鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

往復書簡:2024/02/17

上雲楽さん

 お手紙、どうも。伊勢田勝行=伊津原しまと云うつくり手のことは初めて知りました。とりあえず検索をかけて、ニコニコニュースでのインタビューを読み、そこで紹介されていたMVを見ました(短かったので)。なんと云えば良いのか、圧倒されました。ぼくは常々、書くことをもっと書き手じしんの手に取り戻すべきだ、と思っていますが、ここでおこなわれているのは、つくることの一切をみずからの手に収めることだからです。とりわけ、《本当に何か長い流れの一瞬にいるような、私はその中でファミレスに行って端っこで作業している感じです》と云う言葉には、おそらくその境地にひとりでにたどりついたのだろうことを含めて、尊敬と畏怖を覚えます。
 と同時に、そうしてつくられたものに対していくらか惹かれつつも、拭いがたい異物感があったのもまた事実です。あるいはその逆で、異物感を覚えるからこそ、惹かれるのかもしれません。これは一歩間違えると、上雲さんのおっしゃるような「見世物小屋的な感性」です。ただ、インタビューやMV、あるいはご本人のSNSなどを見て、何より強くぼくを圧倒したのは、つくられた絵そのものよりも、薄いシャツや作業場の乱雑なテーブル、映像のノイズや直接の撮影がもたらす独特な質感、音割れであり、それはむき出しの他者の生の片鱗に触れたような感覚をもたらしたからで、これはその反射的な「気持ち悪さ」を含めて、いつか向き合うべきものであるように思います(ぼくはなんの加工もなされていない人間の顔写真や素人の家族写真にほとんど恐怖に近いものを覚えるのですが、これはその不気味さと通じます。その不気味さに強く惹かれることも含めて)。そしてこのような、反省めいたことを書いてしまうあたり、ぼくは「真面目」と云われてしまうのかも知れません。

 正直に云うと、ぼくは自分をあまり真面目な人間だとは思っていません。義理堅くもないし、誠実でもない。わりと適当に生きているので、ストイックだとも感じません。考えすぎてしまう自覚はありますが、それは真面目と云うよりも、ものごとの受け止め方、考え方をうまく学べていないからで、よく読み、よく書くようになった最近は、考えすぎると云うこともなくなり、むしろ真面目ではなくなってきていると感じます。
 まあ、そう云ったことは単なる謙遜や卑下だとしても、少なくとも誤解であると思うのは、ぼく自身は「大衆」の愚かさや下品さ、俗なところを不快に思ったり、傷ついたりすることはありません。少なくとも、いまは。何かしらの感想やコメントを見て不愉快な気分になることはありますが――たとえば、伊勢田=伊津原氏のインタビュー記事に寄せられたコメントなどに――それは、コメントが愚かで下品だからではない。それに、そのコメントを「大衆」のようには思わない。そしておそらく、ぼくは傷ついてもいない。強いて云うならぼくは、怒っているのだと思います――決めつけで何かを馬鹿にすることに。偉ぶってひとを侮辱することに。あるいは、悲しんでいるのかもしれません――これほどのことをしても尊重してもらえないと云うことに。褒めなくても貶さなくても良いから、このような人が生きているのだと云うことを考えると云うことさえもしない人が、コメントが残されたと云うことから推理して、少なくともひとりはいるのだと云うことに。
 これは以前、ひとから指摘されたのですが、ぼくはどうも、ひとを高く見積もりすぎるきらいがある。とくに顔の見えない相手ほどに。それゆえに、怒るし、悲しむ。どうでもいいようなコメントを見ては考え込む。そうしたものを考えなくても良いのだとわかってきたのは、つい最近のことです。けれどそれでも、つい考えてしまいます。
 ぼくは数年前、自作の小説の一節として、こんなことを書きました。

帰り道、神戸の夜景を眺める。あの灯のひとつひとつに人間がいて、そのひとりひとりに人生があるのだと思うと、わたしは目眩がした。
――「喝采」(『蒼鴉城 第四十五号』)

 よく憶えているのは、この一節を書くためにぼくはこの小説を書いたのだと感じられたことです。そしてこれもまたよく憶えているのですが、ぼくはこのモノローグを、兄とふたり、目的もなく連れだって夜道を歩いていたときにふと口にしたのでした。それは京アニ放火事件の直後でした。以降、窓の灯と云うモチーフは、ぼくの小説の、とくに結末近くで、ときには意図しないままに、頻出することになります。
 そしていまになって思うのは、その灯に目眩を覚えたからどうするのか、と云うことです。現実には、ときに目眩を覚えながらも、窓の灯の向こうの人生ひとつひとつに向き合っている人びとがいます。ぼくはそうなれるだろうか? 少なくとも小説において、それは可能だろうか?
 ――ぼくにはできないかもしれない。
 最近はよくそう考えます。そしてこれは出来不出来ではなく、向き不向きの問題です。なぜならぼくは、上雲さんにそう思ってもらえるほど、真面目な人間ではないからです。そして、このように割り切ることができるようになったのは、スケッチをしたり日記をつけたりするようになったからでしょう。つまり、自分の手の届く範囲を知り、その範囲で世界と切り結ぶことがだんだんとできるようになってきたからではないか。それがおそらく上雲さんの云う「今の現実の目の前に立とうとしている」態度なのかもしれず、そう云っていただけることはとても嬉しく思います。

 ぼくにはむしろ、上雲さんのほうがはるかに真面目だと感じられます。自らの醜いところや、傷に向き合っていると云う点で……。「たぶん、それが逃げ場だと勘違いしている」と仰いますが、そうして居場所を見つけることで住まうのはひとつの生きる技法ではないでしょうか。
 しかしこれ以上は、互いのパーソナルな領域に踏みこみすぎる気がしてなりません(ぼくが進んで開示してしまった面もありますが)。もし踏みこむことがあるとすれば、それこそ、書かれる手紙に残された痕跡を辿るようなかたちによってであるほうが、(真正面から語り合うよりも)互いにとっていくらか安全であるような気がします。
 そのために本当はミステリの話もしたかったのですが、すでにだいぶ長くなってしまいましたので、ここでお手紙をお返しします。暑くなったり寒くなったりと妙な天気が続きます。くれぐれもご自愛下さい。

鷲羽巧