鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/12/08~12/20 カルヴィーノ『見えない都市』ほか

アラン・コルバン『記録されなかった男の歴史:ある木靴職人の世界1798‐1876』

本書での私の意図は、一人の人間が生きた痕跡を集め、次いでこれをつなぎあわせることだが、その痕跡のいずれも、一つの運命としてのピナゴの存在を構築しようと思って作られたものではなく、運命などというものを持ち合わせたかもしれない個人としてピナゴを示そうという意図で作られたわけでさえもない。要するに、最初はバラバラの断片からパズルを組み立てるということだ。そして、そうすることで、時間に呑みこまれてしまった人々、消え去ってしまった人々について書こうとしているのであって、何かを証言しようなどと言い張るつもりはない。消滅に関するこのような考察は、その想い出がなくなってしまったような存在、私がどんな愛着も寄せていない人間を、もう一度生きさせることを目指している。この人間と私は、どんな信条も、使命も、契約も先験的に分かち合っていない。問題は、この人間を再-創造し、彼が自分の生きた世紀の記憶に入っていく二度目のチャンス――さしあたり、かなり揺るぎないチャンス――を与えることだ。

 現代史の講義で、社会史の実験的挑戦として薦められたので読んだ。以前から佐藤亜紀の紹介で気にはなっていて、古本屋で手に入れてから積んではいたのだけれど、ようやく読み出すきっかけをつかめた次第だ。歴史家と探偵、と云う比較を考えていたと云う文脈もある。あるいは、過去を起ち上げることと、起きたことを推理すると云うことの比較。こうした経緯や思考はここで書かなければおそらく記録されることはなく、ともするとこの記録もそう遠くないうちに失われるだろう。ぼくがなぜこの本を読んだのか、あるいは読んだと云う事実さえ、後世の人びとは知ることができない。
 本書はそうして時間の彼方へ消え去ってしまった個人の記憶へ迫ろうとする試みである。対象となるのは戸籍台帳から無作為に選ばれた数人のうちのひとり、19世紀の木靴職人ルイ゠フランソワ・ピナゴ。彼は日記やメモ、図表と云ったおよそ記録と呼べるものを残さなかったどころか、字を読むこともできなかったと思われる。彼が残した言葉はただひとつ、晩年に記した名前代わりの十字だけだ。彼の存在を証明するのはそれ以外には、戸籍をはじめとした公的な文書や名簿くらいであり、アラン・コルバンはそうしたかすかな痕跡を手がかりに、ピナゴの生涯を起ち上げようとする。どこで生まれ育ったか。いつの時代に生きたのか。どんな家族がいて、誰と結婚し、誰に仕事を習い、教えたか。個人を把握し、管理し、支配するためのシステム――名簿が、ここでは翻って個人の存在を証明し、その人生を想像するための時を超えた繋がりとなる。そうしてかつてピナゴを取巻いていた環境が、時間が、言葉が、やがておぼろげながら浮かび上がってくるさまは、ピナゴと云う人間そのものにはぜったいに至ることができないぶん、隔靴掻痒の感もあるけれど、しかし人間を理解するとはそもそもそうした、空白を捉える営みではなかったか。
 過去とはおそらく、ポンペイを呑みこんだ火砕流のようなものだ。そこに生きていた人間たちは漏れなく腐って消えてしまった。われわれには残された空洞に石膏を注いで、失われたものを再現することしかできない。コルバンが本書で試みるのは、百年前に生きたひとりの人間に向かって、周囲の固まった火砕流を把握し、ほんの僅かに残った空白、ちょっとした溝のようにも見えるその痕跡を調べ、「ここにピナゴが生きていた」と云うことだ。「彼はここで生きた」。この意味で、ピナゴを甦らせるのはおそらくコルバン自身ではない。丁寧に彫られ、磨かれた空洞に想像と云う石膏を流し込む役目は、読者一人ひとりに託されている。

 

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

「いかにも、帝国は病んでおります。しかもいっそう悪いことには、そのおのれの不幸に慣れようとさえいたしております。私の探索の目的もまたここにございます──なお垣間見ることのできる幸福の跡を探ることによって、そのいかに乏しいかを量り知るというわけでございます。もし陛下が周囲の闇の深さを御承知あそばされようと思し召されますなら、瞳を凝らして遠い微かな光をご覧なされねばなりませぬ。」

 マルコ・ポーロフビライ汗に語る、五十五の諸都市(まちまち)。欲望の都市アナスタジア、記号の都市タマラ、忘れられた都市ツォーラ、柱上都市ゼノビア、死者の都市アデルマ――。それらは別々の都市を語っているようでいて、現代における都市なるものの、さまざまな側面を切り出しているようにも見える。都市における欲望、記憶、信仰、建築、地図、生活、時間、公正、言葉、記号。語られる都市はそれらの寓話であり、あるいはおそらく、都市なるもの自体が寓話である。わけても象徴的なのは――もっとも本書は、象徴さえも空白にしてしまうのだけれど――遠い都市イレーネだろう。イレーネは遠くから見たときの名前であり、近づけばそれはもうイレーネではない。その中へ入ることなく通り過ぎてゆくものにとっての都市はそれで一つの都、そこにとらわれて出てゆくことのないものにとってはまた別の都でありますし、初めてやって来る都市が一つの都なら、立ち去って二度と返らぬつもりの都市はまたもう一つの都でございます。と語り手は云う。それぞれにいずれも異る名前にふさわしい都市でございます。恐らく、イレーネについて私はすでに他の名前でお話し申し上げておりますし、恐らくイレーネのことしか私はお話し申し上げなかったのでございます。その都市はマルコ・ポーロの生まれ故郷ヴェネツィアだろうか。けれどもその名にどれだけの意味があるだろう? あるいはヴェネツィアでさえ、別の都市の別の名前ではないのか? ここで語られる五十五の都市はすべてひとつの都市であり、またひとつの都市に別の見方と語り方を与えれば、それはすでにひとつの都市ではない。それはさながら角度を変えるだけで別の像を浮かび上がらせる万華鏡のようなもので、小説の幾何学的な構成もまたそのイメージを補強する。都市は互いに互いを写し出しながら、どこまでも無限につづいて果てがない。これを無と呼ぶ者もいる。実験と呼ぶのはあまりに容易い。けれどもこの汲めども尽きせぬ言葉の万華鏡こそ、語り手が挑む切実な賭けではないだろうか。物語についての物語を物語りながら、本書はメタフィクショナルな万華鏡を、あくまで世界へ、この地獄と化した世界へと向ける。ここにおいて、精緻な幻想は深遠な寓意と不可分だ。その途方もない射程に読みながらひたすら圧倒された。生涯最良の小説のひとつと云って良い。

【追記】あまりに圧倒されたので、忘れないでおくためのメモを記した。

washibane.hatenablog.com

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘスシェイクスピアの記憶』

「あらゆる作家が最後には、そのもっとも明敏ならざる弟子になるのだ」

 出し抜けに刊行されたボルヘス最後の短篇集。表題作はおそらくボルヘスの遺作であり、長らく未訳の作品として知られていた――少なくともぼくは鯨井さんの記事で知った。同記事ではそれ自体がまるでボルヘス的である探求の旅がおこなわれているが、本書の訳者解説を読む限り、真相は晩年におけるボルヘス短篇の妙にややこしい出版事情と、今福龍太の記憶違いが重なって、邦訳にあたって短篇がひとつすげ替えられたかのような奇妙な状況になったと云うことのようだ。
 偶然による構図の一致と、曖昧な記憶、そして書誌と云う迷宮。――本書自体もそうして意味ありげにまとめることができることにボルヘス的モチーフの面白さがあり、ひとつの限界があるのだろう、と思う。収録された四篇はいずれも、小説の初期作品を老齢に語り直した感があり、とくに「一九八三年八月二十五日」ではボルヘスボルヘスの会話のなかで、ボルヘス的モチーフが並べ立てられている。

「残りのページを埋めているのは、迷宮、ナイフ、己れは影だと思っている人間、己れは実在するものと信じている影、夜ごとの虎、血に帰る闘い、光を失った不運なフアン・ムラーニャ、マセドニオの声、死者の爪で造られた船、昼下がりに反復される古代英語などだった」
「その博物館は私にとって馴染み深いものだ」と、私は皮肉まじりに言った。
「まだある。それは、まやかしの記憶、象徴の二重の組み合わせ長ながしい列挙、月並みな表現の巧みな利用、批評家たちが発見して大喜びする不完全な相称性、かならずしも贋作のものではない引用などだった」

 そしてこの後に、上で引いた台詞が続く。なるほどどんな作家であれ、晩年は自己模倣へ至る。けれどもそれは同時に、みずからの人生を語り直す総括でもあるのだろう。『創造者』のあとがきには、こうある。

一人の人間が世界を描くという仕事をもくろむ。長い歳月をかけて、地方、王国、山岳、内海、船、島、魚、部屋、器具、星、馬、人などのイメージで空間を埋める。しかし、死の直前に気付く、その忍耐づよい線の迷宮は彼自身の顔をなぞっているのだと。

 本書はこれまでと同様に、ボルヘスボルヘスによるボルヘスについての短篇集であり、その到達を示すと同時に、植民地への眼差しや男性中心的な思考など、その限界をも露呈している。内田兆史による訳者解説では、無限について考えていればあまり意識されることのないそんなボルヘスの政治的な態度にも触れられており、初期から晩年まで、作品と絡ませながら彼の生涯を跡づける充実のボルヘス論だ。鯨井さんも述べていたが、むしろここをボルヘスへの入り口とするのも悪くないように思う(巻頭の「一九八三年八月二十五日」がネックだけれども)。
 一読して印象的だったのは「パラケルススの薔薇」。ここには物質の不滅と言葉の魔術が、端的に凝縮され語られている。

 

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

その数字が発せられ、家々の屋根の上、海の上で翼を広げ、どこかにある目的地に向けて飛んでいく。イングランドへ、パリへ、死者たちへ。

 文庫化を機に再読。五年前に読んだとき、ぼくはドーアがこの小説をあまりにも美しく仕上げてしまっていることに反感を覚えた。それは当時、ぼくの文学的関心――と云うほかないが――が「声」とでも云うべきもっと生々しく切実なものに向けられていたことに起因するのだろう。『チャイナ・メン』や『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』、あるいはこの本よりしばらくあとに読んだが、『チェルノブイリの祈り』や『面影と連れて』。そこに響き渡る固有の声、言葉にならない現実をそれでも言葉によって語り尽くそうとする豊穣で痛切な語り、ひいてはこちらを圧倒してくる交換不可能な人生の重みに較べると、ここはあまりに人工的で、美しいものしか書かれていない。貝、鳥、宝石。それらはいずれも標本箱に収められたりきらびやかに衣装を飾り立てるばかりで、海辺に棲む貝類の蠢きや、群れる鳥たちの落とす糞の雨に欠けているように思えたのだ――生きものたちの驚異とはそこにあると云うのに。とりわけぼくが腹立たしかったのは、そうして美しいものだけを並べ立てた挙句、小説が死をも美しいものかのように書いていることである。もちろん小説はそれを悲劇として書く。けれどもその悲劇は幻想的で儚く美しく「お涙ちょうだい」に見えるし、そうして流された涙は、戦争における最暗黒の悲惨――たとえば本書ではついぞ、強制収容所の悲惨は語られない――を覆い隠してしまうのではないか。『メモリー・ウォール』もそうだが、ドーアの小説にはまるで、切り出された宝石を自然の真なる美しさとして差し出されているような欺瞞がある。それは云わば、生きた鳥たちの生きた観察ではなく、殺して剥製にして鑑賞するような死んだ語りだ。
 しかし今回あらためて読んでみて、この欺瞞は小説がなし得る魔術のひとつなのかもしれない、と思い直した。剥製もまた科学であり、惚れ惚れするような技術である。それによって可能になることもまた、ある。リョコウバトが絶滅してもオーデュボンの絵が残ったように、空襲で街が破壊されても模型の街はかつての建物を記憶するように、そうして模られたパリとサン・マロの小さな街が、マリー゠ロールを導いたように。科学の営みと表裏一体にぴたりとくっつき、覆い隠される暗部――進化論は優生学へ接続され、ナチスは人体実験を施す――もまたわれわれは直視しなければならないけれども、本書が語ろうとしているのはそれでもなお、科学と云う人間が作り出した営為が戦時下にもたらした、ほんのかすかな希望なのだ。本書では科学の知見がイメージ豊かに綴られながら数字と模型に象徴され、そこから物語と記憶と云う『メモリー・ウォール』から続くテーマへ接続されている。数、数、数。本書にはたくさんの数が登場し、描写にあたっては必要以上に具体的な数が語られる。マリー゠ロールの父親は測量によって模型をつくり、模型と数字を使ってマリー゠ロールは家の外を歩くことができる。彼女に科学の面白さを、世界の広さを教えてるエティエンヌは、レジスタンスに加わって数字を読みあげる。ヴェルナーは数学と工学によって見出される。彼の妹ユッタは戦後数学教師となって、電車模型が趣味の会計士と結婚し、ふたりの息子は紙飛行機に夢中になる。そしてこの小説のもっともドラマティックな場面においてマリー゠ロールの声がヴェルナーに届くとき、彼女が読みあげるのは『海底二万里』と云う空想科学冒険小説なのだ。ふたりを結びつけるのは通信である。それは、人間がなし得たおそらく唯一の奇跡と云って良い。あるいはそこに、科学と虚構も加えようか。ともすると、言葉も。それはあまりにも人間中心的で胡乱な考えだけれども、小説はその奇跡を信じ抜く。切り出され、磨き上げられた宝石は、それを生みだした遙かな地球の営みに較べればいかにもちっぽけで、その美しさをことさらに謳うのは確かに欺瞞である。けれどもだからこそ、この大いなる時間のなかでほんの一瞬きらめく宝石の光もまたひとつの奇跡ではないだろうか?
 もちろん小説は一切を肯定するわけではない。数字の持つ両義性、人間が数字になることの恐ろしさもまた書いている。ヴェルナーは訓練で、敵を人間と見做さないことを教わる。「純粋な計算だよ」とヴェルナーは、先生の口調を真似て云う。「そう考えることに慣れねばならない」。彼は通信と計算によって反乱者を炙り出してゆく。けれども小説の都合上、彼がナチズムにすっかり呑みこまれてしまうことはないし、人間を厖大な数に均してしまう大量虐殺のシステムもここには書かれていない。そのあたり、両義性と云う言葉では擁護しきれない、眉に唾をつけたくなるところはまだ残されているし、作者の周到さにかえってうんざりすることもある。たとえば神様にでもなったかのように遠くに置かれた本書の視点は、模型と云うガジェットによって、世界を睥睨する神ではなく、マリー゠ロールのために模型を作り上げる父親の眼差しに準えられる。その巧妙は感心する一方で、読んでいて引いてしまうきらいもある。
 けれども、だからこそこの小説はぼくにとって、かつてのように退けるものではなく、興味深く読み、考えられるものになったと云えるだろう。それはぼくの小説に対する関心が変化したことを意味するのだと思う。書くこと。つくること。そうして世界と関わる方法は、一切の真実を捉え、すべての声をくまなく聴き取る以外にもあるのではないか。頭でっかちないまのぼくにはむしろ、それがひとつの模索するべき可能性に思われるのだ。