鷲はいまどこを飛ぶか

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読書日記:2022/10/27 カイ・T・エリクソン『そこにすべてがあった』

 1972年2月26日、アパラチアの山中バッファロー・クリークで発生した大規模な洪水は125名の人命を奪い、流域の家々を、そこに生きる人びとの暮らしを押し流した。そこでなにが失われたのか。本書は被災者たちが負った心の傷を調査し、社会学的に論じた研究書だ。原著刊行は76年だが、とくに2005年のハリケーンカトリーナの災害以降、現代の古典として読み直されていると云う。
 社会学について大学一回生のとき一般教養で履修したきりの人間としては本書を専門的観点から批判的に読むことはできないが、一方で論旨が理解できないわけでもなく、山に暮らしてきた人びとの一見矛盾した性向を分析するくだりなども興味深く読んだ。単に災害から話を始めるのではなく、その土地に生きている人びとの社会学的分析から始めると云う手順も。彼らは無個性な被害者ではなく、土地に固有の暮らしと共同体を持った顔も名前もある人びとだったと云うことも。彼らの個別の声から慎重に一般を取り出そうとする著者の手つきも。
 洪水の原因は豪雨と云うよりも、炭鉱を開発していた会社が築いたダムが決壊したことにある。だから土地の人びとが負った傷は、土地そのものに加えられた傷として災害の前から始まっていたと云わなければならないし、彼らの暮らしを語るにあたって炭鉱会社が与えてきたもの――新しい経済、新しい職業、肺の病――と、奪ってきたもの――アパラチアの自然、昔ながらの山の暮らし――を欠かすことはできない。この洪水は一種の人災なのだ。本書の現代性のひとつもそこにある。気候変動が著しく顕在化し、天気が狂っていくこんにち、自然災害は天災ではなく人災だ。自然環境を含めた「わたしたち」の網目が捩れ、大きな穴が開いている。
 著者は前半にたっぷりと紙幅を取りながら、アパラチアに人びとが住み着き、やがて炭鉱会社が分け入ってくる歴史を、そうして形成されてゆく独特の社会を記述する。失われたものを美化するためではない。そもそも文脈を遡らなければ、なにが失われたのかさえ、われわれにはわからないからだ。失われたのは命だけではない。家財や、建築物だけでもない。家々が持っていた記憶や土地に刻まれていた歴史さえ、洪水は押し流した。隣人との交友も、会社への信頼も、自然との結びつきも。
 本書の後半は、そうして何もかもが失われてしまった人びとの声に耳を傾けながら、何が失われてしまったのかを考察してゆく。それを大きくまとめれば、繋がりと云うことになるのだろう。家財との繋がり、過去との繋がり、隣人との繋がり、社会との繋がり。つまり、共同体。生き延びた人びとは罪悪感や水への恐怖に苦しめられながら、新しい生活に馴染むことができない。あらゆる意味で、かつての暮らしから切り離されてしまったからだ。災害は人と人のあいだに張りめぐらされた網目を切り裂き、個人の域を超えた傷を残してゆく。こうした集合的トラウマは、バッファロー・クリークの事例に限らず様々な災害で見られ、おそらくはこれから無数に増えるのだろう。豪雨や海面上昇で土地が水に沈んだことは単に水に沈んだことを意味しない。そこには生きられていた暮らしがあったのだ。
 本書の議論を踏まえて「そこにすべてがあった(Everything In Its Path)」、と云う表題を見返すとき、失われたのは「すべて」だけではなく「全体」ではないか、と思った。瓦礫はもとの建物となにが違うのか。「わたし」はいつから「わたしたち」になるのか。人は一人だけで生きているわけではなく、望むにせよ望まざるにせよ繋がりのなかで生きていて、そうして編み上げられた網目が理不尽に引き裂かれたとき、たとえ命は助かったとしても、「全体」は失われてしまっている。

「私」は存在しつづける。どんなに傷つき、元には戻れないほど変わってしまったとしても。「あなた」は存在しつづける。遠く隔てられ、もはやかかわることは難しいけれど。しかし、「私たち」はもはや存在しない。

 では全体は戻るのか? ウォルト・ホイットマンは歌う。*1
 現代はその方法を模索している。だからこそ本書がいま古典として読み直されているのだろうし、本書こそひとつの方法を実践しているとも云える。被災者の声に耳を傾けること、そこで語られることを自分なりに受け止め、汲み取り、語ること。当事者とそうではない「わたし」と「あなた」のあいだに、しかし「われわれ」は、想像力と云う繋がりを渡すことができる。

 あの災害は人間の神経を外縁ぎりぎりまで追いやってしまった。経験していない私たちには、あの日の恐怖を真に理解することはできない。しかし少なくとも、なぜ災害があのような苦しみを引き起こすのか、生き延びた人の心になぜあれほどまで深い傷を負わせるのか、察することはできる。私たちの想像力は、個人的な経験という湾の内側へ入ってゆき、感覚に触れる情景の各部分を再現することができるのである。私たちの眼は、燃えながら谷を下り、すべてのものを奪い去った黒い激流を見ることができるし、耳は、悲鳴や爆発がつんざく雷鳴のような轟音や裂ける木材の音を聞くこともできる。鼻孔には、石炭屑の灼けつくような悪臭や、煙や遺体や腐敗が発するすえた臭いを感じることができる。こうしたことを描き出せるのは、私たちには想像力があるからだ。

 もちろん、当事者の傷を理解して解釈しようとすることの暴力は自覚しなければならない。《バッファロー・クリークの人びとがあの日被った苦しみは、そんなものではなかった》のだから。
 とは云え、と思う。それでも、と。

 訳者解題には、自身も災害研究者である訳者たちが、半世紀近く経ったバッファロー・クリークを訪ねる場面がある。洪水の記憶までも忘れ去られたわけではいないことがそこで触れられる。図書館で開かれたセレモニーでは、いまなお人びとが集まり、死者の名を呼びかける。読み上げられた名前に「それは俺の家族だ」と云うひとがいる。人びとはまだ繋がっている。生者とも、死者とも。繋がりは決して、失われたわけではないのだ。
 記憶し、記録し、呼びかけ、耳を傾ける。まずはそこからはじめなければならないし、最後にはそこに行き着くのかもしれない。

*1:『草の葉』より。図書館でたまたま開いたページにたまたま書かれていた言葉がまさしくいま求めているような言葉であることは、しばしば、ある。まるで言葉が待ち伏せしているかのように