鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

連鎖/転用:あるいは、ピタゴラ装置について考えるときに考えるいくつかのこと

 箱の後部に突き出た摘みを回して、ゼンマイを巻く。ゼンマイの動作によって歯車が回転し、それに接続された真鍮のシリンダーがゆっくりと回転を始める。シリンダーには小さなピンが無数に打たれており、これが台座に設置された櫛歯コームを弾くことで音が鳴る。櫛歯コームは端から段階的に長さが変わっていく。これによって音階を生じさせているのだ。また台座の隅では、シリンダー軸と歯車で接続された垂直の小さな軸を中心に、二枚の羽根が半円柱運動をくり返している。どうやら羽根の開き具合でシリンダーの回転速度を調整するものらしい。これは時計の仕組みにも似ている。
 ピンが櫛歯コームを弾く音は、木箱の中で反響することで、音色となり音楽となる。箱はただの外装ではなく、それ自体が音響装置になっているのだ。
 私は感心しながらも、少しだけ安心した。オルゴールというものは思ったより難しい構造ではない。電子機器に比べればずっと単純だし、材料も特殊なものが必要というわけでもなさそうだ。
――北山猛邦『オルゴーリェンヌ』(東京創元社

 北山猛邦の小説には、ときおりピタゴラスイッチのように手が込んだ物理トリックが登場する。ここでピタゴラスイッチと云うのは、正確にはNHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』の一コーナーである、ピタゴラ装置のことをさす。これにはさらにルーブ・ゴールドバーグマシンなどと云う一般名称があるらしいが、こちらよりあちらのほうが遙かに通りが良いうえに、ここで念頭に置いているのはあくまでピタゴラスイッチのほうだから、ここでは一応「ピタゴラ装置」と呼んでおこう。何らかの方法で起動した装置は、次々と仕掛けを連鎖させながら、ピタゴラ装置が「ピ」の字を打つように、殺人を実行する。その冷酷な機械仕掛けは、けれども稚気と表裏一体であり、ゆえにこそ、北山作品は童話的な、無邪気さと残酷さが渾然一体となる世界観を提示する。うえで引用した『オルゴーリェンヌ』はそんな北山の作風が十全に発揮された傑作であり、そこではピタゴラスイッチ的な殺人装置がオルゴールに準えられる。ひとりでに音楽を奏でながら、こちこちと回る歯車は、冷徹に殺人のための仕掛けを駆動する。この作品にあっては、じっさいに仕掛けられた装置だけでなく、殺人の計画ぜんたいがひとつのピタゴラ装置=オルゴールであって、そのなかに巻きこまれてしまった人間たちもまた、装置を駆動する歯車の一部だ。それは生きた人間をモノへと解体するような残酷であり、けれどもその残酷な眼差しは、往々にして探偵小説が世界に、人間に、向けてきたものだった。なんとなればそれは、世界を分解して、その仕組みを理解する眼差しだからだ。
 物理トリックとピタゴラ装置の話から、世界を分解すると云う大きな話題へ繋げたことは、何も勝手な連想ではない(勝手な連想でも良いが)。〈NHK for School〉における『ピタゴラスイッチ』の教員向け説明によれば、

ふだんの何気ない暮らしにも、ふしぎな法則やおもしろい考え方がかくれています。そのふしぎを人形劇やピタゴラ装置、アニメーションなどでわかりやすく伝えて、子どもの「考える力」を育みます。4~6歳児には初めての理科や算数、プログラミングの考え方も楽しみながら学べます。*1

 ものごとの仕組み、デザインの背景。『ピタゴラスイッチ』が楽しい音楽や人形劇のなかで陰に陽に扱ってきたそうしたテーマは、ピタゴラ装置にも一貫している。ドミノを倒す、ビー玉を転がす。重力や張力に従って作動する仕掛けはときに思いがけない挙動を見せながら、もっと大きな仕掛けの一部として駆動してゆく。ぼくは子供のころ、この番組が好きだった。――いや、いまも好きだ。実家でテレビを点けたとき、いつものリコーダーの音色が聞えてくると、そのつもりがなくともつい見入ってしまう。先日実家で見たのは、「ピタゴラ装置が駆動することで新たなピタゴラ装置が組み上げられる」と云う、これを「神回」と云わずしてなんと呼ぶと云う傑作だった。その感動が尾を引いて、ぼくにこの文章を書かせている。
 そこで書き留めたいと思うのは、ピタゴラ装置を筆頭としたこの仕掛けについて、いくつか思っていることの比喩的な断片だ。

連鎖

 先ほどほんの一瞬だけ、ぼくは機械仕掛けと云う言葉を使った。けれどもピタゴラ装置はマニピュレートできるものではなく、一度動き始めたら最後、われわれは固唾を呑んで仕掛けが連鎖しながら作動してゆくさまを見つめることしかできない。その連鎖を、ぼくは運命とか、歴史と云う言葉でつい喩えたくなる。逆に云えば、運命と云うものを、ピタゴラ装置のように捉えることができるのではないか。
 じっさいに自分の手でピタゴラ装置をつくろうとすればわかるように――あるいは、ピタゴラ装置が喩えているのだろうプログラムのアルゴリズムを考えて、コードを走らせてみればわかるように――たいていの場合、装置は思ったように駆動してくれない。コードの場合は単純なタイポからロジックの考慮漏れ、じっさいの装置にあってはさらに微細で複雑な空気、角度、摩擦の問題が、設計された装置の実行を阻む。番組として放送されているのは無数に重ねられているのであろうリテイクのうちの限られた成功例であり、現実にはあんなにもうまくはいかない。けれども、誰もが成功するとわかりきっている装置は、素朴な発見の面白さはあっても、番組としての面白さはない。ひとつひとつは素朴な仕掛けであっても、それを積み重ねた巨大な装置、ゆえに失敗の可能性を大いに含んだ仕掛けの連鎖が、一度たりとも枝葉を違えることなく選び取ってゴールまでたどり着く。その不思議。ピタゴラ装置のエンターテイメントは、そこにある。それは「起きるかどうか」の緊張と云うよりも、「起きてしまう」ことの驚きだ。
 探偵小説における物理トリックの驚きも、――ひいては、真相の驚きも、それと通じているのではないだろうか? こんな真相はあり得ない、としばしば探偵小説の登場人物は、読者は、あんぐり開けた口で驚嘆する。その驚きとは、そんなことが起こるかどうかではなく、起こってしまったことにこそ起因するのだ。もっとも、驚きを追求する余りむちゃくちゃで破綻した仕掛けは、ピタゴラ装置を編集で改竄するようなもので、かえってこちらの興を削ぐ。装置はあくまで単純な仕掛け、素材、動力によって駆動されなければならない。トリックも、推理も、真実も、探偵小説においてはそのように組み立てられるのではないか?
 さらに話を拡げるならば、小説自体が多分にピタゴラ装置的である。小説は、言葉で組み立てられたピタゴラ装置だ。それを読むと云うことは、固唾を呑んでビー玉のゆくえを、ドミノの動きを、弾けるばね、跳ねるゴムひも、回転する車輪の連鎖を見つめると云うことである。先の展開をあれこれ予想することやビー玉ひとつひとつへの共感はあくまでも仕掛けに組みこまれるものであって、読み手のそんな態度も巻きこんで、装置は冷徹に言葉を連鎖させてゆく。
 あるいはそうして一度きりの装置が成立してしまうことの驚きを、運命の衝撃と準えても良い。それは歴史の不思議でもある。もしかすると時間とは、なんらかの直線をこちらからあちらへ流れてゆくものではなく、事物が次々と連鎖しながら一度きりの仕掛けを駆動させてゆく――始末の悪いことに、ここには成功も失敗もなく、起こったことはすべて起こってしまう――その生成の過程をこそ、云うのかもしれない。

転用

 ピタゴラ装置について、同様のルーブ・ゴールドバーグマシンから一線を画す特徴として、まず思いつくのは投入されるアイデアの豊富さである。こうした装置には仕掛けを駆動させる要素――小説で云う人物のようなものがつきものだけれど、ピタゴラ装置の場合、この主役はビー玉以外にも、おもちゃの車やテープの筒など驚くほど多様だ。ときにはレール自体が主役になることもあるし、そもそもドミノ倒しのように、ひとつの主役が状況のなかを運動するのではなく、運動自体が連鎖してゆくことも多い。
 そしてこの豊かさの源泉にある発想が、転用であると思う。あるものを使うときの別のやり方。たとえばテープは筒状であるから転がるし、書物はドミノ倒しができる。それだけではない。書物の小口は良い按配のレールになるし、開いたページのまんなかもビー玉を転がすのにちょうどいい。そしてビー玉もまた、ときに重しとなってシーソーを傾け、レールの穴を塞いで次なるビー玉のための道をつくる。マッチやティッシュの箱がちょっとした台からビー玉の容器、ドミノ牌の代わりまでさまざまに転用されるのは日常茶飯事だ。もっと具体的な例では、折り畳み式のワインホルダーなんかもあった。ピタゴラ装置を解説した書籍では確か、これが重みで縮んでゆくときの動きの面白さに言及され、パンタグラフに見立てられていた。
 さて、とくに最後の「パンタグラフ」が良い例だけれども、この転用、この見立て、いかにも探偵小説のそれではないだろうか? これは通常こうやって使うが、こんなふうに使うこともできる――。トリックとは得てしてそのような発想から出てくる。あるいはそもそも、創造性とは転用ではないだろうか?

創造性。初めて耳にしたけれど、意味は十二分にわかり、クイリアムはその言葉をとっておいた。じつのところ、マーディナの言葉はたくさんしまってあった。木切れといっしょに流れ着いた釘と同じように、曲がりやゆがみをできるだけ直してからポケットに入れ、必要になったときに取り出す……でも、なんのために言葉を集めているのかと問われれば、きちんとした説明はできない。確かに、無口なキルダの住人には言葉よりも釘のほうがずっと役に立つ。
――ジェラルディン・マコックラン『世界のはての少年』(東京創元社

 誰もゼロからものを作り出すことはできない。われわれにできる創造とはしょせん、すでにあるものを別のかたちに転用することだけだ。流れ着いた釘を伸ばすこと、おそらくは船材を留めていたのだろうその鉄は、たとえば綱を引っ掛けるのに使えるかもしれないし、少々物騒なことを云えば、先を尖らせることで凶器にもなる。創造は転用である。と云うか、転用はごくありふれた、もののやりかた・・・・・・・なのだ。建築史家の中谷礼仁は事物と人間との関係を論じるなかで、建築における転用の事例に触れながら、次のように云う。

[…]転用は人間にとって基本的能力のひとつであり必要なものなのである。それはまた事物と人間との魅力的な連鎖を現わし出す。そのような根源的な構造として、転用は扱われなければならない。
――中谷礼仁『セヴェラルネス+:事物連鎖と都市・建築・人間』(鹿島出版会

 ピタゴラ装置が、単なる機械仕掛けに留まらない魅力を放ち、そこに何かしらの本質めいたものを覗かせるとすれば、おそらくはこのような点においてだ。ぼくは想像するのだが――、ピタゴラ装置とはおそらく、頭の中で考えながらうんうん唸るのではなくて、さまざまな小道具をいじりながら、これはどんなものなのだろうかと、まるではじめてそれを目にするかのように新鮮な好奇心で以て眺める、そんな現場から生まれるのではないか。
 そしておそらくは、小説も。ひいては、書くことも。うえでマコックランの小説を引いたように、言葉もまた転用される。その瞬間のために溜め込まれる。そして中谷礼仁もまた、おそらくはいまその瞬間に書き進めているその文章のことを思い起こしながら、次のように書く。

事物と人間との連鎖が現われ出ること。そのプロセスはたとえば「書く」行為にも現われる。書く以前にすべてが決まっているわけではない。はじめにあるのは所在なく書かれた言葉の羅列、メモ、アフォリズム。それらをシャッフルしたり、先人の言葉を写してみたり、ネットの海に出かけてみる。これらによって、おぼろげだったイメージやさわりや感じが、次第に明らかになってくる。その発見や成果がなければ、書くことの苦労への報いはほとんどない。
――同上

 いまこうして書きながら、ぼくもまたその報いを実感している。そして確信する。小説もそのように書かなければならない、と。これは思想の開陳と云うより、みずから言葉を転用=引用しながら得た、発見であると云うべきだろう。そんな転用の現場、事物と人間との連鎖が現われ出でるところに、書かれるものは生成される。それはともすると人間をモノへとおとしめる行為だけれども、しかし最初の話に戻るならば、ピタゴラ装置は、探偵小説は、そのような眼差しを以て、世界を見つめ、製作されてきたのではなかったか?
 ぼくはいまこうして書きながら、思いがけない着地点に自分で驚いている。気候変動に恐れおののきながら、そしてガザでおこなわれている最悪の暴力に何を云うこともできない自分から逃れるようにして書きながら、同時にこんなジェノサイドを前にして何が書けるのかと諦めながら、それでもこんなところまでたどり着いたことに、呆れ半ばに驚いている。ビー玉は転がり、ドミノ牌は倒れ、あの間抜けな笛の音色が響く。その笛は云っている。ふだんの何気ない暮らしにも、ふしぎな法則やおもしろい考え方がかくれています。これはもうほとんど、祈りのようなものだ。世界に絶望しないため、希望に縋るようなことだ。

*1:https://www.nhk.or.jp/school/youho/pitagora/(「先生向け」のスイッチをONにすると表示される。これはまるで種明かしであって、舞台の裏を覗くような気分だ)