鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2024/01/19~02/03 J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』ほか

J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ』(柴田元幸訳,河出書房新社

まずやったのは、鉛筆で十点あまりスケッチを作ることだった。紙を取りに講師室へ下りてゆく代わりに、自分の便箋を両面とも使って描いた。それが済むと、長い、ほとんど終わりのない手紙を書いた。

――「ド・ドーミエ゠スミスの青の時代」

 訳者あとがきで柴田元幸は本書の翻訳作業について「訳している」ではなく「聴いている」と表現している。そのあとでミルハウザーとのサリンジャー語りを思い起こしながら云うことには、「サリンジャーは耳がいい」。なるほど、その筆致は音の響きを的確に捉えているだけでなく、交わされる声と声の微妙なすれ違いや、云いたいこととと話されていることとの引き裂かれるようなずれをも聴き取っているかのようだ。サリンジャーは――そして、訳者も――耳を澄ましている。そう思った。けれどもそれは、落ち着いていることを意味しない。むしろ、いまにも千切れてばらばらになりそうな世界に対し、ひたすらにその声を聴き取ろうとすることで、かろうじて繋ぎとめようとしている、そんな緊張が全篇に漲っている。ただの会話が、ずれた言葉が、どうしてこんなにも痛ましいのだろう。われわれは心の底から通じあうことなど決してない。他者と、世界とのあいだにはつねに拭いきれない違和が存在して、誰も彼もが裏切られて傷つきながら、この痛みは誰とも共有できない。本書に収められた短篇はどれも、亀裂の走ったガラスのような鋭利で透きとおった痛切さに満ちている。
 けれども同時に、それゆえに、本書は、伝えると云うことの究極的な――、なんと云えば良いのか、尊さ、をも掴み取っているのだと思う。語ること。聴くこと。言葉を交わすこと。言葉は事物を捉えるためにはあまりにも不完全であり、思いは決して伝わらない。けれどもそれでもわれわれは、言葉によってでしか伝えることができない。いかにも陳腐な表現だけれど、それはもうほとんど祈りのようなもので、ぼくはそこに懸ける小説の書きぶりに読んでいてひたすら圧倒された。戦争体験と云う極限的な痛みを扱った「エズメに、愛と悲惨を込めて」において、とりわけそれは顕著だ。張り詰めた神経がわずかでも緩めば呑みこまれ、引き裂かれるような緊張のなか、一通の手紙を読むことによって彼は救われる。いや、それは救いのさらに一歩手前、かろうじて掴み取られた一縷の光だろう。小説の幕切れ、これが小説であると同時に手紙であることを思い出すとき、作者が手紙を通して語りかけるとき――、そのとき、語り手が語ったこと、語らなかったこと、語り得ないこと、エズメたちと出会ったこと、交わした言葉、過ぎ去った時間、手紙が遅れたこと、それでも届いたこと、時計、「神よ、人生は地獄です」、ハローハローハローハローハロー、そして、エズメが結婚すること。その一切が押し寄せる。言葉が届く、と云うことについて書くことを、これほどまでに短く、精緻で、深く達成した小説を、ぼくはちょっと思いつかない。読んでしばらく、ずっとこの小説のことを考えていた。

ねえエズメ、人間ほんとに眠くなれるならね、いつだって望みはあるのさ、もう一度機――き・の・う・ば・ん・ぜ・んの人間に戻る望みが

 ところでこの部分、よく知られた新潮の野崎訳と比較したところ、柴田訳のほうが断然、鮮やかな印象を残した。個人的に、あんまり相性の良い翻訳家ではないのだけれど、こう云うところを見せつけられると、やっぱり名翻訳家だな、と思う。あと、現代的な言葉で訳されるがゆえに、野崎訳はすでに古びてしまっている感がある。その時代ごとに、新しい言葉で読み直されるべき小説なのかもしれない。ずっと読まずにいたものを新訳文庫化を機にようやく手に取ったわけだけれど、このタイミングで読んで良かった、と思った。

 

 この表紙、いったいなんの絵だろうと思っていたけれど、ここに貼りつけていくらか遠くから見て気づいた。抽象化されているけれど、これ、――横顔か。

ケヴィン・リンチ『時間の中の都市』(東京大学大谷幸夫研究室訳,鹿島出版会

いたるところに時間のサインがある。

 ケヴィン・リンチは別の本――『廃棄の文化誌』――でも読書会をしているが、こちらのほうを先に読み終えてしまった。その読書会で聞いたところでは、都市計画の分野において、リンチはかなり尊敬されているらしい。わりと観念的なことをかたる『廃棄』のほうではピンとこなかったけれど、それは本書で理解できた。明晰で、具体的なのだ。地に足が着いている、とでも云おうか。都市論と云うといくらでも抽象的なことを云えるなか――もちろん、それはそれで楽しい――リンチは最初にいくつかの都市の事例を取り上げながら、具体的な観察と明晰な議論に基づいて、都市の姿を、そのあり得べき未来をさぐる。実践の段に至っては根本的な制度・文化の見直しを図るのでどうにも非現実的で難しいところはあるが、云っていることは基本、真っ当だ。いかなる開発も空間だけの問題ではないこと。そこには時間が流れており、むしろ時間によって都市が造られていること。過去をどのように記憶し、未来をいかにして示すか。人びとの内面的な時間と、時計によって規定される外部の時間をいかに調停するか。とりわけ、時計の針や俯瞰的な地図によっては記述できない内的な時空間と云う考え方や、絶えず変化し続ける世界と切り結ぶと云う生のあり方はインゴルドを彷彿とさせて面白い。内容そのもの以上に、スタイルはまるで異なっているのに、住まうことについて考えるなかで、同じような結論に達していることが興味深いのだ。これもまた、インゴルドふうに云えば、線を延ばすこと、だろうか?

 

ティム・インゴルド『応答、しつづけよ。』(奥野克巳訳,亜紀書房

生きている世界では永遠に続くものはありませんが、だからこそ、生は無限に続いていくのです。

 曲がりなりにも研究書の体裁を取っていたほかの著作に較べると、いくぶん素直に読めるエッセイ集である。けれども全篇にはインゴルドの思想が満ちていて、本書は彼の思想の、ある種の実践篇なのだとわかる。もとより専門家による学術研究よりも個人個人にとっての生きる実践としての知を重んじる以上、こうなるのは必然だったのかもしれない。
 表題にある「応答(correspndence)」とは、『生きていること』では「呼応」とも訳されていたインゴルド独自の概念であり、周りの事物と切り結んで《私たち自身の介入、問い、反応でそれらに答えるという意味》だ。それは《あらかじめ定められた目的の実現に向かう、定められた一連のステップではありません。むしろ、続ける、そして続けられる手段、すなわち過去を認識し、現在の状況に敏感に反応し、未来の可能性に思索的に開かれた生を他者――人間と非人間のすべての――とともに生きる手段なのです》。線を引く。粘土をこねる。地面を歩く。言葉を交わす。そうしてわたしたちはなんらかの呼びかけをして、相手が、事物が、それに応える。その答えにまた応じるように、呼びかけがおこなわれる。「応答」は決して終わることのない相互的な生成変化のプロセスであり、インゴルドはそれを「文通」に喩える。と云うか、応答(correspondence)とは文通(correspondence)なのだ。

 文通では、すべての介入が返答を招き、すべての返答が今度は介入となるので、そのプロセスには、結論をもたらすような本質的なものは何もありません。生それ自体と同じように、衝動とは継続することなのです。

 このような文通が終わるとすれば、一方の怠惰や無視、暴力的な打ち切りによってだ。逆に云えば、そのような断絶に抗うために、文通はおこなわれる。コロナ禍初期、一週間先の未来さえ見えなくなっていた頃、飛浩隆がエッセイで書いていたことをぼくは思い出した。*1

いま、一丁の切れ味のよい鋏が世界地図をなめらかに切り離しつつあります。国も都市も孤島になる。その中で死と疲弊が跋扈する。
 […]
 ですが――その不確実性の中で、ひとつ約束をしませんか。半年経ったらこの手紙を読み返してほしいのです。そして半年後のようすを私に手紙で教えてほしいのです。そうしたら私もその半年後に手紙を送るでしょう。手紙が一往復するたびに、私たちは一年を生き延びたことを知る。あなたの手紙を待つことで私は日々を生きる励みを得る。

 あるいは、人と人同士でなくとも良い。それはあくまで、世界と関わり続けると云うことだから。そう云えば、漫画家のつくみずはこんなことをツイートしていた。*2 

料理はレシピに頼りすぎず適当にやると物質から直に反応が返ってきて嬉しい気がする DIYも 自分が世界に何かをしようとする度に物性や構造を通してリアクションが返ってくる 孤独を埋めてくれるものは必ずしも人間ではなかった

 「適当にやる」と云うけれど、レシピに頼らないと云う意味で、これはどちらかと云えば「即興でやる」と云うことだ。定められた一連のプロセスを再現するのではなく、その場その場で呼びかけ、リアクション(応答)をもらうこと。その嬉しさ。
 両者は相手が人かそうでないかの違いはあるにせよ、「応答」による励ましと云う点で、おそらく云っていることは同じだ。呼びかける。応える。それはたやすく孤独を埋めてくれ、絶望しない理由になる。とりわけこんな、《一丁の切れ味のよい鋏が世界地図をなめらかに切り離し》つつある時代にあっては。
 インゴルドは云う。

気づかいと自発性をふたたび結びつけようとするのは、たんなるノスタルジーだと言う人がいるかもしれません。しかし私はそうは思いません。私は本書を、どうすればこれができるのかの例として、またそれを達成する上で書かれた応答が発揮する力を証明するものとして示します。それは、過去に戻ることではなく、過去がふたたび未来への道を手探りできるようにすることに関わるからです。地球上の生を存続させ、繁栄させるためには、私たちは周囲の世界に注意を払い、完成と判断力を持って返答することを学ぶ必要があります。かつて手紙を書く際にそうしていたように、人やモノに応答することが、それぞれが自分流でありながら同時に他者を尊重することも忘れない仕方で、生が存続する道を開くのです。

 応答し続ける(correspndences)とは、まさしく持続可能性の問題なのだ。もっともインゴルドの場合、この言葉がしばしば仄めかすような人類の存続を想定していない。あらゆる生物はいつか死ぬし、どんな種族も滅ぶだろう。けれども生は終わらない、終わらせない――応答することによって。悲観的なのか楽観的なのか。現に気候変動で苦しみ、搾取され、抑圧を強いられている人びとに対してはあんまりな思想ではないかとも思うけれど――じっさい、インゴルドの思想は「健康で文化的」であることを前提に置いているきらいがある*3――少なくともいま、ここで、ぼくが生きることを絶望しない理由にはなる。まだ、それだけでじゅうぶんだ、と思う。それがぼくなりの応答であり、ともかくもこれから手紙を書くのは、ぼくのほうなのだから。

追記:同じく最近、本書を読んだと云う巨大健造さんからの提案で、ブログ上で文通をすることになった。詳しくは以下の記事から。ぼくのほうからも手紙を受けつけているので、ぼくと文通したい、してもいいと云う方はご連絡ください。

washibane.hatenablog.com

*1:SFM特集:コロナ禍のいま⑤ 飛浩隆「半年後への手紙」」(https://www.hayakawabooks.com/n/nfae03b7dd6b7

*2:2023年12月4日のツイート(https://twitter.com/lililjiliijili/status/1731401626110628097

*3:たとえば手書きを推奨し、その足で歩くことを薦めるとき、インゴルドは身体障害者のことを念頭に置いているだろうか?