鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2020/05/08

 オンラインでの講義が始まったけれど案の定身が入らない。漠然と話を聞き流しながらあとで資料を読む、では二度手間なので両者を同時にこなしたいもののそれは本来普通の講義でもこなして当然のことである。

 いま《普通》と云った。果たしていまの状況が《普通》になるのか?

 久しく講義を受けていなかったので忘れていたけれど、一日の時間をかなり取られる。24時間、8時間寝るとして16時間をどう過ごすのか、ある程度組み立てて、無駄のないよう生活しないといけない。たとえばこうしてブログを書きながら別のタブに開いたtwitterを覗くようなことはやめるべきだ。ぼうっとする時間が必要だとしても、それはtwitterではないだろう、あってほしくない、あってたまるか。

 

 つい先月末までお先真っ暗かのような論調だったように思うが、順調に感染者は減っています、Covid-19の第二波を防ぎましょう、と云う比較的ポジティヴな空気に変わってきている。パニック映画やバトル漫画でありがちな、いや実際に見た回数は多くないがよくある展開として挙げられがちな「やったか?!」に見えてしまう。

 何がいちばん怖いって、そんなことを思いながら心が軽くなっている自分である。

 

 エラリイ・クイーン『盤面の敵』『第八の日』を読み終えた。リーの代わりにそれぞれシオドア・スタージョンとアヴラム・デイヴィットスンがダネイのプロットを小説化したと云う話は有名だけれど、なぜこのふたりだったのかよくわからない。スタージョンとデイヴィットスンが合わせにいったのかも知れないが、実際の作品を読むとあまり違和感を憶えないあたり、文体がけっこう近いのだろうか(『第八』はやや個性が出ている)。そう云えばエラリイ・クイーンに文体の面から迫った評論ってあるのか知らん。SFとの距離も、そのあたりから測ることはできないか。

  訂正――盤上に押しつぶされるのではなく、盤面から弾かれる。

 

 5月8日はスタージョンとデイヴィットスンの命日らしい。これもまた構図である。

 

盤面の敵 (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 3-7)
 

 

日記:2020/05/06

 昨夜は1万字超えの長文記事を投稿したのでもう日記を書く気力はなかった。あらためて読み直すと当初の目論見はおおむね達成されているように思う。惜しむらくは、SFまで挙げる余裕がなかったこと。『なめらかな世界と、その敵』や『死の鳥』なども入れられるなら入れたかった。

washibane.hatenablog.com

 パウル・クレーの《それ以上のことはわたしたちにはできません。》の文章を何度も引用することに政治的な意図がまったくないと云えば嘘になるけれど、個人的思想を強制したいわけではないと云うのは本当だ。強制したところできいてもらえるわけでもなし、いたずらに会内に分断を生むだけだろう。

 

 読む、書く、語る、以外でいまのぼくにそれでもできることがあるとすれば、かつてのぼくのような新入生が現れたとき、彼ないし彼女の語ることをきちんと受け止められることだろう。そのためにはぼくが知らない作家や作品のことであっても受け止めなければならないし、ぼくが知らない作家や作品のことを話してもきっと受け止めて貰えるだろうと思って貰わなければならない。それなりに読んでいて、それなりに語ることができて、それなりに自分じしんの体系――樹冠――をしっかりと持っていて、どんな言説にも何かしら実のある返答ができるような、話しかけ甲斐のある先輩になれれば云うことはない。

 長文を久しぶりに書いて、そんなことを思った。

 しかしたぶんそれは、話していて楽しい先輩よりも難しい道のりだ。現にぼくはたぶん、すでに入会を希望している新入生からは、けっこう話しかけづらいひとに映っている。でも自分から話しかけるのはなんか違うしなあ……。

 

 真藤順丈『宝島』を読み終えた。現実をフィクションでごまかすのではなく、現実にフィクションで抗うような物語。その両者の境界線がどこにあるのかは、今後のじぶんへの宿題だろう。

  『ゲームの王国』上巻が好きなひとはたぶん好き。

 

 明日から講義が始まる。もしかすると毎日更新することが難しくなるかも知れない。無理のない範囲で続けてゆきたい。

宝島

宝島

 

 

ミステリ研新入生に薦める20選

 何も急ぐことはありません。生長を待たなくてはなりません。じっくり育ってゆかせなくてはなりません。やがていつかその時が来たら、立派な作品ができるというのなら、それに越したことはありません。

 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、部分は発見されたのですが、まだ全体を見出すまでにはいたっていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けております。わたしたちを支えてくれる人々がいないからです。しかし、わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたしたちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたしたちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の意識をもって始めたのです。

 それ以上のことはわたしたちにはできません。

――パウル・クレー『造形思考〔上〕』(ちくま学芸文庫

  このブログで引用するのも3回目となるこのクレーの言葉は、少なくとも2020年5月現在、わたしにとって自分が所属する京都大学推理小説研究会に対するスタンスをある程度規定するものです。《バウハウス》をそのまま《推理小説研究会》に置き換えることはできず、《すべてのものを捧げる連帯の意識》など存在せず、存在しなければならないとも思わず、主語も《わたしたち》ではなく《わたし》とすべきではあるものの、発見された部分からそれぞれの探求を進め、いずれ全体を見出すことが出来れば良いとわたしは祈っていますし、その祈りをもって粛々と読み、書き、語っています。それ以上のことはわたしにはできません。

 これから続く文章は表題通り、ミステリ研の新入生に薦める、ただしあくまで個人的な、20作品のセレクションです。基礎教養を伝え、形成するものではなく、わたしの自己紹介のようなリストになることを意図して選出しました。云い換えれば、わたしの発見した《部分》のさらにいち部分です。

 おそらくインターネット上では、このような多数の私的なベスト・セレクションが見付かるはずです。あるいは入会して先輩たちから教えられる作品群があることでしょう。それらもまた《部分》です。大学の推理小説研究会に入ろうとしている皆さんがいろいろな《部分》を見て、独自の《部分》を発見できることを祈ります。

 そうして自分なりの体系――と云うと肩肘張ったように聞こえますが、樹冠のようなものを、形成していって貰えば良いと思います。自分の中に育った樹冠は、新しい作品を読む度に豊かになり、ときに揺さぶられ、ときに変容し、そして翻って、作品に新たな読みを与えてくれるはずです。

 とは云えもちろん、体系など関係ないと、片っ端からいろいろなものに手を出す乱読家の方もいるでしょう。もしもたくさん本を読めるのならぜひ読んでください。多様であることは豊かであることです。

 それにまた、わたしにひとの読み方を強制することはできませんし、したくもありません。以上語ったことは全て読み流してもらって構いません。前置きが長くなりました。それでははじめましょう。

 

 

ミステリとジャーナリズム

  探偵役にジャーナリストが配された推理小説は多々あります。真実を追及すると云う点で、探偵の捜査とジャーナリストの取材は一見すると似通っているからでしょうが、しかしそれぞれをもう一歩踏み込んでみると、追及と報道は同じものなのか、虚構と現実を混同してはいないか、両者は切り分けられるのか、そもそも《真実》とは何なのか――様々な論点に突き当たり、安易に探偵=ジャーナリストと云いきることはできず、探偵小説=ジャーナリズムとも云うことはできません。

 ミステリが提示する《真実》と云う名の(多くの場合、意外な)《構図》は、ジャーナリズムにおいては、容易く陰謀論めいたデマへと誘い込む、ときとして抗うべき、引力をもっています。逆に、《構図》が抗いがたい引力をもっているからこそ、ミステリにおける《真実》はかくも魅力的なのです。

 米澤穂信『真実の10メートル手前』の大刀洗万智はジャーナリスト探偵たちの系譜を継ぐキャラクターですが、その姿は探偵役である以前に、ジャーナリスト然としています*1。短篇集に収められた物語はいずれも華々しい真相解明が存在せず、ともするとミステリを読むひとつの楽しみであるツイストの快楽――《真実》の快楽に欠けるかも知れません。しかしジャーナリズムとミステリを安易に重ね合わせることなく、むしろときには拮抗させながら、《真実》をめぐる苦みや痛みを引き受けるこの短篇集は、《謎を解く》とひと言で片付けるだけではたどり着けない物語を見せてくれるはずです。

 ジャーナリズムにミステリから接近したのが『真実の10メートル手前』だとすれば、沢木耕太郎による短篇ルポルタージュ「おばあさんが死んだ」はジャーナリズムがミステリに接近した例と云えるでしょう*2孤独死した老女の人生を遡りながら、彼女が何者だったのか、なぜ死んだのか調べてゆくその過程はいかにもミステリ小説的です。しかし本作は最後に謎を残し、推理はそこに踏み込むことはありません。沢木なりの答えを出そうと思えば出せたであろうこの謎をあえて残す、その躊躇いが本作を、面白い謎解きミステリではなく、興味深いノンフィクションたらしめています。

真実の10メートル手前 (創元推理文庫)

真実の10メートル手前 (創元推理文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2018/03/22
  • メディア: 文庫
 
人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

 

 

人間と云う名の謎
  • エラリイ・クイーン「キャロル事件」(『クイーンのフルハウス』所収)
  • アガサ・クリスティー『鏡は横にひび割れて』
  • フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』

  「おばあさんが死んだ」で沢木を躊躇わせたもののひとつは、人間の理解しがたい複雑さでした。人間はひとに手を差し伸べると同時にもう片方の手でひとを殴ることができる、矛盾を抱えた存在です。しかしそれゆえに人間に惹きつけられるのもまた事実でしょう。この項では、そんな人間と云う名の複雑な謎を軸に据えたミステリを3作品挙げました。ここからさらに踏み込み、深淵を覗いてみせる作品は、「巡礼者たち」の項にまとめました。

 エラリイ・クイーンをミステリ研の新入生に薦める場合は〈国名〉シリーズや〈悲劇〉シリーズなどの古典が定石でしょうが、定石ゆえにここでは外し、それらを読んであまりにかっちり作られた謎解き小説を敬遠してしまった過去の自分が、クイーンについて考え直しふたたび手に取るきっかけとなった中篇「キャロル事件」を挙げておきましょう。あまりにも厳格な法と、あまりにも複雑な人間を前にして、名探偵は立ち尽くすしかありません。

  クリスティーの名を出したのを意外に思う向きもあるでしょう。この作家の描く人間たちはみなどこか定型的で、一見すると深みに欠けます。しかしこの《一見》こそクリスティーが技巧を凝らすところであり、代わり映えしない人物像やありがちな構図に意外なところから光を当て、ときとして本人たちにとって痛切な真実を引き出すのです。人間は往々にして定型的であり、逆説的に、だからこそ複雑なのだと云うこともできるでしょう。『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』などの有名作に隠れてしまいがちですが、パーティーの席上での毒殺と云ういかにもありがちな舞台にあまりに哀しい物語を潜ませた『鏡は横にひび割れて』は、単なる基礎教養の一部としてでない、ひとりの作家としてのクリスティーの技巧が端的に現れています。

 この項のコンセプトはむしろ、フェルディナント・フォン・シーラッハから読むことではっきりするかも知れません。淡々とした事件のスケッチがかえって伏流する人間の複雑さ、奇妙さ浮かび上がらせるシーラッハの短篇は、この項に取り上げたい候補が沢山あって選ぶのが難しいものの、作品集単位で選ぶなら、ためらいなく『犯罪』を推します。自分の内面の変遷は自分では自覚しにくいのですが、『犯罪』を読んだことでわたしは《人間と云う名の謎》について考えるようになったとも云えるからです。なお、短篇で選ぶなら、「ザイボルト」(『カールの降誕祭』所収)か「ふるさと祭り」(『罪悪』所収)。

クイーンのフルハウス

クイーンのフルハウス

 

 

トリックに何ができるか――あるいはチェスタトンとその子孫

  トリックに何ができるでしょうか? 密室を作る? アリバイを偽装する? 人物を誤認させる? いかにも。しかしわたしは、そのような分類を訊ねているのではありません。これはもう少し踏み込んだ問いです――トリックは物語において、何をなし得るか? もちろん、そんなことを考えずともミステリを愉しむことはできるでしょう、けれども考えさせずにはいられない作家がいます。それがチェスタトンであり、その系譜に連なる作家たちです。

 G・K・チェスタトンの代表作にして短篇ミステリの古典〈ブラウン神父〉シリーズは数多の印象的なトリックを生みました。「見えない人」のトリックなど、読んだことがなくても知っている方は少なくないでしょう。しかし実際読んでみると、独創的なトリックの数々は、人間や社会に対する警句や批評として作用していることに気付きます。トリックについて考えるとき往々にして捨象されがちなその側面を拾い上げれば、クリスティー『鏡は横に~』に触れたときと同じ言葉を繰り返すことになりますが、単なる基礎教養に留まらない*3チェスタトン作品の魅力を知ることができるでしょうし、またトリックの類型を並べた系統樹を、今度は立体的なものとして起ち上げることができるはずです。定石ではシリーズ第一短篇集『童心』を挙げるところですが、ここでは密室、逆説、信仰、探偵の存在、その他諸々の要素が噛み合ったシリーズ最高傑作「犬のお告げ」を含み、全体として批評性とミステリのパズル的側面とが両立し互いを支え合うシリーズ第三短篇集『ブラウン神父の不信』を挙げました。〈ブラウン神父〉シリーズは巻ごとに趣が異なるので、どれか一巻を読んで面白ければ、ぜひほかの巻と読み比べてみてください。

 チェスタトンとクイーンの影響を受けたラテンアメリカの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス。観念的で難解な印象を受ける強面の作家ですが、『伝奇集』岩波文庫)に収められた「死とコンパス」や「八岐の園」はそれぞれユニークなかたちでトリックを用いた傑作ミステリと云えるでしょう。ほかにも架空の推理作家について論じた偽エッセイ「ハーバート・クエインの作品の検討」など、トリックとは、ミステリとは、と考えさせる作品が収録されています*4。いかんせん晦渋な書きぶりなので、一読して理解する必要はありません。時間をおいて好きな作品を再読してみるごとに新たな発見をする――作品それぞれは短くとも、そんな長い付き合いの楽しみ方ができると考えれば、かえってお得ではないでしょうか。どうせなら、同じく岩波文庫から出ている『アレフ』とセットで読むことをおすすめします。

 和製チェスタトンと呼ばれうる作家・作品は少なくありませんが――例えば、泡坂妻夫やその代表作〈亜愛一郎〉シリーズ――わたしの知る範囲でもっともチェスタトンに近付き、ある意味では超えてしまったのが、天城一です。たとえば、チェスタトン的な密室の発想を限界まで推し進め、文字通りの《神殺し》を達成する「高天原の犯罪」は、そのトリックによって戦後の日本を射貫いてみせます*5。そのほか天城一の密室犯罪学教程』に収められた数々の密室ミステリは、歪なまでにトリックを重視してストイックに造形されながら、どうしようもなく《戦後》を炙り出し、この項の冒頭の問いを考えさせずにはおきません。

 以上挙げた3冊と《トリックに何ができるか?》と云う問いの関係は、逆でも捉えられます。つまり《トリックに何ができるか?》と云う視点を持って以上の3冊を読めば、ただ独創性や意外性をみるだけでは気付きにくいこれらの作品の技巧、批評に耐えうる強度を発見できるはずです。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 
天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 

 

巡礼者たち

  《人間と云う名の謎》の存在を捉えるだけでなく、さらにそこへと分け入るとき、目の前に現れるのは底知れない深淵でしょうか、あるいはただ周辺を虚しく経巡るだけに終わるのでしょうか。ここでは、登場人物や読者自身がその淵/縁を旅する巡礼者となるような4作品を挙げました。

 ウラジーミル・ナボコフはその文章・描写に仕掛けられた技巧こそ読み解くべきであり、この読解こそミステリらしいと云えなくもありませんが、あえて『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を挙げたのは、夭折の作家であり腹違いの兄の生涯を辿る旅と云うそのプロットが、明らかにハードボイルド的な探偵小説のそれだからです。ミステリに何ができるだろう?――ここまで読んだ方は察しているかも知れませんが、この問いこそ、わたしにとっての追うべき大きな主題のひとつです。

 『Q.E.D. 証明終了』は加藤元浩によるミステリ漫画シリーズ。スマートな犯人当てから現代を鋭く捉えた社会派作品、ギミックを凝らした実験的小品、重い歴史や人間の在り様を問う力作まで幅広く揃え、またほとんどが1話完結なので、主人公たちの基本設定さえわかっていればどこからでも読める、ミステリの面白さとその可能性を伝えるには格好の作品です。ここで挙げている20作を読むよりもこのシリーズを読みあさる方が、あるいは有意義でしょう。この項の題の元ネタでもある「巡礼」は、そんなシリーズのなかでも特A級の傑作。妻を殺した犯人の命を救った男、想像を絶する巡礼の旅が彼に底知れない慈愛の心を持たせたのか、それとも……。少年探偵がたどり着く結論は人間心理の深淵を覗くものですが、深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いていると云うことを忘れてはなりません。ひとりの人間についての物語であると同時に、これは彼について語ろうとするひとびとの物語でもあります。巡礼者とは果たして、誰のことでしょう。

 小川哲はわたしがいまもっとも期待している小説家です。ポルポトによる虐殺を題材にしたSF巨篇『ゲームの王国』を読んだときからその高い技量に注目していましたが、稀代のマジシャンが仕掛けた最後のトリックとその再演を描く「魔術師」で、ミステリを書くちからがあることを確信し、完全にファンとなりました。ただし「魔術師」がミステリかと云うと躊躇いがあります。ミステリやSFと云ったジャンルの枠を、あくまで軽やかに超越して《魅せる》ことが、その面白さの理由だからです。これもまた《ミステリに何ができるか?》を考えさせる作品と云えます。

 父の思い出話に出てきたその男は、放浪中の種田山頭火ではなかったか――丸谷才一「横しぐれ」における文学と歴史を紐解く旅は、やがて思いがけず家族の物語を浮かび上がらせます。わたしがここまで《人間と云う名の謎》や《巡礼》などと無理矢理に云い表してきたものが、本作には端的に描かれています。

 さて、余談ですが、わざわざ「巡礼者たち」なる項を設けたのにはわけがあります。実は「巡礼」と「横しぐれ」は、国内ミステリ短篇における私的オールタイムベスト、そのトップ2なのです*6。これに「魔術師」を加えてトップ3となり、わたしの自己紹介代わりのリストになることを意図するならば、この項は是非とも入れておきたいテーマでした。

嘘と正典

嘘と正典

  • 作者:小川 哲
  • 発売日: 2019/09/19
  • メディア: 単行本
 
嘘と正典より「魔術師」無料配信版

嘘と正典より「魔術師」無料配信版

 
横しぐれ (講談社文芸文庫)

横しぐれ (講談社文芸文庫)

  • 作者:丸谷 才一
  • 発売日: 1989/12/26
  • メディア: 文庫
 

 

忘られぬ幕切れ

  終わり良ければすべて良しなどと云うつもりはありませんが、小説にせよ映画にせよ漫画にせよ舞台にせよ、幕切れが良ければ作品の評価は高まるはずです。物語のプロットは得てしてそのラストに向けて駆動してゆくのであり、ミステリでもそれは変わらない。謎が解かれて終わるのではありません。謎解きの向こう側――ときとして謎が解かれる瞬間が最後に配置されることもありますが――に描かれるラストシーンはまさに画竜点睛であり、そのひと筆が物語全体を引き立て得るのです。

 そこでふたたび登場願うのがエラリイ・クイーン――作者の意味でも、探偵の意味でも。閉じた場におけるフーダニットではなく、無数の人間集まるニューヨークを襲った連続殺人に挑む『九尾の猫』は、探偵エラリイの悲壮な戦いの果て、いっそ神がかったラストシーンへとたどり着きます。終盤に想起されるホロコーストの記憶も見逃してはならないでしょう。謎解きの向こう側で、物語の射程は一気に広がります。なお、『九尾の猫』はよく、『十日間の不思議』のあとに読むことが推奨されます。個人的には単独で読めると思いますが、やはり『十日間』、そしてその前の『フォックス家の殺人』と併せて読むことで、あのラストシーンはいっそう美しく感ぜられるはずです*7

 ハードボイルドの巨匠として知られるロス・マクドナルドは、しかしハードボイルドと云うそれはそれで捉え難いジャンル名よりは、アメリカの悲劇、家族の悲劇、そして類い希なラストシーン、と云った言葉で紹介した方が手を伸ばしやすいでしょう。なんとなればハードボイルドを心なしか敬遠していたわたし自身が、そのような言葉で薦められ、読んで感動したのが『ギャルトン事件』だから。終盤の加速と、厳かなまでに美しい幕切れをご覧ください。

 上記2つの美しいラストとは違う意味で、ヒラリー・ウォー『生まれながらの犠牲者』のラスト数頁は《忘られぬ幕切れ》です。それまでの地道な捜査過程で仄めかされ、象られていったタイトル――《生まれながらの犠牲者》の意味が明かされてゆくこの静かな叫びのごとき独白と、その最後のひと言が、あまりに痛ましい。

生まれながらの犠牲者 (創元推理文庫)

生まれながらの犠牲者 (創元推理文庫)

 

 

過ぎ去りゆくもの

  得てしてミステリ、とくに本格と呼ばれるジャンルは、時間が静止してひとまとまりになった印象を抱かせます。作中で時間が経過しようとも、最後に明かされる《謎解き》がそれまでの物語をひとつの《構図》へと回収するからです。ではこの構図に抗って、とても回収できない時間を生み、とてもまとめられない幾つもの人生を描いたとき、どのような物語が書かれ得るでしょうか。それはともするとミステリの営みから離れる行為ですが、距離を取ることではじめて見えてくるものがあるでしょうし、遠くからミステリへ帰ってきたとき、新しい視座をジャンルへともたらすことができるかも知れません。

 アガサ・クリスティー『五匹の子豚』は過去の謎を当時の記録や証言、現在の記憶をもとに推理する、いわゆる《回想の殺人》ものです。この様式を採用することでクリスティーは、過ぎ去ってしまった時間、取り返しのきかない人生をミステリのなかで描くことに成功しました。インタビューを通して浮かび上がる容疑者ひとりひとりの人間像、再構成される事件、忘れ難い風景、ダブルミーニング、転換――華々しいどんでん返しこそありませんが、時間と人生を描くことでいっそうその魅力を増した、それらクリスティーが得意とする要素すべてがひとつの到達点を示した傑作です。

 複雑な人間、無数の人生、取り返しのつかない時間、それら構図にまつろわぬものについて考えるならば、この世界の複雑性に思いを巡らせずにはおれず、自ずと、現実をいかにして語るか、と云う問題に突き当たります。それはつまり《物語に何ができるか?》と云うさらに踏み込んだ問いと向き合うことであり、そのうえで、フィクションとノンフィクションのあわいに立って、中国人移民の家族を豊かな表現と想像力で語り上げたマキシーン・ホン・キングストン『チャイナ・メン』はきっと重要な示唆を与えてくれるでしょう。歴史と云う濁流にかき消された声が響き合うと云う意味では豊かで賑々しく、彼らの声なき声に耳を澄ますと云う意味では静かで厳かな、力強いナラティヴです。

 『チャイナ・メン』をさらにノンフィクションへ寄せ、あくまでジャーナリズムを意識しながら、声なき声に耳を傾けたのが龍應台台湾海峡一九四九』です。島自体が歴史の濁流に翻弄された台湾のひとびと――大陸からの移民、あるいは欧米人や日本人も含めて――の人生を語ったこの本を大学1回生の春に読んだ経験が、いまのわたしと云う樹冠において幹に近い、重要な位置を占めています。

チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)

 
台湾海峡一九四九

台湾海峡一九四九

  • 作者:龍 應台
  • 発売日: 2012/06/22
  • メディア: ハードカバー
 

 

樹冠の美しさ

  ここまで、《樹冠》と云う表現を何度か使いました。念頭に置いていたのは冒頭にも引用したパウル・クレー『造形思考』ですが*8、もうひとつ、アメリ現代文学の代表的作家にして個人的にもっとも好きな海外作家のひとり*9であるリチャード・パワーズの最新作――『オーバーストーリー』のことももちろん、意識していました。アメリカの原生林を救うため、何かに導かれるようにして集まった男女の物語を、樹の構造になぞらえて描いた本作は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』や『エコー・メイカー』など、ほかの作品でも用いられていた、主題と物語の構造を一致させる鮮やかな手法がとりわけわかりやすくあらわれています。圧倒的な密度の文章、印象的なキャラクターたち、彼らを繋げ、導いてゆく力強いストーリー、胸の底から湧き上がる感動、不思議な静けさ、漲る熱、それらを味わうだけで精一杯かも知れませんが――読んでいる途中、わたしは精一杯でした――主題と物語の構造の一致と云う点に眼を向ければ、これまでしつこいくらいに語ってきた《構図》と云う言葉がまた、立ち現れてきます。

 それでは、最後にこの《構図》について語った評論を紹介して終わりましょう。

オーバーストーリー

オーバーストーリー

 

 

構図と云うこと

  ミステリの営為としての構図、その抗いがたい引力をあくまで平易な言葉とわかりやすい例示で論じた「暗合ということ」は、それ自体がまるでミステリのようにひとつの構図を描き、読んだ者はその引力の影響を受けずにはおれません。かく云うわたしもそのひとり。

 おそらくミステリ研に入ると、自分の考えを言葉で表明するのを求められると思います。多くの場合、それは思想・感想の共有のためでしょう。自分の樹冠を明確に認識するためでもあるかも知れません。しかし言葉にすることで、もしかすると相手の樹冠を揺さぶれるかも知れない。巽昌章の評論・エッセイは、そんな《語ること》の凄みがあります。この面白さ、凄み、あるいは恐ろしさを理解するためにも、自分じしんの樹冠を意識し、茂らせ、伸ばしてゆくことが重要なのです。

 

 以上、20作品の紹介を終わります。思いのほか長くなりましたが、何かの参考になれば幸いです。

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:さらにその前に、大刀洗万智と云うひとりの人間であることを忘れてはならないでしょう

*2:この対比もまた構図です、構図を示すことでわかりやすく、受け容れやすくなります

*3:逆に、留まらない基礎教養的古典があるのでしょうか? 時代を超えた古典作品は得てして、そのような強度、膂力を持っているものです

*4:個人的なおすすめは「裏切り者と英雄のテーマ」

*5:この作品に満ちる静かな怒りは、ブラウン神父の説教とは異なる、重く、烈しい印象を刻みます

*6:「巡礼」には、《巡礼者》の謎を追ったノンフィクション作家の娘が登場しますが、もしも彼女を中心に置いて物語が再構成されたなら、「横しぐれ」に近い読み味になったはずです。もちろん、そうはならなかったことに、「巡礼」の独自性と魅力があるのですが

*7:ここで朗報。今年から来年にかけて『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』の新訳が刊行されるそうです(訳者のツイート→https://twitter.com/t_echizen/status/1250341274005078018?s=20

*8:《芸術家のする仕事は、定められた地点で、つまり樹木の幹として、深部から上昇してくるものを集約し、さらにそれを上方に導くこと以外のものではありません。一言でいうならば、芸術家たちは支配者でも、召使いでもなく、単なる仲介者にすぎないのです。/ですから、芸術家とは、何というつつましい存在なのでしょう。樹冠の美しさ。それは決して芸術家その人の美しさではなく、ただ彼を媒介として生れたに過ぎないのです。》(パウル・クレー『造形思考〔上〕』)

*9:とは云え、まだ3冊しか読んでいないのですが……、一作一作が長い上に高い……

日記:2020/05/04

 実家内隔離生活が終わった結果、家から居場所がなくなった。すでに書いた気もするけれど、もともとあったぼくの部屋はなんと云うことでしょうすっかり父親のテレワークスペースに改装されており、いままで使わせてもらっていた兄の部屋も晴れて兄のものへ戻り、ぼくだけの空間と呼べるものはどこにもない。ぼくの本棚はいつの間にか両親の蔵書に侵食されていた。ハヤカワや創元を自分なりにちゃんと整理して置いていたのだけれど……。

 この間までは団欒が恋しかったのだから、虫の良い不満であることは承知している。だからことさら不満は主張していない。ただ母の云うように5月中も実家に留まることは、ぼくがひとりで心落ち着けられる場所が確保されない限り、難しいだろう。相手が家族だからこそ引いておきたい一定のラインがあるのだ。

 

 きょうはだらだらとしていた。朝は8時に目を覚ましたのにベッドで2時間くらいネット小説を読んでいた。ぼくはたまに妙な好奇心と云うか天邪鬼的逆張りをすることがあり、具体的には『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』のガールズバンドがひとりの男を総出で愛でるハーレムものの二次創作を寝ぼけたままだらだらと読んだ。百合に挟まる男と作者を批判すれば良いさ、これは作品への愛じゃないと嗤えば良いさ、ここには書き手なりの曰く云い難い熱情があるのだ――たぶん。ただ『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』のキャラクターをろくに知らないので、虚無感が凄まじかった。それに『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』に対しても、この二次創作に対しても、不誠実な読み方だったと反省もしている。

 中学生だったとき、二次創作と云うものをはじめて知ったときの驚きと云ったらなかった。ある作者による物語の登場人物の物語を別の作者によって書く、と云う営為の衝撃。はじめて二次創作を二次創作として読んだのは、『とある魔術の禁書目録』のそれだったと記憶している。原作の既刊分を読み通し、あまり嵌まらなかった自分でも、どうしてだか二次創作の幾つかは、ともすると原作以上に熱心に読みふけった。

 あのときのぼくの延長線上にたぶんいまのぼくはいない。東方projectに触れ始めるのは間を置いたあと、本を読むことが習慣化してからであり、『とある魔術の禁書目録』を二次創作を読んでいた自分とはやはり切り離されている。分岐点はどこにあったのだろう。

 

 なんだかんだ1日に1時間程度であれやっていた勉強さえしていないので危機感を覚えなくもない。

とある魔術の禁書目録 (電撃文庫)

とある魔術の禁書目録 (電撃文庫)

  • 作者:鎌池 和馬
  • 発売日: 2004/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

日記:2020/05/03

 実家での隔離状態が終わった。居間にいてもマスクしなくて良くなり、同じ卓を囲んで食事ができた。ひとり盆にご飯を載せて食卓から離れるのはそれはそれで面白かったけれど、やはり誰かと一緒にとる食事は良い。きょうは母お手製の揚げ物が卓を埋めた。わが家独自のバランスの野菜を肉で巻いて揚げたものに独自の配合でつくったソースをつけた料理で、いわゆるおふくろの味と云うやつだ。もしかすると正式名称があるもかも知れないが、独自の改良が進んだ結果もとの名前は忘却され、誰も知らないので「巻くやつ」と呼んでいる*1

 

 昼頃、だらだらしていたら叩き起こされて薬局に向かわされる。おひとり様ひとりまでの除菌スプレーを買うためだ。いかにも赤の他人ですと云う顔をしてこれは良いことなのかと首をひねりながらレジに並んでいると、個人の接続と断絶の在り様について思いを巡らせてしまう。ひととの接触を制限される現在、かえって家族との繋がりは強くなった。

 

 きょうは次のブログの記事用に新入生へ向けた選書を考え、その紹介文を書きはじめるところまで進んだ。まだ1/10も進んでいないのにすでに3000字を越えている。短篇小説でも書くつもりか?

 

 夕食のあとは兄と創作について話をした。帰省するたびにこう云う場ができる。兄はぼくにとって兄弟であるとともに、かなり話が通じる創作者でもあり、兄もいち創作者としてぼくと話してくれているように思う。《記述の運動》の概念をすぐ理解してくれるあたり、とてもやりやすい。守備範囲のまったく異なる、気の置けない創作者との会話は良い刺激だ。

 兄いわく「中学生の青春は追いかけさせろ、高校生の青春はただ走らせろ、大学生の青春は見送らせろ」――けだし名言である。

 

 水出幸輝『〈災後〉の記憶史――メディアにみる関東大震災伊勢湾台風』を読み終えた。諦めたはずの社会学・メディア学への興味がまたぞろ頭をもたげた。

 

 

 

*1:実は違う。しかし実際の呼び名を云うと身許がばれるおそれがある。

日記:2020/05/02

 曜日感覚も日付感覚もなくなっているがついに季節感覚も狂ったかと思われるほど暑い。換気がてらに窓を開けたら余計に暑くて参ってしまった。

 もしもこの騒動がなければ「今年の春はもう夏だねえ」などと笑い合えていたのかも知れない、などとたらればを考えてしまい勝手に悲しくなったけれど、この騒動があってもなくても「今年の春は夏だねえ」と云って良いはずで、自分の思考にコロナ禍が拭い去りがたいほど浸透していることを思い知る。

 

 きょうも寝て起きて本を読んでYouTube観て寝ての繰り返しで無為に時間が過ぎてゆく。流石にこのままではいけないと思ったので日記ではないブログの記事を書きはじめた。明日か明後日に公開したい。

 

 twitterのTLを眺めると、みんな『アイドルマスター シャイニーカラーズ』をプレイしている。アイドルと云う職業をどう受け容れれば良いのかいまだに自分の中で答えを出せない以上――彼ら彼女らを応援し「推す」ことは、生きている人間に勝手な物語を押しつけかねないのではないか? ましてや多くの場合、多感な時期の少年少女なのに――積極的に触れることは避けてきたが、あまりに周囲が何の疑問もないかのようにプレイしているので、むしろプレイすることでアイドルについて考えてみるのも良いのかも知れない、などと考えているものの、けっきょく好奇心を抱いているだけだと云われても否定しきれないだろう。

 

 ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者・神を見た犬』を読み終えた。「七階」「神を見た犬」「聖者たち」は確か光文社古典新訳文庫で既読。

 

 真藤順丈『宝島』を読みはじめた。目取真俊の様々な意味で烈しく重い短篇群のあとに読んで大丈夫が不安だったけれど、いまのところその複雑さ、重さにエンターテインメントで抗しようとしている印象があり、好感触。

 

七人の使者・神を見た犬 他十三篇 (岩波文庫)
 

 

日記:2020/05/01

 小学生だったときの夜は、兄が弾くギターとともにあった。当時ぼくたち兄弟は同じ部屋を使っており、さして広くもないそこに二段ベッドを押し込んで勉強机がふたつ押し込まれていたけれど、ぼくも兄も机を勉強のために使うことはめったになく、ぼくは居間で勉強する一方、兄はギターを爪弾くのが夜の風景だった。それが終わったのがいつ頃だったのか思い出せないけれど、ぼくが高校生の頃にはすでにギターの音は聞こえなくなっていたはずだ。それでもぼくがわが家の夜のことを思い出すとき、多くの場合、そこには兄のギターが聞こえている(あるいは、兄が淹れたコーヒーの匂いがある)。久しぶりに兄のギターを聞いて、そんなことを思った。

 緩やかな時間の中ではつい昔のことを考えてしまう。

 

 時間は緩やかだ。寝るか本を読むかしていればあっと云う間に一日が終わると云う点では速やかだけれど、日々はどこかゆっくりとしていて、例年であれば新入生歓迎や新学期の講義などなどもろもろで忙しないことを思うと、もう5月か、と云うより、まだ5月に入ったばかりなのか、と云う印象が強い。ルーティーンが週ではなく日で回っているのが理由だろう。基本的な生活のサイクルが1週間で回っていた頃は、4回サイクルを回せば1ヶ月が経っていた。

 とすると、来週明けから講義が始まれば、また忙しく、「もう6月?!」などと気軽に云える日々が戻るのだろうか。

 

 野田秀樹『21世紀を信じてみる戯曲集』を読み終えた。

 憂える戯曲集も気になっている。 

 

 元気が有り余っているからだろうか、最近妙なやる気が胸を「きゅう」とさせる。焦燥感のような嫌なものではないけれど、処理しないと収まらない類いのエネルギーであって、どう鎮めようか考えているものの、考えるまでもなく答えは出ている。

 書けば良いのだ。こんな手遊びのような日記ではなく、何かと本気で切り結ぶ文章を。小説でも良い、評論でも良い、 自分の思考、志向、嗜好を殴りつけるような何かを。

 

21世紀を信じてみる戯曲集

21世紀を信じてみる戯曲集

  • 作者:野田 秀樹
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: 単行本