鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2023年上半期ベスト

私はにせものだ。私が何をやっても世界は変わらない。でも、私は遠いところからこの電動ベッドの枕元までやって来て、あなたの話し相手となり、あなたの心を変える。

――リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』


 久しぶりに会った先輩と、なぜ小説を読むのか、と云う話をした。いや、そんな大それたテーマで語っていたわけではない。互いに書いた小説の感想を伝え合うことは、自然、そのような問いを含むことになると云うだけのことだ。先輩は、小説を一種の旅だと表現した。ここではないどこかへ行って、読み終えたときに帰ってくる。そんな読者にどんなお土産を残すか。それは小説が良く読者を歓待すると云うことであり、ぼくは正直なところ賛同しなかったけれど、だからこそ興味深くその信念を受け止めた。
 それを信念と呼ぶことに云われて初めて気づいたけれど、ぼくにとって小説とは確かに先輩とは正反対で、ここではないどこかへ行くことではなく、ここではないどこかをここに持ちこむことだった。シェイクスピアをバンドゥー語に持ちこむと云う話ではない。バンドゥー語をシェイクスピアに持ちこむのだ。――これはパワーズ『黄金虫変奏曲』の一節だが、こんな連想的な引用もそうした〝持ち込み〟に含まれる。小説に入り込む、ないし入り込めない、と云う使い古された評にはむかしから違和感があった。小説が何かの世界を構築するのだとすれば、小説と云うメディアを通して入り込むのはわれわれではなく、その世界のほうではないのか? そう云えば、初めて映像なるものを目にしたひとびとは、スクリーンの奥からやって来る汽車から逃げ惑ったと云う。
 鷲羽くんの小説はおれとまったく違う信念に基づいている、と先輩は云っていた。でもだからこそ、会話する意味があるのだろう。そうして先輩の言葉をぼくのなかへと持ちこむ。つまり云ってしまえば、ぼくの信念は小説だけに当てはまらない(信念、と云うことにためらいがあるのもそれが理由だ、これはもう世界観の問題なのだ)。自分のなかにどんなものが持ちこまれたかによって読書の面白さを測るとすれば――もっともそれは、いわゆる〝実がある〟読書を意味しない――読書のベストとは、小説だけでなくとも良いはずだ。極端なことを云えば、それが〝面白い〟〝好きな〟本である必要もない。
 twitterのタイムラインを流れてゆく上半期ベストの本がことごとく小説ばかりであるのを見て、じゃあ自分はどうなのだろう、とつらつら考えていたら前置きが長くなった。今年に入って読書量はぐんと落ちた。一ヶ月ほとんど読まなかったときもある。面白い小説も読むには読んだが――たとえば麻耶雄嵩『化石少女』は短篇を串刺しする趣向は別として各篇のアイディアはいずれもスマートで面白かったし、読書会のために読んだ中島らもガダラの豚』は問答無用の楽しさだった――ここに挙げるのとはまた違う気がして、ではその違いはなんなのかと云えば、以上書いてきたことが答えになるだろう。以下に挙げる本は確実に、ぼくのなかに入り込むことで、ほんの少しだけ何かを変えた。
 まあ、以前のように20冊30冊も挙げられなくなった云い訳と思ってもらっても構わない。どうであれそろそろはじめよう。順序は優劣を意味しない。

 

『哲学者の密室』笠井潔

「二十世紀の探偵小説の被害者は、第一次大戦で山をなした無名の死者とは、対極的な死を死ぬように設定されている。ようするに、彼は二重に選ばれた死者、特権的な死者なんです。精緻なトリックを考案して殺人計画を遂行する虚構の犯人と、完璧な論理を武器に犯人を追いつめる虚構の探偵は、立場は対極的であるにせよ被害者の死に、聖なる光輪をもたらさんがために奮闘するのですから」

 実のところこの言葉は結論ではなく、始点にある。受け容れようが退けようが乗り越えようが、このだらだらとした死が蔓延する現代にあって推理小説を書くこと/読むことは、この小説の不必要なまでの巨大さを、自分なりに持ちこむところからはじまるはずだ。なんとなれば考え抜かれた小説が残すのは得てして、答えではなく問いかけなのだから。
 詳しい感想は以下。

washibane.hatenablog.com

 

『ホワイトノイズ』ドン・デリーロ

「もしも死が音だとしたら?」
「電子的な雑音だな」
「ずっと聞こえ続けるの。そこら中で音がする。なんて恐ろしいの」
「恒常的で、白い」

 そう云えば今年の5月8日から、COVID-19による感染症は五類に位置づけられた。

washibane.hatenablog.com

honto.jp

『人新世の人間の条件』ディペシュ・チャクラバルティ

惑星的視点を受け入れたとして、そこから地球工学という道へ進む人もいるでしょうし、エドワード・O・ウィルソン的な意味での撤退を選ぶ人もいるでしょう。しかし、どちらの場合でも、惑星的視点を受け入れるまではそもそも対策に乗り出すことすら不可能ですよね。その意味で、ヤスパースはこれを「政治に先立つもの」と呼びました。それは政治を拒むという意味ではなく、政治に反対しているわけでもありません。ただ、政治の前にこの視点が来るわけです。

 人間が善いとか悪いとか、人新世が正しいとか正しくないとかではなくて、まずはそこから始めなければはならない、と云う本。ぼくがいまこうして打鍵する言葉のひとつひとつが通信量を貪り、デバイスを摩耗させ、地球を燃やす火に薪をくべる。まずは、その自覚から。

 

『分解する』リディア・デイヴィス

いずれその痛みを目の先一メートルの箱の中に入ったもののように見るときが来るのだろう、どこかのショウウィンドウごしに、蓋の開いた箱の中に入ったものを見るように見るときが。それは金属の塊のように冷たく硬い。君はそれを見て、そして言う、よし、これをいただくよ、買うことにしよう。それだけのことだ。なぜなら、入っていく前からもう何もかも知っているのだから。痛みもそれの一部なのだと知っている。それでも後になって、痛みよりも喜びのほうが大きかったから、だからそれをもう一度やるとか、そんなものではない。そういうのとは違うのだ。差し引きすることなどできない、なぜなら痛みは後からやってきて、ずっと後まで続くのだから。だから本当にわからないことはこうだ──なぜそれだけの痛みがあってなお、もう二度とそれをやらないと君は言わないのだろう? こんなに痛いのだからそう言って当然なのに、君はそう言わない。

 記述することは、読むことと書くことを同時におこなう作業であり、あるいは思い出しながら忘れる/忘れながら思い出すことであると云っても良い。そうしてわれわれは言葉を使って、自分や世界の解体を試みる。けれども時計をいくら分解しても時間を理解することはできないように、掴もうとした全体は、いつもその手をすり抜けてゆく……。
 これは小説か? 小説なんだ、と云い切りたい気持ちをこらえつつ、その問いかけの一歩手前、インデックスカードやノートの切れ端に書かれたような言葉の感覚にこそ意識を向けたい。

washibane.hatenablog.com

 

『Tohoku Lost, Left, Found』山岸剛

震災後、それまで東京にいて、原発事故がもたらす放射能汚染の情報によって精神的に不安定な日々を送っていましたが、この光景を目にして、なにか吹っ切れてしまったような感覚をもちました。不謹慎を承知で言いますが、建築がとても「健康」に見えたのです。それまで東京で建築物を撮影していて、建築が自閉しているように感じていました。建築が「人工性のための人工性」として自らの内に引きこもり、「外」がない状況、それこそ「向こう側」をないものとして扱うような建築のあり方に疑問をもっていました。田老で見ることができたのは、人工性の切っ先としての建築が、真に出会うべき相手に出会っている姿でした。建築という人工性が自らとは異質な外部=自然を、植物が太陽の光を全身で浴びるように享受しているさまを見て、ほとんど清々しい思いがしました。この写真以後、私は積極的に東北を撮りはじめることになります。

 被災地を撮る、とはどのようなことか。災害とはなんなのか。建てることとは何か、住むこととは何か、それらが破壊されたあとに、何が見出されるのか。そんなことを考えながら、海岸に建てられた防波堤の写真の白を思う。向こう側とは、こちら側とは。人間と自然、そして建築が、光のなかで解体されてゆく衝撃があった。
 引用は以下の記事から。

www.10plus1.jp

 

『ヨコとタテの建築論:モダン・ヒューマンとしての私たちと建築をめぐる10講』青井哲人

でも私たちは今何かの崩壊局面に立ち会っているのではないでしょうか? 学ぶべきはむしろ崩壊を見る感性なのかもしれない。それに近代建築が未来を幻視しながらむしろ過去の遺産を読み替えることだったとしたら、あなたは今何に取り組みますか? 結局私たちは、人類の作品と知見というアーカイブを漁りながら不気味な時代と格闘し、ふと気づいたら新しい地平が見えていたというところまで生き残るしかないのです。これはぜひ希望として理解したいところです。

 生成されては絶えず壊れてゆくこの世界にあって、人間は何をつくってきたのだろう? その深すぎる問いに対して、ちょっと信じられないくらいクリアな視界を与える本。もちろんそれは本文中でも語られているとおり大雑把な見方なのだけれど、しかしそのヴィジョンが何もなければ、われわれは何もつくることができない。

 

『戦争の悲しみ』バオ・ニン

何はともあれ書かなければ! 忘れるために書き、思い出すために書く。心の拠り所と救いの場を得るために書く。日常の憂さに堪えられるように、他者が信頼できるように、生きる意欲が湧くように書く。愛する人びとのために、また毎日の行き交いの中で相互に人生の目撃者となっている見知らぬ人々のために書く。

 悲しみを書き、悲しみを読む。その未来のない営みによってでしか繋がることのできないものがある。なんとなれば、過去は決して消え去りはしないからだ。

 

『その姿の消し方』堀江敏幸

言葉は、だれかがだれかから借りた空の器のようなもので、荷を積み荷を降ろしてふたたび空になったとき、はじめてひとつの契約が終わる。ほんとうの言葉は、いったん空になった船を見つけて、もう一度借りたときに生まれるのだ。

 一枚の絵はがきから始まる、長く緩やかな探求の旅。言葉を通じてほんのいっときすれ違うひとびとの人生に、しかし確かな重みがある。それでいて、この軽やかさはなんだろう!

 

葉書でドナルド・エヴァンズに平出隆

ここには、世界の配列の組換えに関する暗示があらわれていないでしょうか。世界の配列は細部においては、散乱し流動する粒子の状態にあります。しかし、配列そのものは「連結」や「統制」に、つまりは「秩序」にゆだねられているのです。要点は、この世界の配列から生きるにあたいする渾沌をつくりだすには、「もうひとつの秩序」を見出さなければならない、というところにあると思えるのです。

 死後の友人に宛てたたくさんの手紙。ここではないどこかの切手を描きつづけたその画家は、ここではないどこかへ行くことを通して、ここではないどこかをこちらへと持ちこんだのではないか。この世界の配列から生きるにあたいする渾沌をつくりだすには、「もうひとつの秩序」を見出さなければならない。ぼくはいま、こうして思い出しながら感想を書きながら、実は同じ書物をずっと読み続けていたのではないか、と云う気さえしている。

 

『Iの悲劇』米澤穂信

ここに生活がある。一郎さんは不幸な就職をして、そこから脱して自分を守る道を選んだ。日記の中では檜葉振太郎さんが、楢や櫟を育てる林業をやめ、杉に切り替えようかと考えている。杉は日本中で植えられた結果だぶついて、しかも輸入材に押されて儲からない材木になることが、いまはわかっている。けれど誰が、檜葉さんは先見の明がなかったと笑えるだろう。日記の中で檜葉さんは最善の道を、少なくともまともに生きられる道を選ぼうとしていたではないか。揺れ動く時流の中でどうすればいいのかなんて、いつも、常に、わからないのだろう。

『黒牢城』より自分に迫ってくる感じが強かったのは、緩やかな死を待つ地方都市、あるいは一度死んでしまった村、と云う舞台立てのためだろうか。ぼくの生まれ育った町はいわゆる田舎ではなかったし、交通の便も悪くはなかったから、自分ごとのように読むのは傲慢だろう。けれどもぼくが通っていた小学校は六年のあいだで急速に新入生を減らし、放課後に見かけるのは老人ばかりで、よく遊んでいた公園のある団地にはほとんどひとけがなかった。ぼくに心象風景と云うものがあるとすれば、あの細長い矩形の公園と、錆びた遊具、荒れた地面だろう。そこにはぼくとその友達以外、誰もいない。
 短篇のつくりはいっそ素朴なほどで、乱歩編の『世界推理短編傑作集』を思い起こさせる。謎があること。それを解決すること。上滑りするテーマやクリシェは排除され、かつて愛されていた謎解きのアクションがひたすらに洗練された結果、われわれはどこまで支配できるのか――支配するべきなのか?――と云うクイーン的な問題意識へとたどり着くさまは圧巻だ。一人称の殺された語りに、変な衒いがないのも良い。
 そう云えば去年のいまごろは、公務員試験を受けようとしていた。

 

『セヴェラルネス+:事物連鎖と都市・建築・人間』中谷礼仁

事物と人間との連鎖が現われ出ること。そのプロセスはたとえば「書く」行為にも現われる。書く以前にすべてが決まっているわけではない。はじめにあるのは所在なく書かれた言葉の羅列、メモ、アフォリズム。それらをシャッフルしたり、先人の言葉を写してみたり、ネットの海に出かけてみる。これらによって、おぼろげだったイメージやさわりや感じが、次第に明らかになってくる。その発見や成果がなければ、書くことの苦労への報いはほとんどない。

 桂離宮から始まって、クリストファー・アレグザンダーの再考、そして原爆と云う有史以来稀に見る兵器によってもなお断ち切られなかった事物のささやかな連鎖を手繰る建築論、と云うか、『ヨコとタテ』同様、もっとデカいものを語ろうとしている思想の書。無限もなければゼロもない。われわれがいるのは有限の世界で、しかしこの限られた事物から、驚くべき豊穣が生み出されるのだ。

 

『世界のはての少年』ジェラルディン・マコックラン

創造性。初めて耳にしたけれど、意味は十二分にわかり、クイリアムはその言葉をとっておいた。じつのところ、マーディナの言葉はたくさんしまってあった。木切れといっしょに流れ着いた釘と同じように、曲がりやゆがみをできるだけ直してからポケットに入れ、必要になったときに取り出す……でも、なんのために言葉を集めているのかと問われれば、きちんとした説明はできない。確かに、無口なキルダの住人には言葉よりも釘のほうがずっと役に立つ。

 創造性とはつまり、転用にあるのではないか。

 

『嘘と正典』小川哲

未来など恐るるに足りませぬ。この世の真髄は過去という豊穣な海の中にあるからでございます。

 読書会のための再々読。何が書かれてあるのか、ようやくわかってきたような気がする。

 

『メモリー・ウォール』アンソニー・ドーア

毎時間、毎時間、とロバートは考える。地球のあらゆる場所で、果てしない数の記憶が消え、光り輝く地図が墓へ引きずりこまれる。けれども、その同じ時間に、子どもたちが動きまわり、彼らにとってはまったく新しい領域を調査する。子どもたちは暗闇を押し戻す。記憶をパンくずのようにまき散らして進む。世界は作り直される。

 再読その2。あざといまでの適切な配置で、小説は行けるところまで行く。

 

『歩道橋の魔術師』呉明益

物語は、記憶をそのまま書くものではない。記憶というのは、どちらかというと壊れ物や未練のよすがのようなものだが、物語は違う。物語は粘度のようなもので、記憶がないところに生まれる。それに、物語は聞き終わったら、新しく次の物語を聞けばいいし、また一方で、物語は物語によってあらかじめどう語るかが決められている。それにひきかえ記憶はただ、どう残すかだけを考えればいい。記憶は、わざわざ語られる必要はないのだから。記憶は失われた部分がつながれて、物語になったあと、初めて語られる価値を持つのだ。

 再読その3。高校生のとき、修学旅行で台湾に行った。窓から見えた郊外の風景、こちらを圧してくるような空気の匂い、バスの待ち時間に見上げた月。そんなこと以外には、深夜にこっそり食べたどん兵衛のことくらいしか憶えていない。これはそう云う話であり、実のところ、まったくそんな話ではない。
 以上三冊を貫くキーワードはもちろん〝記憶〟だ。

 

『生きていること:動く、知る、記述する』ティム・インゴルド

行き先の定まったプロセスであるという目的論的な見解に代えて、行き先が絶えず更新されていく宙に投げ出された流転として、生きることの可能性を新たに捉えなおすことはできないだろうか。生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることは出発地と目的地をむすぶことではない。むしろそれは、無数の物たちが流動しながら生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくことであるはずだ。つまるところ、生きることは開いていく運動であって、閉じていくプロセスではない。

 書くことも読むことも考えることも、歩くことも見ることも聴くことも、思い出すことも記憶することも忘れることも、つまりは生きていると云うことであって、ひとつの線のなかで記述されるのかも知れない。われながら書いていてめちゃくちゃを云っていると思うが、読んでいるあいだは本気でそんなことを考えていた。つくることは生きることである。良かろうが、悪かろうが、ともかくそこから、記述をはじめる必要がある。


 以上、16冊。自分の思想に引き寄せて語りすぎているきらいもあるが、そうではなく、自分の思想が以上16冊を通して作り替えられていったのだと読んでもらいたい。

その他の短篇

 さすがにだらだらと書きすぎたと思うので、以下はその他に読んで面白かった短篇を駆け足で見ていく。小説の長さに決して貴賤はなく、結果として落ち穂拾いのような紹介になってしまうことは悩ましいけれど、短篇こそ長々と語るようなものではないのだとも思う。これまでと同様、順序は優劣を意味しない。

 鮎川哲也はトリックそのものを読むよりも、トリックがどのようにもたらされ、何をもたらしたのか、さらに広く云えばどのように書かれたのかを読むことで、その技量の高さが見えてくる作家だと思う。「道化師の檻」はアイディア満載で膨らみすぎている感もあるけれど、失神の理由なんて見事なものだし、何より道化師が消失するトリックが明かされてもなお不思議な感覚が残りつづけるあたりが素晴らしい。道化師は本当に、時空間の隙間に消えてしまう。織部の霊」は再読、けれどほとんど忘れていたので新鮮に読めた。かつては脱線としか思えなかったエピソードや語り手の思考が、あらためて読むとやり過ぎなほどに主題と呼応する。犯人当てはもう書くことも読むこともなくなったけれど、「ダイヤル7」はそうそうこれがぼくの好きな犯人当てなんだよ、と久しぶりに嬉しくなった。魅力的な手がかりと作品ならではの推理、問いに取り組むことでイメージが浮かび上がってくるつくり。駄目押しのような解決篇の趣向も心憎い。「あんにゃ」はいま読んでいる『おどるでく』から。最初に読んだ表題作はかなりハードで正直切り結べた感覚はなく、逃げこんだこちらの方がまだ自分のなかに引き受けられた気がした。どうにもぼくは、死んだ兄、と云うモチーフに弱いのかも知れない。「ニューヨークの魔女」河出書房新社の雑誌『スピン』から。値段が安すぎてビビった。世紀転換期アメリカを舞台に魔女と電気、そしてサーカスと云った道具立てを巧みに捌いて、ふたりの女性の物語として綺麗にまとめる。面白い、面白いはずなのだが、ぼく自身が世紀転換期アメリカに関心を持っているからこそ、もっと行けるのではないか、と思ってしまった。ここで留まるテーマではないはずだ、と。とは云えそれではもう、短篇ではなくなるだろう。その不満とも云えない物足りなさも含めて、印象的だと思う。同人翻訳の星『BABELZINE』は号を重ねるごとに面白さもボリュームも増している気がする。とくにここで挙げたいのはキャロリン・アイヴス・ギルマン「帰郷」レベッカ・キャンベル「大いなる過ち」文化財返還問題を惑星間のスケールで扱った前者は、今日的な問題を単に比喩で描くのではなく、この舞台設定だからこそ時間と歴史、民族の要素を巧みに導入している。私たちは過去を後ろに引きずりたくはない。それはあまりにも重すぎるから。重層的な時間の描き方はキャンベルも同様で、一挺のヴァイオリンを媒介に、人間が利用する自然/人間を呑みこむ自然、消えてゆくもの/残されるもの、その功罪、そして記憶を織り上げる。記憶と時間の作家と云えばドーアも筆頭だ。「深海」(The Deep)は未訳作品で、書きぶりがあざとすぎるあまり、善とか悪とか一瞬わからなくなるところまで行く。人間は死ぬ。それでも、命は尽きない。それは生きていることへの限りない肯定であり、同時に、ひどく残酷な世界観に思える。けれども生きるとは、死ぬとは、その残酷さを抱えることでもある。

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