鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2020/04/30

 昼に食べたのは冷製うどんで、その冷たさと云うよりはぬるさとろくに麺と絡んでいないツユの味に、特にすることもないのにわざわざ電車で学校まで行ってガラガラの食堂で冷やしきつねうどんを食べていた高校2年の夏休みを思い出した。過去を懐かしむ方ではなく、あの頃は良かったとも思わないけれど、ぼくが頑なに学生食堂での食事にこだわるのは、食堂のおばちゃんに顔を憶えられたあの夏が忘れられないのかも知れない。あの頃のぼくは、家と、学校と、往復の電車と、幾つかの本屋だけで生きていて、広い世界での狭い世界のその居心地は悪くはなかった。

 これから迎える夏はどんな夏だろうか。

 

 緊急事態宣言が延長されると云う。非日常が日常になりつつある。実家での隔離生活は、隔離も、緊張も、どんどん緩やかになってゆく。本を読んでは少し眠り、少し眠っては本を読む、そんな怠惰な毎日。

 一年後、二年後のことを、いまが存在しなかいかのように考えている楽観的な自分がいることに時折驚かされる。

 

 いまを忘れないように――そんな言葉さえ聞き飽きた感がある。だからと云うわけでもないけれど、『〈災後〉の記憶史――メディアに見る関東大震災伊勢湾台風』を読み始めた。果たしてコロナ禍に「以後」は訪れるだろうか?

 

 『ポーカーはやめられない ポーカー・ミステリ書下ろし傑作選』を読み終えた。

 

 野田秀樹「ザ・キャラクター」(戯曲)を読んだ。書道教室とギリシャ神話が交錯した果てに現れるもの。以前、舞台『逆鱗』を見たときも感動したことだけれど、そんなところに連れてゆくとは。

 

 

日記:2020/04/29

 実家に帰ってからこっち、曜日感覚どころか日にちの認識が消えた。きょうが水曜日であることも、祝日であることも、29日であることもわかっていなかったのだ。単調な日々は穏やかだけれど、それは本当に穏やかと云うよりはもろもろを忘れたからであり、精神の安寧と社会との距離の兼ね合いが難しい。

 

 昨日はいろいろあり、きょうもいろいろ考えることがあり、結果として、ミステリ研内ではもう粛々と読んで、粛々と書いて、粛々と語って、粛々とやってゆくしかない、と結論するに至った。精進します。

 パウル・クレー『造形思考』の好きな部分はわざわざ本を取り出すまでもなくスマートフォンにメモしていて、頭がぐちゃぐちゃしたときに読み返すと不思議とすっきりする。云っていることの半分もわからないのに。

 わけても好きな一節*1

 何も急ぐことはありません。生長を待たなくてはなりません。じっくり育ってゆかせなくてはなりません。やがていつかその時が来たら、立派な作品ができるというのなら、それに越したことはありません。

 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、部分は発見されたのですが、まだ全体を見出すまでにはいたっていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けております。わたしたちを支えてくれる人々がいないからです。しかし、わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたしたちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたしたちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の意識をもって始めたのです。

 それ以上のことはわたしたちにはできません。

 読み、書き、語る、いまのところミステリ研に対して、それ以上のことはぼくにはできない。とは云え、まあ、バウハウスバウハウスであってミステリ研ではない。

 

 ジェイムズ・グリック『インフォメーション――情報技術の人類史』を読み終えた。長かったが、くどさを感じることはなく、最後まで面白く読み切った。

  補足――フィルターバブルのこと。主題から外れるので、これはないものねだりかも知れない。

 いまのところ、オールタイムベストノンフィクション入りです。 

 

インフォメーション―情報技術の人類史

インフォメーション―情報技術の人類史

 
造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:以前にも取り上げた。washibane.hatenablog.com

日記:2020/04/27

 実家に帰ってからずっと引きこもって本を読んでいる。京都にいた頃は一歩も外に出ないと息が詰まる思いがしたもので、この変化は興味深い。誰かと一緒にいられるからなのか、単に環境が変わったからなのか。蓄えに何かと余裕があるのも良いのかも知れない。幸い下宿生活のときも食うに困ることはなかったけれど、何もかもが単調で、日々蓄えたものを食い潰してゆく暮らしは心身ともに余裕がなかった。要するに、親のすねをかじりやすくなったから安心、と云うわけだ。

 下宿生活もほとんど親のすねをかじっていたようなものだが。まったくもって烏滸がましい。

 

 読んでいる本として挙げるのを忘れていたが、ジーン・リース『あいつらにはジャズって呼ばせておけ――ジーン・リース短篇集』も少しずつ読み進めている。きょうは表題作を読んで、その卓抜した文章、複雑な声の語りに圧倒された。それまでの作品でも感じていた主題の扱いおよび文章技巧のひとつの達成を見せられた思いで、なるほど短篇集の表題にされるのも納得である。決して邦題の魅力だけで選ばれたわけではなかったのだ、もちろんこの邦題も作品の魅力が表出したものではあるけれど。

 あんたたちにとってわたしは迷惑な人間だ。なぜならお金を持っていないから。そういうことだ。はっきり喋りたい。あいつらがどうやって蓄えを全部盗んだかって判事に言いたい。(…)わたしは言いたい。わたしがやったのは歌うことだけだ。あの古い庭で。そして言いたい。丁寧で静かな声でそのことを。けれど自分がわめいているのが聞こえるし、両手が宙を泳いでいるのが見える。役に立たない。みんな信じない。だからわたしは止めることができない。頬に涙があるのを感じる。「証明しろ」あいつらが言うのはそれだけ。あいつらはささやくだけ。あいつらはうなずくだけ。

 グレアム・グリーンと云い、ジーン・リースと云い、最近の読書でいままで抱いていた英文学への、どこか退屈なイメージが更新されている。内容の重さはさておき、そのこと自体はとても楽しい。

 

 ジョー・ヒル20世紀の幽霊たち』を読み終えた。

  そのうち父親のスティーヴン・キングの中短篇集も読んでみたい。

 

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

20世紀の幽霊たち (小学館文庫)

 

 

日記:2020/04/26

 『20世紀の幽霊たち』を読んでいたら一日が終わった。そんな馬鹿な。しかも読み終わらなかった。そんな馬鹿な、とは云えない。700頁近い分量なので。

 きょう読んだ分では、「ポップ・アート」「挟殺」「寡婦の朝食」「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」「おとうさんの仮面」が良かった。いずれもホラー的なモチーフ、恐怖に近い感情を扱いながら、むしろ読後に覚えるのは哀感だ。ホラーを読む態度としては無粋かも知れないけれど、いやホラーについては右も左もわからないのでそれすら判断できないのだが、個人的には「こわくて、せつない」話は、ついつい評価を上げてしまう。筒井康隆「母子像」とか。

 あるいは、ホラー・怪談についての話。ホラーの愉しみ方がまだわからないからこそかえって、メタな構図そのものを面白がってしまう。この短篇集ではたとえば「年間ホラー傑作選」や「二十世紀の幽霊」など。別の作家だと、小沢信夫「わたしの赤マント」は良かった。

 「母子像」と「わたしの赤マント」はどちらも『日本怪談集 奇妙な場所』所収。

 

 兄の部屋は思いのほか快適で、ものでごちゃごちゃ溢れているのに全てが我が兄へ収束してゆくこの空間では不思議と終日過ごしても飽きない。ぼくの部屋にとっての本棚の代わりにCDラックや楽器や音響機材が置かれ、かろうじてその隙間を縫うように兄の趣味の小説や音楽雑誌が並ぶ。そしてなにより、ぼくの部屋には決してない、お洒落さがある。

 いまこの文章は、兄の机で書いている。兄が高校時代に友人たちと撮った写真が視界に映る。すこしばかりの罪悪感。

 

 日々のニュースを追いかけるのはやめた。もちろん、不満は不満として表明しなければならないし、twitterのTLも定期的にチェックしている。それでも、やはり、どこか、そう、正直に云ってしまえば、以前のままではいずれ、疲れ切ってしまうのだ。

 以前ならきょうのように趣味の小説を読むだけで一日が終われば、そこはかとない不安や焦燥に駆られたものだけれど、いまはどちらも、ないとまでは云わずともささやかで、穏やかにこの文章を書けている。

日本怪談集 奇妙な場所 (河出文庫)

日本怪談集 奇妙な場所 (河出文庫)

  • 発売日: 2019/03/09
  • メディア: 文庫
 
日本怪談集 取り憑く霊 (河出文庫)

日本怪談集 取り憑く霊 (河出文庫)

  • 発売日: 2019/03/09
  • メディア: 文庫
 

 

日記:2020/04/25

 実家に帰省した。少なくとも大学の講義が始まるか、図書館が開くまでは実家にいると思う。

 昼過ぎ、親が迎えに来た。着替えや本で荷物はやたら嵩張った。二、三週間ではとても読み切れない量の本に、勉強するかどうかもわからないのに殊勝にも教科書の類いを加えて、ついでにもう読んでいてしばらくは読み返すこともないであろうただ本棚を圧迫するばかりだった本も幾つか。未読の本はもし読み終えられなければ持って帰らないといけないことをわかっているのだろうか。なお悪いのは午前中、それをわかっていながら荷物を詰めていたことだ。

 実家へ向かう道中では車の窓は開け放され、後部座席のぼくは高速道路上、でたらめな風圧に耐えていた。オープンカーなんて乗って、あまつさえ運転している連中はこの風圧に耐えているのか? 窓が狭いから余計に風が強くなっているのかも知れない。

 

 実家に帰ったところでそのまま団欒に参加させては貰えず、しばらく兄の部屋で隔離されることになった。ぼくの下宿生活開始と同時に父親用の読書スペースに改造されていた自室はいまや父親用のテレワークスペースになっているらしい。置いていった本棚もだいぶ両親の蔵書で浸食されていた。持って帰ってきた本を詰めても焼け石に水だ。

 軟禁生活とうそぶいてはいるが、じっさいは家族と面と向かって喋ったり密着したりするのを避けさせられているだけで、居間でコーヒーを飲んだりテレビを見たりするのは許されている。ただしぼくだけマスク着用。ふと我に返ると奇妙な団欒だ。我に返らないとそこまで奇妙に感じないあたり、この生活もだいぶ慣れてしまったのだろう。

 以上の実家生活は、ぼくも家族に感染させるのは嫌なので、進んで協力していることを付け加えておく。

 ……ここまで書いて、そもそもなんで帰省したのか思い出せない。

 

 グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』を読み終えた。

  神とは、善と悪とは、愛とは、と云った観念的な話題を、不良少年を主役にした倒叙ミステリ仕立てのプロットに絡ませて、スリリングに読ませる。

 『インフォメーション――情報技術の人類史』もちびちびと。分断するものである有刺鉄線で電話網が作られる、と云うごく短い挿話がとても面白い。

 ジョー・ヒル20世紀の幽霊たち』を読み始めた。かなりボリュームのある中短篇集で、はじめの「謝辞」(ここにも仕掛けが)「年間ホラー傑作選」「二十世紀の幽霊」を読み終えたところだけれど、モダンホラーに疎い自分でもなにか凄い才能に触れている感覚がある。

 

 

日記:2020/04/24

 きょうは何かあった日、きょうは何もなかった日、と判断する境界線はどこだろう。何もない日などありはしないし、何かがあるとはどう云うことなのかも曖昧で、要するに一日の終わり、こうして日記を書く段になってふと抱く感情の如何によるのだろうけれど、充足感や虚無感が直接、何かあった/何もないの判別に繋がるわけではない。その判別が絶対的なわけでもない。

 この日記のことはなるべく、その日の分を書きはじめるその瞬間まで意識しないようにしている。日記に記すために一日を送るようでは、倒錯も著しい。

 

 倒錯、と云えば倒叙、と云えば古畑任三郎。よし話が繋がった。復活するらしいですね。朝日新聞を取ってないしわざわざ販売所に買いに行くほどの熱心なファンでもないので、とは云え古畑新作も読みたいからどうしたものかと思案中。

 昨年の春は年始の倒叙ミステリツイートが妙にバズってしまった責任を取って、倒叙ミステリ短篇を書いた。ジャーナリストが友人を殺す話だ。射命丸文を元ネタにした犯人のキャラクターは、昨年夏に書いた別の短篇にも登場し、たぶん東方と云う文脈からも離れてこれから一生付き合ってゆく存在になるような気がする。それはそれとしてあの倒叙ミステリは二ヶ月ぐらい前に再読して致命的なミスを発見した憶えがあるのだけれど思い出せない。被害者の行動に関するものだったはずだが。

 

 友人が作った同人誌を受け取った。もちろんお金も払った。ついでに貸していた漫画『僕はラブソングが歌えない』も受け取った。友人にこれを貸したいつかの自分はどうかしていたのだろうか。でも先輩にも貸しているんだよな、これ……。

 それが良いのか悪いのかわからないが、NTR(寝取られ)とは何なのだろう、と折に触れて考えてしまうきっかけをもたらした作品だ。とは云え、NTRに限らず、何かを心から嗜んでいるひとびとからすれば、ぼくのような半端者があれこれ語るのは目障りだろう。そもそも何か語ることができるわけでもない。できるのは、ひとに漫画を貸してみることくらいだ。