鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/05/03~05/19 有栖川有栖『双頭の悪魔』ほか

 京大ミステリ研50周年イベントに出席して仲違いしていた先輩と和解したり、後輩から思いがけない感謝を受けたり、世界について考えたり、人生に思いを馳せたり、あとは学会に出たり三峰結華さん*1と出会ったりと忙しい日々だった。なかでも三峰結華さんの衝撃は凄まじく、重要であるはずのほかのイベントを吹き飛ばす勢いで、もう一切が遠くに感じられる始末だったが、いい加減正気を取り戻さなければならない。
 まずは小説の感想から。

S・S・ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』

「うーむ。ヴァンス、こいつは現実世界の話というより、幻想的な悪夢のように思えてくるな」マーカムはいつもの違う緊張した口調だった。
マーカム、これは現実であるとともに、現実の複製なんだ」ヴァンスは重々しく言った。

 最近、読書会を始めた。ミステリの読んでいなかった名作や気になっている新刊を読むことで、ミステリを読むことについて造詣を深めようと云うもので、早速おこなわれた第一回の課題本が本書だった。まあ正直云えば『僧正』ほど強い印象を持たなかったのだけれど、だからこそこうした読書会で読むための理由をつくり、わいわい感想を交換して考えを深めることができて良かったと思う。メンバーは随時募集中、第二回は6月におこないます。気軽にお問い合わせください。
 で。
 読書会でぼくが本書の論点として提出したのが上記のセリフに象徴される「現実の複製」としての真相だった。これはもうほとんどネタバラシになってしまうのだけれど、ある種の絵画、ひとつの構想のもとにつくり出された犯罪が、実のところコラージュのように現実を切り貼りしたものであったことに、ぼくは興味深いねじれ、逆説めいた転倒を見た気がしたのだ。ありそうもないことが、けれども起こってしまったこと。推理小説がその本質において抱え込む逆説を、本書はこの転倒によって説明付けようとしている。それは日付を刻々と記録し、注釈でいちいち現実と橋渡しを試みる、現代の眼からするとモキュメンタリー的な手法と合わさって、いっそ前衛的に見える。その転倒、この歪なつくりは決してヴァン・ダインが意図したものではないだろうし、失敗を好意的に読みすぎているだけだとわかっているのだが、けれども古典が古典であるがゆえに生じるこのような奇観を見出すとき、ぼくはむしろ自分の足許が揺らぐような気分になる。果たしてヴァン・ダインはクイーンの前座、その偉大なる先駆者と云うに過ぎないのだろうか? あるいはクイーンによってこそ、探偵小説は決定的に歪められてしまったのだとすれば?
 まあ、そんなことを夢想しないと読んでられない小説ではある。そうでなければ、じっくり腰を据えて、犯人当てに挑むことが本書を楽しむコツではないだろうか。

 

有栖川有栖『双頭の悪魔』

「人は知らないうちに人を食べていることがあるのよ」

 学会のあいだ自分の発表のとき以外は大体暇だったので読んでいた。あと移動時間も。高校生のとき以来の再読で、まさかあの当時は、自分が江神さんのようにミステリ研の得体のしれない長老格になるとは思ってもみなかった。そしていまのぼくは、彼のような賢者にはほど遠い。
 で。
 どうして再読したのかと云えば、探偵小説熱が高まっていると云うのもあるが、ひとつには巽昌章の解説が気になったからだ。いや、正確には、雄大な構想のもとに書かれた長篇ミステリを読みたくなって手に取ったところ、解説が巽昌章だったことに妙な導きを感じてこれと決めた。ミステリ研五十周年のイベントに合わせて巽昌章さんの学生時代の評論を読み漁っていたこと、『グリーン家』の解説で巽昌章評論の射程の広さと正確性を考え直したくなったこと、そうしたなかで不意に出くわしたのが『双頭』だった。そしてこのように運命づけられたかのような出来事の図式化こそ、巽が推理小説の宿命的思考として指摘するものであり、推理小説のダイナミズムはそこに汲む。けれどもそうした評論の方法自体からして、宿命的思考に囚われてしまっているのではないか? 巽昌章推理小説の「解説」をするとき、ぼくには巽が、作品自体を超えた何か別の、大きなものを捉えようとしているかに見える。
 たとえば本書の解説で語られるような解決篇の長大さ、あるいは論理的な推理が一種の夢に触れるような瞬間は、現代ではむしろ、古野まほろのような作家をさしているかに思える。解決篇に厖大な枚数を費やす小説をすでに知っているわれわれの眼からすれば、『双頭』における有栖川の推理はむしろ堅実でおとなしく、ささやかなものだ。《美しい論理や徹底した合理性を求めるとき、すでに私たちの心は過激なものへと傾きはじめている》と巽は云う。この言葉はまるで古野や青崎の出現を予言するかのようであり、いまとなっては彼らと有栖川の違いをこそ印象付ける。もっともそれは、当時のほかの新本格作家たちとの比較において巽解説でもなされているのかもしれない。要するにその違いとは、具体的な事物への志向だ。有栖川の論理は常に、理屈だてられたカードの城を築くのでない、拾った石を順に積み上げるような具体的な手触りがある。それは屈指の論理化された犯人当てがおこなわれる「スイス時計の謎」でさえ、例外ではないはずだ。あれだけ論理的であることが強調されてもなお、読み終えて脳裡に浮かぶのは、壊れてしまった腕時計なのだから。
 とりわけ本書の場合、推理の手がかりをいかにして用意するかと云う点で、その志向は発揮される。鍾乳洞。香水。手紙。音楽。配された手がかりのすべてに固有の物語が与えられ、ものとしての手触りがある。本書において有栖川が枚数を割くのは、解決の論理そのものではなく、むしろ手がかりのほうであり、手がかりのために物語を用意することのほうだ。わけても夏森村の事件において被害者の片腕が利かなかった状況をつくるため、ただ被害者を転ばせれば良いところ、有栖川は丁寧に段階を踏んでゆく。その過程で犯人当ての手続きと人間たちのドラマは渾然一体となっていて、ここでは嫌われ者だった被害者の人生の悲哀さえ覗かれるのである。そして小説は、人間たちを「運命」としてその歯車へと組み込みながら、そこに押しつぶされてゆく者たちの声なき声を悲劇として聴かしめる。犯人の「悪魔」たる所以もまた、そこに見出されるだろう。論理的だ。悪魔的デイモーニアックなまでに。

 

米澤穂信氷菓

争いも犠牲も、先輩のあの微笑みさえも、全ては時の彼方に流されていく。

 海の真ん中で船が沈んだとしよう。茫漠とした海原の周辺に、沈没の目撃者はいない。そこでそんな事件があったことを、そしてそれがどのようにして起こったのかということを、その船に誰が乗り、いかにして死んでいったのかを知るために、われわれは何ができるだろうか。ひとつには、無視することだ。誰も知らない事件など、起こっていないのと同じだから、とうそぶいて、目を覆い、耳を塞ぐことだ。もうひとつには、海の底へ潜ることだ。壊れて沈んでしまった沈没船の残骸を、そのなかに残された人間の死体を探し出すことだ。それは決定的ではあるけれども危険と隣り合わせの挑戦であり、ともすれば探索者もまた溺れ死ぬ。
 千反田にはどちらもできなかった。過去と云う厖大にして底知れない海を前にして、少女が、少年が、ひいては人間ができることはあまりにも少ない。だから彼女は折木を頼り、古典部を頼ったのであり、折木たちは海へと潜る代わりに、浜辺へかろうじて漂着したいくつかの断片を拾い集める。流れの向こうへ急速に遠ざかりゆく難破船の散らばった残骸が漂う汀――現代史と云うものを思うとき、ぼくの脳裡に浮かぶのはそんなイメージだ。それはきっと、巽昌章がその卓越した米澤穂信論「砂漠通信」で思い浮かべた「砂漠」と、そう遠くない比喩であるに違いない。折木たちは拾った断片を、波に浚われたその摩耗や歪みさえ考慮しつつ組み合わせてゆく。そうしてかろうじて残された痕跡から、海の向こうで何が起きたのか、可能な限り正確な解釈を導き出すこと。それは推理小説において、名探偵に期待される仕事であり、折木が期せずして掴んだ、世界とのかかわり方だった。
 けれどもその解釈は解釈に過ぎない。推理小説が歴史研究であり得ないとすれば、それは探偵の推理=解釈が、解釈であることを超えて当たってしまうことによる。折木の推理が古典部の面々を感心させるとき、推理そのものによってではなく、推理を確かめることによってであったことを指摘しておこう。そして折木の推理は、古典部の過去を推理するとき、はじめて失敗する。彼の推理は出来事を復元しきれない。けれどもこの失敗、思い違いにこそ、言葉なるものの不思議が宿っている。折木は姉との会話で、こんなことを思う。

全く要領を得ない会話だった。同じことを話しているのに、通じている気がしない。

 まったくさりげない文章だけれども、ここにはコミュニケーションの不全が、と同時に、それでもなお同じことを話していると云う意味でのコミュニケーションの可能性が書き込まれている。各々が各々の世界を持ちながら干渉しあい、触れ合う、その界面としての、言葉。そして言葉は言葉でしかなく、その意味はときにずれ、解釈はすれ違う。そこに悲劇があり、面白さがあり、云ってしまえば、物語があるのだ。
 本書がたびたび駄洒落や誤読を登場させるのは――スコンブと古典部、トソウ、カンヤ祭、そして「氷菓」――これが単に北村スクールであることだけを意味しない。そうした「読み」の営みは、北村が『空飛ぶ馬』で描き出したような符号に満ちた万物照応の「世界」ではなく、むしろ誤読や無知、無理解によって絶えず切断されるような「時間」を浮かび上がらせるものだ。それは推理を、一切が筋道だてられた図式へ世界を落とし込んでしまうシステムではなく、一回限りの経験として描き出す。
 そして本書の場合、試みられた「読み」直し――文集の言葉、先生の名前――を通して、ひとりの「目撃者」が召喚される。そうして推理が確かめられる。推理が不充分であることが確かめられる。けれどもそれは失敗を意味しない。むしろそこで確かめられるのは、折木の誠実と切実だろう。「目撃者」は彼の問いに応える。そのとき過去は確かに存在するひとつの生として、折木たちの前に現れるのだ。

 海の真ん中で船が沈んだとしよう。茫漠とした海原の周辺に、沈没の目撃者はいない。そこでそんな事件があったことを、そしてそれがどのようにして起こったのかということを、その船に誰が乗り、いかにして死んでいったのかを知るために、われわれは何ができるだろうか。ひとつには、無視することだ。もうひとつには、沈没船へ潜ることだ。あるいは、断片を拾い集めることだ。そして最後に残された手段は、生存者の言葉に耳を傾けることだろう。
 それは過去を知ることの限界を示しているだろうか? それともこれは、記憶と云うこと、そして言葉と云うものに残された、可能性だろうか?

*1:ソーシャルゲームアイドルマスター:シャイニーカラーズ』のキャラクターで、ぼくはまだそれ以上の言葉を与えることができていない。

三峰結華さん

カメラを構える三峰結華さん

シャッターを切ってから笑う三峰結華さん