鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

往復書簡:2024/02/23

上雲楽さんへ(ところでこのお名前、苗字と名前の区別とかあるのでしょうか? 前回の手紙では字面でなんとなく「上雲さん」と呼んでしまいました。とりあえずここではフルネームでお呼びしますね、まどろっこしくてごめんなさい)

 お手紙、どうも。
 けれどもそのお返事の前に、藤井佯さんとの文通のことに触れさせてください。ぼくはおふたりそれぞれの手紙を通読しているわけではありませんし、読んだものについてその吟味ができているわけでもありませんが、それでも。ぼくには、藤井佯さんから上雲楽さんに宛てた最後の手紙のどこにも、怒りの表出を読むことはできませんでした。少なくとも、「急にブチ切れられた感じ」はしなかった。「つとむ会」ひいては「おたく」について率直な意見が述べられてはいるものの、これは文通相手への直接的な怒りとは違うものでしょう。文通をやめることが切り出されたのも、手紙に書かれている「これ以上続けてもなという感じありますし、なんか区切りが良い気もします」と云う理由以上のものを、ぼくには読み取ることができません。もちろんおふたりはこの二週間、文通としては破格のペースでやり取りされていて、ぼくには把握できない文脈があるのかも知れませんが、しかしそうだとしても、ここで提案されているのは文通を止めることそれ自体であって、上雲楽さんとのコミュニケーションの断絶ではないはずです。
 ぼくがこうして文通をしようと思い立ったきっかけであるティム・インゴルドは、文通(correspondence)が終わることがあるとすれば無視か怠惰によってであるとしていますが、これはものの喩えであって文通以外にも応答(correspondence)の仕方はたくさんあるのですし、さまざまな理由によってブログ上でのやり取りが終わってしまったとしても、応答はつづいていくでしょう。そもそも無視や怠惰以外にも文通が途切れる理由はあり得ます。たとえば、誤配。郵便事故のたぐい。傍から見ていて、おふたりのあいだにはそのような不通が生じていたのではないか、と推察します。実に無責任な分析ですが……。手紙のやり取りがそのようにして終わってしまうのを見ては、書かずにはいられなかった。
 ぼくには上雲楽さんに、お相手の言葉が届いていないように感じられました。ペースの速いラリーはそれはそれで楽しいものですが、せっかくの手紙です、いったん受け取ってから、一呼吸置いて投げ返すのもまた楽しいと思いますよ。すでにブロックしてしまったようですので、藤井佯さんとのコミュニケーションを再開することは(双方にとって)逆効果かもしれませんが、ぼくとのやり取りにおいては――これからも文通をしていただけるのであれば――以上のことを念頭に置いていただけると嬉しく思います。
 人間同士は本来的に、決してわかりあえず、相手の言葉を完璧に正しく解釈することはできませんし、それこそが応答し続ける(correspondences)ことの楽しみだと思います。けれども言葉が丸っきり届かないために手紙の往復は止まってしまっては、元も子もありません。
 そこでぼくからの提案なのですが、この手紙に対する返事は、時間をかけて書いてみていただけませんか。これは注意でもなく、アドバイスでもなく、ひとつの提案です。難しければ、大丈夫です。

 ここまでの手紙に、怒りを感じ取られたならば、それは誤解であると云っておきます。しいて云うならば、少しばかり、悲しい。ふわぽへさんや電気豚さんのことを思い出すからでしょうか。インターネットにおいては、ひととの繋がりは容易く失われてしまいます。

 さて、前置きは以上です。あらためまして、お手紙、どうも。
 集合写真の不気味さについてのお話は興味深く読みつつ、わからないところがありました。集合写真に均質さを感じるのは、上雲楽さん自身が「人の顔や自分の顔を区別するのが苦手で、クラス写真のどこに自分がいるのかわからない」から、と手紙にはあります。それは云い換えれば、窓の灯の向こうのひとりひとりに向き合うことが難しいからであり――くり返しますが、それは優劣の話ではなく、向き不向きです――ともすると自分自身とさえ向き合えない、と云うお話だと受け取りました。「素朴に自分の心は、脳内物質の作用に過ぎない」と考えることの安心感は、ぼくも心当たりがあります。前後の価値判断の話を踏まえると、そうして窓の灯を単なる光の集合として捉えるようなことは、「ストーリーという価値判断の氾濫」に対する恐ろしさから来ているのだ、と読めました。そこからポリコレの話になり、ファシズムの話になる。
 そしてここからがお訊きしたいところなのですが――、「ファシズムと戦う手段は、まさしく、「書くことをもっと書き手じしんの手に取り戻す」だと思います。そのために、個々の人間と、自分自身の顔を見つめなければならなく感じる」と続く、そこはぼくも大いに頷くところです。しかし、そうであるならば「集合写真に感じるおぞましさがファシズムの察知かもしれない」と云うのは、よくわかりません。集合写真に均質さを感じているのは上雲楽さん自身であり、そうして均質にものを見ることはむしろ、〝「ストーリーという価値判断の氾濫」に対する恐ろしさ〟ではなかったでしょうか?
 もちろん、再び集合写真の話へ戻ってゆくところは、ふと思いついて書き留めたと云う感じであり、書くことの作用、面白さとはまさにこのような指先の動き、手の痕跡にこそあると思います。ただ、だからこそ気になって、つい深掘りしたくなったのです。

 集合写真とストーリーと云うテーマについてぼくが思い出すのは、写真史の本に出てきたニューヨーク近代美術館MoMA)の『ファミリー・オブ・マン(人間家族)展』のことです。小原真史の紹介に拠れば、《結婚、誕生、遊び、家族、死、戦争という人類に普遍的に共有される営みをテーマとして、68カ国、273人の写真から構成されたこの展覧会は、第二次世界大戦を経た世界へ向けて「全世界を通じて人間は本質的に単一である」というメッセージを表明するものであった》。そのメッセージが訴えるところは立派な世界平和ですが、一方でこの展覧会には《冷戦体制下で経済的繁栄を謳歌するアメリカ型民主主義とヒューマニズムをアピールする文化戦略》としての側面もあったようです。まさしくこれは、一見すると正しいスローガンのもとに、人間を均して呑みこんでしまうストーリーの問題に思われます。
 けれどもぼくがこの展覧会について最初に知った日高優『現代アメリカ写真を読む』では――手許にないので記憶に基づく参照ですが――世界各国の家族の写真が並べられることによって、人類は均質化させられるどころか、その差異を顕わにした。シチリアの粗末な身なりの家族写真と、アメリカ合衆国の裕福な身なりの家族写真が並べられたとき、誰が両者を同じひとつの家族だと感じるでしょうか? 写真のなかで、あるいは写真そのものを並べることには、そんな両義的なところがあるわけです。集合写真とはまた違う話と云うか、これはどちらかと云うと卒業アルバムの話かも知れませんが、しかし、集合写真もまた、顔が並んでいると云う点で、それぞれの顔は均されるどころか、かえってその個性を浮かび上がらせることもあり得るかも知れません。そしてそれは、われわれの眼差し次第なのかも知れない。
 そもそも写真と云うものが、人間をおしなべて光の痕跡として平らに均してしまう一方で、そのようにして個人が撮られることによって、人間は自らの痕跡を残し、自分自身の顔を得ることもできる、そんな「個」をめぐる両義性をもっています。ぼくはこの、両義的である、と云うことに強い関心を持っています。その両義性は、たとえば「数」の両義性でもあり、それは『九尾の猫』において書かれるような、ミステリの両義性です。ミステリは分析的な眼差しによってときに人間を記号的に扱いながらも、そうすることによって混沌から人間を掬い出すこともできるのかもしれない――あるいは逆説的に、図式へ還元し得ない何某かに触れることができるのではないか。ストーリーの均質化やファシズム的なものへ抗するための契機もまた、そんな両義性に見出されるのではないでしょうか? あまり考えを進められていないところですが……。

 エウレカセブンの話でしたね。まず、ぼくは熱心なアニメオタクでもなければロボットや漫画などにも素養のない、素人であることを前提に置きつつ――つまり、ぼくにとって『交響詩篇エウレカセブン』(以下、『エウレカ』)は一種の刷り込みに過ぎないのかもしれないと思いつつ――自分があのアニメについて考えていることを述べようと思います。
 ぼくが『エウレカ』について感動したのは、まず、あの圧倒的な世界に対してでした。それはアメリカ文化のコラージュでありながら、壮大なランドスケープのなかで妙な説得力を持って一体化し、レントンたちはその世界のなかで息づいていました。世界はそれ自体がひとつのエコロジーを作り出しているように思ったのです。『エウレカ』について、世界は広い、と云うとき、それはなんの比喩でもない。世界は広いのです。そしてそこには、いろいろな人びとが生活を営み、生物が棲んでいる(と云っても、動物がほとんど姿を見せないのは不満ですが)。そして、少年と少女は出会い、手を取り合う! その生は決して終わらない……。驚異的なのは、終盤で作品世界の成り立ちが明かされてもなお、その世界が箱庭的に縮小されることなく、一定の広さを保っていることです。惑星(だったか地球だったかはうろ憶えですが)と云う言葉がただの言葉ではなく、この惑星自体を指して云うことができているからでしょうか。
 いずれにせよ、『エウレカ』について、ポスト・エヴァとかメディアミックスのメタフィクションとかいろいろ云おうと云えば云えると思うのですが、しかしそんな図式では回収しきれないような世界がそこにはある。それは厳密に考証されたリアルではないかも知れませんが、そこで生きる彼らにとっては間違いなくひとつの(そして、それぞれの)世界なのです。小説版のあとがきで読んだ話だったと思うのですが、TVアニメ版は当時、比較的若いつくり手たちが集まってできたものだそうです。ゆえに誰か一人の作家性に回収されることなく、ゆえにときには奇妙な建て付けもありながら、それも含めてひとつの世界が複数性を保ちながら現出せしめられたのかもしれません。
 さて、ここまで語ったことからおわかりかもしれませんが、ぼくは最初の『エウレカ』以外のアニメについては、あまり好意的な感想を持っていません。『ポケットに虹がいっぱい』は、ひとつのIFとして面白く視聴しましたが、『AO』や『ハイエボリューション』はどうにも……。前者はところどころで上述した意味での世界を垣間見せましたが、後半、作品自体が、ひとつの(そして、それぞれの)世界、と云うものをを信じることができなくなってしまったようでした。『ハイエボリューション』にあっては、全篇がそんな調子で……。そこに企みがある、と云われればそうかもしれませんが、その企みはどこか別のところでやってほしかった、と云うのが正直な感想でした。とは云え『ANEMONE』は、アネモネと云う少女の強さ、その息づかいによって作品が彼女の世界となっていたように思います。
 そして『EUREKA』は――。おぼろげな記憶で話すのですが、新たにまた語り直し、世界を作り直そうとするような意志が見受けられつつ、もはやそんなことは不可能に思われました。メタ的な仕掛けをいろいろ読み取ろうとはしましたが、『エウレカ』においてそれはいささか虚しく、それはもはやぼくを圧倒した『エウレカ』ではない。けれどもそのこと自体に、シリーズの総括(とその失敗)を見たように思います。そして終盤、アイリスが息づいたような瞬間があったはずで――、そのとき、ぼくは泣いてしまった。それは事実で、その一点を以て、ぼくは『EUREKA』を、そんなに悪くない映画だったな、と感じています。でもまあやはり、そこにあるのはもはや、すでに「エウレカ」と名づけられてしまい、その言葉のなかに囚われ/安住してしまった、(世界ではない)物語空間でしかないのですが……。
 どうでしょうか。これがぼくと『EUREKA』との距離感だと思います。正直云えば、ぼくはもう、冷静な評価者ではないのでしょう。とは云えこうして語ることができて、自分でも腑に落ちてきたような気がします。
 それではこの辺で。急激に冷え込んだ三連休、くれぐれもお体、お気をつけください。

鷲羽