鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/10/19~10/21 小川哲『君が手にするはずだった黄金について』・京極夏彦『鉄鼠の檻』


 新刊と、いまさら読んだタイトルをひとつずつ。前者はミステリ研のDiscordに投稿したものを再録した。後者はいまここで書いているもので、作品の核心と思われる箇所に踏みこむ。未読ならば注意されたい。

小川哲『君が手にするはずだった黄金について』

 小説を書けば書くほど、小説がわからなくなっていくような気分になることがある。小説にはさまざまな可能性があって、僕にはその可能性のすべてを掬いとることができない。しかし、小説を書いてみなければ、小説の可能性に気づくこともない。小説を書くということは、僕の知らない、僕には届きようもない小説が無限に存在することを知るということでもある。

 小川哲は自分の作品がどう読まれ、自分がどう見られているか、多分に自覚的な小説家である。それは単に自己プロデュースが巧いと云うだけでなく、デビュー作から一貫して書きつづけている「記憶」と云うテーマと不可分であり、自分とは何者であるのか、生きると云うことはどのようなことかを問うことに繋がっている。それはともすると自意識過剰で内省的になりすぎる問いだけれど、小川哲はむしろ自分の世界を外側へと拡げてゆく契機として書いているのが独特なところだろう。本書に置いて繰り返し語られる小説とは何かと云う問いも、ゆえに自家中毒とは映らない。それは小説を書くにあたって問わざるを得ない問いなのだ。小説とは何か――本当のことを書こうとすれば嘘になる。しかし、どれだけ嘘を書いたところで、現実から逃れることはできない。
 本書はいずれも「小川」と云う名の小説家を語り手とする短篇集である。これまでの作品に較べて起こる出来事はいずれも小規模で、ごくごく私的だけれど、ゆえに「記憶」と「人生」、そして「小説」がこれまでになく正面から問われる。人生をグラフにするうち小説家への道が開けてゆく「プロローグ」、あの日の前日に何が起こったのか記憶を遡ろうとする「三月十日」、どうしようもなく本物になることのできない男たちを語る表題作と書下ろしの「偽物」――。恋人の記憶。友人の記憶。自分自身の記憶。記憶とは物語であって、自分と云う人間はそこから記述されるのに、ときとして記憶の数々は自分を裏切る。どこまでが嘘でどこまでが本当か。そもそも自分は「本物」なのか? では、あいつは? あなたは? その問いは他者へ、外側へ向かって自分を開いてゆくと同時に、底知れない虚無へと繋がってしまう。そしてこの小説もまた、どこまでが嘘で、どこまでが本当かわからない。そもそも小説とはそのようなものではない、あるいは、そのはざまにあるものだ――と云うような議論をそう云えば東浩紀が『訂正可能性の哲学』でおこなっていて、本書の「プロローグ」では『訂正可能性』と同じようにクリプキを引いている。両書のテーマとして通じているのは、生きる、と云うことの持つ複雑さだ。われわれは無数の可能世界を持つと云う点で無限であり、そこからただひとつの、一回限りの人生を選びつづけなければならないと云う点で有限である。その面白さと理不尽さにどう付き合ってゆくか。そのひとつの方法として小説はあるのだろう。読むことも、書くことも。

 

京極夏彦『文庫版 鉄鼠の檻

「拙僧が殺めたのだ」

 記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。
 それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身を窶し、完膚なきまでに解体されてあっと云う間に霞となり塵となって消えて行くのだ。
 思い出すと云うことは思い出を殺すことなのだ。

 読んで驚いた。紛う方なきフーダニットである。事件――作中の表現によれば『箱根山連続僧侶殺害事件』――の中心となるのは山深くに「発見」された知られざる古刹・明慧寺。小説のほとんどはこの寺と、寺と外界との云わば中継地点にあたる宿・仙石楼を舞台とする。その閉塞感は半端ではない。登場人物は基本的に寺と宿を行き来するばかりで、やって来る者はあっても出てゆく者がいない。読んでいて思い浮かべるのは箱にすっぽり収められたジオラマだ。小説はこのなかに寺を建て、たくさんの僧侶を投入し、それから記者を、作家を、探偵を、本屋を放りこんでゆく。まるで人形遊びでもするみたいに。登場する僧侶たちは皆、禅宗のさまざまな流派に擬せられ、殺されるときはまるでひとの尊厳なんてどこ吹く風とばかりに死体をモノとして処理される。けれどもその恐ろしさは作品固有のものと云うよりは、犯人当て小説が本来的に持つ恐ろしさだ。戒律や教義、修行、あるいは問答に生きる僧侶たちの厳しさと彼らを襲う死の暴力は、小説と云う閉じられた舞台のなかで人間の生死がパズルの要素として処理されてゆくことの残酷と響き合う。ほかのシリーズ作品ではどうだったか思い出せないが、戦争と云う暴力――この世界そのものを逃げ場のない箱に収めるかのような装置――にしばしば言及されるのもそこのあたりに理由があるのだろうし、その理由が本書を『哲学者の密室』への一種の応答として読ませる。死の特権化や本質の直観と云った、ほのめかしも何度かなされる。
 しかし本書の重要なところは、そうしてミステリと題材を共鳴させるどころか、きれいに――歪に――重ね合わされることにある。そしてフーダニットの一点において、両者はものの数行だけ、しかし着実に準備され、交差する。くどいほど長い禅についてのレクチャーや議論は、ある僧侶の言葉に向けられることで大胆に容疑者を限定してみせるのだ。禅の歴史についての大胆な仮説を含めたその推理はかなり飛躍を感じるけれども、それを除いても犯人がそのひと以外には考えられなくなることは間違いないし、もとより求められているのは論証ではない。華やかな推理や厳密な論証を求める時点でわれわれは言葉の罠に嵌まっている。そして本書で繰り返し問われるものこそ、この「言葉」なるもの――われわれを閉じ込める檻である。禅における悟りはその彼方にしかない。京極堂が弄する議論や推理はこの事件において応急処置であり絡め手であり、懸命に善後策を練ることがせいぜいで、それもまた失敗する。
 そもそもこの小説は、どうしようもなく小説なのである。
 図らずもテーマとして通じる本を連続して読むことになった。それは『苦海浄土』から『黄金』、そして本書へ通じているテーマであり、実を云うと、九月の後半に取り組んでいた小説もまた、言葉なるものについて書いている。拙作はまあ拙作だとしても、小説に待ち伏せされているような不思議がある。いや、不思議なことでもなんでもないか。小説を書くと云うことは、小説を読むと云うことは、必然、小説とは何かを考えることであり、それは言葉とは何かを問うことにもなるだろう。われわれは言葉の外に出ることができない。あるいはこんなことを考える時点で言葉のなかに囚われている。そして真に――と云ってしまった時点でおしまいだ――書かれるべきものは、書かれた瞬間に抜け落ちる。いつか書いたように言葉とはポンペイを覆った火砕流のようなもので、あとに残るのは言葉、ただ言葉だけだ。生きていたひとびとは、と云うか、生きると云うことそのものは、空洞としてしか残らない。悟りとはあるいは、その空洞のことか。いや……。
 おそらく本書において言及しやすいのは、禅のうえに成り立つ、あるいは成り立っていないからこそ特異な、殺人の動機と見立ての理由である。しかしそれらもまた言葉の話だ。いずれも言葉の彼方に届かないものたちによる、言葉の檻のなかの理屈である。それは敗者の羨望なのだ。そして小説もまたその檻に囚われ、最初から敗北を決定づけられている。ふたつ目に引用したとおり思い出すことが思い出を殺すことだと云うのなら、書くことはともすると、一切を殺すことではないのか。