鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

文章練習:2021/12/14

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 彼の家はハウ通りとネルソン通りの交差点にあって、バンクーバーの、そうでなくともわたしたちの町のなかではちょっとした名物だった。ハウ通りに沿って四軒の店が並び、同じ大きさのカラフルな立方体が四つぴったりと連結していて、交叉点の方から順に白い外装に黄色い扉の食糧品店、薄緑色に塗った壁に赤と深緑の縦縞模様の庇がかけられた本屋、毒々しい紫色に染まった理髪店(窓が大きく取られているのにいつも緑と白のカーテンがかけられていた)、それからラジオの修理屋は明るいオレンジ色。修理屋は実質電気屋も兼ねていたから、近所の文化と生活はたいていこの交叉点の四軒で事足りた。確かすべて彼の家の土地を借りていた店子だったと思う。彼の家はその四軒の裏、長い直方体の肩を借りるようにして建つ、ネルソン通りに玄関を開いた古い二階建てだった。木の細板を水平に積んだ壁は墨っぽい黒の塗装が剥げかけていた。全体の形状は大雑把に云えばこれまた立方体だけれど尖塔や張り出し窓が幾つもくっついて複雑な形に膨らんでおり、深緑色の寄棟屋根も尖塔から飛び出した六角錐型の黒い屋根や瞼を開けるように――あるいはポラロイドカメラがライトを開いたときのように――屋根裏部屋の窓が屋根を押し上げて凸凹している。この屋根裏部屋と云うのがケッサクで、なんと窓の隣に扉があって、下に並んだ本屋と理髪店のちょうど境目あたりの陸屋根まで階段が伸びているのだった。ふたつのまったく趣が違う建物を、急勾配の階段が繋いでいた。彼の家はようやっと近代的な簡素でプレーンな建物が造られはじめた町のなかで、そんな新しさは店子に押しやっていれば良いとでも云うように古く、ごてごてして、どっしりと構える、まだそのあたりが移住者たちの町だった頃の生き残りだった。けれど現代は着実に町に押し寄せていて、交叉点からは彼の家の陰にちょうど重なって、途方もなく高く長い直方体のビルがにょっきりと伸びているのだった。(811字)

削る

 ハウ通りとネルソン通りの交差点には同じ大きさのカラフルなキューブを直列させるかたちで四軒の店が並んでいた。確か交叉点の方から順に、白い外装の食糧品店、薄緑色の壁に赤と緑の縦縞模様の庇をかけた本屋、いつも白と緑のカーテンを閉めていた理髪店は壁が薄紫色に塗られ、その隣のラジオの修理屋が明るいオレンジの外見だったはず。近所の文化と生活はその四軒でこと足りた。彼の家はそ店の裏に建つ古い木造の二階建てだった。壁の細板の黒い塗装が半ば剥げていた。家は尖塔や出窓が幾つもくっついて複雑に膨らんでおり、深緑色の寄棟屋根も、六角錐の屋根が飛び出したり屋根裏部屋の窓が瞼を開くように屋根板を押し上げたりして凸凹だ。屋根裏部屋からは急勾配の階段が隣の本屋の陸屋根まで降ろされ、彼の家が手を伸ばし肩を借りているようだった。まだ辺りが移住者の共同体だった頃に建てられた家だ。けれどあの頃にはもう「現代」が町に押し寄せていて、交叉点から彼の家を眺めるとその背後に遠く、何十階建てものビルが聳えているのが見えた。(443字)

反省
  • いままでも、そしてこれからもそうですが、この文章練習で書いている内容はすべて写真から想像したことであり、事実ではありません。
  • 日本語として苦しいところが幾つか。
  • 最近は長文化が進んでいる。少なくとも、描写することについての苦手意識は減ってきたかも知れない。
出典

Fred Herzog, Howe and Nelson, 1960.

文章練習:2021/12/13

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 洋服店のウインドウの手前、張り出したスペースには大きさの異なる円盤を三つ大きい順に下から重ねている円錐状の台が置かれ、小物やポーチが陳列されてある。並べてあるのは白いものばかりで、焦点をそこから外すと輪郭が滲んでぼやけ、ホールケーキのようにも見えた。彼女は焦点を窓の外に合わせた。雨上がりのユニオン・スクエアは車やひとの往来が少ない。大気が潤んでいて景色の色合いはすべて淡かった。遠くに道路を曲がってゆくバスを真横にすっぱり切って二色に別れたクリームのような白と明るい深緑も、道路の向こう側で雨のあいだ閉じていたのだろうまだ営業の準備を終えていない移動式店舗の八角柱のかたちをした屋台の塗装の黄色も、雨が上がったことに気づいて、白地に青い模様が刺繍された頭巾を被った女の子が足許へと下ろすまだ開けたままのチェック柄の傘の赤色も。女の子の近くには三人の女性がいて、いちばん近くの黒いコートを着た女性が母親だとして、ふたりに背を向ける頭巾の老女とパーマがかかった長髪の女性は家族なのかたまたま居合わせたのかわからない。バスを待っているのかも知れない。ユニオン・スクエアには四人以外見当たらない。寂しい広場を舗装のうえに斑に散った水たまりが反射している。そしてその窓越しの景色の一切に、ウインドウに反射した細々としたアクセサリーから色鮮やかな衣服まで揃える店内の賑やかな光景が薄く、半透明に、まるで幽霊のように重なって見えた。(610字)

削る

 ウインドウの手前で小物を飾る、大きさの異なる円盤を三つ重ねたかたちのディスプレイから視線を逸らし、彼女は窓の外を見た。視界の端でディスプレイは輪郭がぼやけ、白い小物はケーキのように映った。外のユニオン・スクエアは雨が降り止んだばかりだ。潤んだ大気のなかで風景の色合いはすべて淡かった。広場を去ろうとするバスを二分して塗られたクリーム色と深緑も、通りの向こうでまだ店を開けていない屋台の外装の芥子色も。雨が上がったことに気づいた女の子が下ろすチェック柄の傘の橙色も。女の子は母親、それからこれは家族かわからない女性ふたりと並んでバスを待っている。彼女ら以外にひと通りはなかった。道路を斑に濡らす水面が寂しい広場を反射する。その風景の一切に、ウインドウに映り込んだ店内の賑やかな様子が半透明に、まるで亡霊のように重なっていた。(361字)

反省
  • ソール・ライターはムズい。その作品は言葉のいらない境地、つまり、色の配置や構図の妙に魅力があるから。何が映っているのかは、ライターの写真では究極、関係がないのかも知れない。
  • あと書いてから状況を誤解していたことに気づいた。店内から覗いてるんじゃないく、たぶん角のあたり、もしくは張り出したウインドウ越しに広場を撮っているんだな。
出典

Saul Leiter, Union Square, 1950s.

文章練習:2021/12/12

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 玄関の呼び鈴を何度押しても応答はなかった。ガレージには車も駐められているし、家の明かりはついている。居留守と云うには住民の存在を隠そうともせず、来訪者を拒もうともしていない。たまたま応答できていないだけ、と云う気配があった。もう一度呼び鈴を鳴らし、誰も出てこないことを確認すると、わたしは家の裏庭へ回った。家が大きければ敷地も広い。白ペンキが半ば剥げている柵が腰ほどの高さでずっと長く続いていた。ようやくたどり着いた裏木戸から覗いた庭は、はじめ廃園に見えた。低木と雑草が区別なく所狭しと茂ってひとの立ち入る隙間がない。けれども野放図に生えているわけではないようで、緑の濃さや樹の配置には何らかの意図に基づいた秩序が見受けられ、だからこそ棄て置かれたかつての庭園に思われたのだ。砂漠に生える植物のような硬く厚い葉が侵入を拒むように刺々しく伸びている。ガラスの漬物瓶が六つ、ひっくり返されて列をなして並べられ、しかしそれで区切られていたはずの植物はあたりを埋め尽くして境界を侵しつつある。庭の奥、つまり家の裏口近くで、廃車が木々に隠れていた。ウインドウが取り外され、塗装も剥げて、外殻だけ残った空っぽの車だ。その手前に伸びた枯れ木の枝に星条旗が引っかけられていた。その下に、目当ての住人がいた。くつろいだ格好の、禿頭の男。どうやら廃園ではなかったらしい。庭の主人は庇代わりにかけているもののほとんど垂れ下がってしまっている星条旗に包まれるようにして、寝椅子に横たわっている。近くにはカウボーイハットと、応接用の家具や椅子もある。けれどやはりそのすべては背後の廃車のように、伸びやかに繁る植物たちに圧されるがまま、深い緑のうちに溶け込んでしまっていた。(723字)

削る

 居留守と云うにはひとの気配を隠していなかった。明かりも点いている。たまたま応答できていないだけだろう。もう一度呼び鈴を鳴らして反応がなかったので、裏に回ることにした。ペンキの剥げかけた柵をずっとたどってようやくたどり着いた木戸から覗いた裏庭は、低木と雑草が所狭しと繁って立錐の余地もない。ただし植物の種類や配置には一定の意図が見受けられ、棄て置かれたかつての庭園と云ったふうだった。硬く厚い葉がひとの侵入を拒むように刺々しい。ガラスの漬物瓶が六つ、仕切り代わりにひっくり返して並べられ、しかし雑草はあたりを埋め尽くしてその境界を侵しつつあった。庭の奥で外殻だけの廃車が木々に隠れている。その手前に伸びる枯れ木の枝から星条旗が吊され、それに庇われるようにして禿頭の男が寝そべっていた。庭の主人らしかった。よく見れば近くに帽子や家具もある。けれど彼を含めてそのすべては背後の車と同じく、濃緑に圧されるまま庭のなかに溶け込んでいた。(413字)

反省
  • 植物の名前を書き込みたいのだけれど、写真からでは同定できない。できるのかも知れないが、ぼくにはそこまでの知識がない。
  • ふだん小説を書くときも「樹」で済ませてしまいがちだ。植物の名前を知っていても、描写のなかで使いこなすことができない。
出典

Robert Frank, Backyard – Venice West, California, 1955-56.

www.artic.edu

文体の舵を取れ:練習問題⑦視点(POV)問一

 四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

問一:①

 三番、と桐島が云って、片手で開いた文庫本から視線を逸らさないまま砂時計をひっくり返す。谷中が手許のシートに眼を落としたとき、はじめ、と桐島の気怠い声がした。三番。儀式のように各々がそう口にし、卓上で六つの手が動きだす。正面の嘉山は与えられたピース同士を闇雲に組み合わせ、隣の植野はひとつひとつのピースを矯めつ眇めつし、谷中は迷うことなく順番に、ピースをシートへ置いてゆく。パターンなんだよ、と谷中はほくそ笑む。指定された図形は立方体に欠けがあって真四角に近く、けれど与えられたピースはキューブが蛇のように伸びていた。こう云うときはピースの長さを処理しようとして縦横に並べるのではなく、むしろ対角線を作るように噛み合わせるべきだ。パズルは直感を裏切る。だから直感を信じない。データとパターンに基づくこと。谷中はちらと右を見た。そう教えてくれたのはあなたですよ、植野さん。植野は眉間に皺を寄せ、ついにピースから手を離した。嘉山も変わらず進捗がない。いける。谷中は最後の二ピースの組み合わせを急いで検討しはじめた。こうか。こうか? いや? 静かな狭い部室のなかでかちゃかちゃと云う音が忙しない。ねえ植野ってば大丈夫、と桐島が云う。焦る内心で谷中は思う、先輩じゃなくてぼくを見てください、桐島さん! しかしいつまでもピースが合わない、なぜだ。訝しがると同時に気づいた。思わず顔を上げる。テーブル中央のピースの山を見る。その向こうで状況を察したのだろう嘉山が嗤った。ピースの取り間違い。背筋が凍る。砂時計はもうほとんど落ちている。桐島が呆れたように溜息。植野はピースを手に取る。やめろ、と谷中は叫びたくなる。植野の手は迷いなく、コの字の立体を組み上げた。絶望のなか、谷中は植野の宣言を耳にした。「ウボンゴ」。

問一:②

 ウボンゴは苦手だけれど、みんなでウボンゴをするこの時間は大好きだ。嘉山は袖をまくった。三番、はじめ、と桐島が云う。三番、と全員が図形を確認した。そうして二分間の知的遊戯がはじまる。すべてはパターンだと谷中はいつも云うけれど、そのパターンがきっちり当てはまったところを嘉山は見たことがない。むしろ彼女は、あんなの適当で良いの、と云う桐島の教えに従っていた。あれこれ適当にピースを組み合わせて正解への取っ掛かりを探す。ランダムな組み合わせが閃光のようにこたえを示すのを待つ。こうか、あれか、そうだ、こうだ! 嘉山の研究生活にも、引いては大学生活にもその教えは当てはまった。ランダムな衝突が思いがけず綺麗な形を生むのだ。所属も年齢も違うわたしたちがここでウボンゴに興じているように。考え込む谷中くん、泰然自若でゲームに臨む植野先輩、興味ないような素振りで進行を見守る――ほら、いまも先輩に声をかけている――桐島さん。やがて嘉山にもこたえが見えてきた。あとは細部を詰めるだけだ。ほかの状況を見ようと視線を上げたら、谷中が青ざめた顔をしていた。応援する気持ちで嘉山は笑った。植野はピースを手に取って追い込みをはじめた。頭のなかで組み上げてあとはピースをその通りに配置する、人間離れしたその業を、植野はたまたまだといつもとぼける。「ウボンゴ」。結局今回も一位は植野だった。嘉山も追いかける。谷中は茫然としているけれど、手を動かすのをやめはしなかった。あと何回、こんなふうにウボンゴできるだろう、と嘉山は思う。

コメント
  • ウボンゴをみんな知っているわけではない、とは、はい、わかっていましたが、知らないゲームをひたすら描写されるのも楽しいかな、と。
  • 短い分量で四人を書き込むには、最低限できていても、決して充分ではなかった。最近の削り癖が悪いように出たかも知れない。
  • 最近、ウボンゴをやっていない。あの知的な雄叫びを久しく聞いていない。

文章練習:2021/12/10

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 埃っぽいと感じた。けれどたぶんそれは、店内に充満する酒気を帯びた呼気と、換気の効いていない澱んだ空気、大人たちのよく意味のわからない会話、声、喧噪、そのなかでひとり紛れ込んでしまった子供にとって怖ろしくてたまらないその場における緊張から来る息苦しさを、細かな粒子として感じていたに過ぎない。酒を飲む店として最低限を設えただけの店内を、過剰に明るい蛍光灯が皓々と照らす。男たちはみな着古したジャケットに履き古してぼろぼろのジーンズ、それによれよれのカウボーイハットと云う出で立ちで、彼らに紛れてごく平凡なシャツ姿の父親を少年は信じられなかった。父の手を握る。父はその手を握り返すけれど、相変わらず視線は店の真ん中に向けている。男たちの胴の隙間から少年は、父親と同じものを見る。カウボーイハットの男たちのなかでいちばん図体の大きい、蛙のように縦に潰れた顔の男が両手をジーンズのポケットに突っ込んで仁王立ちしている。彼が誰を見つめているのかわからない。観衆の会話はがなり立てるように大きすぎるか囁くように小さすぎるかのどちらかで、いまなにがどうなっているかも把握できない。ただ厳めしい蛙男と彼に相対する誰かとの間がまるでリングを作るように空白になっている。誰かが囃し立てる。周囲の男たちの体温が上がったのがわかる。暴力が始まる、と少年は思う。(568字)

削る

 埃っぽいと少年が感じたのは錯覚だ。充満する酒気と澱んだ空気、男たちが交わすスラング塗れの会話、そして自分の緊張から、息苦しいと感じたに過ぎない。吊された蛍光管が白々と光る。男たちはみな着古した革のジャンバーにジーンズ、カウボーイハットと云ういでたちで、シャツ姿の少年と父親は場違いだった。少年は父の手を握る。父はその手を握り返すけれど、視線は店の真ん中にやったままだ。男ふたりが相対し、大勢の客がふたりを取り囲む。並ぶ胴と胴の隙間から少年にも一方の男が見える。蛙のように潰れた顔で正面を睨みつけている。観衆の会話はがなり立てるか囁くかの両極端で、少年には状況が理解できない。誰かが囃し立てる。空気が熱を孕む。暴力がはじまる、と少年は思う。(319字)

反省
  • 写真の持つ緊張と、どこか懐かしい感覚を、今回は程良く文字に起こせたのではないだろうか。
  • 削ったところで良い文章になっているのか、わからなくなってきた。
出典

Robert Frank, Bar - Gallup, New Mexico, 1955.

www.artbasel.com

読書日記:2021/12/05~2021/12/08

 進路に悩んでいる。
 もしかすると来年で卒業するかも知れない。しないかも知れない。
 いずれにせよ、来年一年かけて、ミステリ研における「卒業研究」と云うべきものを残したいと思っている。
 それはさておき読書日記。ミステリ研のDiscordサーバーに書いたものを転載する。

スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(白水社

父は言った。「すべての文学の中で、偉大な書き出しが三つある。一つ目は『元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり』。二つ目は『俺をイシュメールと呼んでくれ』。三つ目は『はるか遠く、あらゆるところの西に、ロウワー・トレインスイッチの町があるのです』だ」。真剣で、笑える父親。顔をよく見ていないといけない。鯨の本。本棚のどこにそれがあるかは知っているし、手に持って、大きくなったら、と思ったこともある。鯨、神、大きくなったら。本、いつも本。十歳。

 最新短篇集。分厚い短篇集を二分冊で翻訳した、本書はその後篇。紹介文にもある通り、奇想やファンタジーを発端に置きつつ、想像を外へ外へと膨らませるのではなく、内省的な考察へ深入りする作品が収められている。典型的なのは「私たちの町の幽霊」と「場所」だろう。どちらもミルハウザーが初期から書いている、“ほかの町とは違う何かがある町”の話だけれど、「バーナム博物館」のような同様趣向の初期作品に較べると、町をほかの町と区別するその“何か”の存在が非常に漠然としており――いるのかいないのかわからない幽霊や、名状しがたい感覚を覚えさせる“場所”としか云いようのない場所――あるいは住民たちの錯覚ではないかとさえ思われる。オブジェクトそのものがもたらす驚異の影に伏流していた思弁性が前面に出ているようで、ちょっと好みがわかれるところかも知れない。個人的には、『ナイフ投げ師』から最新短篇集まですっ飛ばして読んだ結果、変わらない部分と変わった部分とそれぞれの発見を面白く読めた。とくに、現代を舞台に設定した作品の多さには驚く。iPhoneとか出す作家だったのか。
 外側への想像力が抑えられたことの長所として、プロット上のツイストなどは見当たらないものの“奇妙な味”としてミステリ新刊に推すことができるようになったことが挙げられる。間違いなく、ミルハウザーは現代の異色作家のひとりだ。
 最も面白く読んだのは表題にもなっている「夜の声」。ただこれは個人的な事情が強く関係していて、と云うのも、作中に登場するひとびとが眠れない夜に待ち続ける“夜の声”とは――そして人間の人生を決定的に変えてしまう“夜の声”とは、ぼくが蒼鴉城47に書いた「火星とラジオ」における“物語”と、かなり近い場所にあると思われるからだ。だから終盤は読んでいて唸った。そうか、こう書けば良かったのか。

 

マイケル・オンダーチェ『戦下の淡き光』(作品社)

ふたりの目が合い、そのまま見つめあった。今は何も言わずにいるほうがいい。僕たちの子ども時代は、見過ごすこと、黙ることばかりだった。明かされていないことは察するしかないかのように。荷造りしたトランクのもの言わぬ中身から、仕方なく何かを読みとったときよ要領で。あの混乱と沈黙のなか、姉と僕ははるか昔にお互いを失ってしまったのだ。でも今、この赤ん坊のそばで、僕たちは親密な空気に包まれていた。発作のあと汗まみれの顔をした姉を抱き寄せたときのように。無言でいることが最善だったときのように。

 1945年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した――。大人になったかつての少年は、断片的な記憶をたどり、様々な記録や再会を通じて、家族の真実に迫ってゆく。
 オンダーチェを読むのは『ビリー・ザ・キッド全仕事』『バディ・ボールデンを覚えているか』に続いて3冊目。良い作家であるのはわかるが、どうにも嵌まりきれないと云う印象があって、本書も首を傾げるところはある。作品が主人公に感情を喚起させ、情緒的に語らせ、そうすることで読み手に味わわせようとする読み味が、どうにも自分の好みに合わなかったり、説明しすぎてかえって醒めてしまったり。少年時代に経験した様々な出会いそしてそれを通して拡がってゆく世界は瑞々しく描写され、それらの記憶は戦時下の暗く緊張した夜のなかカーテン越しに灯る仄かな明かりのように想起されてなるほど美しいけれど、作品全体を見るとき、結果として拡がっていった世界すべてが引っくるめて主人公の内省へと丸め込まれてしまう退屈さを、物語は抱えている(だからラスト、アグネスを巡ってその内省が破れる瞬間がいちばん面白かった――けれどそれだけでは、全体の印象を変えられるものではない)。母をめぐる真相についても、どれだけ美しく語られたところでいまひとつ乗り切れず、まあこうだろうと思ったまま進み、決着する。本書の魅力のひとつだろう伏線による人物と人物、事物と事物の接続は、一般論で云うとその手法によって物語の記述する出来事が偶然を越えた“運命”として迫力を持つことがあるけれど、上述したように強く内省的な語りなのでどうにも効果を発揮しきれないまま終わってしまった感。とは云え、細部には驚嘆するシーンが散りばめられているし、読んでいてしっかり感じ入っていたのは確かだ。見方を変えれば、普段のぼくならからく評価してしまう作品をこれほどまでに“読ませた”細部の魅力は、掛け値なしに素晴らしい。断片によって構成された前出2冊に較べても、同じく断片的な記憶を羅列しながらもそれらが滑らかに繋がってひとつの人生の軌跡を結ぶさまが美しく、なんだかんだと云いつつも、それなりの感慨を覚えながら読了した。
 微妙な感想になってしまった。読む前に設定した期待が高すぎたのかも知れない。

 追記。やはり、戦争と云う巨大なものを扱うならば、もう少し何か、もうひと越えを、と思う。戦争と云う巨大なものに較べて、人間は粉粒ほどにしか過ぎないのか、あるいは、人間は戦争よりずっと大きい(© アレクシェーヴィチ)のだとすれば……。やはりたぶん、ぼく個人の感覚と、作品がどうにも合わなかったと云うことなんだろう。

 

逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房

「私の知る、誰かが……自分が何を経験したのか、自分は、なぜ戦ったのか、自分は、一体何を見て何を聞き、何を思い、何をしたのか……それを、ソ連人民の鼓舞のためではなく、自らの弁護のためでもなく、ただ伝えるためだけに話すことができれば……私の戦争は終わります」

 まず前提として、本書のような作品が新人賞に送られてきたら獲らせるしかない。新人としてはあまりに破格で、作品の正体を捉えようとすればドーアパワーズ、国内なら小川哲や真藤順丈と云った、現役の実力派を比較対象として持ってくるしかない。そして彼らのように、絶賛を受ける一方で無数の検討・批判を受ける作品になるだろう、そうすることでますます作家・作品が豊かになるだろうと思う。それだけの強靱さがある。第二作がいまから楽しみだし、むしろ第二作ではじめて、読み手としても真正面から切り結べるのではないか、そうあってほしい、と期待しています。
 ドーアパワーズ・小川・真藤を挙げたのは四人に共通点があるからで、つまり「ジャンルフィクション的な仕掛けのある」「歴史小説」の書き手であること。ジャンルフィクション的な仕掛けは「ミステリ的構造」と云ってしまっても良い。超常現象が起こるかどうか、メタフィクショナルな語りかどうかは関係ない。ひとつの構造によって作品をまとめ上げ、「歴史を語ること」と云うこと自体を主題として語る、または、問いとして投げかける――そう云う小説の書き手。円城塔ドーア歴史小説『すべての見えない光』について、この小説が存在することが善か悪かさえわからない、とまで評する。構造によって貫くことは同時に様々なものを取りこぼし、踏み潰すことであり、ゆえにこそ語られるものもあって、どうであれぼくはそこに自覚的な小説を望む。では本書はどうか。その境地に至ることはできなかったと感じるものの、そこに至ることなく云ってしまえば開いた傷を開いたまま終えるような結末は、さらに階層立てれば「ひとつの問いを投げかけた」と評せるだろう。明らかにガルパンから引用しているふうの試験シーンほか、積極的に「エンターテイメント」の文法や構造を利用しながらそれを敢えて崩すような素振りも見せつつ独自のものとして再構成する手つきは巧みだし、とくにラスト、死者は語ることができず/生者しか語ることができない/しかし生者は口を閉ざす――と云う図式をミステリの企みに取り込む展開は、本書の主題と構造を一致させているかに見える。その先のエピローグでメタな仕掛け(たとえばアレクシェーヴィチらしき記者によってすべては再構成された物語だったのだ!と云うような)があれば、是非・巧拙は別としてまとめ上げることはできただろう。しかし本作はそうしない。そこに難しさがある。敢えてそうしなかったことも、ひとつの選択ではあり、その是非を結論することはいまはできない。
 ただ個人的に気になった点として、文体面での洗練が足りないのは擁護できない。三人称の名の下に錯綜してしまうPOV、それによってしばしば抜け殻のようになる人物の身体(抜け殻にさせることは本作の目的とは思われない)、結果として失われる語りの迫力。リーダビリティは高く、そことは多分にトレードオフな面があろうが、個人的には読んでいて引っかかる箇所がかえって増えてしまったように思う。
 ……と云うようなことをひとと話しつつ書いていて、結局、長さと内容がまだ噛み合いきっていないんじゃないか、と思えた。長すぎるのではない。短すぎるのだ。ミステリとか歴史小説とかなんかもうそう云うジャンルやら構造やらが無意味になるほどに、あるいは語りの問題もそう云う語りとして読ませるほどにまで長い、作品ではなくもはや大河のような長さがあれば、あるいは読後感はまったく変わっていただろう。
 しかしそれは、まあ、別ものである。

文章練習:2021/12/09

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 高らかに演奏されているはずの『星条旗』は耳を貫くようなひび割れた喇叭の音とまさしく打撃の響きしかしない太鼓の音に分裂し、それ以外の楽器の音色はただの音階へとばらばらに別れてしまって、沿道のひとびとの歓声と喧噪に掻き消えてゆく。ひどく煩いはずなのに、ひとつひとつを音として聞くことができなくて、耳と外界に薄い膜が張られたような気がする。本当のところ、膜はむしろ震えすぎて壊れてしまったんだろう。市庁舎を出発したときはリズムに合わせて一歩一歩を確かめていたのに、いま気にかけるのは、姿勢を崩さないようにする、それだけ。衣装を着て歩くこと。それだけだ。詰めかけるひとびとはどうせ我々を見ていない。旗を振り、カメラを構え、愛国さえも抜かれたがらんどうの熱狂に酔う。我々もまた、そのエネルギーに縋るしかない。歩く。沿道を向く。手を振る。一日だけ再現される古き良き建国の英雄たち。視線を上げると煉瓦造りのアパートの二階、手旗も紙吹雪も届かない高さからもパレードが見物されていた。水玉模様の締め付けの緩いワンピースを着た小肥りの中年女性が、縦に長い太枠の窓の雨戸を半分下ろし、目許に陰を落としたまま何の表情も浮かべずこちらを見下ろしている。緩む口許に浮かぶのが頬笑みなのか嘲りなのかわからない。彼女の窓には窓より倍はある大きな星条旗が掲げられ、風に吹かれて隣の窓を半分覆い、だから彼女の隣室から同じく見物するコートの人物の顔が見えない。別の意味で表情がわからない。男なのか女なのかさえ。手の皺から老齢であることが察せられるだけだ。しかしあの見物人にも、我々の姿は見えないだろう。そんなことを考えるうちに遅れ気味になっていた歩調を慌てて戻す。『星条旗』はますます騒音に壊れ、けれどパレードは進む。(740字)

削る

 『星条旗』は演奏された端から調和の取れない喇叭と太鼓の響きに引き裂かれ、沿道の喧噪へ掻き消えてゆく。あまりにうるさくかえって耳に薄い膜が張られたようだ。実際は、耳の膜は震えすぎて壊れてしまったんだろう。市庁舎を出発したときはリズムに歩調を合わせる余裕もあったのにいまは姿勢を崩さないことに精一杯だ。詰めかける彼らもどうせぼくを見ていない。手旗を振り、カメラを構え、熱狂に酔っている。ぼくも熱狂に縋って歩く。歩道を向いて――敬礼。視線を上げると煉瓦造りのアパートの二階、手旗も紙吹雪も届かない高さで窓辺から住人がこちらを見下ろしている。水玉のワンピースを着た小肥りの中年女性。半ば下ろされた雨戸が彼女の目許に陰を落とす。その窓に掲げられた大きな星条旗が風に吹かれて隣の窓を覆い、だから隣室のコートの人物が隠されている。手の皺から老齢だとしか察せられない。しかしあの見物人にもぼくの姿は見えないだろう。遅れていた歩調を慌てて戻す。『星条旗』はますます騒音になり、けれどパレードは進む。(440字)

反省
  • 手癖で書くと密度が下がる。
  • もとの写真の不穏さをうまく文章に起こせない。そもそも「顔が見えない」「首から先が切れている」構図の持つ独特の緊張と、小説は相性が悪いのか。そのまま文章にできないならば、どう云う方策があるだろう。
出典

Robert Frank, Parade - Hoboken, New Jersey, 1955.

www.artsy.net