鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/12/22~2024/01/11 ティム・インゴルド『ラインズ』ほか

 大変な年明けになった。地震、事故、火災。至るところで人びとが、理不尽によって傷つき、命を落としている。世界が音を立てて壊れてゆくような気がする。もうとっくに腐り始めているのかもしれないが。
 私生活においても、熱が出るわ、肺に穴が開くわ、身体的に苦しい出来事が続いた。現在はどちらも回復しており、やっと落ち着いてブログを書けるまでになっている。ご心配をおかけいたしました。

恩田陸『象と耳鳴り』

「街は生き物です。いや、もっというと、都市というのは化け物ですね」

 昨年末に前川淳『空想の補助線:幾何学、折り紙、ときどき宇宙』(みすず書房を読んだ。天文台のエンジニアであり、折り紙作家・研究家としても知られる著者によるエッセイ集で、たいへん面白く読んだ。感想は書きそびれてしまったけれど、いずれまたどこかで語る機会があるだろう。それで、折り紙と云えば――、と連想した。推理小説を折り紙に喩える解説があったはずだ、と。けれども具体的な作品名が出てこず、twitterで情報を募ったところ挙げてもらったのが本書だった。ずばり当たりだ。すばらしい。何かと悪化したtwitterだけれど、情報収集インフラとしてはいまだ強力なところがある。いや、以前からの基盤がまだ壊れていないだけ、と云うべきか。いずれにせよありがたい。実家に帰省してから、早速再読した。
 当該解説は西澤保彦によるもので、パズラーにおけるロジックを折り紙に喩えている。推理は謎を解体すると同時に構築する。それは折鶴を一手ずつ展開してゆくようなものであり、最後には呆気ないほど薄っぺらな一枚の紙が残るとしても、幾何学模様の折り目が折り紙の不思議を思い起こさせる。それは「一枚の折り紙がハサミの切れ目も入れられることなく鮮やかに鶴などに姿を変えてしまう不思議」だ。西澤自身によるものではなく、出典不明の喩えらしいが、推理小説における謎の解体と構築の不思議を巧みに捉えた良い喩えだと思う。
 とは云え本書の場合、謎の解体はあまり重視されない。多くの短篇において謎は謎として姿を現さず、日常のなかの一瞬の亀裂として眼前をよぎる程度で、たいていの場合探偵役を務める関根多佳雄によってそこから謎が見出され、推理はそこからぐるり、世界を裏返すかのように展開される。ふと湧き上がる記憶からまるで違った様相が浮かび上がる「曜変天目の夜」、一枚の風景写真に見出された人間心理の深淵から人類規模のヴィジョンをも覗く「ニューメキシコの月」、幻惑の記憶が合理的な絵解きの果てに奇妙にもいっそう幻惑の光景を起ち上げる「廃園」――。云うなればそれは、そもそも世界が折り畳まれたものであることを明らかにするかのような眼差しだ。あとに残るのは、真っ白で薄っぺらな折り紙ではないのか? 人類が滅んでもなおのこる真っ白な荒野。あるいは、人類をも超越してしまった何ものかの地平。本書の白眉「ニューメキシコの月」や、末尾の異色作「魔術師」が行き着くのは、そのような果てである。
 ハリイ・ケメルマンの古典的傑作「九マイルは遠すぎる」について、むかしサークルの同期が、あれは夢が現実になる話ではないか、と指摘していたことをよく憶えている。この指摘はぼくの知る限りで、どんな「九マイル」論よりも正しくあの作品を捉えている。推理とは言葉と理屈の遊びであり、この意味において、本書の解説で西澤が氷川透を引いて云うように、ロジックとはレトリックである。そして推理は推理である限り空想であり、夢だ。「九マイル」の驚きとは、その夢が現実になってしまう驚きに起因している。もちろんこの驚きとは、一枚の紙からどんなものでも折り上げられてしまう不思議と通じているだろう。けれども本書の場合、この夢は夢のまま留め置かれる。多佳雄たちの推理が確かめられることはめったになく、真実はもやもやと夢のままであり、ゆえにこそ、ひとつの世界像を起ち上げるまでに至る。それでいて理屈は理屈であって、荒唐無稽な妄想ではない。ともすると陰謀論的な誇大妄想へ接近するこの夢としての推理に本書の危うい魅力があり、緊張がある。だとすれば集中でもささやかな、それでいてもっとも大胆な仮説を展開す「幻想」の小説――「象と耳鳴り」が本書の表題作であることも当然と云うものだ(もっとも、作者はバリンジャーに因んでいると云うし、実際これはひとつの暗合、ミステリ読者を惹きつけてやまない偶然の一致に過ぎないのだろうけれども)。

 

京極夏彦『文庫版 狂骨の夢

「中禅寺――とか申したな。小賢しいことを善く知っておる。口先もそれだけ立てば真実になろうぞ。まるで言葉の曼荼羅じゃ」

 読書会の課題本。順番こそ前後したけれど、これで百鬼夜行シリーズの初期五作品を読んだことになる。『魍魎の匣』から次には進まず、数年後に『絡新婦の理』から遡るようにして読んでいった理由はいろいろとあるが、結果としてはこの順に読んで正解だったようだ。と云うのも第三作となる本書は、前半が非常にかったるいからである。順番通りに読んでいれば挫折していたことだろう。ぼくは小説にあまりエンターテイメントを求めるたちではないが、それにしたって限度がある。もとより京極文体とは相性が悪いのだ。やたらに多い改行、その度に乱されるテンポ、これにはこれでリズムがあるのだろうとは思うがどうにもそれに乗り切れない。ストロークではなくドットを一ピクセルずつ置くような書きぶりながら恰好だけ勢いが出ているのも好かない。要するに、文章の身体感覚が合わないのだ。このあたり、相性が悪いからこそ興味深いと云う域にさえ達している。
 とは云え本書の前半は、ろくなイベントも発生しないまま三回ほど似たような話が角度を変えてくり返されるので非常につらかった。小説は冒頭、ふたつの語りが混じり合ったような夢と記憶の告白から幕を開ける。それから、奇妙な殺人の告白。そして今度は、フロイト講義を挟んでこれまた奇妙な亡霊殺しの告白――。起こったことと云えば唯一、不思議な話をする女性が少なくともひとりはいるらしいと云うことぐらいだ。ようやく面白く読めてくるのは、不謹慎な話だけれど現に死体が転がってからで、それでもふわふわと掴み所のない印象は否めない。死体そのものは目撃されないからだ。本書における事件とはほぼすべて告白であり、記録であり、伝聞であり、要するに、言葉による構築物である。
 けれどもこのシリーズにおいては、言葉こそ眼目である。
 そして云うまでもなく、小説とは言葉による造形物だ。もちろん、まじないも。文化も。科学も。
 ゆえに京極堂による「言葉の曼荼羅」が描き出される後半の憑きもの落としの段になると、書きぶりは堂に入って、小説は俄然面白くなる。と云うか、ここにいたってようやく事件は全貌を現すのだ。物語の規模を風呂敷に喩えて、その展開を「広げる」、収拾を「畳む」と表現するが、本書の場合、むしろ前半において風呂敷はこんがらがったかたちで折り畳まれ、後半になってどんどん広げられてゆく。まさかな、とは思っていたが、神話級の話まで出されると乾いた笑いが出る――その発想を笑うことができない歪な現代に対しても。
 困難は分割せよ、と云う。本書の場合、くり返し甦ってくる死者や混じり合う記憶、黄金の髑髏と云った謎を解決するにあたって、事件は途方もない規模まで拡大され、分解されてゆく。そうして広げられた「言葉の曼荼羅」においては、神話の時間も土地の歴史も個人の記憶も水平に並べられ、その茫漠とした言葉の海を、鈍く光る髑髏がひとつ、ぷかぷか浮かんで転がってゆく。あれは玉突きだね。いいや、キャッチボールか。違う、フットボールだ――!*1 そんなゲームの勝者となるのではなく、ゲーム自体に、ボールそのものに、素朴な言葉で痛烈な一撃をお見舞いする「彼女」こそ、この小説の主役だったのだろうと思う。その瞬間は、驚くほど爽やかで快い。
 本書を読んでいて思いだしたのは、ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』だった。どちらも複雑怪奇な謎に対して、同じくらい複雑怪奇な真相が明かされる。それ以外に贅肉はほとんどないソリッドな構成を採っているのに、骨組みが複雑すぎるために全体が膨らんでいる。それこそまさしく骸骨の、妖怪のような異形である。

 

ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』

人々が思いのままにそのあとを追いかけ、つかまえられるようなたくさんの緩やかなラインの端っこを、私は残すことができただろうか。私の望みは蓋を閉じることではなく、蓋をこじ開けることだ。この本の終わりには来たのかもしれない。でもそれは私たちがラインの終点に到達したことを意味するわけではない。ラインは生命のように終わりのないものなのだから。重要なのは終着点などではない。それは人生も同じだ。面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。

 去年からスケッチを始めたのは、インゴルドの思想に触れたことも理由のひとつである。生きることは線を引くようなものだ。それも、フリーハンドの、揺らぎながら、その軌跡を記しつづけるようなラインを。紙の上をひっかくこと。生きた痕跡を残すこと。そこにある始点も終点も、しょせんは見かけのことであり、本当に面白いことは線が延びてゆくそのあいだにある。線を引く、その瞬間に。そのようなことを考えながら、ときに折れ曲がったりこんがらがったりしつつ、これからもどんどん線を延ばしたいと思う。
 と云うわけで、今年はインゴルドの著書をもっと読むつもりだ。手始めに、インゴルドが線について本格的に論じた、こちらを。副題通りの文化史と云うよりも、ここで提案されているのは線の人類学、線の哲学とでも云うべき、大きな構想であって、ひとつの研究領域でさえあるとインゴルドは云う。主として論じられる「線」は三つ挙げられるだろう。記された線としての記述。糸と軌跡。それから、メッシュワーク。これらが線の名のもとに絡まり合い、ときに駄洒落としか思えない飛躍によって結びつけられる。糸から布を編むように、あるいは撚られた糸をほどくように、わかるようでわからないその議論は掴み所がなく、けれどもそれゆえについ追いかけたくなる。その線はどこまでも延びてゆく。書くことから描くことへ、それから、住まうことへ。生は何かに収まろうとせず、自分と関係する無数のラインに沿って世界を貫く道を糸のように延ばしていく。
 とは云えその議論には正直、いまひとつ乗れないところもかなりあって、たとえば記述と楽譜を分けるものは何か、と云う問いから展開される、メディアを消滅させた大胆な言語観は記号を線描へ融解させるかのようで刺激的だけれども、あまりに根拠薄弱で、考察も曖昧なところがある。何より転換点を印刷技術に持ってきているのがだいぶ胡乱で、このために印刷全般、タイプライターも悪しき近代として否定することになっているのはいただけない。いずれにしたってわれわれは印刷するし、打鍵するのだから、論じるべきはその否定ではなく、そのような営為にも見られる「線」性ではないだろうか? インゴルド自身、セルトーを引きながら「線」が途絶えることはないと見ているのだ。書くことの、生きることの、不可逆的な変化を見つめることなく昔に帰れと云うのなら、それは人類学者の仕事ではない。おじさんのたわごとである。
 もちろん、インゴルドの言葉はおじさんのたわごとでは終わらない。糸と軌跡と云う線の分類は、双方向的な変換と云う仕組みも含めて魅力的な図式であるし、そこから展開される場所論――世界に線を引くこと=地図を描くことについて対比される「居住」と「占拠」は、生態学から都市論までいろいろと線を延ばせるすぐれた枠組みだ。直線を近代なるもの、男性的で、帝国主義的なものの象徴とする見立ても、ダニエル・リベスキンドのドローイングを参照しながらその直線がばらばらになったことをポストモダン的状況に準えることまで含め、じゅうぶんに広い射程を持っているように思う。インゴルドはときおり仮想敵のことばかり相手にしすぎて、その考察の射程のせっかくの広さ、どこまでも延ばせるはずの線を自分から狭くしているようであるのがもったいないけれど――タイプライター嫌いはその筆頭だ――それでも面白くてたまらないのは、載せているエンジンはやはり強力だからだ。いや、そんな侵略的な喩えは相応しくないかもしれない。われわれはここから歩いて進むのだから。末尾ではインゴルドも、あとはお前が線を延ばせ、と云う半ば無責任で半ば頼もしい励ましを送っている。私の望みは蓋を閉じることではなく、蓋をこじ開けることだとインゴルドは云う。そしてその目論見は、すでに果たされた。あとはどこに進んでも良い。とりあえず次は都市論のほうへ、ケヴィン・リンチ、それからセルトーと、線を延ばしてみようかと思う。

*1:『六の宮の姫君』のほうが先のはずだから、意識していないことはないと思うのだが、どうだろうか