鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/11/02~11/07 石岡丈昇『タイミングの社会学』ほか


 読書日記なのでさらっと書くつもりだったが、どれも本当に良い本だったのでじっくり書いてしまった。

結城正美『文学は地球を想像する:エコクリティシズムの挑戦』

 環境はテクストの内と外の両方に存在する。オゾンホールは事象を指すのであって、「オゾン層という言葉に穴があいているのではない」。しかし、オゾンを「層」ととらえ、人間の活動の影響によってそこに「穴」があいたという見方は、文化的に構築されたものである。物理的事象はけっして透明な事実ではなく、言語と結びついたかたちで知覚される。テクストの内と外は関連しており、両者の関係は合わせ鏡に映る像さながら往復運動をくり返し、固定されることがない。

 読書会の課題本。エコクリティシズムとはどのような批評か、その登場から現在までの系譜をざっと辿ってから、その拡がり――人間の生活圏の周縁・外側としての自然から、人間の生活圏と云う自然へ、人間を含めたエコロジーへ、惑星規模の環境へ――をあらためてなぞり直すように具体的なタイトルを挙げてエコクリティシズムを実践し、自然とは何か、環境とは何か、そしてわれわれを待つ未来はどうあり得るのかを問うてゆく。著者がアメリカ文学研究者であることもあってか英語中心的すぎることや、作品ごとの読解について云いたいこともないではないものの、入門書としてコンパクトにまとまっていて良いと思う。読書会と云うのはそのものずばり、エコクリティシズムの読書会なのだが、一年くらい顔を出せておらず段々気まずくなっていたところ、本書でやると云うのでサクッと読んで気軽に参加できた。同じような読書会をやるなら、本書で第ゼロ回をやるのも手だろうと思う。ブックガイドにもなっているので。
 読書会では、本書の表題にもなっているエコクリティシズムの挑戦――自然を、環境を、地球をめぐる文学と云うものが、では現実の環境危機に対してどれだけ届くのだろうか、と云う話も出た。石牟礼道子の例が示すように、なるほど、すぐれた文学はひとを動かし、社会を変える。けれどもそれは、現代の地球を取巻く機能不全にどこまで有効だろうか? 水俣病の裁判さえまだ終わらないのに? いや、そこまでの強い疑義は読書会で問われなかったけれども、構造的な環境破壊――個人個人は良くないことだとわかっていながら、誰にも止めることができない、いたずらな開発・造成――に対して、(究極的には)ひとりで書き/ひとりで読む、と云う文学の仕組みはともすると無力だ。明るい未来を想像することは難しい。けれどもちろん、そもそも「明るい」とは何かと云う根底から問い直しながら考えることをやめないこと。それこそエコクリティシズムの、ひいては文学の「挑戦」にほかならない。

 

石岡丈昇『タイミングの社会学:ディテールを書くエスノグラフィー』

すごい雨音だろ、トモ。何も聞こえなくなる。サンロケでも雨になるとトタン屋根の雨音はすごかった。だけど、サンロケには光があった。密集してみんなが住んでいたからね。トモ、外を見てごらん。ここではみんなマニラに戻ってしまっていて、外には灯りもない。ここに居るのは限られた人びとだ。ここは、人がいない場所、活動のない場所。ここで、夜に、トタン屋根の雨音を聞いていると、俺は本当にさみしくなる。さみしさに耐えられなくなる。

《何が起こるかわからない明日を待ち、絶えざる今を生きのびるとはどういうことか》と云う帯の紹介文が眼に留まり、手に取ったら《書くことは考えることである》と云う書き出しで心掴まれた。考えてから書くのではない。書きながら考えること。書くことで考えること。書くことは考えることであり、そうして生きることでもある。
 本書はフィリピンの貧困層を題材にしたエスノグラフィーである。前半はボクシング・キャンプ――単なるジムではなく、そこで寝食を過ごすのでそう呼称される――の若者たちの暮らしを、後半は都市開発にともなう強制撤去に揺れる人びとの生活を記述しつつ、著者はそもそもエスノグラフィーとはいかなる実践なのかと云うところから論を進めてゆく。それは単なる詳細な記述ではなく、良くできた観察ではない。世界を根底から問い直す契機である。社会において搾取され、抑圧され、無視される人びとは、明日も知れぬ日常、次々と問題が起こるために絶えず壊れつづける日々を懸命に生き延びている。彼らが曝される理不尽は社会の構造がもたらす理不尽であり、エスノグラファーはこの理不尽をともに目撃することで、見返すように社会の構造を暴き出すのだ。そして人びとがいかにしてこの理不尽を生き延びているのか――あるいは、いかにして自分を磨り減らしているのか――を記述することは、鳥瞰する地図や標本を留めるような方法では決してたどり着かない知見をもたらすだろう。つまり――、同じ苦しみとしてはとうてい並べられずとも、地球全体が絶えず壊れつづける現在において、「生きてゆくこと」はいかにして可能か。
 こうしてまとめるだけではどうにも云い足りないくらい、章ごとに提供される視角、展開される議論、いずれも素晴らしい本だった。時間と空間の構造――ものごとを進めるための決定権がこちら側から奪われていることによって発生する服従の構造と、都市開発やコロナ禍の封鎖によって人びとの生活が寸断されてゆく蹂躙の構造――についての考察は全篇を貫いて、人びとの生活のディテールから大きなスケールへと届いている。そうした構造的暴力を生き抜くための柔軟な「家」のあり方は示唆に富んでいるし、そこから現代の「レジリエンス」を引き出しつつ、決して「草の根」的なマッチョイズムに陥らない慎重さもある。肉体的な疲労と区別して、精神と肉体が結びついた身体の疲労としての「疲弊」と云う概念も興味深い。人びとは疲れている。何に? わからない。あるいは、すべてに。疲れていると云うことに疲れている。なんとなれば、絶えざる日々を、人びとは自分に決定権のないまま耐えなければならないからだ。その疲れは運動後の心地良い疲労ではなく、ぐったりとした「疲弊」である――。そしてこうした議論もまた、エスノグラフィーによって捉えられたディテール、生きた記述から引き出されるがゆえに実感を持つ。それは数値や図式ではどうしても取り落とされる人びと固有の生であり、けれどもそれを書き、読むことで、われわれは「わたし」を知るのである。
 メモやノートをよく使うようになって、そして日記をつけるようになって、もう半年以上になる。ぼくは書きながら問う。書くことを問う。この夏、ぼくは小説を書いて、その登場人物のひとりに書くことは殺すことだ書かせた。けれどもそれは終わりではない。書くことは決して終わらない。本書における書くことの実践を通してぼくは生きながらにして書くことを問わなければならない、と思いはじめている。こうして感想を書きながら。

 

本田晃子『革命と住宅』

保管と記憶のための空間は、こうして喪失と忘却の空間へと裏返る。言い換えれば、個々の建築物を平等かつ効率的に保管するシステムは、同時にそれらを効率的に破壊する装置としても機能するのだ。

 まとめて云えばソ連の建築(思想)史についての本で、内容としては、実際に建てられた「社会主義的」住宅――コムナルカやフルシチョーフカ、ブレジネフカ――の系譜を辿る前篇と、実際には建てられなかった建築――イワン・レオニドフのアンビルトや、結局建たなかったソヴィエト宮殿の顛末、そして知られざるペーパー・アーキテクト運動――の思想を論じる後篇「亡霊建築論」の大きくふたつにわかれる。建ったか、建たなかったか。生きられたか、生きられなかったのか。両方の題材は正反対であり、正反対であるがゆえに、ソ連イデオロギーと建築の関係を両面から照らし出す。そうして浮かび上がるのはソ連と云う奇妙な国家像――未だかつて建てられることないままに崩壊してしまった、未完の廃墟の姿だ。
 二十世紀のはじめ、志高く設計された新時代の住宅は革命のイデオロギーそのままに、旧弊な価値観を否定して家族を解体しにかかる。けれどもそのユートピア――あるいはディストピア――は十全に果たされることなく、時代がスターリンの独裁へ移ろうと、家は解体されるどころか、人びとは国と云う巨大な家に囲い込まれてゆく(もちろん、父親はスターリンであり、その相手は母なる祖国だ)。けれど皮肉にも、内戦が、粛正が、戦争が人びとから家を奪った。解決のために用意されたコムナルカはイデオロギーを捩れたかたちで達成した、誰もひとりではいることのできない共同住宅である。それは相互監視社会の構成単位だ。そしてスターリン亡きあとの時代では一転、人びとは家庭ごとに閉じられた家を与えられるけれど、それは家の否定の失敗であり、ひいてはソ連崩壊への序曲でもあった――。
 前篇で綴られる住宅の系譜には、イデオロギーの形骸化する過程が映し出されている。透明な家、直線的な住まいは人びとの生活を取りこぼし、同時にそこで生きる人びとの暮らしが、果ては国家のイデオロギーを骨抜きにする。もとより政治的な思想を建築と云うかたちで現前させることがどだい無理なのだ。ゆえにイデオロギーで突き抜けてしまった建築は、アンビルト――紙上の建築で終わる。けれどもそれは、建築が物語になると云うことだ。そうして物語られた建築は、象徴として、幻視として、果てには批評として、メディアのなかを漂いはじめる。後篇で論じられるそうした「亡霊建築」の数々はどれも興味深い。イワン・レオニドフの、もはや建てることを一切無視したかのような建築図案は抽象画のようだし、巨大すぎるレーニン像をいただくソヴィエト宮殿の、設計の変遷とエスカレーションは、ソ連と云う国家自体の数奇な顛末に通じるだろう。個人的にもっとも面白く読んだのはアレクサンドル・ブロツキーとイリヤ・ウトキンによる『建築の墓所』そして『住宅の墓所』だ。集団墓地、あるいは博物館の展示のように並べられた数々の家は、都市開発のなかで失われた住宅であり、そこで営まれていた暮らしの記憶の痕跡である。墓所はそうして記憶を蒐集する。けれどもその蒐集には果てがなく、決して達成されないと云う意味でもこれはアンビルトであり、いずれ訪れる忘却から逃れられない。けれども本田は、それを物語として囲い込むことで、抗えない忘却そのものを主題として描いているのだと読み解く。そのときわれわれは、失われたことを通して失われたものを知るのだ。
 あるいはその抵抗こそ、物語ることの意義、その切実な理由ではないか?
 戦争の時代である。これからたくさんの廃墟が生れて、ファシズムが叫ばれ、ディストピアが訪れるだろう。けれどもぼくが本当に怖いのは、そんなディストピアさえ成立しなくなる荒廃であり、同時にそこに、ぼくは希望を見てもいる。どれだけ規格化された生活を押しつけられようと、人びとは固有の記憶を家に、モノに、刻みつけるだろう。そしてどんなに鮮烈なイデオロギーも、やがては空洞化して挫折する。そこでものを云うのはおそらく、生きることであり、物語ることである。

革命と住宅

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