったりします(七月五日)

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