鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2023年下半期ベスト

 今年は過去数年間のうちで、もっとも手応えをもって読書できた一年だったと思う。読みながら考え、考えながら読む。理由はおそらく、積極的に本文に書き込むようになったこと、それと、メモ帳を普段から使い倒すようになったことだろう。それは書きながら読み、読みながら書く作業だ。そうして自分のなかに地図を引きながら読むうちに、書物が次の書物を導く。とくにメモを残すようになった春先からこっち、ぼくはずっと、巨きな一冊の書物を繙いているような気分だった。目の前の一冊はその紙葉に過ぎない。そしてぼくはきっと、その書物を読み終えることはできないのだろう。けれどそれでも、次のページをめくれば何が待っているのか、ぼくは読み進めたいと思うのだ。
 いずれにせよそんなふうに読むものだから、これがベスト、と云う感じで総括することができない。ゆえに以下に並べる十冊は、強いて云うならもっと大きな連なりから取り出した要約のようなものだ。面白い小説や印象的な短篇なんか、ほかにもたくさんあった。とは云えまとめるのならたぶん、こうなるのだろうと思う。もう一、二冊加えられるなら、たとえばクリスチャン&チェイター『言語はこうして生まれる』や、本田晃子『革命と住宅』アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』なんかも挙げたい。あと、コーマック・マッカーシー『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』とか小川哲『君が手にするはずだった黄金について』とか打海文三ハルビン・カフェ』とか京極夏彦鉄鼠の檻とか……。以下で挙げている小説作品が再読ばかりで、そうした初めての出会いも挙げるべきだと思うのだけれど、とは云えこの半年は、再読の季節だったのだろうと思う。
 それでは以下、読んだ順に並べ、簡単なコメントを付す。具体的な感想は過去の記事を参照してもらうことにして、読むことの周辺について書くことにしよう。

テッド・チャン『息吹』

この宇宙は、こらえていた巨大な息としてはじまった。その理由は知る由もない。しかし、どんな理由だったにしろ、宇宙が開闢したことに、わたしは感謝している。わたしがこうして存在するのは、その事実のおかげだからだ。わたしの望みと考えのすべては、この宇宙のゆるやかな息吹から生まれた渦巻きであり、それ以上でもそれ以下でもない。そしてこの偉大な息吹が終わるまで、わたしの思考は生きつづける。

 SFマガジンのSF初心者向けミニレビュー企画のために再読した。こんなにも希望や救いを追求するような物語であるのに、全篇にわたって絶望のような静けさが満ちているのは、テッド・チャンの捉え難いところだと思う。
 当該SFMの近況報告欄でも同じような話をしたが、スケッチやメモ、日記を書くときはいつも「息吹」のことを思い出す。書くことは残すことだ。それは生きていることの証であり、達成であり、実感である。

 

カル・フリン『人間がいなくなった後の自然』

またしても、生命は潜伏していたのだ。生命は、大気と同じように目には見えないが、常に私たちの周りを漂っている。それは私たちが呼吸する空気の中にもあるし、私たちが飲む水の中にもある。味わってみよう。息を吸うとき、水を飲むとき、私たちは生命の可能性を味わっている。その何でもないコップの中には、すべてのものの胚芽が入っているのだ。

 気候変動の加速は著しく、見通しは絶望的だが、それでもぼく個人は生きている実感を得られるようになったからだろうか、去年ほどの憂鬱を抱えることなく今年は生き延びることができた。希望とか絶望とか以前に、気候変動は現実であり、われわれはそこで生きているのだ。人間がいなくなったあとに新生する自然を書いた本書は、そんな人新世を生きてゆくうえでの心持ち――人間を惑星の中心から退かせつつ、棚上げにすることもない――を記しているように思う。

 

ホイト・ロング『数の値打ち:グローバル情報化時代に日本文学を読む』

しかし数字のポリティクスに着目することは、それが支える「事実」について議論を開くことでもある──そのためにはディシプリンやほかのコミュニティが「事実」に同意するに至った歴史的プロセスを認識しなくてはならない。完全に拒絶してしまうのではなく、さまざまな理論の嘘(フィクション)が事実をつくりだす交渉に我が身を開き、事実が支えているかもしれない他の嘘に想像をめぐらせるような立ち位置をとらねばならない。

 数字をもって何ができるか。本書を読んで遠読とは、茫漠としたアーカイヴの海でサルベージをするようなものだと思った。光を当てる。錨を降ろす。流れ去ったものを掬い取る。

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山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき:庭園の詩学と庭師の知恵』

庭は変わり続け、文はつねに遅れている。

 庭造りとは、ひいては製作とは、世界と関わる方法である。それはいかにして可能か? 読書と執筆に引きつけて読みすぎたきらいもあるので、もっと造園やデザインの観点でも読めるよう、来年はジル・クレマンとかティム・インゴルドとか読んでいきたい。

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石牟礼道子苦海浄土

かつて一度も歴史の面に立ちあらわれたことなく、しかも人類を網羅的に養ってきた血脈たちが、ほろびようとしていた。[…]そこには、退化しきった活字メディアなどへの信仰は歴代にわたって存在せず、次なる世紀を育む〈言霊〉のるつぼが、静かに湧いていた。海と空のあいだの透明さは、そのゆえにこそ用意されていた。ことに椿の海からたちのぼる、いのちのかげろうは。

 『カモガワGブックス Vol.4』の〈池澤夏樹=個人編集 世界文学全集〉全レビュー企画に参加したので読んだ。実際にぼくがどう読んだのかはそちらで確認してもらえれば良いとして、次の『歴史の屑拾い』を踏まえつつ提案した「文学の不知火」としての小説は、ぼくが模索するべきひとつの可能性が示されているようで、自分で自分に励まされることになった。上で述べた「手応え」とは、ひとつにはそのようなことだ。

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藤原辰史『歴史の屑拾い』

言葉の群れは、やがて偶然出会った読者によって批判され、解体され、次の書物や思考の肥やしになる。少なくともそうなるように工夫されなければならない。謝辞や註や参考文献が必要なのは、それらが偶然の出会いの記録でもあり、歴史書の解体に役立つからでもある。やがて歴史研究者自身も、老いて寿命を迎えることで、自分の放った言葉とともに、歴史にただよう「屑」の一つになる。現世のしがらみから切り離され、誰の所有物でもない「屑」に分解されるのである。そんな歴史研究者の自覚においてこそ、歴史叙述は生成し始めるのだと思う。

 来年は、歴史学に関心を向けてみようかと思う。とりあえず、その意志はここに記しておこう。

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石岡丈昇『タイミングの社会学:ディテールを書くエスノグラフィー』

書くことは考えることである。考えることが書くことによって結実するというのではなく、書くことが考えることであるというこの順序を大切にしたい。

 得るところの多い本だった。社会学のみならず、書くこと、生きること一般に関心を払う人間ならば何かしら考えられると思う。
 以下の感想記事で触れなかった点として、手も足も出ない状況であろうと「見届ける」こと、それによって世界を根底から捉え直す「眼」のあり方は、たとえばミステリにおける「名探偵」の意義のひとつではないだろうか、と思った。

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小川哲『地図と拳』

時間。すべての建築は特定の時間に帰属する。現代建築は現代に、古典建築は過去に。そして、その時間を無限に延長しようとする。モニュメントの語源は「思い出させる」ことにある。拳の記憶を、その時間を、永遠に保存し、呼び覚ますこと。

 先に述べた「不知火」としての小説が、ここでは実践されているように思う。いまならもっとちゃんと読める、と思い立って再読し、確かな手応えを得て、気合いの入った長文も書いた。トークショーも行きました。楽しかったです。ぼくも、もっと読みます。もっと書きます。

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イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

「いかにも、帝国は病んでおります。しかもいっそう悪いことには、そのおのれの不幸に慣れようとさえいたしております。私の探索の目的もまたここにございます──なお垣間見ることのできる幸福の跡を探ることによって、そのいかに乏しいかを量り知るというわけでございます。もし陛下が周囲の闇の深さを御承知あそばされようと思し召されますなら、瞳を凝らして遠い微かな光をご覧なされねばなりませぬ。」

 高校生くらいに読んだときは、幻想的で寓話的だな、としか思わなかった。それがいま読むと、その幻想のあまりの精緻と寓話の驚くべき射程に圧倒される。それでいて、いっさい重くはない。それどころか、ここにはともすると、何もない。
 今年はクリストファー・アレグザンダーや、いま読んでいる途中だが、ケヴィン・リンチにも触れた。歴史学と並んで、都市論は来年のもうひとつ、追うべきテーマになりそうな気がする。

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アンソニー・ドーア『すべての見えない光』

その数字が発せられ、家々の屋根の上、海の上で翼を広げ、どこかにある目的地に向けて飛んでいく。イングランドへ、パリへ、死者たちへ。

 この小説そのものについて思うところは以下の記事でだらだらと書いたので個人的な関心に引き寄せて云うと、推理小説は人間を模型にする、では模型に何ができるか、と云う点で、いままでぼくは「模型にされてしまうことの悲劇」にばかり注目してきたけれど、模型だからこそ語り得るものはもっと広いのではないか、と思いはじめたところだ。

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 以上、十冊。それでは、最後に――ガザで、ウクライナでおこなわれている一切の暴力に反対する。イスラエルは、ロシアは、いますぐ戦闘から退くべきだ。

 



 正直に云えば去年のいまごろ、ぼくは「来年のいまごろ」が来るとはあまり信じていませんでした。そのことに、そしてそれが裏切られたことに、いまいくらか驚いています。願わくは「来年のいまごろ」をいまいちど、迎えることができますように。その祈りを持って云いましょう。良いお年を。