鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「逃げてゆく瞬間」(2024)

 瞬間と人生の話です。


 世界の中に身を置き、外の世界を発見するのと同時に、自らを見出す。外の世界が私たちを形成するが、同時に私たちはその世界に影響を与えることもできる。絶え間ない対話の中で一をなす、内と外、そのふたつの世界のあいだに均衡を打ち立てなければならない。私たちが通じ合わなければならないのは、そうした世界なのである。
――アンリ・カルティエブレッソン


          1

 現像液から停止液、定着液までをそれぞれ計量カップに注ぐ。流し台に渡したトレーのうえにカップを並べ、水とヒーターで調整しながら、薬品に差した温度計がいずれも一定をさすまで待つ。フィルムの現像は待つことの方が多い。イメージが浮かび上がるまで、待つ……。考えてみれば、写真を撮ること自体とよく似ている。そう云っていた男の顔を思い浮かべて、わたしは苦笑する。
 今日はきっと、久世くぜのことをよく思い出すだろう……。
 そう郷愁とも自嘲ともつかないことを考えながら、わたしはフィルムを手に取った。久世の妹から送られてきた未現像のフィルム。彼女の言葉が正しければおそらく十数年放置されていたそのひと巻きのために、わたしは久しぶりに道具一式を用意して、自宅で現像しようとしている。
 なんのために?
 ――理由を考えてはいけない。
 久世は云っていた。
 ――なんのために撮るのかなんて、どうでもいいだろ。とにかくシャッターを切るんだ。理由は後からついてくるよ。
 フィルムからベロを引き出す。ダークバッグにリールとフィルム、タンク、それから鋏を放りこんで、袋を閉じる。あとは腕だけを突っこんで、手先の感覚を頼りにフィルムを巻き取ってゆく。リールの手応え。用意した薬品の、鼻をつく匂い。袋のなかでうごめく手。ほとんどフィルムを触らなくなったいまでも、みんな体が憶えている。ずいぶん久しぶりなのに、巻き取ったリールをタンクに収めるまで、ひとつも手間取ることはなかった。
 そもそもわたしにカメラを、現像を教えたのは、久世だった。
 ――フィルムの醍醐味は、現像だ。自分の手で撮って、像をつくっていることを、そこで実感するんだよ。
 熱っぽく語る彼の笑顔を思い出す。その言葉に耳を傾けるわたしの頬もまた、いくらか熱っていたはずだ。わたしにとって彼は、同期のカメラ仲間である以上に、カメラの師であり、憧れであり、ライバルだった。わたしたちはよく、ふたりで現像した。その成果をふたりで確かめ合ったものだ。
 ――現像を通して、過去がその手に甦ってくるんだ。
 リールをタンクにセットして、現像液を注ぐ。とん、とん、作業台にタンクの底を叩きつけ、泡を逃がしてゆく。五〇秒待つ。タンクをひっくり返す。化学反応と攪拌を、そうして繰り返す。定められたペースで、正確に。
 液を棄て、次の薬品へ。順番に交換し、像を定着させてゆく。
 ――時間を結晶させているような気分になるだろう?
 そう云っていたのはいつだったか? 久世らしい気取った云い回しだ。
 リールを取り出して、洗う。フィルムをトレーに浸し、しばらく水を流しつづける。
 すでにイメージは浮かび上がって、水面の向こうに揺れている。
 ――兄の遺品から見つかりました。
 そんな手紙を添えて、久世の妹からフィルムが送られてきたのは、つい一週間前のことだった。二年前に久世が亡くなっていたことも、わたしは知らなかった。彼が大学を離れてから十年あまり、わたしたちはずっと疎遠だったから。もっと強く云えば、断絶していた。例外として、わたしが写真のコンクールでささやかな賞を受けたとき、あるいは小規模ながら個展を開いたときに葉書を送ったけれど、返事はなかった。便りがないのはなんとやら、実家でそれなりに幸せにやっているのだろうと思っていた。
 妹が手紙を送ることができたのは、その葉書のおかげだったという。
 彼女の手紙に拠れば、葉書はフィルムといっしょの箱に収められ、納戸の奥に置かれていたらしい。まるで、隠すみたいに。自分からも遠ざけるようにして。だから発見されるまでに時間がかかった。
 ――兄が大学でカメラに凝っていたことは知っていました。こちらに戻ってからは、少しも触ろうとしなかったけれど。
 手紙の文字はひとつひとつ生真面目に書かれ、その端々に丸みを帯びていた。
 ――きっと、わたしたち親族の誰よりも、あなたが持つべきではないかと思うのです。
 処分に困った遺品を体良く押しつけられている。そうひねくれて考えることもできた。最初は送り返そうかと思った。けれども結局、わたしは感傷に折れた。わたしなりの弔いだ、と夫に説明したのは、どこか云い訳じみていた。
 作業はガレージでおこなった。丘陵部にある一軒家の、半地下になっているその空間は、いつも夫が工作に使っている場所だ。天井近くに開けられた窓から陽が差して、灯りを点けずともじゅうぶんに明るい。
 ――フィルムを洗うこの時間は、現像が成功したかどうかを確かめる時間だ。
 記憶の中で、久世が云う。
 ――現像までが撮影だとすれば、一連の作業の結果が、ここでようやく明らかになる。
 緊張する時間だ。いつも、審判を待っているような気分になった。写真家としての技術が、作品の未来が、ここで暴かれる。
 では、いまは?
 この時間に、いったい何が問われ、暴かれるのだろう?
 流し台の水面がきらきらと光を照り返す。その向こうに見える写真を、わたしはまだ、確かめることができない。

          2

 久世龍彦たつひこと出会ったのは大学二年生の春だった。当時のわたしは一年生でサークルに入り損ねてしまい、大学生という突然与えられた自由をどう過ごせば良いのかわからないまま、毎日散歩ばかりしていた。家にじっとしていたところでいたずらに焦燥感が募るだけだったし、けれども毎日遊びに耽るほどの余裕もなかったから。
 散歩コースはいつも偶然まかせで、あみだくじを引くみたいに道から道をなぞっていった。ひとりきりの活動でありながら、景色が移ろい、変化しつづける――散歩は考えごとにうってつけだ。時間だけはたっぷりあった。わたしはよく、これから自分はどこに行くのだろうかと考えていた。文字通り、わたしはさまよっていたのだ。気がつくと思索に耽ってしまい、同じエリアをぐるぐる回っていることも少なくなかった。
 河原で佇む彼に気づいたのも、そんな〝ぐるぐる〟に嵌まっていたときだ。
 最初に見かけたとき、川面の水鳥でも撮っているのだろうと思った。その男は土手を埋めるすすきの真ん中に立ち、じっとカメラを提げていた。それからしばらくして、一帯をひとまわりして還ってきたとき、彼はまだそこに、同じポーズで立っていた。まだそのときは彼を見かけても、ああ、いるな、としか思わなかった。
 おかしい、と初めて感じたのは三周目だ。彼はまだそこにいた。同じ恰好で、同じ方向を見ながら、カメラを構えていた。すでに一時間は経過していたはずだ。鳥を撮るとしても、とっくに飛び去っているだろう。あるいはどこからかの飛来を待っているのか? それにしては、場所を選択する根拠がわからない。レンズの向いている先を見ても、あるのは留まることなく流れる川面と、対岸の街並だけ。
 わたしは立ち止まった。すすきをかきわけて、彼に近づく。
「何を撮っているんですか?」
 話しかけたのは、同年代に見えて気安かったからか。あるいはひとりで考えに耽ることが嫌になったからか。
 いずれにせよ、知りたい回答は得られなかった。
「……さあ、ねえ」
 青年はカメラから目を離すことなく、とぼけた。
「もう一時間はそうして構えてますよね」
「気づきました?」
「だから話しかけたんです」
 彼はそこでようやく、カメラをおろした。目許は涼しげで、伶俐だった。
「じっと待ちながら、風景に溶け込むんです。そうなったらたいてい、気づかれない。話しかけられたのは初めてだ」
「はあ」
「むしろあなたこそ、じっとぼくのことを観察していたのでは?」
 いや、と否定しかけてから、何が違うのだろうと思った。わたしは、じっと同じところをぐるぐる回っていただけだ。だから彼のことも、気づいた。
「このあたりは風が気持ちいいから、じっと待つにはうってつけだ」
「何を待っているんです?」
「さあ」
 また、とぼける。
「それは、その瞬間が来ないことには」
「瞬間?」
「〝決定的瞬間〟が」
 その言葉の意味を知るのは、ずっと後のことになる。
「……え?」
 よく聞き取れなかった言葉は川べりを吹抜ける風に掻き消された。すすきが波打ち、川べりは海のようにうねる。わたしはそよぐ髪の毛を押さえてから、もっと掴んでおくべきものがあると思い出した。日除けの帽子……そう、あのときわたしは帽子を被っていたのだ。麦わらで織られたひどく軽いそれは容易に吹き飛ばされて、「あ」とわたしは呆けた声を上げながらその行方を目で追った。振り仰ぎ、空を見る。陽は少しばかり傾いて対岸の街並に降り注ぎ、ちょっとした凸凹から、複雑な影がかたどられている。その空に、水面に、ゆっくりと帽子は飛来する。
 シャッターが切られる。
「待っていたんだ!」
 そう叫んで彼は跳ねるように駆けだし、わたしの帽子を追った。水面に落ちゆくぎりぎりで、それは彼の手に掴まれる……。
 危うく彼は自分で川へ落ちそうになって、けれども踏ん張って。
 そして振り向いたときのその笑顔を、わたしはずっと憶えている。
 わたしが礼を云う前に、彼のほうから「ありがとう」と云って、帽子を渡してきた。
「……いい写真が撮れたと思う」

 水は流れつづけ、回想は止まらない。
 ――待っていたんだ。
 川原での邂逅から数日後、わたしは四たび、その川べりを訪れた。果たして彼はそこにいた。ずっとそこで待っていたかのように。そしておそらくほんとうに、毎日待っていたのではないか、といまになって思う。
 話のつづきをするように何気なく、彼は切り出した。
 ――写真が現像できたから、渡したかった。
 彼はそこではじめて、久世と名乗った。わたしも名乗ったところ、へえ、と彼は面白がった。
 ――杏理あんりさん。あんり。……ブレッソンと同じ名前だ。
 知ってるかい、と彼は訊いてきた。決定的瞬間を?
 ――その言葉を教えて。
 わたしは云った。返事を聴く前に、つづける。
 ――写真について、教えて。
 それから初めてのカメラを買うまで、一週間とかからなかった。学部が違うだけで――わたしは経済学部、久世は文学部――同じ大学の同じ学年と知ってからは、ずいぶんと気安く話せるようになった。カメラのこと、写真のこと、現像のこと、その歴史、思想と実践。わたしは久世にたくさんのことを訊ね、彼は彼なりの答えを返し、ときには一緒に考え、議論した。彼が薦めるままにフィルムを選んだのも、だから当然のことだ。
 久世から〝決定的瞬間〟のことをようやく教えられたのは確か、最初のカメラ選びのときだ。彼の常連だという店で、わたしは目的も忘れて、店内を埋める大小様々な写真機を眺めていた。壁はちょっとしたギャラリーのようになって、有名無名問わず――と判断できるようになったのはずいぶん後のことだ――おそらくは店主の趣味でさまざまな写真が並べてあった。ぼくもここに並べられたことがある、と久世は自慢げに云った。
 ――ここのおじさんから、ぼくはカメラを教わったのさ。
 ぼくにとってはまるで親だよと云う久世の口調には、いくらか苦々しいところがあったように思う。
 アンリ・カルティエブレッソンの写真は、ほかの写真より大きな印刷で、店のいちばん目立つところに置かれていた。カルティエブレッソンだとわかったのは、それが展覧会のポスターだったからだ。わたしが生まれてもいない頃の展覧会、もう行くことのかなわないそれをまだ貼っているあたり、店主の思い入れがうかがえた。
《サンラザール駅の裏、パリ、一九三二年》。
 雨上がりの広場を写した一枚だ。ひとりの紳士が、水溜まりを飛び越そうとして跳ねている。ガラスのような水面には男の影が写りこんで、幾何学的な構図がつくられる。輪郭のぶれたその像が直後に起こる出来事を――地面にぱしゃんと靴が降り立つ涼しげな音や新たに拡がってゆく波紋を予感させながら、けれどもその踵は永遠に反射像と触れ合わない。背景には、緩やかなカーブを描いたフェンス。その向こうに霞む駅舎の時計台と、空の白。
 静かだ、と思った。けれどもそこには、緊張と情感がたっぷりと満ちている。
 ――けっていてき、しゅんかん。
 わたしは、展覧会のタイトルを読みあげた。
 ――ザ・ディサイシヴ・モーメント。写真家が掴まえるべきものだ。
 久世が、熱っぽく云う。
 ――その言葉は、ブレッソンの写真集のタイトルに由来する。アンリ・カルティエブレッソン。ライカを片手に世界を渡った、二十世紀を代表する写真家。彼の写真はあらゆる要素があるべき場所にある、奇跡みたいな一瞬を写している。抽象画のように幾何学的で、それでいて、途方もなく叙情的だ。見ていて涙が出るよ。
 ――感動して?
 ――それが半分。あとの半分は、悔しくて、かな。
 ぼくもああやって撮りたいんだ、と久世は自嘲気味に笑った。
 ――ぼくは天才ではないけどね。
 ――でも、現像してくれたあの写真、わたしを撮ったあの一枚は、すごく綺麗に写ってたよ。川の水も、飛んでゆく帽子も。
 ――ありがとう。でも、単に綺麗な一瞬であれば、誰でも撮れるよ。
 ――まさか。
 ――ずっと待っていればいいんだ。良さそうなロケーションを見つけた後は、じっと、カメラを構えていればいい。これは嘘じゃない。謙遜でもない。待つことなら誰にだってできるよ。
 杏理にだって。そう云って彼が肩を叩いたのは、もしかすると自分で自分を満足させられないことの自虐を誤魔化すためだったのかもしれない。けれどもわたしは励ましと受け取った。何よりわたしがカメラに惹かれるきっかけになったのは、じっと待ちつづける久世の姿だったから……。
「待つことなら誰にだってできる」
 わたしは独りごちた。
「でも、あなたは来なかった」
 わたしは思い出す。出会った頃の記憶から一気に跳んだ、それは別れの記憶だ。
 ――きみはいいかげん、ぼくから逃げるべきなんだ。
 彼はそう云って姿を消した。
 瞬きよりも速く、すり抜けるように。

          3

 水を止める。じゅうぶんに洗ったフィルムを流し台から揚げて、リールから外す。クリップに留めて、あらかじめ用意してあった物干し竿に引っ掛ける。
 そのとき、一枚の写真に目が留まった。
 喫茶店を外から撮った写真だった。視点は高く、店の前の通りを含めて斜めに見下ろしている。夜。モノトーンのコントラストが強い。誰かが窓際の席についている。顔は庇に隠れているけれど、服装から、手先から、それが誰なのかじゅうぶんにわかる。なぜなら、それはわたし自身だから。
 あの日の写真だった。彼がわたしの前から、姿を消した日の。
 わたしは思わず視線を逸らした。そのまま写真を吊るし、あとずさる。
 過去が、こちらを見ている。
 つかの間乱れた呼吸を止めて、もういちど手を伸ばそうとした、そのとき、
「……いま、大丈夫?」
 出し抜けに、声をかけられた。振り向くと入り口に、夫が立っていた。
 コーヒーを淹れたよ、と彼は暢気そうに云い、近づいて来て、写真をしげしげと眺める。
「へえ、よく現像できてるじゃない」
「保管状態が、良かったから」
「久世さんだっけ。その人も浮かばれるんじゃないかなあ」
「……どうかな」
「うん?」
 わたしの微妙な表情を察したのだろう。「お茶の時間!」と彼は云い、話を打ち切るように手を拍った。ぱしん。
「あとは乾かすだけだろう? じっと待っていても、気が滅入るだけだよ」

 夫の直己なおみとは最初、写真家と被写体として出会った。同時にそれは、取材対象と記者の関係でもあった。当時WEBメディアのライターをしていた彼は、偶然わたしの個展を覗いたことをきっかけに、取材の依頼といっしょにポートレートの撮影を申し込んできたのだ。
 ――恰好良い自画像がほしいんです。いや、クールじゃなくても良くって、こう……、ぼく自身をよく語ってくれるような、それでいてお喋りでもない写真。
 難しい仕事ですね、とわたしが苦笑すると、
 ――でも、あなたの写真からはそれを感じた。沈黙と饒舌を、いっしょに。
 仕事が終わってからも付き合いが三年ほどつづいて、昨年、籍を入れた。直己がフリーのライターとしてでなく、ひとりの社員としてWEBメディアの編集に加わることになったからだ。いまではわたしのエージェントも兼ねてくれている。工作全般が趣味で、知人から破格の安さで譲り受けたボロ屋をいまの家になるまで改装したのはほとんど彼の手による。最近は子ども向けに工作動画まで製作しはじめた。くよくよと考え込むことの多いわたしとは正反対の、活動的な人だ。細身だけれど筋肉質で、ひとつひとつの挙措が堂々としている。
 手を動かしたいんだよ、と直己は云う。
 ――いろんなものを書いて、つくって、働いて、その結果が自分を跡づけてくれる。何者かになろうなんて考えている暇はないんだ。
 いつかそう口にした言葉はしかし、直己がかつて、何者かになろうとして足掻いていたことを物語っている。
 だから、たぶん……、わたしたちは正反対で、似たもの同士なのかもしれない。
 そして、おそらくは、どこかで彼にも似ている。
「久世さんのこと、教えてよ」
 コーヒーを注いだマグカップを差し出して、直己は云った。受け取って、ダイニングの椅子に座る。いつもは砂糖とミルクを少量、混ぜるけれど、きょうはブラックで飲み干したかった。味は苦く、香りは深い。凝り性の直己による、オリジナル・ブレンドだ。
「……どこまで、話したことあるんだっけ」
「元カレなんでしょ?」
「そんな……」
「違うの? ぼかしてるんだと思ってた」
 直己はテーブルの隣に座った。
「違うよ。違う……。ほんとに、そんなんじゃなかった」
「そう。ごめん。それなら、大学時代の同期で、きみにカメラを教えてくれた人。それ以上もそれ以下も知らない」
「うん。それでじゅうぶんだよ」
「まさか!」
 直己は首を振った。
「ほんとうにただそれだけなら、たった一本のフィルムのために、わざわざ半日割いて現像なんてするはずがない」
「…………」
「それに、そんな表情を浮かべることもない」
「……どんな表情?」
「泣きそうな顔」
「うそ」
「うん、それは嘘。強いて云えば、痛ましい顔、かな。記憶に背後から殴られたような」
 直己の表現は、云い得て妙だった。
 わたしは観念して、久世のことを話した。ごく個人的な思い出に終始したけれど、自分でも意外なほど、話すことに躊躇いはなかった。誰かに話したかったというよりは、無理にでも一度、記憶の蓋を開くことで、澱を吐き出したかったのだろうと思う。
 写真のこと。現像のこと。疎遠だった時間と、渡された遺品。
「あれはたぶん彼が撮った、最後のフィルムだった」
 久世の妹は、実家に帰ってきてから兄がカメラを触ろうとしていなかったと書いていた。たぶん死ぬまで、二度と触れなかったのではないか。
「そうまでして、写真から離れたかったのかな」
 思わずこぼした言葉に、どうだろう、と直己は首を傾げた。
「凍結させたかったのかもしれない。写真が瞬間を永遠にするみたいに」
「恰好良いこと、云うのね」
「でも、写真ってそういうものだろう」
 そう、久世も同じことを云っていた。時間の結晶。決定的瞬間。
 ――大学を辞めることにするよ。
 あの夜メールで、久世はそう云ってよこした。
 久世が大学を辞めたのは、実家に戻るためだった。土地が大きいだけで単なる農家だと久世は云うけれど、地元の村ではそれなりに名の知られた家らしい。その当主、久世の父が倒れた。長男である久世は家を継がなければならない。歳の離れた妹はまだ小学校を出たばかりで、ほかにきょうだいはいなかった。
 時代錯誤な話だと思うのは、わたしが家というものから比較的自由に生きてこられたからなのか。同情も共感も拒むように、久世の文面はどこかさっぱりとして、諦めたような書きぶりだった。
 ――まあ、仕方ないのさ。いつかは来たるべき時だった。
 久世が大学で文学を専攻することはその父親から強く反対され、カメラの趣味に耽っていることもいい顔はされなかったという。大学を出て独り立ちしたところで、いつかは家に帰らなければならない。久世は、ずっと覚悟していたのだ。この時間に終わりが来ることを。
 あとから聴いた話では、久世の周りの友人知人には、あらかじめ知らされてあったらしい。ずっとお世話になっていたカメラショップの店主には、わざわざ挨拶に訪れたという。
 わたしだけが、何も知らなかった。
「それで喧嘩別れしたわけだ」
 話を聴かされてから、直己が云った。
「そりゃひどいよ。なんの説明もなくいなくなるなんて。恋人でなくたって、友人にする振る舞いでもない……」
「ううん、喧嘩はしなかった」
「じゃあ、メールが届いたっきり?」
「そういうわけでもない。久世が街を離れることを知って、わたしは彼を待ち受けた。久世の家の前で、張りこんで……」
「その場で何が起きたの?」
「……わからない」
「え?」
「何が起きたのか、わからない」
 そう云いながら、ああ、それが問題なのだ、とようやくわかった。わたしの胸にずっとつかえていたのは、あの夜のことなのだ、と。
「……人が姿を消す。瞬く間に。そんなこと、あり得ると思う?」
「何かの比喩?」
「いいえ。文字通りのこと」
 コーヒーを啜る。話すうちに飲むのを忘れていた、最後のひとくちだ。もはや味わいも香りも失われてしまったその冷たい苦みを、わたしはあの夜にも感じた。
 瞼を閉じる。
 遠ざかりつつあると思っていた記憶が、けれでもたしかな困惑と焦り、何より悲しさを引き連れて甦ってくる。あの日も、今日のような春の日だった。夜。喫茶店の窓際。視線の先には窓の灯がある。そこにはまだ、久世がいる。
「……あのときわたしは、ずっと久世を待っていたの」

          4

 コーヒーはすっかり冷めていて、それでも居座る権利を主張するために、わたしはその不味い液体をちびりちびりと飲みつづけた。喫茶店の窓際のテーブルは四人掛けで、ひとりで占拠するのは気が引けたけれど、眠たげな店主がこちらを気に留める様子はなかった。もっとも、これまでもずっとそうだった。何時間といても声をかけられないから、わたしと久世はよくこの店を溜まり場としていた。久世の借りているアパートがちょうど目の前にあるのも良かった。彼の家でフィルムを現像して、乾くのを待つあいだ、わたしたちはここで駄弁った。
 いまは、ひとりだ。わたしはじっと、窓から見える景色に視線をやっている。
 横に長く取られたガラス窓からは通りの往来が見渡せた。車道を挟んで対岸の歩道には時計店と古書店、レストランが並んでいる。どれもこの街にずっと昔からあるのだろう古い店構えで、看板は錆びついてこそいるけれど、どれも背が高くてよく目立つ。久世が住んでいるのは、時計店と古書店のあいだ、わたしの視界の奥へとまっすぐに細く伸びる路地へ入った、時計店の裏だ。狭い敷地に可能な限り人を詰めこめるよう部屋を積み上げた学生向けのアパートで、小さな商店街の背後から墓石のように無骨なその姿を見せていた。周囲の建物と比べて、ひょろりと高い五階建て。久世の部屋はそのてっぺんだった。見晴らしがいいんだ、と自慢にしていた。――エレベーターがないのは玉に瑕だけれど。
 陽はとうに沈んでいる。いちばん上に見える窓には先ほどから灯りが点されて、カーテン越しに人影がちらちらと見えていた。忙しなく部屋を行き来しながら、ときおりじっと考え込むように立ち止まる。何をしているのかはよく見えないけれど、簡単に想像できた。きっと慌ただしく、荷造りをしているのだろう。
 久世は、今夜中にこの街を発つつもりだ。
 ――彼、この街を出るんだってね。
 その日の昼すぎ、フィルムを買いにいったとき。久世に教えられてからすっかり行きつけになったカメラショップで、店主は当然知っているだろうニュースを振るように、そう口にした。
 ――まさか、知らされていなかったのかい。
 当惑した問いにかろうじて頷いたわたしの顔は、ずいぶんと間抜けだったろう。
 店主から詳しく話を聴いてからつかの間、わたしはどう反応すべきかわからなかった。怒りと悲しみ。両者が混じり合った困惑。
 店主は――豊かな髭をたくわえた老人だった――わたしに同情しながら、まあ、あの子の気持ちもわかってやってくれ、と慰めた。
 ――わかってやれって、どんな気持ちをですか。
 自分の声が震えているのがわかった。
 ――そんなに重要なことをわたしだけに云わなかった気持ちですか。わたしに別れの挨拶もしなかった気持ちを?
 ――あの子はそんなに意地の悪いやつでもなければ薄情なやつでもない。それは杏理ちゃんがいちばんわかっているだろう?
 ――だけど。
 ――あの子はきっと、きみになんと云えばいいのか、ついに決められなかったんだよ。
 何度も相談に乗ってやっていたんだがね、と彼はこぼした。
 いずれ自分の人生が決定してしまう瞬間が来ること。いつになるのかわからないけれどもそう遠くないうちに、わたしから離れなければならないことを、なんと告げるべきか。久世はよく相談していたのだという。
 それだのに結局、久世は何も話さなかった。
 ――どういうことですか、それ。
 ――今回のことは急だった。あの子も困っているんだよ。だからまあ、怒らないでやってくれ。
 自身も困ったように云う彼は、まるで息子の不始末を釈明してやっているようだった。
 この人はわたしよりも長い時間を久世と過ごしたのだと、そのとき気づいた。
 ――いまなら、きっと間に合う。発つのは今夜だと云っていたからね。さあ、急ぎなさい。
 それでわたしはいまこうして、張り込みじみた真似をしている。
 バスが停まって、また走り出した。時計店の前には停留所があって、その路線は市内をぐるり巡回している。久世は今夜、あの路線に乗って駅まで向かうだろう。
 窓にはまだ人影が映っていた。
 コーヒーを啜る。往来の雑踏も、店内のざわめきも、わたしはどこか遠くに聞いている。
 ここまで来たのだから、久世の部屋まで直接訪ねてみるべきだ、そう考えもした。けれど足が動かないのは、彼にどんな言葉をぶつけてやるべきか、まだ決めあぐねているからだ。結局、窓の灯を確認してから、この店に入ってしまった。
 なぜ話してくれなかったのか、問い詰めるべきだろうか。しかしわたしは、こうして自分の云うべきことを考えるなかで、彼がついに機会を逸してしまった理由を察してしまった。ふたつはたぶん、同じことなのだ。カメラショップの店主の云うとおり、久世もまた、ずっと機会を窺っていたのだろう。何を云うべきか、どう伝えるべきか、正解が見つからないままに、時間切れが訪れた。
 窓辺の人影は、わたしと同じ逡巡を抱えているのかもしれない。
 そう結論したとき、ポケットの携帯電話が鳴った。
 着信相手を見てから電話を取るまでに、一瞬の躊躇いがあった。
「……いるんだろう?」
 応答するなり、久世はそう切り出した。
ぼくんちの前の店、窓際の席。さっき、顔も見えた」
 わたしは視線をあの窓へ戻した。カーテン越しに、佇む人影。
「よく見えなかったけど、杏理なんだろうなってわかった」
「うん、正解。合ってる」
 こちらの反応が見えるように、わたしは大きく頷いた。
 姿を互いに確認しながら電話するのは、もどかしい感覚だった。久世の声は低く抑えられ、聞き取りにくい。ノイズも激しかった。
 一方で、わたしは自分の声が明るくなっているのを感じた。情けないほどにわかりやすい。わたしは、こんな状況でも、久世と会話することが嬉しかったのだ。
「ねえ、こっちからも久世が見えるよ」
「……そう」
「窓辺に立ってる。久世からもわたしが見えるでしょう?」
「いや……、ああ、でも、まだそこにいるんだろうなってわかる」
「いるよ。ずっと、久世が出てくるのを待ってる」
「そっか。そうなんだね」
「だからさっさと降りてきてよ。コーヒー、奢るからさ」
「いや、それはできない」
「なぜ」
「もう遅いから」
「……なぜ」
 聞き分けのない子供のように、わたしは問いを繰り返した。
「なんで、そんなことを云うの?」
「すぐにわかるよ」
「いま、ぜんぶ話してよ。ここに来て、さ。それが駄目なら、わたしがそっちに行ったって良い。……そもそも、なんでこんなに大事なことを、わたしにだけ黙ってたの?」
 思わず荒げた声に、周囲の眼が向けられる。
「……いや、ごめん。そんなことはもう、どうでもいい」
 声を落とす。
 痴話喧嘩だよ、と隣席のカップルが話しているのが聞こえる。視線は再びわたしから離れてゆく。
 感情の起伏が波のように、寄せては返すのを感じる。
「でも、何も云われないまま、もう遅いなんて突きつけられても、納得できない」
「……うん。ごめん。こっちこそ謝るべきだった」
 いろいろ考えてはいたんだ、と彼は云う。
「どうであれ、いつかは帰るつもりだった」
「さっき、おじさんから、聴いた」
「退却が早まっただけのことさ。もう数年逃げきれば妹が家を継ぐかもしれないけれど、間に合わなかった。あの子はぼくと違って真面目で、優秀で、父さんのお気に入りだ。自分の家を大切に思っている。将来的にはわたしに任せてくれとも云っている。兄思いだね。でも、あの子はまだ思春期さえ訪れていない。自分の人生を決めるには早すぎる」
「だから、久世が継ぐの?」
「ぼくはもう、良い頃合いだよ。モラトリアムは終わるんだ」
「久世はそれでいいわけ?」
「とっくに納得してる」
「……わたしは?」
 久世が、言葉に詰まる。
「わたしは、納得なんてできてないよ」
 ごめん、と久世はふたたび謝る。
 窓辺の人影は、相変わらず表情も見えない。

          5

 しばらく、沈黙が互いを支配した。ノイズと呼吸音は途切れ途切れで、このまま会話が打ち切られるのではないかと思った。
「……カメラは辞めないよね?」
 だから、わたしは訊きたいことを訊いた。
「それは……、どうかな」
「久世はまだ、カルティエブレッソンに届いてない。それなのに、辞めるの?」
「手厳しいね」
「でも、きっといつかは手が届く。久世なりの決定的瞬間に」
「ぼくはそんなに、大した写真家じゃない」
「謙遜はやめて」
「親父は、ぼくが趣味に現を抜かすのを許さないだろう」
「でも、そのお父さんが倒れたんでしょ?」
 口走ってから、後悔した。
 そういうことではないのだ。父親がいなくなればカメラを触ることができる、そんな単純な話ではない。久世の父は倒れ、死にゆこうとしている。そのことの重さを、久世は受け止めなければならないのだ。久世の人生はいま、彼がずっと覚悟していた方向へ、けれどもそこから逃げようとしてきた方向へ、大きく曲がって収束しつつある。それを受け容れる過程のなかで、久世の趣味もまた、いままで通りではいられない。
 そのことがわかってもなお、わたしはまだ、彼をわかってやることができない。
 不謹慎なことを云ったわたしを咎めるでもなく、かえって穏やかな口調で、しかし有無を云わせないように重く、久世は話す。
「カメラはつづけたい。でも、ぼくにとっては最初から、カメラは父から逃げるための手段だった。そしてぼくは、もう、逃げることは許されない」
「……逃げようよ」
「逃げてきて、いま、ここなんだ。このままどこまで行けるかも、どこまでしか行けないのかも、ようやく見えてきたところだった。ぼくに才能はないんだよ。ここらが引き際だ」
「それでも、カメラをつづけることはできる」
「うん。だから、やっぱりこれは、ぼくの納得の問題なんだね。いつかまたカメラを手に取ることはあるかもしれない。ただ、どうかな、つづけるとしても、辞めるのと同じくらいの覚悟がいる。ぼくは少し、時間がほしい」
 このときのわたしはまだ、彼が結局、カメラを辞めることを知らない。カメラとフィルムの一式が納戸の奥へとしまわれてしまうことも。久世が二度とそれに触れることなく、早すぎる生涯を閉じることも。彼が下すひとつひとつの決断がどれだけ重いものなのか、わたしはずっと、想像することもできない。
 ――電話……、やめて……。
 電話口の向こうで、そんな声が聞えた。
「誰かいるの?」
「……ごめん。また、メールするよ」
「待って」
 久世は応えず、電話は途切れた。
 直後に、メールが届いた。分量からして、いま書けたはずがない。あらかじめ書いてあったものをそのとき送信したのだとわかった。
 ――大学を辞めることにするよ。
 メールは長々と、久世らしくもない率直な調子で綴られていた。故郷のこと。家のこと。大学で触れたさまざまなものや人、そして、そこから去る決意。また会おう。いつか話そう。別に今生の別れではないのだから。でも、しばらくは連絡しないでほしい。ホームシックになるといけないから……。
 それから、これまた長い追伸があった。
 ――The Decisive Moment……決定的瞬間。その言葉はカルティエブレッソンの写真集に由来するけれど、写真集がフランスで最初に刊行されたとき、タイトルに付けられていたのは別の言葉だった。Image à la Sauvette……強いて訳すなら、〝逃げ去るイメージ〟。最近までぼくは、ふたつを似たようなものだと思っていた。逃げてゆくものを掴まえる決定的瞬間。そんなふうにね。けれどもいまは、フランス語版のタイトルは〝決定的瞬間〟とは似て非なる、あるいはネガとポジのような概念だと思っている。
 思わず手が滑って書いている。そんな印象があった。語り口はいつもの久世に戻って、彼の声が聞えてくるほどだ。
 ――実のところ、写真家はその瞬間を、掴まえることができないのかもしれない。ほんとうに重要な瞬間はいつも、ぼくの目の前をすり抜けてゆく。カメラはその残像をなんとか掠め取ることしかできない。写真に定着しているのは、逃げ去ってしまった瞬間の痕跡でしかない。
 わたしにはその一連の言葉が、彼の引退宣言に思われてならなかった。
 撮った写真はあらかた処分した、と久世は書く。――出来が良いものはあのおじさんに託したけれどね。それを選定するなかで、つくづく考えさせられたよ。ぼくはずっと、ほんとうの瞬間を逃しつづけてきた……。
 長いメールを読むあいだ、視界の端では、ずっと窓の灯を捉えていた。久世の影はまだそこにあった。
 ――要するに、ぼくにはやっぱり、ぜんぜん才能なんか無かった。
 ――杏理、ぼくはブレッソンなんてほど遠いんだよ。
 ――だからね。
 ――きみはいいかげん、ぼくから逃げるべきなんだ。
 そのとき、影が動いた。姿が見えなくなり、灯りが消える。
 紙幣をレジに投げつけるように放って、店を出た。
 痴話喧嘩だよ、と誰かが云う。
 窓から目を離したのは、その一瞬だけだったはずだ。
 通りに、久世の姿はない。
「……どこ?」
 車の往来に構わず、道路を横切る。ブレーキ。クラクション。通行人の肩とぶつかっても、視線の先は、久世が部屋から降りてきたならそこから出てくるであろう路地の入り口から動かない。
「どこを見てんだっ」
 と、誰かが怒鳴るのを背に受けて、路地に足を踏み入れる。
 奥は袋小路になっていて、街灯もなく、闇に沈んでいる。足音が聞こえる。誰かがいる。
「久世!」
 けれどもその闇に向けて呼びかけたわたしに応えたのは、
「……はい?」
 困惑顔の、見知らぬ女性だった。

          6

「久世の部屋はもぬけの殻だった。あとから管理人に訊いたら、家具の処分や荷物の運び出しは前日のうちに済ませてあったって。鍵は昼のうちに返されて、あとは幾つかの荷物を背負って、部屋を出るだけだった……」
 けれどもわたしは、その瞬間を逃した。
 アパートの廊下にへたり込んだことを、よく憶えている。コンクリートの冷たさも甦るようだ。
「その女性は誰だったわけ?」
「同じアパートの住人。一つ下の階の。誰かとすれ違わなかったか訊いても、戸惑った様子のまま首を横に振るだけだった」
「久世さんは、アパートの別の部屋に隠れたのかも……」
「そう思って、路地も含めてあたり一帯を捜したけれど、どこかに隠れたとか、潜んでいる様子はなかった。近所づきあいとかも、なかったはず」
「……ふーむ。なるほど。人間消失だね」
 直己はそう云って大袈裟に肩を竦めてみせた。
「なあに、その表情。にやにやして」
「じっさい、興味深いよ。それに……」
「それに?」
「杏理さんは久世さんのこと、ほんとに好きだったんだなーって、思って」
 からかってるんじゃないよ、と直己は慌てて付け加えた。
「恋愛的な意味に留まらず、さ。そのときの杏理さんにとっては、とても重要な存在だったんだろうなって思う。気づいてる? 杏理さんの口にする写真観って、いまの話を聞いたかぎり久世さんの受け売りか、久世さんへの反論ばかりだよ」
「……なんか、自分がいやになる」
「あはは。でも、師匠ってそんな存在じゃないかなあ。ましてやそこに、同い年の異性の友人であることが同居するなら、複雑な感情を抱くはずだよ。たぶん、久世さんにとっても……」
 会ったこともない男に思いを馳せるように、直己は云う。複雑な感情、と曖昧にまとめたところで、わたしの話す久世の記憶は夫の立場として、快いものではないはずだ。けれどもそんなことなど抜きにして他者について考えることが、直己にはできる。ライターとして不可欠の強みだ。わたしが惹かれたのは、彼のそんなところだった。
「安心して」
「うん?」
「直己のこと、愛してるから」
 わたしの言葉に、夫は声を立てて笑った。馬鹿にするのでない、気持ちのいい笑い。ひとしきり腹を抱えてから、ぼくも愛してるよ、と涙を拭いて云った。それに、と。
「こう云っては失礼かもしれないけれど……、杏理さんの話を聴いていて、久世さんと杏理さんはきっと、恋仲にはならなかったんじゃないかなあ、と思うよ」
「そう?」
「ふたりのあいだにはカメラしかない。カメラ、写真、現像……。杏理さんたちを結びつけているのは、良くも悪くもそれだけなんだ。唯一無二の関係である一方で、ある意味、友達より遠い。だから、カメラのフレームの外側、互いの人生のことになった途端、ぎくしゃくしてしまう……」
 云われてみれば、と思う。わたしと久世は、写真についてならなんでも話した。けれども逆に、それ以外のことは話さなかった。わたしは彼の実家のことを知らなかったし、わたしも自分の家族のことなんて話さなかったはずだ。
 わたしたちはたぶん、そこから先へ踏みこむことを恐れていた。
 ――ぼくはずっと、ほんとうの瞬間を逃しつづけてきた……。
 そしておそらくは、わたしも。
「わたしが喫茶店で張りこんでいると気づいたとき、久世はもしかしたら、こう思ったのかもしれない」
 ふと思いついて、わたしは口にした。
「ここでわたしに捕まったら、せっかくの覚悟が揺らぐ……。自惚れかもしれないけれど、わたしを目の前にしたら、カメラへの愛着が、その日々が、ぶり返してしまう。だからわたしの前から、なんらかの方法で、消えた」
 直己の反応は鈍かった。
「なんらかの方法、とは?」
「さあ、それは……」
「それに、決意が揺らぐというのなら、電話もかけないんじゃないかな」
「……たしかに」
「でもやっぱり、杏理さんの云うようにそこが引っかかりつづけているんだろうね。久世さんの消失は謎に包まれている。その手段も、経緯も。だから、別れの整理がつけられない。わからないことが多すぎるから。逆に云えば、その真相がわかれば良いんじゃないかな」
「……どういうこと?」
「杏理さんがそんなにつらそうな顔をしなくても良いってこと」
 少し考えてみようか、と直己は、仕事で取り組み甲斐のあるネタを見つけたときと同じ表情を浮かべた。
 誠実に世界と向き合おうとするからこそ現れ出る、強い好奇心。
「これもまた喪だ。失われたひとを弔おうじゃないか」

          7

 コーヒーを淹れ直す。二杯目は時間をかけないで、インスタントだ。ふたりでミルクと砂糖をたっぷり混ぜた。甘さが脳裡に染みるようだった。気が張っていたのかもしれない。喋りすぎて、喉も渇いていた。
 直己と話したことで肩の荷が降ろせたわけではないけれど、ふたりで背負えたような気がする。
 ダイニングから、明るいリビングの方に移動した。日は徐々に長くなって、午後の太陽はまだ高く、暖かい。菓子盆にクッキーも並べて、雰囲気はすっかり和らいでいる。直己は、わたしの隣に座った。
「まず、ぼくは久世さんのことを知らない。久世さんがどうして消えたのか、とりあえずその方法から考えることにしよう。そうすれば、事態は単純なトリックの話になる」
「ミステリー小説みたいに?」
「夜の街の人間消失……まるで江戸川乱歩だ。どんなトリックがあり得るだろう? 確認だけれど、見間違いじゃないんだよね?」
「うん。メールを読んでいるときも、窓からは目を離さなかった。ずっと窓を見ていた」
「うん、うん……。でもそれこそが、見落としを生んだのかもしれない。杏理さんが見ていたのは、窓に映る久世さんの影だけだ。たとえば、窓のそばに等身大の人形とか、人型の衝立のようなものを立てたとしたらどうだろう? 張り込みされているとわかった久世さんは、そうやって杏理さんの目を惹きつけた……」
「影は動いてた。それも、不規則に。あれはぜったい、人形なんかじゃなかった」
 わたしは窓の灯を見つめていたのだ。たとえ人形や衝立ではなくロボットだったとしても、わたしはそれに気づいただろう。あの影は間違いなく、人間だった。
「それに、久世の部屋には何も残っていなかった。人形が置かれていたとしても、それはどこに消えたの?」
「事前にそんなもの、用意できないだろうしね。じゃあ、これは却下だ」
 うーん、とうなって直己はソファーにもたれかかる。わたしは、クッキーを一枚囓る。
「あの夜、久世はあらかじめ準備できなかったはず。窓からわたしを見て、電話をかけて……、その場で使えるものを使って、逃げた」
「アパートからの抜け道はないのかな? 窓は一箇所だけだったの?」
「角部屋だったけど、窓はひとつだけ。どの部屋も同じつくり。廊下は各階にまっすぐ一本、階段もひとつだけ。出口の先は袋小路……」
「行き止まりになっているのは道だけだろう? ほかの建物に入るとか」
「云ったでしょ、周辺は捜したの」
「窓からパラグライダーで……」
「……真面目に考えるのはもうお終い?」
「いたって真面目さ。どんな奇策を弄する人間も、意図は真面目なんだよ」
 そう云って、直己はクッキーを手に取った。先に割ってから、口に放りこむ。
「そう、意図だ……。やっぱり、意図の話になってしまう。方法よりも、その理由の話に……」
「なぜ逃げたか?」
「というよりも〝なぜ消えたか?〟。杏理さんの目の前から消える方法を何かしら即興で考えついたとして、そんなことをする理由がどこにあったか。ぼくだったらわざわざそんな奇策を採らない。どこかに隠れる。そして見つかる」
「じゃあ、わたしが見つけられなかっただけ?」
「その場合、どこに隠れたのか……。杏理さんが、捜さなかった場所……」
「そして、当たり前に隠れられる場所」
 わたしは云って、それから気づいた。
「……ほかの部屋」
「え?」
「聞き間違いかと思っていたけど、あのときの電話口から、声が聞こえた」
「ああ、云っていたね」
 ――電話……、やめて……。
 あれは誰だったのだろう?
「いま思えば、女性の声だった気がする」
「ほんとに?」
「確信はないけれど……、でもたとえばそれが、わたしが鉢合わせたあの女性だったとしたら?」
 直己は眉根を寄せて、腕を組む。
「その女性は、嘘をついていると?」
「しばらくのあいだ、久世を匿っていたのかもしれない」
 そうだ、これなら説明がつく。ふたりはぐるだった……。
 途端に、脳裡でひとつの絵が組み上がる。通じあっているふたり。別れの挨拶を交わすふたり。けれども発とうとする久世の前に、わたしが現われる。久世はいったん女性の部屋に隠れて、わたしをやり過ごす。
「ふたりは邪魔だった。わたしのことが。それで……」
「待った」
 自分で描いた絵に呑まれそうになるわたしを止めて、直己は首を振った。
「落ち着いて考えよう。杏理さんはそんな真相、信じられる?」
「……それは」
 とても、信じられない。いくらわたしと彼がカメラを通してだけの付き合いだったとは云え、親密な友人関係くらいは把握していた。それに、わたしの知っている久世は、誰かと共謀して人を騙すような小ずるさを持たない。そんなことができるなら、わたしに待ち伏せされる前に、もっとうまく立ち回っていただろう。
「何より、ぼくがその女性の立場だったら、別れの瞬間を台無しにしてまで、そんな計画に協力はしないな。彼女には、久世さんの消失マジックに手を貸す義理なんてない」
 ごもっとも。わたしは肩を縮こめる。
 わたしを邪魔者にしたかったのは、そうして腑に落ちる説明を求めた、わたし自身だったということか。
「そもそも、窓の灯を消したことがおかしいんだよね。灯りは点けたまま、こっそり部屋を出ればいい。杏理さんは窓の灯が消えて、咄嗟に動いたんだから。うん、ぼくだったらそうするよ」
 ぼくだったら……、とくり返して、
「……そうか」
 直己は頷いた。
「何かわかった?」
「……いま、ガレージで干している写真は、あの夜のものなんだよね?」
「え? うん……」
「ふーむ。じゃあ、夜のカフェを撮ったあの一枚も?」
「ええ、あの夜の……」
 直己はしばらく天井を見つめ、考えをまとめる様子だった。
「わかったかもしれない」
「ほんとう?」
 直己はわざとらしく、片目を瞑ってみせた。
「確かめにいこうか。そろそろ、写真も乾くころだ」

          8

 ガレージまで降りてゆく。階段は細くまっすぐに伸び、壁には直己が自作したフレームに収められて、わたしの撮った写真が飾られている。街の風景。郊外の風景。瓦礫の風景。ときおり、ポートレート。いずれもデジタルカメラによるものだ。久世と疎遠になってから、わたしもまた、自分のカメラに触れることができなくなっていた。それでも写真はつづけたい……。あのカメラショップの店主に相談したら、
 ――フィルムは値上がりする一方だからね。
 そんな云い訳まで用意してくれたうえで、デジタルカメラを薦めてくれた。重く、大きな、一眼レフ。持ち運ぶには大変、と烏滸がましくも文句を付けたところ、実を云うとね、と店主は苦笑した。
 ――きみはあの子みたいに撮るのは、向いていないと思うんだよ。
 結果として、そのアドバイスは正しかった。じっと待ちながらさっとシャッターを切るのではなく、重たいカメラをしっかり構え、見定めて、撮る。自然、風景を撮ることが多くなった。幾何学的な美しさではなく、微細な質感を撮るようにした。久世から離れてみることで、わたしは自分のスタイルを手に入れたのだ。
 もっともそうして正反対の道を追求することもまた、直己が云うように、彼の引力に捕らわれている証なのかもしれない。
 ――沈黙と饒舌。
 直己がわたしの写真を評したその言葉は、何より久世の写真に当てはまるだろう。彼がふたたびカメラを手に取ることなく、代わりにがむしゃら撮りつづけていたわたしが、いつのまにかそれで生活できるようになっていたことに、人生の不思議を感じる。あるいは、不条理と云っても良い。
「問題はやっぱり、意図じゃなかったんだ」
 ガレージの戸を開けて、直己は云った。ちょうど太陽は雲に隠れて、半地下は暗い。
「久世さんが何を考えていたのか。それはやっぱりわからない。ただ、その立場からものを見ればいいのさ。その視点からね」
「どういうこと?」
「さあ、ご覧よ。これが消失のタネを物語っている」
 連なる写真の一枚を、直己は指差した。あの夜の写真だ。透き通った像のなかで、わたしは久世を待っている。その顔は、庇に隠れて見えない。
「……まだ、わからない」
「これは、久世さんの部屋から撮られた写真だ」
「うん」
「杏理さんが映っている。しかしその顔は映っていない」
「……うん?」
「いいかい。久世さんの部屋の窓からは、杏理さんの顔が見えないんだよ?」
 息を呑んだ。
「あそこから見えないってことは……」
「そう。杏理さんからも見えない・・・・・・・・・・・。庇が邪魔で、窓は目に映らないはずなんだ」
「えっと……、待って、どうなるの?」
 あの夜のイメージに、ひびが走る。ずれて、割れて、ばらばらになって、組み直すのに時間がかかる。
 直己はゆっくりと、優しく説明をつづける。
「杏理さんがずっと見ていたのは、久世さんの部屋の窓じゃないんだ。その一つ下、女性の部屋なんだよ。視界のいちばん上にあったその部屋を、杏理さんは久世さんの部屋だと思いこんでしまった。窓辺の人影も久世さんじゃない。一つ下の住人だ。そして、窓の灯を消して部屋を出たのは久世さんではなく、その女性だった」
「……喫茶店に入る前、わたしは最上階の窓の灯を確認した」
「うん。だからそのときはまだ、久世さんは自分の部屋にいたんだろう。でも、杏理さんが見ていたのは久世さんの部屋ではなかったから、彼はいつでも灯りを消して部屋を出ることができた。バスが一度、路地の前に停まったんだったね? おそらくそのバスに乗って、久世さんは発ってしまった」
 わたしの脳裡で、ようやく、パズルが組み直される。
 起こったのはおそらく、こういうことだ。
 街で過ごす最後の夜。久世はわたしの姿を見つける。何を思ったのか、彼は窓辺からその光景を撮る。それが、別れだ。灯りを落として、彼は部屋を出る。別の窓を見ているわたしは、そのことに気づかない。そのあいだに久世は路地へと降りる。折良くバスがやって来る。いや、わたしに見つからないよう、通りに出るタイミングは見計らっていたのだろう。
 バスに乗った彼は、喫茶店のわたしを見たかもしれない。わたしはまったく違うところを見ている。その視線で、彼はわたしが何か、勘違いしていることに気づいたかもしれない。バスが走り出す。夜の街を、駅へ向かって……。
 そして彼は、わたしに電話をかける。
「それなら、決意は揺らぎようがない。わたしはもう追いつけないから……。だから、彼は電話をかけることができた」
「ノイズが激しかったのは、バスの車内だったからだ。エンジン音が聞えていたんだろう。声が抑えられていたのも同じ理由。電話口に聞えた声は、乗車中の電話を咎められただけだよ」
 つまり、単なる勘違いだったのだ。いくつもの偶然が、それを補強した。並んだ店の高い看板が、アパートの下階を隠して階数を曖昧にしたこと。墓石のような建物の造形。階下の女性も窓辺に佇んでいたこと、そして家を出るタイミング。
「でも、そんなことが……」
「起こったんだよ。思いがけない偶然だけれど、ほかの仮説よりずっと、単純だ」
 そうだ。そこにはなんの計略も、奇策も必要ない。奇妙な消失など、最初からなかったのだ。あったのはただ、偶然のいたずらと、わたしの勘違いだけ。
 なんてことはない、見逃しだったのだ。
 ――どこを見てんだっ。
 誰かの怒鳴り声が甦る。
 現像された、ほかの写真を見る。どれも久世らしい写真だった。構図。瞬間。沈黙と饒舌。
 けれども、いまならわかった。
「……あんまり、うまくない」
 十年以上写真を撮り、見つづけて、わたしの目は変わっていた。
 かつてあんなに憧れていた久世の写真は、いま見ると決して、優れたものではなかった。カルティエブレッソンに憧れているだけの、つまらない物真似。もはや色褪せて、なんの衝撃もない。
 ――要するに、ぼくにはやっぱり、ぜんぜん才能なんか無かった。
 久世も、そのことをよく自覚していた。
「わたしは、ずっと、彼のことを見ていなかった……」
 不思議と、久世に対する幻滅はない。その代わり、自分に呆れた。わたしが惹かれていたのは久世ではなく、久世の写真でさえなく、彼を通して知った写真の世界に過ぎなかった。わたしが引き留めようとしたのは、そうして彼と歩む写真の世界であって、彼ではなかった。わたしはやはり、写真を通してでしか久世を見ることができていなかったし、その写真さえ、まともに見ることができていなかった。
 わたしはついに、おのれの人生に悩む等身大の青年と、言葉を交わすことができなかったのだ。
 ――きみはいいかげん、ぼくから逃げるべきなんだ。
 胸の奥から、苦いものが上がってくる。
「彼にとってのわたしは、刷り込みされたヒナだったのかもしれない。たまたま自分がきっかけだったから、いつまでも自分に憧れているだけの雛鳥。自分で自分に見切りをつけてもなお、いたずらに慕ってくる女」
「……また、自分を悪者にしてるね」
 直己の指が、わたしの肩に触れた。
「久世さんがそんな酷いことを考えているって、ほんとうにそう思ってる?」
「……わからない」
「うん、わからない。もちろん。内面を考えていたら袋小路だ。その代わり、何が起きたのかを考えるんだよ。写真は痕跡でしかないと久世さんは云ったそうだね。それは一面では真実だと思うよ。だってぼくらはその痕跡から、過去を知ったんだから」
 もう一度訊くよ、と直己は、今度は肩をしっかり掴んで、わたしの目を見つめた。
「久世さんは、酷い人だった? そして杏理さんも、酷い人だった?」
「……わからない」
 わたしはくり返す。……でも。
「でも、そうは思わない」
 直己は頷いた。
「過去を知って、そう信じる。それでじゅうぶんじゃないかな?」
 わたしも、頷く。
「……よし!」
 直己はぱしんと手を拍って、微笑んだ。
 雲間が切れて差した陽が、わたしの瞳を貫いた。

          9

 現像できた久世の写真は、彼の妹に宛てて返送した。わたしにはもう必要がないから。
 何よりやはり、彼女が持つべきものだと思うから。
 なんとなればそれは、彼が妹のために、自分の人生を犠牲にすることを決めた夜の――わたしと写真ではない、もうひとつの人生を選んだ夜の写真なのだ。
 その夜のことをわたしは決定的瞬間と呼び、けれどもそれはするりと逃げ出して、掴むことができない。ほんとうの瞬間は彼方へと消える。写真はその痕跡だけを残す。
 そして、それでじゅうぶんなのだと思う。



 初出は『玩具の棺 vol.6』(2023)、それから今年になって全面的に改稿して創元ミステリ短編賞に送ったところ一次にも引っかからなかったもの。応募規定では商業契約を結んでいなければ既発表でもOKと認識していたけれど違っていたのか、単純に出来や相性で落とされたのかわからないが、まあ、自分でも意外なほど悔しかったので公開する。たぶん、それなりに自信があったのだろう。書きたいものと、読んでもらえるもの、その折衷を探るにあたって、なにがしかの手ごたえを得たことは間違いない。