鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/10/26~10/29 山田風太郎『太陽黒点』・アレグザンダー『まちづくりの新しい理論』


 ガザでおこなわれているあらゆる暴力行為、ひいては虐殺に反対する。

山田風太郎太陽黒点

「誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバナラヌ、誰カガ罰セラレネバ……誰カガ……」

 読書会の課題本。舞台は戦争の記憶も遠ざかりつつある東京、「死刑執行・一年前」と云うおそろしげなカウントダウンから小説ははじまる。群像劇的に複数の登場人物の動きが連鎖するこの小説において、前半の主人公は鏑木明と云う美貌の苦学生になるだろう。彼はひょんなことから社長令嬢の美恵子に気に入られ、特権階級に対する野心を燃え上がらせる。一方で明のガールフレンドである土岐容子は、様子の変わった彼に翻弄されるうちに人生の道筋がねじ曲がりはじめる。もちろん、明も同様に。そうして新しい日本を生きる若者たちの運命は奇妙に絡み合い、やがて悲劇的な破局へ転げ落ちてゆく……。《誰カガ罰セラレネバナラヌ》と云う怨念に導かれ、やがて浮かび上がる裁きの構図。「死刑執行」されるのは誰なのか?
 玉突き事故、あるいは不謹慎な比喩をあえて使えば、ピタゴラ装置のような悲劇の連鎖は、終盤、背景だったはずの戦後と云う時代を前景化してゆく。そうして明かされる悪意の正体は、たとえばクリスティーの諸作を思い起こさせるが、クリスティーがそうした悪意を普遍的で抽象的なものとして書いていたのに対して、本書は戦争と云う、具体的な歴史と結びつけてしまう。そこで問われるのは、人間を人間とも思わなかったあの時代だ。「誰カガ罰セラレネバナラヌ」……、「あの戦争は、そもそも何だったのか」。そう問いかける、最終章の語りの迫力は凄まじい。その語りは、三人称多視点だった本書のPOVを、一人称へと呑みこんでしまう。かつて戦争が、この国の若者たちを呑みこんでしまったように。
 けれども小説は結末において、そんな語りを突き放してしまう。ふたたび三人称に戻ることで、すべてを呑みこむ一人称の語りから、頭のなかだけの思い込みの一人称へ矮小化させられるのだ。思えば、なるほど本書で起こることは、当人にとっては重大な悲劇でも、若者たちのごく個人的な痴情の縺れに過ぎない。ここに本書のシニカルな凄みがある。そう、所詮はただいくつかの死。けれどもその死のひとつひとつには、代え難い悲しみが、捉え難い憎しみが、そして、あまりにも巨大な、戦争と云う時代が結晶している。

 

クリストファー・アレグザンダー『まちづくりの新しい理論』

この模型が、私たちの世界であり現実でした。

 都市計画と云うトップダウンではなく、ひとびとの提案をもとにしてボトムアップ的に建設されてゆく「まちづくり」へ――。本書はアレグザンダーが提唱するそうしたまちづくり(urban design)の理念とその実践にあたってのルールが前半に示され、後半ではアレグザンダーが教鞭を執るカリフォルニア大学でおこなわれた「実験」の過程がレポートされる。とは云え実際に街を建設するわけではない。院生たちはアレグザンダーの指導のもと、地図のなかに建物を配置し、テーブルのうえに模型の街をつくりあげてゆく。彼らはコミュニティの住民であるかのように振る舞い、街に必要なものを提案する。かと思えば、地図のうえで碁盤の石がどこにどう効いているか議論するように配置を検討する。その製作過程は非常に興味深い。碁盤の石の喩えは決して単なる比喩ではない――ひとつの建物が置かれると、それは隣接する空間にも影響を与え、ひいては街全体に新たな力学が発生するのだ。ときには妙手のごとき建設がなされ、局面はダイナミックに展開される。部分の積み重ねによって形成される全体。全体のなかで形成される部分。あるいは、部分と全体の複雑な共同。そして、部分もまたそれ自体が全体である――。抽象的な理念から具体的な施工にまで至るアレグザンダーの理論は、実に普遍的な、製作と云うものを論じているように思われる。

 成長する全体は基本的で本質的な特徴をもっています。
 第一に、全体は、少しずつ成長していきます。
 第二に、全体は予測できません。成長が始まった時点では、それがどのように展開していくのか、どこで終わりをむかえるかは、まだはっきりしないのです。なぜなら、全体それ自身の法則にしたがう成長の相互作用のみが、その継続と終わりを決めることができるからです。
 第三に、全体ははっきりしたまとまりをもっています。真の全体は断片の集まりではなく、部分もまた全体性を持っているのです。それは、夢の各部分のようにお互いに驚くべき複雑さでつながっています。
 第四に、全体は常に情感に満ちています。というのも全体性それ自体が、私たちに働きかけ、心の底に届き、私たちの気持ちをゆり動かし、涙を誘ったり、幸せにしたりする力を持っているからです。

 しかしどうだろう、これ、机上の空論ではないだろうか?
 実験は結局、文字通りに机上の出来事だ――《この模型が、私たちの世界であり現実でした》。実際のまちづくりにおいて無視できない法律面や資金面の都合や、住民の暮らし、インフラなどがここでは大部分無視されているし、それは本書の結論部分でも認めている反省点である。もちろん理念は理念であり、その理念が社会変革を求めるものであることも理解できる。そして、ここで示される理論の面白さも。アレグザンダーの思想は今後も参照されるべきだろうと思うし、そもそも理論と云うものは、絶えざる訂正やアップデート、さまざまな折衝のなかで実践されるものだ。机上の空論だから切り捨てると云うのも、同じくらい非現実的である。
 ぼくが云いたいのは、本書の理論と実験は、机上の空論だからこそ面白い、と云うことだ。本書は云わばシミュレーションであり、モデルである。けれども学問とは畢竟、モデルを用いたシミュレーションだ。ボルヘスは短篇「学問の厳密さについて」のなかで、地図と学問を同一視している。机上に敷かれた地図とそのうえに建てられてゆく模型の数々は、本当の街ではないかもしれないが、われわれはそれを通してようやく現実を、「全体」を、知ることができるだろう。
 あるいはそれを、小説に喩えても良い。小説と云う全体は少しずつ書かれる。その全体はある程度予想はできても決して予測できず、終わりもまたはっきりしない。《なぜなら、全体それ自身の法則にしたがう成長の相互作用のみが、その継続と終わりを決めることができる》からだ。小説は全体としてはっきりとしたまとまりを持ち、その細部は決して断片ではなく、それ自体で全体性を持つ記述である。《それは、夢の各部分のようにお互いに驚くべき複雑さでつながっています》。そうして書かれた小説は、《私たちに働きかけ、心の底に届き、私たちの気持ちをゆり動かし、涙を誘ったり、幸せにしたりする力を持っている》……。小説とは机上のシミュレーションであり、夢のなかの街である。
 もちろん一切は空論だ。とても胡乱な空論だ。けれども楽しい空論で、刺激的な空論だ。本書の面白さと普遍性は、そこにあるとぼくは思う。