鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「倒錯の構図」(2019)

 ドラマ『古畑任三郎』がTVerで配信されているとのことで見返してみたら、やっぱり倒叙ミステリって良いなあ、と思ったのでむかし書いた中篇を引っ張り出してきた。一部ロジックが甘い、または破綻しているところがあるのと、題材に対する理解が足りないのと、読めばわかる通り二次創作まがいなので封印するつもりだったけれど――秋に出す予定の再録本にも収めるつもりはなかった――せっかく書いたので公開する。
 初出は『玩具の棺 vol.4』(止まり木館)。


 

 カフェテリアからは、国際線の出発ロビーが見下ろせた。服装も年代も人種も様々なひとびとが、日本を発つと云う共通点によって集まり、列を作り、追い越し、追い越され、すれ違っては往来する。やがて一定の流れを形成するその様を端の席から眺めながら、鴉丸からすまるあやは既視感を覚えた。ちょうど一年前、海棠かいどうかなめと最後に話したのも、このひらけたカフェテリアだった。
 ――どうしても、いくんだね。
 出国を前にした自分に向かって、諦めと哀しみを滲ませながらそう云ったかなめの表情を思い出す。
 綾はコーヒーを干すと、鞄からケースを、ケースからさらにカメラを取り出した。フィルム式の一眼レフ。傷んだケースや鞄と対照的に傷ひとつないそれを、おもむろに手入れしはじめる。
 ――ねえ、聞いているの?
 一年前もこうしてカメラの手入れをしながら、かなめの言葉に耳を傾けていた。精密機器であるカメラは手入れを欠かしてはならないとよく云われたものだが、綾にとってそれはもはや儀式めいた癖となっていた。
 あの時自分は、あくまで視線をカメラに向けながら、こう返したはずだ。――取材先で撃たれて死ぬのなら、ジャーナリストとしては最高の死に様でしょうね。だがその言葉は多分に韜晦を含んでいると自覚していた。
 ――死んだら取材した意味が台無しになるのよ。わたしたちの仕事は真実を報道することだって云ったのは、綾なのに。
 ――危険に晒される覚悟がなければ、危険を取材する資格なんてない。
 かなめの首から提がったカメラを一瞥する。
 ――そのカメラは何のためにあるの?
 ――ただ、わたしは、綾のことが心配なの。
 懇願するような瞳だった。けれど綾にとって、その視線は煩わしいだけだった。
 ――冗談はよしてよ。あなたは、わたしから離れたくないだけ。結局、自分のことしか考えてない。
 返事はなかった。綾が手入れを終えても、軽食を注文して戻ってきても、かなめは黙って顔を伏せていた。
 結局、綾は取材へ旅だった。東サザランズ紛争。いくつもの人種と民族と宗教による格差と差別、それらの爆発に大国が介入して生まれた混沌の中、綾はシャッターを切り、声を記録し続けた。
 ――何が綾を駆り立てるの? 
 最後に、かなめはそう訊ねてきた。
 ――正義感? やり甲斐? あんな目に遭っても、記者を続ける理由は何?
 ――そうね、強いて云うなら……。
「悔しさでしょうね」
 思わず漏れていたつぶやきが、綾を回想から引き戻した。手はカメラのレンズを外したまま止まっている。無意識のうちに作業を進め、無意識のうちに手を止めていたらしい。滅多にないことだった。少し慌ててレンズを戻し、改めて本体を拭いて、ケースにしまった。
 深呼吸をひとつ。
 携帯端末を取り出し、電話を掛ける。手に躊躇はなかった。三回のコールで相手は出た。
「もしもし、かなめ?」

 海棠かなめの家は、一年前と変わらず酉都ゆうと市郊外、寂れたアパートの二階にあった。再開発から取り残された町の、時の流れるままうち捨てられるのを待つだけの建物。時刻は日付が変わる頃。冬風が寒々しく吹き抜けるひとけのない廊下を、消えかけた蛍光灯だけが照らしている。周囲に視線がないことを確認し、綾は手袋をしたまま呼び鈴を押した。
「鍵は開いてるよ」
 こちらが誰だか確認もせず招くあたり、不用心なのは相変わらずのようだ。呆れ半ばに扉を開けると、光がひらめいた。
「はい、チーズ」
 玄関では、かなめがカメラを片手にしたり顔を浮かべていた。黒髪短髪の綾とは対照的に、明るい茶髪が背中まで伸び、服装も軽やかにまとめている。だが綾は相手を観察している余裕がなかった。束の間、緊張に身を固くし、思考を走らせる。
「どうしたの? 豆鉄砲食らったような顔して」
 出鼻を挫かれた。だが、致命的とは云いがたい。立て直しをはかる。「わたしが写真を撮られるのが嫌いなのは――」
「もちろん、知ってるわよ。だけど、綾が生きて帰ってきたんだもん、記念写真くらい欲しいでしょう?」
「云ってくれれば、それくらい」
「驚かせたことは謝るわ。ごめん」云いつつ、かなめは満足げにカメラを振った。「でも、驚かせたのなら、綾もお互い様」
「そんなつもりはなかったんだけど」
「もっと早く連絡してくれれば良かったのに……。ま、何はともあれ帰ってきたんだから、うるさくは云わない。おかえりなさい」
 今度こそ、かなめは綾を部屋へ招いた。アパートそのものは古いが、室内は掃除と整理整頓がいき届いていて不快さや窮屈さはない。通された居間には小さなテーブルとテレビのほか、背の高いラックと本棚くらいしか家具はなかった。
「何か食べる? カレーならすぐに用意できるけど」
「遠慮しとく。飲みものだけで」
 じゃあ、とカメラをテーブルに置いてキッチンに向かおうとするかなめを、綾は止めた。
「飲み物ならわたしが用意するから」
「そう? 悪いわね」
「コーヒーで良い?」云いつつ、鞄を降ろしその上にコートを畳んで置いた。
「文句を云ってもブラックなんでしょ。ああ、うちにはインスタントしかないから。向かって右上の棚にあるやつ」
「向かって右上ね、了解」
 キッチンと居間は部屋として繋がっている。電気ケトルで湯を沸かし、戸棚から出した二つのカップに粉末を用意してから、綾はかなめに背を向け、ポケットから薬包紙を取り出した。身体を陰にしてかなめから見えないようにしつつ、薬包紙の中身を一方のカップに入れる。睡眠薬を――かなめが愛用しているものだ――砕いた白い粉末である。湯を注ぎ、コーヒーを作る。立ち上る香りはインスタントにしては香ばしい。
「美味しそうな匂い。最近のインスタントは進化したのね」
「そんなに変わってないよ。綾が一年間、まずいコーヒーばっかり飲んでたからじゃないの?」
「それはそうかも」
「ねえ、聞かせてよ、この一年の話。綾が何を見たのか」
「ええ、たっぷりとね」コーヒーをテーブルに差し出す。綾はそこではじめて気付いたように、「あら、付けっぱなしだった」と手袋を外した。
 かなめはカメラをいじっていた。綾と同じ型のフィルムカメラだ。以前、かなめが綾に憧れて揃えたものだった。
「まだカメラは続けてるの?」
「うん。もともと趣味が高じてカメラマンを志したんだし。仕事辞めても、これは辞められなくて」
 それからしばらく、会話は和やかに進んだ。綾は東サザランズの印象的な出来事を話した。むごたらしいことはなるべく避け、心温まったこと、楽しかったこと、ハプニングと窮地からの逆転……。自分でも意外なほど饒舌だった。
 その後はかなめが自分のことを述べた。退職してからも森矢(もりや)出版との繋がりは続いているらしく、いまでも風景写真や簡単なコラムの仕事を回してもらっていると云う。
「それって戌橋(いぬばし)君のこと?」
「うん。家にいてもすることなんてないし、貯金は減るし。彼に頼んで手伝わせてもらってる」
「仕事に戻るつもり?」
「近いうちにね。最近は落ち着いてきたし。でも、記者になるとしても別なところが良いわね。おしゃれで無害なやつ」
「あんなのはジャーナリズムじゃない」
「そのジャーナリズムがもうこりごりなんだって」
 揃って笑う。和やかだった。信じられないほどに。
 このまま帰っても良い――脳裡をよぎる言葉を振り払うように、綾は会話を続けた。「でも安心した。かなめが元気そうで」
「あはは、わたしもずっと落ち込んでばかりもいられないからね……」しばらくの、間。思い直すようにかぶりを振る。「ううん、……実は結構強がってる」
 いままでつとめて明るくしていたのだろう、そこではじめて、かなめの表情が翳った。
「正直云うと、怖い。まだ怖い。あの夜は忘れられない。いまでも夢に見るし、もう二度とあんな目に遭いたくない。なのに綾は平気そうで、わたしのそばに居てくれなかった。寂しくて死んじゃいそうだった」
「大袈裟な」
「冗談なんかじゃない。綾はわたしを置いていった。わたしは仕事を続けられなくなったのに。わたしは家も出られなかったのに。綾はひとりでわたしから離れた。哀しかったし、悔しかった。……。それは全部、冗談なんかじゃない」
 明らかに、空気は変わっていた。こうなることは計算済みのはずだったが、後悔はある。どうしてこうなったのだろうか、と。
「メールを見れば帰ってきてくれると思ってた。予想よりずっと早かったけど、これは嬉しい誤算ね」
「あんな脅迫めいた文面なら、帰らないわけにはいかない」
「黙って待っていようと思ったんだけど、我慢できなくなっちゃって。でも、これは脅迫じゃないよ。あくまで、綾を離さないための保険。わたしは綾のことを信じてるから」
「写真をかなめが撮った証拠はない。ネガもわたしが持っている」
「関係ない。わたしが騒げば、綾はもういまのままじゃいられなくなる。綾が苦しむのは見たくないけど、わたしはずっと苦しんできたんだもの」
「あなたに捕まった時点で、選択肢はなかったわけね」
「捕まるんじゃない、あるべき場所に戻るだけ――わたしの隣に。綾はわたしを一度見捨てた。だけどこれからはずっと一緒」
「……あなたと向き合わなかったのは、謝るわ」
「じゃあ、これからはわたしから離れないで。約束」
「ええ、約束」
 かなめはどこか歪な笑みを浮かべていたが、その瞳には痛切さがあった。あの懇願の瞳。だが、それもにわかにとろけてきた。
薬が効きはじめたのだ。
「……なんだか、疲れちゃったみたい」
「そうみたいね」
「返事をまだ聞けてないのに……」
「安心なさい。どこにもいかない。約束する」
「……そう、良かった……」舌も回らなくなっている。「そうだ……。カメラのこと、ごめんね……」
 云い終わるか終わらないかと云うところで、かなめは瞼を閉じ、テーブルに突っ伏した。
 かすかな寝息。意識をなくしたことを確認して、綾は呟く。「わたしもごめんね。あなたとの約束、守ってあげられない」
 再び手袋を装着し、鞄からファイルを取り出す。綴じられているのは一枚のレポート用紙だ。つまんでファイルから外し、テーブルに広げた。かなめの指を何カ所かに押しつける。
 この手紙は重要だ。これこそが計画の全容を決めたのだから。
 口をつけていない冷めきったコーヒーをシンクに流し、カップを洗う。タオルで拭いて、元の場所へ。一連の作業中、自分が素手で何か触っただろうかと思い返す。
 計画は、最大の要所を迎えようとしていた。ユニットバスの蛇口をひねり、浴槽に水を溜める。その過程で、洗面台の目に付くところに誂え向きの剃刀を見つけた。大きな剃刀がなければ包丁を使うことも考えていたが、ちょうど良い。拝借させてもらおう。
 眠ったままのかなめを浴室へ運ぶ。ハンカチで先ほどの剃刀を取り上げ、かなめの左手に握らせる――彼女の利き手は左だ。そのまま、右手の手首を深く切りつけた。かなめが小さく呻いたような気がしてひやりとしたが、依然、寝息は続いていた。彼女の右手を浴槽に沈める。
 滾々と流れ出る血が靄のように水中へ広がる様を、綾はしばらくぼうっと見ていた。思いのほか体力を消耗したようだ。息が少し荒れていた。
 だが、いつまでもぼんやりとしていられない。居間へ戻り、テーブルのカメラを手に取る。手袋のまま操作しようとしたが、細かい作業が捗らない。思い切って外し、慎重にフィルムを抜いた。つい無意識に感光しないようフィルムを巻き戻してしまう程度には、身体に染みついた動作だ。
 新しいフィルムと交換するか迷ったが、これ以上痕跡は残したくなかった。裏蓋を閉じ、ハンカチで指紋を拭う。かなめの指紋も消えてしまうが仕方ない。手入れをした直後だと思ってもらえるだろう。
 カメラの置き場所はすぐに見当が付いた。ラックの最上段にある不自然な隙間。脇にはカメラのケースがある。下の段には、かなめが撮ったのだろう風景写真と、同僚や家族とのポートレート。ここがカメラ関連のものをまとめて置いているところに違いない。
 手袋を再びつけてカメラをしまうと、コートを着て鞄を持ち上げた。最後に浴室を覗く。かなめはもう寝息も立てていなかった。
 アパートの部屋を出る。きた時と同じく、周囲にひとけはない。今夜の出来事は、誰も知らないはずだ。これまでも、これからも。
 帰り道、夜気は刺すように冷たかった。

2

 浴槽から溢れた水で、死体はすっかり濡れていた。狭い浴室の床の上、窮屈そうに身体を折り曲げている。何もこんな無理な姿勢で自殺しなくても――川城かわしろたまきは死体の検分を眺めながら、眉根を寄せた。殺人や事故の現場は使命感と義務感から進んで仕事をおこなうが、自殺の現場だけはやるせなさに堪らなくなってしまう。部下たちの報告を書き留める手も捗らない。
 現場はすでに封鎖されていた。死体の発見された部屋だけではない、アパート全体だ。先ほどは文句を喚いている住人も見かけた。いい加減、死体も運び出して仕事を終えたいところだ。
「状況も明らかなんだから……」
「じゃあ、説明してくれない?」
 振り向くと、黒いコートに身を包んだ、蓬髪の男がいた。咄嗟に背筋を伸ばし、頭を下げる。「失礼しました、おぼろ警部補!」
「いや、畏まらなくて良いって」そう云って朧は苦笑を浮かべる。いつもの、妙に人懐こい笑みだった。
「……今回の担当は朧さんでしたか」
「昨夜の殺人の方にみんな駆り出されちゃってね、仮眠してたら叩き起こされた」大きなあくび。目には深い隈ができている。暇があれば仮眠室に籠もっているような人間なのだが。「で、改めて訊くけども、状況は?」
「どこまで聞いてます?」
「鳥船町のアパートで女性の遺体発見」
「ほとんど何も聞いてないみたいですね」呆れつつ、周囲に目をやると、他の捜査員たちは知らん顔でそっぽを向く。関わった事件は漏れなく面倒くさくなると云うこの刑事に、誰も近付きたくないらしかった。「はあ……。説明するのでこちらへどうぞ」
「ありがとう、助かるね」
 邪魔にならないよう居間に場所を移す。捜査員たちは何かを察したのかそそくさと出ていった。
「えーと、遺体の人物は海棠かなめ。二十七歳女性」書き留めた情報を読み上げはじめる。どうして鑑識官のわたしがこんなことを、と云う言葉は呑み込んだ。「本日正午過ぎ、浴室で斃れているのを発見されました」
「発見者は誰?」
「ここの大家です。一階の自室に待たせてあります」
「了解。後で話を聞こう」
「死因は出血多量。右手首をばっさり切っています。剃刀がもう一方の手に握られていました」
リストカットってやつかい?」
「自殺未遂の代名詞ですが、傷口が塞がらなければ死ぬんです」
「なるほど」
「正確な死亡推定時刻の割り出しはこれからですが、大雑把に見ても真夜中前後と考えて良いと思います」
睡眠薬は?」
「え?」
「さっきちらりと見た限りでは、随分変な姿勢で倒れていたよね。暴れた様子もなかった。普通、手首から血がどくどく出ていたら、痛くてもがいて、とても死ぬまで耐えられないと思うんだけど」
睡眠薬は寝室の引き出しにしまわれていました」まったく、このひとの寝ぼけ眼は、見ていないようで見ている。「南雲(なぐも)製薬のものです」
「なんでそれ飲んで自殺しなかったんだろう。苦しまないのに」
「さあ……」
「それで、亡くなった時は薬を飲んでいたの?」
「死亡時服用していたかは、解剖してみないことには」
「じゃあ、解剖に回しておいて」
「どう見ても自殺ですよ?」
「うん、一見するとね」云って、朧はテーブルの上をしげしげと眺めた。「これは遺書?」
「のようです。細かい鑑定はこれからですが、筆跡はカレンダーなどのそれと酷似しています」
「ふうん。触って良い?」
「一通り撮影も指紋採取も済ませたので、どうぞ。ものは動かしていませんから安心してください」
「流石だね」
「仕事ですから」
 どこから出したのか、一応ゴム手袋をはめて、朧はテーブル上のレポート用紙を取り上げた。A四サイズの紙に、遺書はボールペンで手書きされていた。

 みなさんがこの手紙を読んでいるころ、わたしは死んでいることでしょう。血が流れ、傷つき、みにくい死体となっていると思います。でもかなしまないでください。わたしはさいごまで、じぶんの使命をつとめました。
 おとうさん、おかあさん、かなめはがんばりました。これからあなたたちのもとへいきます。

海棠かなめ

 筆致は落ち着いているが、後半になるとやや震えが見られる。いまから死のうとしているのだから当然だが、朧は納得がいかないようで、しきりに首を傾げていた。
「うーん」
「何か変ですか? どう読んでも、これから死ぬ人間の書いた文章ですけど」
「それは間違いないんだけどね……、うーん」また首を傾け、部屋の中をぐるぐる回って調べはじめる。
「彼女の職業は?」
「大家によると、カメラマンだったそうです」
「へーえ」カメラマンねえ、と呟きながら冷蔵庫を開ける。「食材が詰まってるね」
「キッチンを見てもわかりますが、まめに料理をする人物だったようです」
「カレーがある」
「料理するひとなんだからカレールーくらいあるでしょう」
「ルーはルーだけどね」朧が見せたのは、透明な袋に詰められたカレールーだった。真空パックされているようだ。「自殺する人間がカレーを保存するかい?」
「自殺を決意する前に作っておいたのでは?」
「日付が書いてある」朧が指さしたさきには、確かにパックの隅にマジックで『二月十八日』とあった。「昨日の日付だよ。一年置いてるんじゃなければ、このカレーは昨日作ったんだ」
「ほんとだ……」
「うーん」また首をひねる。
 面倒な事態となってきたことに、川城はそろそろ気付いていた。
 冷蔵庫から離れた朧が次に目を付けたのは、ラックのカメラだった。
「カメラマンと云うことは、これが仕事道具かな」
「知りませんが、そうなんでしょうね」
「いまどきフィルムなんて珍しいな」そう云って、カメラの隣のケースを開ける。「うーん?」
「どうかしました?」
「カメラの指紋は採った?」
「採ろうとしましたが、ありませんでしたよ。おそらく、手入れした直後だったんじゃないですか」
「そうかも知れない」ケースの一番上、タオルに乗っていた道具を取って、朧は川城に訊ねた。「これ何かわかる?」
「ご存じないですか? カメラはわたしたち鑑識にとっても仕事道具なんですよ」
「うん、だから訊いた」
「……ブロワーです。レンズの中の埃を吹き飛ばしたりするんです。丸いところを押したら風が出るでしょう?」
「へーえ」何度かブロワーから風を吹かせて、朧は感心したように肯いて見せた。「なるほど」
 そこで、浴室から川城の部下の鑑識官が検分の終了を報せてきた。「死体を持ち出しても?」
「ん、ああ、大丈夫」聞いているのかいないのかわからない態度で――大概の場合、この刑事は全部聞いているのだが――朧は返事をする。彼がいま眺めているのは、ラックの下段に並んだ写真立てだった。
 もう良い頃だろう。一枚一枚写真立てを見つめる朧に、川城は声を掛けた。「わたしも戻っても良いですか?」
「ああ、ありがとうね」
「では」ほっと息をついて、背を向けて部屋を出ようとした。しかしまたもや朧が出した「うーん?」と云う声に、つい振り返ってしまう。
「今度は何です?」
「いや、ラックの裏なんだけどね、何か入ってる」
 朧はラックの後ろの狭い隙間に手を突っ込んで、その何かを取り出した。一枚の写真だった。黒い縁の写真立てに収まったそれには、黒髪を短く揃えた女性の横顔が写っている。目つきが鋭いものの、聡明そうな顔つきは美人と云えた。だが他の写真と違って、視線がカメラを向いていない。
「これ、誰だか調べられる?」
 それはわたしの仕事じゃない!――川城がそう云おうとしたところで、朧は部屋を出ていく。
 取り残された川城は、茫然と部屋に立ち尽くした。「……何なの、あのひと?」

3

 目を閉じる。浴室で倒れている海棠かなめの姿が浮かぶ。あたりは水浸しだ。血は赤黒く、その一切を染めている……。
 矢坂やさか祭子まつりこは再びこみ上げてきた吐き気を堪えた。彼女はつい昨日まで、自分に笑顔を見せていたのだ。それがどうして。
 また悲嘆に暮れそうになったところで、祭子は目の前に男が立っていることに気付いた。近寄る気配も感じさせなかったその男は、一見して正体が知れない。ろくに整えていないボサボサの癖毛、サイズの合っていない大きなダッフルコート。袖から覗く手は針金のように細く、目の下の深い隈もあって明らかに不健康そうだった。
「……あなたは?」
「失礼、こちらのアパートの大家、矢坂さんですね?」
「そうですが……」
 男はにっこりと笑って見せた。不健康な容貌にそぐわず、それは安心感さえ覚えさせる。はじめは年老いているように見えたが、こうして明るい表情を見せると、若々しく、むしろ子供じみた印象を覚えた。
「酉都市警察の朧と申します」いつの間にか片手に警察手帳を広げて見せていた。「話、お聞かせ願えますか」
「お話なら、さっき別のひとに」
「すみませんね、もう一回、お願いします。状況が変わったものでして」
「何か……?」
「いえ、こちらの話です。今朝、海棠さんの遺体を発見して、通報されたのは、あなた?」
「ええ。でも、最初は諏訪部(すわべ)さんから話があったんです」
「と云うと?」
「きょう、十時頃でしたか、諏訪部さんが、このひとは一階の、かなめちゃん――海棠さんのちょうど真下の店子さんなんですけど、わたしを訪ねてきたんです。上の階から水漏れがしてるって。それでかなめちゃんの部屋にいって、呼び鈴を鳴らしても返事がなくて、不思議に思って、鍵も開いていて……」また、こみ上げるものがあった。「……すみません、これ以上は」
「十分です。ありがとうございます」
「それだけですか?」
「申し訳ないですが、他にも二点ほど」朧はこちらを見上げるようにして屈み込み、指を二本立てた。「海棠かなめさんの最近の様子で、変わったことはありましたか?」
「ないですよ。だからわからないんです。どうして自殺なんてしたのか……」
「最後に海棠さんを見かけたのはいつです?」
「昨日の朝です。ゴミを捨てに出たところを見かけて。何だか嬉しそうにしていて、つい話しかけました」
「その時、海棠さんは何と?」
「何も。ただ、良い報せを聞いたんです、とだけ……」
「それが何かは具体的に云わなかったのですね?」
「ええ。そのあとは、かなめちゃんを見ていません」
「海棠さんとは普段から親しくお付き合いを?」
「わたしがですか?」
「かなめちゃん、と親しげに呼んでおられるので」
「あら、つい……。あの子はね、可哀想な子なんですよ。ご両親を亡くして、やっと夢のカメラマンになれてからも、あんなことに」
「あんなこと、とは?」
「いえね、わたしもよく知らないんですよ。もともとあの子はカメラマンとして森矢出版の報道部にいたんですけど、一、二年ぐらい前、海外取材から帰ってきてから、仕事も辞めて、しばらく引きこもりがちになったんです」
「ほう」興味深げに朧が身を寄せる。
「精神的に結構つらそうでねえ。前から、作りすぎたおかずをお裾分けしたりはしてたんですけど、ああなってからはよく声を掛けてました」
「海棠さんはこのアパートに住んで長いのですか?」
「もう三年近くになります。よく話すようになって、段々と明るくなって……。新しい娘ができたように思ってたんだけねえ」
「お察しします」
「死んじゃだめよ、死んじゃ……」
「ではもう一点。海棠さん宅をよく訪ねるひとはいましたか?」
しばらく考えて、「……人がくることも、めったになかったと思いますよ」
「昨夜、誰か住人以外でアパートにきたひとは?」
「いたとしても知りません」
「ひとの出入りがわかるような、監視カメラとかありません?」
「ないですよ、この辺だと、駅とかコンビニじゃないと」
「ふむ……」
「お力になれず、すみません」
「いえ、大変参考になりました。ありがとうございます」
 朧は立ち上がる。またあの笑顔を浮かべ、立ち去ろうとするが、部屋に入ってきた鑑識官らしい女性が彼を呼び止めた。
「警部補、ちょっと」
「何?」
 女性は祭子を一瞥したが、問題ないと判断したのだろう、そのまま続けた。「海棠さんのところに、宅配がきたんです」
 それを聞いた朧の笑顔が、少し不気味に歪むのを、祭子は見逃さなかった。

4

 オルシニア。大国に挟まれた東欧の小国。写真は、その首都にある路地を上から写していた。路地を埋めるのは、銃や鈍器を掲げた市民と、彼らに薙ぎ倒された警察隊。――『倒錯の構図』と名付けられたこの一枚は、暴動の熱とその恐ろしさ、そして一夜にして崩壊しうる日常のもろさを巧みに捉えた写真だとして、高く評価された。また、この写真を含む、一夜を記録した同題のルポは賞も獲り、ジャーナリストとしての鴉丸綾の名を知らしめることとなった。
 酉都市中心部、自宅の仕事部屋。綾は壁に飾られたトロフィーと写真を見つめている。昨夜は帰るとそのままベッドに潜ったものの、よく眠れない。早朝から起き出し、いままで雑務を潰して気を紛らわせていた。
 時計を見ると、陽の落ちるのが早いこの時期でも、まだ夕方にならないあたり。誰とも会う約束をしていない上、一年ぶりに帰ってきたのに宅配が届くはずもない。だから、来客を告げるインターフォンが鳴った時、驚くと共に不審を覚えた。
「はい、鴉丸ですが、どなたで……」
 応答し、玄関の映像を呼び出す。途端、画面いっぱいに、黒いもじゃもじゃとした何かが映し出された。
「……毛玉?」
「ああ、これがカメラでしたか」少しも悪びれた様子を感じさせずそう云って、相手は即座に退く。それでようやく、画面に映っていたものが髪の毛だと判明した。
 へらへらとしたその男は、片手に警察手帳を開いていた。
「はじめまして、酉都市警察の朧と申します」

 警察がくることは想定していた。しかしこうも早いとは。何が珍しいのか室内をきょろきょろと見回す朧に対し、内心の動揺を悟られないよう、綾はつとめて淡泊に切り出した。
「それで? 警察がわたしに何のご用ですか」
「念のためお訊きしますが、鴉丸綾さんですよね? フリージャーナリストで、元森矢出版所属の記者」
「そうですけど、だから用件は?」
「海棠かなめさん、ご存知ですね?」
「もちろん。以前同僚でした」
「今朝、亡くなられているのが発見されました」
「そんな」わざとらしく悲嘆するな。あくまで驚きが勝ったようなそぶりで。「どうして? 事故?」
「状況からして自殺の可能性が高いでしょう。遺書もありました」
「そう……」
「心中、お察ししますよ」
 察せられて堪るか。「報せていただいて、ありがとうございます」
「実は、お伺いしたのはこれだけのためではないんですよ」
「ほかにも何か?」
「海棠さんは自殺された可能性が高いんですが、二、三、わからないところがありまして。細かいことにうるさいんですよ、うちの上司は。スムーズに話を進めるためにも、こうして参上した次第です」
「それがどうしてわたしに繋がるんです?」
「海棠さんとのご関係を、具体的に教えていただけますか」
「だから、元同僚です。森矢出版にいた頃、よく組んで仕事をしていました」
「それだけ?」
「まあ……」会話の主導権を握れないことにいささか苛立ってしまう。「友人と呼べる付き合いもありましたが」
「ならお訊きしたいんですが、海棠さんが自殺されたとして、その理由に心当たりは?」
「さあ。この一年、彼女とは会っていないんです」
「なぜです?」
「取材のため、ずっと海外にいました。帰ってきたのはついおとついです」
「でしたら、一年前の話で結構です。海棠さんは自殺をするような方でしたか?」
「そんなこと訊かれても。確かにあの頃はかなめも精神的に不安定で、いつ手首を切ってもおかしくはなかったですが」
「この一年のことになるとわからない?」
「ええ。オルシニアから帰ってからは疎遠になって」
「海棠さんと最後に会われたのはいつです?」
「東サザランズに発つ当日、空港で見送られたのが最後です」
「ふむ……」
「まあ、自殺なんて衝動的なものですからね」
「しかし、きっかけくらいはあるでしょう」
「それはそうかも知れませんが」この男はどこに話を持っていこうとしているんだ?「わたしに訊かれても、わからないですね」
 朧は考え込んでいるようだった。悩ましげに眉間を押さえる。
「いい加減、用件に入ってもらえませんか」
「いえね、海棠さんは亡くなられた日、誰かと会っているんじゃないかと思うんですよ」
 不意に核心を突かれた。
「……どうして、そう考えるんです?」
「海棠さんの服装はワンピースでしたが、部屋で着るようなものではありませんでした」
「直前まで、どこかに出かけていたとか」
「いまは二月ですよ? 外出するには軽装です。だから、海棠さんは外出するつもりはなかったが、ひとめを気にする必要があった――つまり、家に誰かを招いたのではないか」
「かなめはお洒落に気を遣っていました。たとえ部屋着でもジャージやスウェットは着なかったのかも」
「何かとまめな方だったようですしね。なるほど、そうかも知れません。カレーのパックもそれで説明がつきます」
「カレー?」
「海棠さん宅の冷蔵庫には、カレーが真空パックされていました。そのパックには、昨日の日付が書いてあるんです」
「……そうね、死ぬ間際まで生きるつもりで、料理をしていたんでしょう」
「亡くなられた当日の朝もゴミを出しておられますし」
「あの子は、真面目だったから」
「アパートの大家さんも、良い子だったと仰っていましたよ」
「納得した?」
「いいえ、まだです。そんなにまめな方ならいっそう、写真の件がわかりません」
「写真がどうしたと云うの?」
「海棠さん宅に、写真が飾られたラックがあるのを見たことありますか?」
「あの子の家はいったことがないわね」断言して良いものか、一瞬迷う。「一度だって」
「そうですか。鉄製のラックなんですが、その裏側に、隠すようにして一枚の写真があったんです」
「落ちたんじゃないの?」
「ラック上段のカメラに、海棠さんの指紋はありませんでした。最近、手入れをしたのかも知れません。手入れの時、下の段の写真が一枚ないことに気付かなかったのでしょうか?」
「まめな人間でも見落としはある」
「かも知れません。しかし、写真立てはいくつも並んでいるのに、そのうち一枚だけがあの狭い隙間に落ちるのは、やや違和感がありまして」
「じゃあ、写真を見たくなかった、とか」
「写真は写真立てごと隠されていました。これではかさばります。単に見たくないのであれば、写真だけ隠せば良い。何なら、破り捨てれば良いのです」
「あなたは何が云いたいの?」
「写真は隠された。けれどもそれは自分自身から隠したいからではなかったし、ずっと隠しておくつもりもなかった。と云うわけで、先ほどの話に戻ります。海棠さん宅を、誰かが訪ねたのではないか? 写真は、その来客から隠されたのです」
「その写真は……」見えてきた結論に、声がどもる。「その写真は、何の写真だったの?」
「あなたですよ、鴉丸綾さん」
 おわかりいただけますか――とでも云うように、朧は両手を広げて、笑みを浮かべた。親しげな笑みだった。目が笑っていないことを除けば。
「はじめは誰だかわかりませんでしたが、捜査員のひとりに、あなたを知っている人間がいました。聞くと、海棠さんと同じ出版社につとめていたそうじゃないですか。そこで以前一緒に働いていたと云う方に話を伺うと、あなたがたはよくペアを組んでいたようですね」
戌橋いぬばしね」
「はい、戌橋さんから教えていただきました。こうしてあなたを訪ねたのは、そう云うわけなんです」
「もう一度云っておくけど、わたしは帰国してから、かなめと一度も会っていないわ」
「別に、会っていたのがあなただと云いたいわけじゃないんです。海棠さんにとって、鴉丸さんとの繋がりを知られたくない相手だったのかも知れません。心当たりありませんか?」
「調べたところで、どうなるの?」
「遺書は海棠さんが書いたものであると筆跡が証明しています。自殺がいまのところ有力でしょう。しかし、その人物が彼女に自殺のきっかけを与えた可能性はあります。大家さんによると、自殺する動機は思い当たらないそうですから。鴉丸さんも、海棠さんの死の真相を知りたいのでは?」
 朧は依然、表情を崩さない。どうやら厄介な人間が敵に回ったらしいと、綾は気付いた。
「……ええ。誰だかわかったら、是非教えてください」
「そうそう、かなめさんは亡くなられる三日前、通販でカメラのフィルムをきょう届くように注文しているんです。このことから、ゴミやカレーの件も、ただルーティーンをこなした結果ではなく、死が突発的なもの――その人物によってひきおこされたものであることの証拠と云えます」
「まるで殺人みたいな云いぐさ」
「まあ、殺人の可能性は消えていませんから」
「……あなたみたいな刑事が担当になって、かなめもさぞかし喜んでいるでしょうね」
「そう云っていただけるとは光栄です」
 皮肉をそのまま受け取って、朧は頭を下げる。笑みは少し薄くなっていた。
「カメラ、お揃いですね」
「何の話です?」
「海棠さんのと、鴉丸さんの」朧は綾の背後、デスクに置かれたカメラを指さす。「さすがはコンビを組んでおられただけのことはある」
「関係ないでしょう。この事件にも、仕事にも、あなたにも」
「仕事と云えば、海棠さんの身に何があったのですか? 一、二年ほど前、精神的に不安定だったとか」
 いちいち話が飛ぶ。「『倒錯の構図』は知ってる?」
「ええ、二年前のオルシニアの革命を記したものですよね。うちの捜査員も、それを読んであなたのことを知ったと」
「それを読めばわかるわ」
 これ以上、会話を続けるのは危険な気がした。綾は立ち上がり、「わたしにも用があるんです。そろそろ良いかしら?」
「ありがとうございました。大変参考になりましたよ」
「お話は以上?」
「そうですね、当初予定していたことは以上です」
「それ以外に訊きたいことが出てきたと」
「別にどうと云う話ではないんですが……」
「何か問題でも?」
「どうして知っていたんです?」
「何を?」
「ぼくは、海棠さんの死について、自殺された可能性が高いとしか云っていません。なのにあなたはつい先ほど、いつ手首を切ってもおかしくはない、と仰った。どうして、海棠さんが手首を切ったと知っているのです?」
「……別に、自傷行為の鉄板だもの。深い意味はないわ」喉はすっかり渇いていた。「今回の自殺のことを殊更思い浮かべていたわけじゃない。たまたま、リストカットと一致してしまっただけ」
「すみません、つい気になったものですから」
 それでようやく、朧は帰った。
 無意識のうちに身体にみなぎっていた緊張が、ほどける。外はすでに暗くなっていた。

5

 目の前の男を起こすべきかどうか、戌橋千明ちあきは一分ほど思案した。鳥の巣のようにふさふさの髪をした頭をソファの背もたれに預け、彼は気持ちよさそうに舟を漕いでいる。だがここは休憩室ではなく、森矢出版の応接室である。加えて、男は戌橋への客人だった。数日前、会う約束をしていたのだ。
 警察は激務と聞く。よほど疲れているのだろうと同情しつつ、戌橋は相手を揺り起こした。
「……ハ! すみません、寝ていました」
「朧さん、でしたよね?」
「はい、酉都市警察の朧と申します。あなたが戌橋さんですね? 直接お話しするのは初めてだ」
「森矢出版、〈ガリヴァー〉編集部の戌橋千明です。お疲れのようで……」
「いえ、ぼくは大体どこでも寝てしまうんですよ。ここのソファは飛び切り気持ちが良いですから、座ってすぐにとろとろと」
「その言葉、今度、ソファを新調した事務方に伝えておきます」
「ええ、是非」真面目くさって朧は肯く。
 冗談を交わしたつもりだったが、朧がどこまで本気なのか、戌橋にはわからなかった。
「ところで、先日はありがとうございました」
「お役に立ったなら良いんですが」
「とても役立ちました。すぐに行動に移れましたし……」
「何の行動です?」
「こちらの話です。きょうは、もう少し詳しいお話を聞きたくて」
「海棠さんは自殺なんですよね。まだ調べることが?」
「細かいところがまだいくつか、気になりましてね。海棠さんとは、彼女がここを辞めてからも、連絡を取られていたんですか?」
「ええ、半年くらい前だったかな、リハビリがてら、何か手伝わせて欲しいと海棠さんからメールがきて。簡単な風景写真の仕事なんかを回していました」
「リハビリと云うことは、彼女は復帰の意志があったんですね?」
「カメラマンは続けたいとか云っていましたね。新しく電子端末も揃えて、今度はレポート用紙代わりにこれを使うんだと張り切っていたんで、仕事も戻るつもりだったと思います」
「ここ最近は、海棠さんの精神的不調も回復していたとか」
「みたいですね。オルシニアから帰ってきた直後なんて、本当、死んじゃいそうでしたから、随分良くなっていたと思いますよ」
「それなんですが」朧が身を乗り出してきた。「オルシニアで何があったのか、それ以前の海棠さんと鴉丸さんのことも含めて、お聞かせ願えませんか」
「鴉丸さんに聞けば――」
「戌橋さんの口から、聞きたいんです」
 朧の表情はにこやかだったが、口調は真剣だった。ほかには誰もいないことがわかっているはずなのにあたりを見回してから、戌橋は話し始めた。自分としては、あまり語りたい話ではない。
「自分は、鴉丸さんと海棠さんの二年後輩です。自分が入社して、〈ガリヴァー〉の編集部にきた時には、おふたりはすでに名コンビとして有名でした。
 鴉丸さんとは実際に会われたんですよね? ならわかっていただけると思いますが、あのひとって何かと前傾姿勢でしょう? 功を急ぐわけじゃないんですけど、記者であることに生き甲斐を見出している感じ」
「わかりますよ、何となく」
「そんな鴉丸さんと、どちらかと云うと私生活の方が大事で、のんびりした印象の海棠さん。正反対なふたりですが、だからこそバランス良くいったようで。〈ガリヴァー〉は世界各国のマイナーな場所を取材する雑誌ですが、ふたりはよく海外に飛んでは、その国の美しさや良さを海棠さんが旅行者の視点で切り取って、危うさや暗い部分を鴉丸さんがジャーナリストの視点で切り込んで――と、ただの旅行記に収まらない記事の完成度は、部署の外でも評価されていました。
 だから、オルシニアの取材も同様に終わると思っていたんです」
「確か、増税反対のデモを警察隊が武力制圧したんでしたっけ」
「はい。もともとオルシニアは風光明媚な小国として知られていて、ここ数年は政情が安定しないと云う話もありましたが、急な破局は来ないだろうと云われていました。しかし、あの制圧で、反政権の熱は急に盛り上がって、デモは暴動になり、オルシニア全域に広がりました。鴉丸さんたちは、ちょうどその時、オルシニアにいたんです。オルシニアは一時、国外退避も制限されて、山間の国でしたから、文字通り、陸の孤島と化しました」
「そこで見聞きしたことを記したのが、『倒錯の構図』と云うわけですね」
「ええ、でもあの本には、海棠さんのことが最低限しか書かれていません。その後のことも。あまり深く突っ込めなかったんでしょう。自分たちも、あえて追及しませんでした」
 空港で迎えたふたりの姿を、戌橋はよく覚えている。以前より目が据わった綾と、見違えるほどやつれたかなめ。
「命からがら帰国した鴉丸さんは、取り憑かれたようにあの本を書き上げて、見る見るうちにジャーナリストとして評価されていきました。フリーに転身してからは、また忙しそうにあちこち飛んで、ついに今度は東サザランズへ。一方で、海棠さんは、すぐにうちを辞めてしまいました。しばらくは、大きな音を聞くことさえ、怖くてできなかったらしいです。あの国の経験が、完全にトラウマになったんでしょうね」
「鴉丸さんと海棠さんは、仕事以外でも仲が良かったんですか?」
「海棠さんが一方的につきまとう構図でしたが、鴉丸さんも満更じゃなかったみたいですよ。ふたりで飲みにいくのを何度か見ました。その付き合いもオルシニアまででしたが」
「では、オルシニア以降、鴉丸さんは海棠さんを置いていってしまった――そう考えて良いでしょうか」
 何だか取材されているようだ、と戌橋はふと思った。この刑事は、むしろ記者に向いている。
「難しい質問ですね。海棠さんはあれ以来、鴉丸さんに対して精神的に依存していたようでしたし、鴉丸さんにとっては煩わしかったとも思います。彼女から離れたいと考えるのは、おかしなことじゃないでしょう。ただ、薄情と云えばそうです」
「鴉丸さんと海棠さんは同じカメラを使っていますよね。それを知って、ふたりは仲が良かったのだろうと思ったんですが……」
「ああ、あの一眼レフですね。あれは海棠さんが、鴉丸さんに憧れて買ったんですよ。オルシニアの前だったかな」
 あの頃は、ふたりもぴったり歯車がかみ合っていた。その相互作用が、編集部全体を活気づけていた。看板記者がいなくなったいまの〈ガリヴァー〉はどこか気が抜けている――戌橋はそう思わずにいられない。
「あのカメラ、そっくり同じなんですか?」
「同じはずですよ。ああでも、鴉丸さんのやつは特別かも知れません」
「と云うと?」
「本人から聞いたわけじゃないんですが、海棠さんが、綾のカメラは特別なんだ、と云うのを聞きました」
「具体的にどう特別なのかは?」
「そこまでは知りません」
「いつそれを聞いたのですか?」
「話を聞いたのは、確か、鴉丸さんが東サザランズに発った後――いや、当日ですね」
「まさにその日なんですね?」
「鴉丸さんを見送りたい、と海棠さんから連絡があって。自分が車を出して、空港まで送ったんです。その帰りに」
「見送ったのは戌橋さんと鴉丸さんのおふたりだけですか?」
「いや、海棠さんが最後はふたりで話したいと云うので、自分はエントランスで待っていました」
 朧はしばらく考え込んでいた。
「あの……、何か?」
「これは形式上の質問なのですが、海棠さんと最後に会われたのはいつですか?」
「バレンタインデーの前に」手帳を開き、確認する。「えーと、二月十二日ですね。写真の仕事を引き受けてもらいました。バレンタインデー特集を組むって云う隣の部署の仕事を回したんです。まだ写真をもらえないうちに亡くなられて……」
「なるほど」朧はまた少し考える様子で、「鴉丸さんと最後に連絡を取ったのは?」
「彼女が帰国した日ですよ。十七日ですね。帰国した、と」
「もともと連絡してくる予定だったのですか?」
「いえ、突然連絡してきて驚きましたよ」
「彼女は海棠さんのことについて何か云っていましたか?」
「特には。ただ、彼女は雑談が嫌いなので、帰国の報告だけで終わっても、不思議には思いませんでした」
「ふむ……」
「あんまり参考にならない話で、すみません」
「いえ、大変助かりました」
 朧はにこりと笑い、戌橋に手を差し出した。握手に応じる。か細い手だが、掌は不思議に温かかった。

6

 海棠かなめの通夜式はつつがなく終了した。司法解剖に回されたと聞いた時にはどうなるかと思ったが、後はあすの火葬を待つだけだ。会場の外で、秋嶋穣あきしまみのりは息をつく。
 ――かなめはあなたのことを愛してた。あなたは?
 閉式の直後、穣はそそくさと帰ろうとする鴉丸綾にそう声を掛けた。名前に因んでいるわけでもなかろうが、鴉の濡れ羽色をした黒髪が、喪服と相まって厳粛な印象を与えた。
 返事は、ひと言だけだった。
 ――あなた誰?
 思い出すたび、哀しさと悔しさと憤ろしさで胸が潰れそうになる。夜風の冷たさは、だから、今夜ばかりは心地良かった。
 昂ぶる心が鎮まってきたあたりで、会場から出てきた男と目が合った。豊かな癖毛で痩せ気味の男。こんな男、参列者の中にいただろうか?
「秋嶋穣さんですね? 酉都市警察の朧と申します」男は懐から警察手帳を取り出して見せ、こちらへ歩いてきた。
「警察の方……?」
「はい。海棠さんの件を担当しています」
「かなめは自殺だったんでしょう? 遺体も返ってきたし……」
「それが、まだ問題が二、三、解決していませんのでね。捜査自体はこうして続いているんですよ」
「はあ……、お疲れ様です」
「秋嶋さんは、海棠さんのご友人だったとか?」
「特別仲が良かったわけでもありませんけど、大学で同じカメラ愛好会に入って、そこからの付き合いです」
「最近はよく会われていましたか?」
「月に一、二回、食事にいく程度です。昔はもっと一緒に出かけていたんですけど……。ほら、オルシニアから帰ってからは」
「ええ、聞いていますよ」
「かなめには身寄りがなくって、だからと思うんですけど、明るいくせしてその実すごく寂しがり屋で、これはと云うひとがいたらすごく熱烈に関係を保とうとするんですよ。大学時代、一度それで彼氏にも逃げられていて……。仕事に就いてからはましになったと思っていたのに、オルシニア以来、ぶり返すどころか悪化して」
「依存するようになった?」
「同僚の鴉丸綾。知っていますよね?」
「もちろん」
「かなめはあの女に、ずっと憧れていたらしいんです。無理してカメラも揃えて、甘い紅茶の方が好きなのに、苦手なコーヒーも飲むようになって。かなめの口からは、ふた言目には、綾はすごい、格好良い、と褒め言葉が聞けました」
「海棠さんからの一方通行的な関係だったとも聞きましたが」
「わたしはあの女のことは、かなめを通じて以外ほとんど知りません。でも、多分そうだったんでしょうね」
 あの冷徹な視線が脳裡をよぎる――あなた誰?
「オルシニアから帰ってきたかなめがあの女に向ける感情は、憧れどころか、愛情、執着の類いだったと思います。見ていて、本当に危なっかしかった」
「自殺してもおかしくなかった?」
「いいえ、そこまでは。自傷に走ることはあったかも知れませんが、自ら死を選ぼうとしていたとは思えません」
「しかし、精神的には不安定だったんですよね」
「PTSDと希死念慮は別ですよ。死んだら元も子もないって、かなめはよく云っていました」
「なるほど、では、自殺しようとはしなかったのですね」
 肯きかけて、記憶の片隅に引っかかりを覚えた。
「いえ……、そう云えば、一回だけ、かなめが自殺するんじゃないかと思ったことがあります」
「いつのことです?」
「一年くらい前、偶然、ショッピングモールのバレンタインデーセールにいったら、かなめを見かけたんです。話しかけたら、雑貨を買いにきたって。でも何だか様子がおかしかったから買い物籠を調べると、剃刀が入ってたんです。大きな剃刀が」
「かなめさんは、それについて何と?」
「死ぬと脅せば、綾が思いとどまるかも知れないって。そう、あれは鴉丸さんが旅立つ直前だったはずです。その時はわたしが何とか説得して、やめさせました」
なぜ止めたのだろう、とは思う。綾を旅立たせれば、かなめの依存も断ち切れると考えたのか。あるいは、そこまで醜いかなめの姿は、見たくなかったのか。
「その後、剃刀は?」
「最後にはかなめも思い直して、反省してくれたみたいで、もう二度とこんなことはしないと云う自戒も込めて、家のどこかに置いておくとか云っていました。後のことは詳しく聞いていません」
「……おそらく、海棠さんの手首を切ったのは、その剃刀です」
「まさか!」つい叫んでいた。「どうして?」
「わかりません。そのお話を聞いて、ますますわからなくなりました。もともと、不審ではあったのですが」
戸惑う穣に対し、朧は肩を竦めた。自分でも意外なほど衝撃を受けている穣に、ある考えが浮かんだ。
「あの……、まさか、なんですが」
「何でしょう?」
「かなめは、本当に自殺なんでしょうか?」
 いままで微笑んでいた朧が、急に無表情になった。
「すみませんが、確定的なことは云えません。ただ……」
「ただ?」
「ぼくは、自殺だとは考えていません」
 どうかこのことは内密に――最後にそう云い残して、朧は宵闇の中へと消えていった。

7

 町を見晴らす丘の上、ファインダーから覗いた酉都市の姿は、一年前とたいして変わらない。自然と都市の調和を謳い、長い歴史を自負しているが、裏返せば、現状に満足してしまったと云うこと。郊外の再開発も中途半端に終わった、栄えているのか衰えているのかも判然としないこの息苦しい町が、綾は嫌いだった。
 彼女をこの町へ呼び戻したのは、一通のメールだ。
 ――綾へ。元気ですか? わたしは元気です。
 海棠かなめからのメールはそんな風にはじまった。綾がメールや電話での雑談を好まないことをかなめは知っているはずだ。しかし、そのメールはとりとめのない近況報告に終始していた。早く帰ってきて、と云う言葉さえなく、綾は拍子抜けしたものだ。
 しかし、最後の一行で目を瞠った。
 ――最近、オルシニアの夜を、誰かに聞いて欲しいと思うことがあります。あなたでなくても、別のひとに。これも成長でしょうか?
 そして追伸。
 ――あなたがいない夜は寂しいです。
 無害な文面。だが綾にとって、それは脅迫だった――わたしのそばにいなければあの夜のことを話す。かなめが実際どう思っているのかはこの際、関係がない。ただ少なくとも綾にとって、かなめは面倒な人間から、排除すべき対象となった。
 シャッターを切る。嫌いな風景を切り取ったこれもまた記念だ。計算上では、最後の一枚。カメラをしまう。
「おや、終りですか?」
 聞き覚えのある声に振り返ると、朧がうやうやしく会釈していた。この男の場合、慇懃さがかえって不愉快だが。
「良い景色ですから、もっと撮るものかと思いました」
「気まぐれに一枚撮っただけよ。それに、もうフィルムはないし」
「では、これから現像?」
「そうね、取材写真も含めて、そろそろ業者に出すところ。でも、あなたには関係ないことよ」
 綾は足早に立ち去ろうとするが、朧は行く手を塞いできた。あくまでそれとなく、進行方向の前に出てくる。
「写真の仕上がり、楽しみにしています」
「どうしてここにきたの? 誰にも話してないのに」
「東サザランズ紛争の取材は、文化新報社から書籍として刊行されるそうですね? そこで編集の方に連絡を取ると、鴉丸さんは打ち合わせの後、散歩でもしますよと云ってすぐに帰られた」
「それだけじゃここにくるのは無理でしょう」
「次は戌橋さんに連絡しましてね、鴉丸さんが散歩するとすればどこかと訊いてみました。よく昼休みに、海棠さんとふたりでこのあたりにきていたそうじゃないですか」
「あなたにそこまで立ち入られる筋合いはないわね」
「すみませんねえ、どうしてもお話を伺いたくて」
「じゃあ、手短にお願いするわ」
「ええ、なるべくお手間は取らせません」わざとらしく身を縮める。「寒いですから」
 朧はコートの中からファイルを取り出し――どこにそんなスペースがあったのだろうか――ページを繰る。
「昨日は海棠さんの通夜でしたね。参列されました?」
「故人の思い出話でも聞きたいの?」
「そう云うわけでは。ただ、葬儀がおこなわれたと云うことは検視解剖が終わったのだと云いたかったんですよ」
「そう。何かわかったかしら?」
「はい。海棠さんは死の間際、コーヒーを飲んでおられる。これに睡眠薬も混じっていました」
「薬を飲んで、手首を切ったと」
「二度手間じゃないですか?」
「云い換えれば、確実な方法でもある。おかしい?」
「海棠さんは甘い紅茶の方が好きで、コーヒーは苦手だったようなんです。実際、海棠さん宅には紅茶の茶葉が何種類も豊富にありましたが、コーヒーはインスタントだけでした。死ぬ間際に、なぜ好物の紅茶で薬を飲まなかったんでしょうね」
「苦いコーヒーの方が、薬の味が紛れるからじゃない?」
「紅茶に混ざる薬の味を気にするほど繊細な好みのひとが、死の間際、嫌いなコーヒーを選びますかね?」
「事実、選んでるんだから仕方ないでしょう」
「コーヒーを選ぶ理由があるとすれば、仰る通り、味が紛れるからです。しかし自分で飲むのならこれはおかしい」
「誰かに飲まされたと?」
「あくまでそんな仮説も成り立つ、と云う話です」
「なら、仮説止まりね。事実ではない」
睡眠薬についてはまだあります。薬は致死量ではありませんでしたが、少なくもありませんでした。調べると、成人女性なら飲みきった段階でもう眠くなってくるそうです。これは妙です」
「どこが?」
「遺書は先に書いたのだとしても、薬を飲み、眠くなった状態で浴槽に水を溜め、剃刀を使い手首を切りつける――しかも傷はかなり深かった。そんなことできます?」
「できたんでしょうね」
「剃刀についても疑問があります」
「あなた、細かいって云われない?」
「部下からはよく煙たがられますね」
「自覚あるならなおたちが悪いわ」
「部下からは嫌われますが、この仕事だと損はしませんよ。剃刀の指紋だって、指摘したら部下も奇妙だと認めてくれました」
「指紋がどうしたの?」
「少なすぎるんです。海棠さんのご友人曰く、あの剃刀は以前、海棠さんが自殺を目論んだ際に買ったそうです。しかし結局海棠さんはそれを使わなかった。もう二度と自殺を試みないため、自戒も込めて保管していたそうです」
「そう云いつつ、自殺のために使ったのね」
「使用するにも、大きくて不便ですからね、長いこと使わず保管していたのは事実のようです。
 良いですか? 剃刀は使われなかった。指紋はほとんど付いていません。唯一はっきり残っていたのが、剃刀を握る形のものだけなんです。ただそれだけ。まるで、手の中に突然剃刀が出現したかのようです」
「……剃刀を握って、そのまま切ったんでしょう」
「まず剃刀を手に取り、しっかりと握り、手首を切りつける。この一連の作業を、残す指紋を最低限にしておこなうことは難しいですし、海棠さんにそうする理由もありません。決定的ではないですが、やはり不自然です」
 朧は肩を竦め、わざとらしく首を傾げた。まったくこの男は、一挙一動が白々しい。
「さっきから、コーヒーとか、睡眠薬とか、剃刀とか、わたしと何の関係があるの? わたしに伝える意味は?」
「海棠さんの友人として、知る権利があるかと」
「そんな権利を行使した覚えはないわ。かなめに自殺する動機を与えた謎の来訪者がわかったら、それだけを教えて。いちいち細かい報告は要らない」
「では、鴉丸さんに関係することを。鴉丸さんのカメラは海棠さんと同じ一眼レフのフィルムカメラですよね? 教えていただきたいことがあるんですが」
「……答えられる範囲でなら、どうぞ」
「カメラを手入れする時、ブロワーを使ってから、タオルでボディを拭くんですか?」
「どこまで細かくやるかによるけど、最後にレンズを外して、中身にもブロワーをかけて終わるわね」
「ふむ……、おかしいな」
 何が――と云いかけて、綾は自分の犯したミスに気付いた。
「海棠さんのカメラには指紋がひとつもありませんでした。ブロワーは使わなかったんでしょうか?」
「最後にもう一度、タオルで全体を拭いたのかも」
「しかし、海棠さんのカメラケースにしまわれていた整備用具は、タオルの上にブロワーが乗っていました。ブロワーの後にタオルを使ったのなら、逆になりませんか?」
「最後でいっぺんに直したんでしょう」
「なら、ブロワーだけ出ているのは違和感があります。レンズペンや綿棒と一緒にしまえば良い」
 埒があかない。「かなめの手入れの順番なんて知らないわ」
「違和感があるのは指紋だけに限りません。海棠さんのカメラにはフィルムが入っていませんでした」
「新しく替えるところだったんでしょうね」
「ぼくもそう考えましたが、替えのフィルムがないんです。前にもお話しした通り、海棠さんは亡くなられる翌日にフィルムが届くよう、通販で注文しています。そして海棠さん宅にあった中で、未現像のフィルムの最後に写っていたのは、バレンタインデーセールに沸くショッピングモールの様子でした。ばっちりと、綺麗な写真でしたよ」
「バレンタインデー?」
「はい。これは二月十四日限定のセールでして、つまり、海棠さんのフィルムは今月十四日に切れたことになります。それから十九日まで、フィルムを交換しなかったんでしょうか? カメラは特殊でも、フィルムは探せば見つかるはずです。写真を生業にする海棠さんが、フィルムもなしに何日も過ごすとは考えがたい。おまけに、彼女は仕事も引き受けていました」
「フィルムをどこかでなくした?」
「なくしても同じです。いやなおさら、新しいフィルムを買い求めて交換しようとしたでしょう。考えられるとすれば、気付かないうちに誰かにフィルムを抜き取られた」
「謎の来訪者に繋がるわけね」
「はい。いよいよ怪しくなってきました」
「健闘を祈るわ。わたしは力になれそうもないけど」
「いえ、そんなことは」
 空気が冷えてきた。夕暮れが近い。丘の公園には、もう朧と綾しかいなかった。綾は、頑なに退こうとしない朧を押しのける。
「失礼。わたしも暇じゃないから」
「では、最後に、ひとつだけ」
「手間を取らせないって云ったのは誰だったかしら?」
「これが最後です。亡くなられる直前の海棠さんの行動は、未だによくわかっていません。それを調べる過程で、海棠さんの携帯端末の通話記録を調べました」
「ずいぶん踏み込むのね」
「仕事ですから」ファイルのページをめくり、通話記録が載ったページを指し示す。「気になったのがこちら、亡くなられる前日。ある人物から海棠さんは電話を受けています。この番号――鴉丸さんのですよね」
「また戌橋に訊いたの?」
「あの方にはとてもお世話になっています」
「ええ、わたしの番号よ。帰国した直後に、空港で、その旨連絡を入れたの。友人なんだから当然でしょう?」
「友人なら、メールでもっと事前に報せそうなものですが」
「急に帰国が決まったから」
「では、先日この電話のことを話さなかったのは、なぜです?」
「そこまで云う義理がある?」
「かなり重要な情報だと思いますが。隠していたら要らぬ疑いをかけられるでしょう」
「現にかけられているものね」束の間、思案するふりをする。実際は、云い訳を事前に用意していた。後は演技力の問題だ。「そう……、理由は単純。連絡を入れたら、かなめは予想以上に喜んで、またいつかのような熱烈な言葉をかけてきたの。でも、長旅で疲れていたわたしは、それに対して連れない対応をした」
「……なるほど。そうですか」
「冷たく対応した友人が、翌日に自殺した。つい、黙ってしまったことも理解してもらえるでしょう?」
「お察しします」
「いまは、申し訳ないとおもってるわ。じゃあ」
 一方的に話を切る。朧の視線を背中に感じながら、綾は坂道を下っていった。

8

 坂道を登り切ったところで、似鳥にとり竜介りゆうすけは公園にただひとつの人影をみとめた。夕暮れ時の斜光に照らされて、影が長く伸びている。いままで見たことがない人物だった。くしゃくしゃの髪をして、黒いコートに身を包んだ、ひょろりとした男。
 何だか妙なやつがいるな、と思いつつ、三脚を立ててカメラをセットする。一連の動作を男は黙って見つめていて、ますます不気味だった。
 沈みゆく太陽を二、三枚撮影してから、竜介は相変わらず何も云わない男に堪らず声を掛けた。「何か用ですか?」
「随分手慣れておられますね。いつもここで撮影を?」
「ええ。大学の卒業制作で」竜介は、丘の麓にある酉都芸術大学の学生だった。「毎日夕陽を撮って、モザイクアートにするんです。夕陽ってのは毎日微妙に違うものなんで、画になるんですよ。晴れの日は大体撮ってます」
「それは良い。完成を祈りますよ」
「はあ、ありがとうございます」
「ぼくは、こう云うものでしてね」
男の手許にはいつの間にか警察手帳が開かれていた。苗字は、朧、とある。名前の部分は光の加減でよく見えなかった。
「け、警察?」慌てて三脚を畳もうとする。「何か、まずかったですか?」
「いえ、ここで夕陽を撮影す分には問題ありません。誰かを無断で写すこともしていないんでしょう?」
「ええ、まあ……」
「いずれにせよ、ぼくは別件でここにいます」朧は一枚の写真を差し出す。「この方、ご存知ですか」
 写真に写っていたのは、明るい茶髪を長く伸ばした、愛らしい女性だった。竜介はひと目で気付いた――このひとは。
「知ってます。何度かここで会いました」
「彼女も同じく、夕陽を撮っていた?」
「はい、いつもじゃないですけど、たまにふらっとここに上ってきて、おれの横で写真を何枚か撮るんです。クラシックなフィルムカメラ使ってたから、いまどき珍しくて、よく覚えてます」
「いつ頃からここに現れるようになりました?」
「半年前くらい、ですかね」
「最後に見たのは?」
「ちょっと待ってくださいね……」カメラのメモリーを遡る。「ああ、今月の十八日です」
「写真を見るだけでわかるものですか?」
「この日は特別だったんです。ほら」
 竜介のカメラに表示されていた十八日の夕陽の写真、そこには先ほどの女性が映り込んでいた。画面の端で見切れているが、長い茶髪も横顔もその女性である。
「写っちゃって、すぐに謝ったんですけど、別に気にしないでって云ってくれたんですよね」
 ――カメラの前に立ったわたしが悪いの。写真は撮った者勝ちで、撮られた方は無力。そう云うものでしょう?
 そう云って朗らかに笑う彼女を、竜介は思い出す。
「それがきっかけでしばらく話もして。だから、印象に残ってるし、記録もしてるんですよ」
「彼女を写した写真は、他には?」
「おれが撮ったのはこれっきりですけど……」竜介はにわかに不安に駆られた。「彼女がどうかしたんですか?」
「先日、自宅で亡くなられているのが発見されました。十九日、つまり写真の翌日です」
「そんな……」
 竜介は彼女の名前も知らなかった。彼女も自分の名前を知らないだろう。ともすればすれ違うことさえなかったひと。しかし、いやだからこそ、その死は哀しかった。
「ぼくは彼女が亡くなられる直前の行動を調べています。いざとなれば、この写真も提出願うかも知れません」
「大丈夫です。捜査の助けになるなら」
「ありがとうございます。あなたのお名前は?」
「似鳥竜介です。鳥に似ている、で似鳥。簡単な方の竜に、介護の介で、竜介。酉都芸大四回生。あの……」
「何でしょう?」
「彼女の名前を、教えていただけませんか?」
 朧はしばし驚いた様子で、それからにこりと笑った。
「海棠かなめ。花の海棠に、ひらがなでかなめです」
「海棠、かなめ……」
 知るには遅すぎたその名を、舌の上で転がす。良い名だ、と思った。あの眩しい笑顔を持つ女性に相応しい。
 ――じゃあ、わたしの写った写真もきみの作品に使われるんだ。
 亡くなるその日、彼女は竜介にそう云って笑ってみせた。
 ――すみません。お嫌なら……。
 ――全然嫌じゃないよ。むしろ誇らしい。
 朧が公園を去ってからも、日が沈みきって夜の闇が訪れてからも、竜介はしばらく立ち尽くし、彼女の最後の言葉を反芻してしていた。
 ――わたしの姿が、こんなに綺麗な夕陽と一緒に、芸術としてずっと残っていく。素敵じゃない?
 絶対に作品を完成させよう。そう誓った。

9

 空港には様々な人間がいる。鍵山流かぎやまながるはその多種多様なひとびとを観察するのが好きだった。教授を退官して五年。山に退いて晴耕雨読に過ごすのも良いが、こうしてついひとの集まるところにきてしまう。学術書や芸術より、生身の人間の方が鍵山にはずっと面白かった。
 きょう、鍵山の興味を惹いたのは、癖毛が印象的な細身の男だ。勤め人にも見えないし、自営業者とも、芸術家とも見えず、捉えどころがない。そもそも、空港に用がある人間には見えない。彼は先ほどから、カフェテリアの店員と話し込んでいた。
「そうですか、見覚えありませんか……」
「すみません。何せ、たくさんのお客さんがきますから」
 何の話だろう?
 話を終えた男は、カフェテリアを見渡す。平日の昼間、客は早めの昼食をとるスーツ姿の男女ばかりだ。男は鍵山と目が合った途端、まっすぐこちらへ近付いてきた。
「失礼、こちらの店にはよくこられるのですか?」
「いかにも。常連だが」
「それは良かった。お訊きしたいことがあるんです。この写真の女性なんですがね」
「待ちたまえ」
「はい」
「きみは誰だ?」
「酉都市警察の朧と申します」さっと警察手帳を出してくる。
「なるほど」警察か。だが、そう云われてもピンとこなかった。「どうしてわたしが常連だとわかった?」
「常連かどうかまではわかりません。ただ、飛行機に乗るためにここにいるわけではないと思いました」
「なぜ?」
「ここの客はこれから飛行機に乗る人間ばかりです。時刻は昼食には少し早いですが、次の便があるので皆さん食事をとっています。しかしあなたはコーヒーを飲むばかりで何も食べていない。酉都空港はそこまで大きな空港ではありません。次の国際便まで時間がある。つまり、あなたは飛行機を待っているわけではない。誰かを待っているのかとも考えましたが、時間を気にしている様子もなかったので、空港のカフェテリアでコーヒーを飲むこと自体が目的なのかも知れない、と思いました」
「まったく論理的とは云えないな」
「別に、推測が当たっている必要はありません。当たっていれば良いですが、外れるのは当たり前です」
「ふむ」それもそうだ。「話を遮って悪かったね」
「こちらも、急いてしまいました」
「で、写真の女性がどうしたんだね?」
「はい、こちらの女性を、ここ最近見かけませんでしたか?」
 黒髪を短く切り揃えた、意志の強そうな女性だった。隠し撮りでもされたのか、視線はカメラを向いていない。
「見たことがあるような、ないような……」
「今月の十七日です」
「ふむ……」記憶の隅に引っかかるものがあった。「この女性、カメラを持っていないかね?」
「はい、持っています」
「なら、見たことがあるよ。確か、その十七日だ。ここでカメラの手入れをしとった」
「彼女はここから電話をかけているはずなんです」
「ああ、掛けていたと思うよ」
「内容までは、わかりませんか?」
「そこまではねえ」
 勢い込んでいた朧が、そこで見るからに落胆した。少し心が痛むが、聞いていないのだから仕方ない。
「念のためお訊きしますが、こちらの女性はいかがですか」
 次に出してきたのは、先ほどとは好対照に、明るい色の髪を長く伸ばした、優しそうな女性だった。
「ああ、彼女なら何度か見たことがあるよ」
「本当ですか!」
「わたしと同じように、飛行機を待つでもなく、ぼんやりと周囲を眺めていたね」
「何か、変わった様子はありませんでしたか?」
「心ここにあらず、と云う印象ではあったよ。ほら、一年ぐらい前に、この空港でテロ未遂があっただろう。あんな手合いかとも思って、よく見ていたんだ。別に何もなかったが」
 朧の表情は一転、輝いていた。にこにこと笑顔を見せ、何か得心した様子で肯いている。
「お役に立てたかい?」
「実に」
「それなら結構」
 朧は立ち上がり、礼もそこそこに店を出ていく。
「面白い男だ……」
 コーヒーを飲む。すでに冷めきっていたが、不味さは気にならなかった。ああした興味深い人間に時折出くわすから、鍵山はここにくることをやめられないのだ。

10

 かなめを殺したあの夜以来、綾の脳裡にはずっとかすかな違和感がちらついていた。何かおかしい。何かが変わってしまった……。罪悪感や後悔とは違う。もっと物質的な違和感だ。
 かなめとカメラが一緒である、と朧が指摘した後、急に不安になって調べてみたが、カメラに異状はなかった。そもそも、自分はカメラをずっと綺麗に使ってきた――逆に云えば、何ら特別な痕跡を残していない。カメラが何かの拍子で入れ替わろうと、問題はないはずだ。
 指紋は? あの遺書を保管する間、触っていないだろうか。かなめ以外の誰かの痕跡……、それもありそうにない。
 剃刀は確かに痛手だった。しかし、決定的とは云えない。
 だとすれば何だ? この名状しがたい気持ち悪さは。
 時間が経てば経つほど、疑問は忘れるどころか違和感をいや増していく。そればかりが気になって、目の前の原稿も、いまひとつ進んでいなかった。デスクに広がる東サザランズの取材資料も、うまくまとまってくれない。自分があそこで何を見て、何を聞いて、何を知ったのか、明確な形を取らない。
 インターフォンが鳴った。呼び出した映像には、いまもっとも顔を合わせたくない男が映っていた。
「朧です。こんばんは」
「謎の来訪者は誰だかわかった?」
「そんなことはもうわかっています」不敵な笑み。「今回は、その来訪者が何をしたのか、と云う話でして」
「それ、わたしに関係あるの?」
「関係があるかどうか、訊きたいんですよ」朧は、カメラに顔を寄せてくる。「具体的には、遺書のことでして」
「……どうぞ」
 招じ入れた朧は、目の下の隈がさらにひどくなっていた。髪も混沌度合いも増している。
「お疲れのようね」
「はい、先日お話しした疑問点に加え、さらにわからないことが増えましてね」頭を掻き上げる。「寝ても覚めてもそればかり考えているんです」
「仕事熱心なのは感心するわ。で、遺書がどうしたの?」
「これなんですがね」
 朧はコートの内ポケットからかなめの遺書を出し、綾に渡した。保管用の透明な袋に入れられている。
「『みなさんがこの手紙を読んでいるころ、わたしは死んでいることでしょう』――紛う事なき遺書ね」
「妙な書きぶりじゃないですか?」
「どう云うこと?」
「海棠さんの遺体は確かに傷つき、血が流れていましたが、決して醜くはありませんでした。むしろ綺麗な部類でしょう。彼女は自分の死をどう想像していたのでしょうか?」
「死体はどうであれ醜いもの。そう考えていたんでしょう」
「ではそこは良いとしましょう。次の文、『わたしはさいごまで、じぶんの使命をつとめました』。海棠さんは死の数日前、撮影の仕事を戌橋さんから受けていますが、その写真はまだ納品されていません」
「なら、良いじゃない。努力はしたけど、全うできなかった」
「簡単な仕事です。これを『使命』と云いますか?」
「かなめは呼んだのかも知れない。あるいは、『使命』とはもっと抽象的な意味で使っているのかも」
「後者の場合、彼女の『使命』とは何でしょう? カメラマンとしての仕事のことなら、不本意な形ではあれ会社を辞めた状態である彼女が、自分はおのれの使命につとめていると考えますか?」
「実際にそう書いてる。筆跡はかなめのもの」
「それが第一の問題なのです」朧は片手の指を一本立てる。「海棠さんが書くにしては不自然な文章を、しかし海棠さんは書いた」
「第一、と云うことは第二、第三もあるわけね」
「はい。二点目は、遺書に使われていた紙の問題です」朧は二本目の指を立てる。「使用されているのは市販のレポート用紙です。遺書で使うには安価じゃないでしょうか」
「かなめは仕事でよくレポート用紙を使ってた。カメラと同じくらい重要な仕事道具よ、それで遺書を書いても不思議じゃない」
「ところが、戌橋さんによると海棠さんは携帯端末を新しく購入し、レポート用紙の代わりに使っていくと仰っていたそうです」
「最近はどうだか知らないけど、ひとの心理として、使い慣れたものに戻ってくることはごく自然じゃない?」
「確かにその説明もあり得るでしょう。しかし問題は、海棠さん宅にレポート用紙がなかったことにあります。より正確には、未開封のものだけでした」
「最後の一枚を使ったんでしょう」
「レポート用紙の束は、紙だけではなく最後に下敷きとして厚紙が綴じられています。最後の一枚を使用したとすればこの厚紙が海棠さん宅にあるはずですが、ゴミ箱にもどこにもそんなものはありませんでした」
「前に自分で云ったことを忘れたの? かなめは死ぬ日の朝にゴミを出している」
「もしそこで厚紙も一緒に捨てられたのなら、海棠さんは朝の内に遺書を書くか、書く決意をしていたことになる。自殺の理由が突然現れたと云うこれまでの推理と矛盾します」
「じゃあ、あなたの推理が間違っているんでしょう」
「朝の内に自殺する意志を固めたのなら、カレーのパックのことと云い、謎の来訪者と云い、別の説明の付かないことがまた現れます」
「大変ね」
「ですのでこう考えました――遺書は、あらかじめ書かれていたのではないか? これなら、第一の問題点も説明できます。あの遺書は、海棠さんがカメラマンをしていた頃、すでに書かれていたのです」
「……飛躍があるんじゃないかしら?」
「議論を先走ってしまいましたね。第三の問題点からもこの結論は導かれます」三本目の指が立つ。「遺書を分析したところ、面白いものが検出されました。何だと思います?」
「知るわけないでしょ?」
「硝煙です」
「……は?」綾にとってもこれは意外だった。保管が厳重すぎたようだ。そんなものが残っていたとは。
「鑑識の者曰く、近くで銃でも発砲したのだろう、と。もちろんですが、海棠さん宅に銃火器はありません。手紙を亡くなる日に書いたのなら、この硝煙はいつ付いたんでしょうか?
 考えられる説明はひとつです。この遺書は、銃が近くで発砲されるような環境で書かれた。海棠さんが生きてきた中でそんな環境もまた、考えられるのはひとつだけ――オルシニアですよ」
 追い詰められている、といまさらながら感じた。息ができない。胸が苦しい。お前はどこまで知っている?――そう叫び出したくなるのを抑えて、綾は言葉を絞り出す。
「あなたがわたしを訪ねた理由がわかったわ」
「ではお訊きします。オルシニアで、海棠さんは遺書を書きませんでしたか?」
「書いたかも知れない。でも、わたしは知らない」
「オルシニアで海棠さんは死を覚悟した。だから遺書を書いた。しかし本人が持っているだけでは、それを日本に届けることができません。もし書いたのであれば、遺書は誰かに預けたはずだ」
「回りくどい云い方をしないで。かなめが遺書を渡すとすれば、わたししかいない」
「そうなってしまいますね」
「そしてあなたはこう続ける――わたしがかなめを殺したと」
「まさか。それこそ飛躍ですよ」
 朧はあくまで表情を崩さない。
「飛躍どころか、当然の帰結じゃない? あなたは自殺に怪しい点があると云う。それでも自殺説を捨てられなかったのは、遺書がかなめの筆跡だったから。しかしその遺書さえ、あらかじめ書かれたものを利用しただけの偽装だとあなたは考えた。そんな用意をできるのはわたしだけ。だからわたしが殺した。どう?」
「……ええ、認めてしまいましょう。鴉丸さん、ぼくはあなたを疑っています」
「わかりやすい嘘をつかれるのはごめんなの。これからはもっとはっきり話しなさい」
「善処します」
「で、証拠は?」語気を強めた。「わたしとかなめの死を結びつけるものは?」
 朧は困ったように首を横に振った。「ありません。いまのところは、推測だけです」
「証拠がないのなら、ひとをしつこく追い回すのをやめなさい。わたしは忙しいの」
「ご迷惑をおかけしたのなら謝ります」
「謝罪は結構。二度と顔を見せないで。これ以上、云いがかりをつけるようなら、わたしも黙ってない。ジャーナリストを舐めないでもらえるかしら?」
「了解しました。肝に銘じますよ」
「お帰りはあちら」玄関を指さす。
 だが、帰り際、朧は扉に手を掛けたまま振り返った。
「最後にひとつだけ」
「いい加減にして」
「あなたが殺したのだとすれば、動機がわかりません。海棠さんがいくらあなたに執着していたとしても、あなたはそれが煩わしいからと殺すような方ではない」
「……わかったような口をきくのね」
「改めて訊きます。オルシニアで何があったのですか?」
 朧の口調は真剣そのものだった。ごまかしが効かないと悟らせるだけの迫力が、その眼にはあった。
 綾が戦地で向けられ続けた眼だった。
「オルシニアで何があったか、ですって?」自然と、嘲笑めいた声になっていた。「そんなの、わたしだって知りたいわ」
「そうですか」朧は扉を開けた。外の冷気が入り込んでくる。「……お邪魔しました」
 それからしばらく、朧が出ていってからも、綾は立ち尽くしたまま、まっすぐ扉を見つめていた。

11

 報告書を提出して鑑識課に帰ってきた川城を、閃光が迎えた。
「……何してるんですか、朧さん」
 川城のデスクには朧がおり、カメラを構えていた。証拠品のひとつ、海棠かなめが使っていたものだ。
「いや、さっきいじっていたら、ちょっとしたことに気付いてね」
「証拠品をいじらないでもらえます?」
「手袋もはめているし、注意しているさ。それよりほら、これ見てごらんよ」カメラのファインダーをさす。
「特に不審な点はありませんが」
「ここから覗くのさ」
「はあ」
渋々ながらファインダーを覗く。それでようやく川城も、朧が何に興味を惹かれたのかに気付いた。
「うわ、ひどいですね、これ」
「普通、こうはならない?」
「埃が入ることはよくあります。だから定期的に手入れするんです。でもこれ、隙間から入ったとかじゃないな……」
 ファインダーから覗かれた景色には、目立つ黒点があった。レンズの中に埃が入っているのだ。
「きみはいままで気付かなかったの?」
「証拠品のカメラを使おうなんて思いませんから」
「じゃあ、これも気付かなかったわけだ」カメラの裏蓋を開けようとする。
「ストップ、ストップ! フィルムを巻き戻さないと、感光しちゃいますよ」
「そうなの?」
「貸してください……。はい、フィルム取り出せました。これも変なんですか?」
「いや、フィルムはぼくが新しく入れたやつ」
「証拠品ですよ! 勝手に交換しないでください!」
「とりあえずいまはその話を置いておこう。気になったのは、裏蓋の中身だよ」
 朧が指さす先、よく目を凝らすと、確かに、裏蓋を開けた中身、奥の部品に、何か書かれている。見えているだけでも、『かなめ』と読めた。
「……署名? 何でここに?」
「普通、こんなところに名前は書かないし、書けない。一度、ある程度カメラを分解してから、名前を入れたんだ」
「わざわざそんなことを?」
「何が書いてあるのか全部知りたい。分解してくれないかな」
「やれと云われればやりますが……」宮仕えのつらいところだ。「分解したところで、どうなるんです?」
「それは、また考えるよ。署名した理由も含めてね」
 じゃあよろしく、と朧はカメラを渡してきた。
「実を云うと、あれこれ考えてはいる。空港にも連絡を入れた」
「空港に何の用が?」
「ちょっと知りたいことがあってね」大きくあくび。「まあ、そう云うわけで、いろいろ考えてあちこち問い合わせてるから、きょうは疲れたんだよ。分解よろしく」
 手を振って去ろうとする朧を、川城は呼び止めた。朧が何を考えているのかわからないのはいつものことだが、せめて何をしようとしているのかは知っておきたい。
「これからどちらへ」
「決まっているだろう」朧は、この事件の担当になって以来一番の笑顔を浮かべた。輝くような表情だった。「寝るんだ!」

12

 爆発音を聞いた気がして、目が覚めた。
 一日歩き通してすっかり疲れてしまい、宿に帰るとすぐベッドに倒れ込んだ。オルシニアの安宿は――名産だからだろう――毛布には気を遣っているらしい。温かな心地に微睡み、久しぶりに穏やかな気持ちで眠った。
 そんな眠りが騒音で断ち切られたのだ。不快に眉根を寄せつつ、いまが何時か確認する。もう真夜中近い。だのに、どうして外がこんなに騒がしいのだろう。今夜は祭りではないはずだ。
 眠い目をこすり、隣のベッドにかなめがいないことに気付いた。
 叫び声がする。再び爆発音。爆竹? いや、これは銃声だ。
「……かなめは……?」
 部屋を見回す。かなめは窓際でカメラを構えていた。路地にレンズを向けて、夢中にシャッターを切っている。
 フィルムが勿体ない――そんな暢気な考えをまず抱いた。
「かなめ? 何を撮っているの?」
 綾の声も聞こえていないようだ。かなめはひたすらシャッターを切っている。表情は、見たことがないほど歪んでいた。恐ろしさに駆られて、綾はかなめの肩を揺さぶる。
「かなめ! どうしたの? かなめ!」
「……あ、綾……」
 やっと綾に気付いたかなめは、笑顔のつもりなのか頬を緩めてから、床にへたりと座り込んだ。綾の脚を抱きしめ、「綾、綾……」とすがりついてくる。
 どこかから、赤ん坊の泣き声。それを打ち消すようにして、野太い雄叫びがあがる。
 続けて二発の銃声。
「何が、起こっているの?」
 綾はそう呟くしかなかった。
 開かれた窓から、火薬の匂いが漂ってきた。

 オルシニアのことは、いまでも夢に見る。それは綾もかなめも同じだ。ただ、それで立ち止まるのか、前に進むのか、その違いだけだった。
 問題なのは、綾にとって前に進ませてくれた写真――『倒錯の構図』は、あの時かなめが撮ったものだと云うことだ。
 オルシニアの地獄を何とか生き抜いた後、綾は自分たちの経験を本にしてまとめようと提案した。自分とかなめの共著で。
 だが、かなめはその提案をことわった。
 ――わたしは、書かない。話したくない。思い出したくない。お願いだから、そっとして。
 そう云って、フィルムを綾に握らせた。
 ――わたしの写真も、綾が撮ったことにしていいから。
 いつもの綾なら、馬鹿なことを云うな、と怒っただろう。しかし、恐怖と疲労でやつれた友人を前にして、彼女はつい受け容れてしまった。
 いまなら認められる。綾はこの時、かなめに嫉妬していたのだ。
 夢中でシャッターを切るあの表情に、自分が置かれた状況など関係ないとでも云うようにカメラを構える姿に、綾はジャーナリストとしての敗北を感じた。他で、いつ、どう勝っていようとも、あのオルシニアの夜、綾はかなめに負けたのだ。
 敗北感は、写真を現像して一層強まった。綾の写真は、悪くはなかったが、はっきり云えば平凡だ。暴動の写真を検索すれば、いくらでも似たようなものが見つかる。一方でかなめの、あの路地を写した写真は、無二の迫力があった。それが、カメラマン・海棠かなめのポテンシャルだったのだ。
 写真は全て、鴉丸綾の名義で発表した。
それからしばらくして、綾は東サザランズへいくことを決めた。

 指定されたのは、カフェテリアの端、かなめが綾を見送ったテーブルだった。戌橋がどうしてあの席を知っているのか、綾にはわからない。それを云うなら、あのメールも奇妙だ。
 ――すぐに会いたいんです。海棠さんの写真の件で。
 戌橋が綾をかなめの写真の件で呼び出すなら、『倒錯の構図』に関係するはずだ。だから綾は全ての予定をキャンセルして、空港まで赴いた。
 だが、約束の時間に現れたのは、戌橋ではなかった。
「なるほど、あなただったわけ」
「ぼくの名前では、きてくれそうになかったので」
 朧は向かいの席につく。かなめが座った椅子だった。
「警察がこんなことして良いの?」
「おとり捜査で罠にかけようと云うわけじゃありませんから」
「それで、今度は何?」
「あなたを逮捕しにきました」
 朧はさらりと云ってのける。聞き捨てならない、重要な台詞。しかしそれを受け止める綾の心は、不思議と落ち着いていた。
「証拠が見つかったわけね。どんな無茶なものか知らないけど」
「順番にいきましょう。まずはこちらの写真をご覧ください」
 朧はテーブルに一枚の写真を置いた。その写真では、賑やかで華やかなショッピングモールの吹き抜けに、バレンタインセールと云う文字がでかでかと書かれたバルーンが浮かんでいる。
「前に云っていた、かなめが撮ったものね」
「はい。これが海棠さんが最後に撮った写真です。この次を写したフィルムは、失われました」
「殺人者によって」
「そう考えて良いでしょう。海棠さんからフィルムを奪える機会があり、そうする意志を持てるのは、海棠さんを殺した人物くらいです」
「そこまではわかってる。で、この写真がどうしたの?」
「この写真は綺麗に撮られています。埃が付いている様子はありません」
「そんなものが付いていたら、すぐに気付くわ。曲がりなりにもプロだったもの」
「ですが、埃は付いていました。こちらが、次の写真です」
 一枚目の横に、新たな写真を並べる。綾の知らない女性が写っているが、写真中央に大きな汚れがあった。
「ひどい出来」
「これはぼくが先日、海棠さんのカメラを使って撮影したものです。ご覧のように、汚れがあります。調べたところ、カメラのミラーに埃が付着していました。さて、海棠さんは、この汚れに気付いたのでしょうか?」
「気付いたなら、すぐに汚れを取るでしょう」
「しかし現に埃は残っている。と云うことは、海棠さんはこの汚れに気付かなかったのです」
「前も云ったけど、回りくどい云い方をしないで。埃が何?」
「海棠さんは埃に気付かなかった。しかし、そんなはずはありません。殺人者がフィルムを持ち去っているのですから」
「どう云うこと?」
「犯人はなぜフィルムを持ち去ったのでしょうか? 殺人の動機がフィルムにあったとは考えられません。他のフィルムに手を付けた様子はなかった。フィルムが目的なら、目当てである可能性のあるものはとりあえず持ち去るでしょう。つまり、犯人がフィルムを持ち去ったのは、はじめの計画にはなかったのです。殺人を実行する過程で、フィルムを持ち去る必要性が生じた。
 その必要性とは何か? フィルムはカメラの中に入っているはずですから、それが犯人にとって不都合になったのだとすれば、考えられるのは、写真を撮られたので持ち去らなければならなかった、と云うものです。
 写真を撮ったのは海棠さんでしょう。なら、撮る時にファインダーを覗きます。ここで埃が付いていれば、掃除するはずです」
「手入れする間もなく死んだのかも」
「海棠さんはプロのカメラマンだったんですよ? 明らかにひどい写真になることがわかっているのに、写真は撮らないでしょう」
「推理として甘い」
「厳密ではありません。しかし、あなたはどう思いますか? 海棠さんは、そんな写真を撮りますか?」
「……撮らない。カメラを構えもしなかったでしょうね」
「ぼくもそう考えました。だからこの矛盾にぶつかったのです。海棠さんはカメラの汚れに気付かなかった。だのに、写真を撮っている。なぜか?」
「この問答はいつまで続くの?」
「もうしばし、ご辛抱ください。
ぼくは次にこう考えました――埃は、海棠さんによって持ち込まれたのではない」
「誰かが故意に入れた? それこそ考えづらいわ」
「カメラのレンズを開いて、そこに埃を入れる。確かにこれは考えられない。ですが、埃がカメラごと持ち込まれたとすれば?」
「犯人がカメラを持ってきたのなら、フィルムを持ち出す必要なんてない」
「その通りです。カメラは外部から持ち込まれた。現場にカメラはひとつだけ。すなわち、カメラは入れ替えられた。けれども犯人は、入れ替わったカメラからわざわざフィルムを抜いている。
 結論――カメラは、犯人が知らないうちに入れ替わった」
「……もし仮に、そうだとして」埃からはじまった論理は、綾の知らない真実へたどり着こうとしている。「入れ替わりは偶然?」
「カメラが偶然入れ替わるような状況があれば、犯人も警戒したはずです。取り違えていないか、何か違いを探したでしょう。そこであの埃に気付かないのは考えづらい。カメラの交換は、故意によるものです。ただし、それをおこなったのは犯人ではない。だとすると、海棠さんです」
「かなめが、カメラを……」
 ずっと引っかかっていた違和感の正体が、ようやくわかった。
 そう云えばあの夜、綾はコートを鞄の上に畳んで置いた。しかし鞄から遺書を出す時、コートをどけなかった。綾がコーヒーを用意している間に、かなめは鞄の中からカメラを取り出して、自分のカメラと入れ替えていたのだ。
 ――カメラのこと、ごめんね……。
ぼそりと呟く。「そう云う意味だったんだ」
「はい?」
「こっちの話」綾はなるべく自信ありげに見えるよう、椅子にもたれかかった。カメラの交換は意外だったが、予想外の事態ではない。「カメラが交換されていたとしましょう。それに何の意味があるの?」
「海棠さんの周辺で、海棠さんと同じカメラを持っているのはあなた、鴉丸さんだけです」
「まさか、それで逮捕するつもりじゃないでしょうね。交換が実際におこなわれたと云う証拠は?」
「三枚目の写真をご覧ください」
 朧は、更なる写真を置く。裏蓋の周辺が分解されたカメラの部品が並べて写されていた。
「これは海棠さんのカメラを分解した様子です。この奥のあたり、文字が書いてあるでしょう?」
「『to あや from かなめ』……」
「筆跡鑑定は難しかったですが、海棠さんの字である可能性が高いそうです。こんなメッセージが刻まれていると云うことは、海棠さん宅のカメラは、海棠さんが鴉丸さんに贈ったものだったと考えられます」
「そんなもの、贈られた覚えはないわ」
「まあ、そうでしょう。きちんと贈っていたら、こんな一見わかりづらい場所に名前を入れるはずがない。このカメラは、鴉丸さんにこっそりと贈られたものでした」
「……云っている意味がわからない」
「時に、なぜぼくがこのカフェテリアのこの席を指定できたのか、気になりませんか?」
「気になりはするけど、カメラはどうなったの?」
「すぐに戻ってきますよ。以前、あなたは海棠さんに空港から電話をかけたとおっしゃった。だから、到着ロビーからあなたの行動を追いかけたのです。空港の監視カメラで」
「ご苦労なことね」
「すると、このカフェテリアで通話するあなたを見つけられたので、早速ここで聞き込みをしました。本当はこの通話がどのようなものだったか知りたかったのですが、それは流石に叶いませんでしたよ。しかし、重要な情報がもたらされました。海棠さんは、この店のこの席によくきていたそうです」
「……へえ」
「このカフェテリアのこの席は、あなたと海棠さんにとって意味がある。ぼくはそう考えました。そもそもここは国際線出発ロビーの真上。到着ロビーから近いわけではない。だのに帰国したあなたが、わざわざここで彼女に連絡を取ったのは、偶然や気まぐれではないでしょう」
「ええ、一年前、かなめはここでわたしを見送った。海外にいく時はよく利用していたの」
「やはり」朧は口角を上げる。「一年前、あなたが東サザランズに発つ直前、あなたと海棠さんに何があったのか。駄目でもともと、調べました」
「一年前の、空港の会話を?」
「あなたが東サザランズに発った直後、この空港でテロ騒動が起こったのをご存知ですか? 幸いにして、早期に爆弾が発見され被害はゼロでしたが、捜査のために当時の監視カメラ映像は警察に押収され、保管されていたのです。映像が残っているか空港に問い合わせたら、ウチにあるって云うんだから驚きましたよ。
 問題はあなたが発つ日のことです。場所と時刻はわかっているので、すぐに映像を見つけられました」
「そこには、映っていたわけね」
「はい。あなたと海棠さんが会話をする様子。それから、あなたが席を外した際、海棠さんがカメラを入れ替えるところも」
 朧は携帯端末を出して、動画を見せてくる。そこには確かに、周囲の視線を気にしながら綾のカメラを自分と取り替えるかなめの姿が捉えられていた。
「一年前の時点で、カメラは入れ替わっていた……」
「このメッセージは、その時、あなたに贈られたのです。それから一年、あなたは海棠さんと会っていないはずだ。ではなぜ、このメッセージが入ったカメラが、海棠さんのもとに戻っているのでしょうか?」
「わたしが殺したから」
「とまあ、そう云うわけでして」
「……まだよ」まだ、詰みではないはずだ。「まだ」
「足りませんか」
「わたしのカメラとかなめのカメラが入れ替わった。そこまでは良い。でも、かなめが死んだその場でカメラが交換されたとは証明できていない。埃の推理が厳密でないことは、あなたも認めたはず」
「あなたが帰国したその日の映像には、あなたがこのカフェテリアでカメラを手入れする様子も映っていました。あの時、レンズを外したまま、しばらくぼうっとしておられましたよね? 埃はそこで入ったのではありませんか?」
「それはただの推測」
「フィルムが持ち去られたことはどう説明します?」
「持ち去られた確証自体がない」
「では、もうひとつのフィルムの行方は、どうお考えで?」
 何のことを云っているのか、咄嗟にはわからなかった。綾の返答を待つことなく、朧は続ける。
「ぼくの推理が正しければ、あなたはかなめさんを殺害した後、自分にとって不都合な写真があるであろうフィルムをカメラから抜き取りました。しかし、この時点でカメラは、あなたがもともと持っていたものにすり替わっている。つまりここであなたが抜き取ったフィルムは、あなたが撮影してきたフィルムです」
 綾は徐々に、朧が云わんとしていることを飲み込めてきた。
「おわかりですか? カメラの交換に気付かなかったあなたは、フィルムの交換にもまた気付いていない。あなたが自分のカメラだと思い現場から持ち帰ったのは、この一年間海棠さんの手許にあったカメラであり、そこに収まっている、あなたが自分の撮った写真だと思っていたフィルムは、海棠さんが撮った写真のフィルムなんです。あなたはそれを知ることなく、そのフィルムを現像に出した」
 抜き取ったフィルムは、中身を確認するまでもなく処分した。綾は自分で、自分の仕事を台無しにしたのだ。
 そして、代わりに現像したのが……。
「あなたが現像を依頼した業者に問い合わせ、写真を入手しました。それがこちらです」
 新たに置かれる二枚の写真。一枚は赤々とした夕陽を写し、もう一枚は裏返されている。だが、裏返されたその一枚が何の写真なのか、綾はもう知っていた。
「こちらは夕陽の写真です。下に映った町並みは、この撮影場所が酉都市を見晴らすあの丘の公園であることを示しています。海棠さんが亡くなる日の夕方、同じように夕陽を撮影している青年がいました。彼は海棠さんがその時その場所で写真を撮っていたことを証言してくれています。それに、彼の撮った夕陽と比較して、撮影位置の違いはあるものの、同日同時刻に撮られたものであると鑑識が報告しました」
 写真の夕陽は、燃えるように赤く、毒々しいまでに美しい。
「……良い、写真ね」
「夕陽の写真としては一級品だと、かの青年も太鼓判を押していましたよ。そして、この夕陽の後に撮影された、最後の一枚が、この五枚目です」
 写真が面を向けられる。扉を開けて、呆けた顔をした、綾の肖像。馬鹿みたいに、大きく……。
「この写真はどのような状況で撮られたのか。これらの写真をあなたが持っているのはなぜか。しかも、『東サザランズ』の写真として、あなたは業者に出したのはどう云うことか。説明していただけますか」
 綾は視線を上げ、朧を見た。しかし、彼女の眼には、朧は意識されていなかった。その姿に重なるようにして、テーブルの向かいには、かなめが座っている。優しい笑顔だった。自分には決して真似できない、かなめのその笑顔が、綾は好きだった。
 どうして、彼女はメッセージを仕込んだカメラとすり替えたのだろう――自問したものの、答えはもう出ている。かなめは綾に憧れた。だが、『倒錯の構図』を撮ったカメラは、かなめのカメラだった。だから、入れ替えたのだ。カメラの問題なのかも知れない、などと考えて。綾のつまらないプライドを尊重して、こっそりと。自分を見捨てて遠くに去る友人の、僅かで良いから力になりたくて。
「自分のことしか考えていなかったのは、わたしの方ね」
 やがてかなめの姿は薄れ、朧が現れる。微笑んでいる。これまで綾には見せなかった、柔らかな表情だ。これこそが、この男の素顔なのかも知れない。
「鴉丸綾さん。あなたを逮捕します」
 綾は、何も云わず肯く。窓の外を振り仰いだ。
 どこまでも青い空の向こうへ、飛行機が飛び去っていくところだった。