鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/06/19 ティム・インゴルド『生きていること』

行き先の定まったプロセスであるという目的論的な見解に代えて、行き先が絶えず更新されていく宙に投げ出された流転として、生きることの可能性を新たに捉えなおすことはできないだろうか。生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることは出発地と目的地をむすぶことではない。むしろそれは、無数の物たちが流動しながら生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくことであるはずだ。つまるところ、生きることは開いていく運動であって、閉じていくプロセスではない。


 先日、先生のちょっとした調査に付き合って、山を歩いた。ある程度整えられた登山道ではなく、腰まで覆う藪へと分け入り、雨の季節ですっかり不安定になった地面を這って。だからぼくはこう云うべきだろう、山歩いたではなく、山のなかで歩いたのだ、と。調査の終わりに沢まで降りた。地面から水が染み出していた。足を下ろした岩の表面が濡れていた。ここには表面がない、と思った。あるのは絶え間ない流動だ。水は空を、樹々を、土壌を循環し、その過程で流れはつかの間束ねられて、われわれはそれを川と呼ぶ。山に注いだ水がいつの間にか集い、いつの間にか海へ大気へと散ってゆく、それが川であり、だから川には始まりも終わりもない。けれどもそれを云うなら、あらゆるものに始まりも終わりもない。いや、実のところ無理やりに区切ればあるのかもしれない。けれども、いま、ここにあるものは、どれもが始点にも終点にもなく、ただ流れつづける途上にある。あまりにもじっくりとしているから人間の眼には動いていない樹々もその内側で年輪をまたひと巻きつくり、種を拵えている。枝葉の隙間を風が渡る。木漏れ日が揺れて、ぼくは光のなかにいる。帰ろう、と先生が云う。
 ――実のところ以上の素描はたぶんにフィクションを含んでいて、ぼくが経験したこと、見たこと、感じたことそのものではない。けれども文章を書くことは、そもそも現実や内面を正確に写し取ることではなく、絶えざる即興的な身振りのうちで言葉を接いでいくことだ。そしてそれを読んでもらうことは、ぼくがそのとき聞いたもの触れたものをあなたのなかに再現してもらうことではなくて、むしろあなたにこの記述のなかへ、文字と云う線のなかに飛び込んでもらうことだ。その一見して不完全な線描は、しかし不完全い空白だらけでよろよろと震えているがゆえに、以外なほど多くのことを刻印している。もっともティム・インゴルドなら、キーボードで入力されたこんな文字列は線描ではないと云うだろう。ぼくもある程度認める。ぼくはまだ、線を書くようには書けていない。

『生きていること』は人類学者ティム・インゴルドの主著だと云う。けれども〝人類学者〟と云う肩書きから想像されるようなエスノグラフィーやフィールドワークはひとつも収められていない。むしろインゴルドの狙いは、人類学を文化人類学から広げてゆくこと、ないしは人類の哲学として取り戻すことにある。インゴルドは南洋の島嶼部へ赴く代わりに、その辺で拾ってきた石を皿に載せて水に濡らし、乾くまで本を読むことを提案する。世界を記述するにあたって水も漏らさぬ精緻な描写ではなく、むしろ水の流れるような線描を主張する。彼にとって世界は点と点の相互作用からなるネットワークではなく、束ねられて縺れ合ってはほどけてゆく無数の線である。その思想は言葉遊びに耽りすぎたり、仮想敵を強調するあまり思考を閉ざしてしまうきらいもあるけれど、語られることはどれも面白い。面白くなければ、ぼくはこんなに分厚い本を2ヶ月もかけて読んだりしない。
 諸手を挙げて賛成できないからこそ、挙げなかった自分の手のうちにあるものを意識し、思考はますます前に進んで、線を描いてゆく。たとえばぼくはこの文章を、ラップトップで打鍵している。インゴルドに云わせればこれはあるべき記述ではない。《キーボードは、観察的な記述に不可欠な知覚、身ぶり、そしてその痕跡のあいだの直接的なつながりを断ち切る》からだ。しかしキーボードによる入力が知覚や身ぶり、そしてその痕跡と断絶しているのなら、どうして打鍵しているこの指は自分が入力したい文字を先取りするようにすばやく動くのだろう? なぜこの指はときとして、タイポを発生させるのだろう? キーボードのサイズやディスプレイの種類、パソコンの性能や通信環境によって、まるで手や眼、身体の疲れ方が違ってしまい、ひいては書かれる文章まで変わってくるのは、どう説明づければ良いのだろう? けれどもぼくはだからと云って、インゴルドをロートルの懐古主義者とは思わない。お前さんだってデジタル技術の恩恵受けてるんじゃないのか(目の前の本はどうして存在していると思う?)、と否定まではしない。重要なのは、ここでインゴルドを経て、自分なりに思考の線を伸ばせたことにある。キーボードで打鍵することの身体性を、ペンでノートに線描するのと引っくるめながら、ぼくはもっと考えることができる。
 それこそインゴルドの云う、人類学的態度ではないか?

人類学が試みているのは、本質的に比較対照であるが、対照されるものは、区分けされた物体や実体ではなく、さまざまな存在の仕方なのである。それは、異なる存在の方法に対する気づき、あるいは、ある存在の仕方から別の仕方への移行可能性が常に存在することに対する絶え間ない気づきであり、この気づきこそ人類学的態度を定義するものである。


 記録を取り終えて車を駐めていた平地まで戻ってずっと履いていた長靴を脱いだとき、一緒に調査に来ていた後輩はやっと地に足が着いた感じがすると云っていたけれど、むしろぼくは地面との繋がりがなくなったような気がした。次の一歩をどう踏み出せば良いか思案しながら足、腿、腰、そして身体全部で斜面を掴んでいたときのほうがずっと、この世界と切り結んでいるような気がした。インゴルドは云う。人類は世界のなかに生き、世界の上に生きているのではない。
 その日一日、夜眠るまで、ぼくの足はあの大きな長靴に、何か柔らかな感覚に、包まれているような気がした。