鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/12/12 ケネス・ブラウワー『宇宙船とカヌー』

 手すり際に立ち、フィヨルドの壁が通り過ぎていくのを眺めながら、私はフリーマンの言ったことを考えていた。もしダイソンの性癖がふたたび一世代飛び越えて出てきたらどうだろう? 宇宙船は、誰かこの森のなかで育った者によってつくられることになるのかもしれない。きこりたちがあの入江に立ち入って来るとき、フリーマン・ダイソンの孫は心を決める。去るべきときが来たと心を決める。そしておそらく星へと旅立っていくことだろう。その子の父は驚くだろう。間違いなく驚くだろう。しかし、父親とはいつも驚かされるものなのだ。


 ある親子の伝記である。父親はフリーマン・ダイソン。宇宙を夢見る理論物理学者である彼は、原子力で旅する宇宙船を構想した。その息子はジョージ・ダイソン。地球を愛するナチュラリストである彼は、人力で旅する巨大なカヌーを構想した。非なるようで似ている父子、それぞれの伝記を重ね合わせながら、本書は単なる親子関係以上のものを捉えようとする。それは二十世紀の社会と文化であり、個人から惑星へと広がるエコロジーであり、近いようで遠い存在としての他者だ。ケネス・ブラウワーの筆致はアナロジーをおそれることなく、遠い二箇所やスケールの異なる事例に相似や共通点を見いだし、共鳴させてゆく。フリーマンが想像する地球外生命体とのコンタクトがもたらす驚異は、ジョージが遭遇する異星人のような素晴らしき生命への驚異に通じるだろう。けれどもそうした他者と、わたしたちは真にわかり合えることはない。ここに描かれる父子でさえ、お互いのことを理解できないのだから。
 しかしそれゆえに、わたしたちは「驚異」を得るのだ、とも云える。

 本書の書き方はぼくにリチャード・パワーズを想起させる。エコロジーアメリカ、父子と云ったテーマ・モチーフ面での共通点だけでなく、描写ひとつひとつが事物それ自体以上にそれが位置する網目の広がり――社会、文化、歴史、科学、生態系――を描こうとしていることが理由だ。もちろん、本書の刊行は1978年だから、パワーズから影響されているはずがない。むしろ、ベストセラーになったと云う本書の文体から、パワーズがヒントを得た可能性のほうがあり得そうである。
 何かを語るとき、その何かが位置する網目のなかに自らも飛び込んで、さまざまな共鳴・反響を聴き取ること。その描写はともすると描写ではなく説明と呼ばれるかも知れないが、それ自体が驚異を与える記述であるには違いない。そのとき、小説もまた小説以上のものになるだろう。