鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2020/05/10

 きのう実家から下宿に帰ってきた。母親はずっと家にいてくれて良いと云ってくれて、誇張ではなく涙が出るほどありがたい話ではあったけれど、それでも帰ってきたのは、ひとつには母親がやはり無理をしているようだったからだ。テレワークしている父親のスケジュールに否応なしにあわせざるを得ない生活、三食を何人分も作らなければならない毎日はただでさえ不安の多い日々、かなりのストレスだろう。冗談めかしていはいるけれど、コロナ疲れと何度も口にしていた。

 とは云え別に母親に理由を押しつけたいわけでもない。自室が父親の書斎に改装されてしまったいま、ぼくの、ぼくだけの空間は実家にはなく、そのまま何ヶ月も過ごすのがつらいと云うのも大きな理由だ。昨夜は遅くまで通話していたが、実家ではそんなこともできない。

 あとは書店と図書館へのアクセスのしやすさだろう。いくらオンラインでの講義だとは云え、大学周辺の方が何かと便利ではある。

 実家か下宿かで迷えるぼくは間違いなく恵まれている。

 いまこうしてコーヒーを飲みながらブログを書き、実家のことを思い出してああいまごろ両親や兄もコーヒーを飲んでいるのだろうかそれとももう遅いかななどと考えてはそれなりの寂しさを覚えることは、だから感謝しないといけないのだと自分に云いきかせておきたい。

 

 検察庁法改正案できょうもtwitterは議論かまびすしい。現首相が独裁を目論んで火事場泥棒的にあれやこれやと推し進めていると考えるのはそれはそれで陰謀論めいてしまうし、癒着は癒着として別の話、法の改正案についてはそれが正当なものであるかどうかに絞って議論がなされるべきだろうけれど、ぼくにはいまの政権がそう云う議論の切り分け、と云うかそもそも議論が通じる相手だと信用できない。奸智に長けて強欲な首相が独裁を求めているならまだマシだったのではないかとさえ思える。いまのぼくが覚えている恐怖とは、もしかしたらお上は、何も考えていないんじゃないのか、これである。

 まあしかし、現状を正しく認識するのは重要だろう。流れに身を任せるまま改変に反対の意を表明してしまった節もないではない。反省します。

 

 昨夜は遅くまで通話をして、シャニマスは当分インストールしないことになった。起きたのは昼前で、そのまましばらくだらだら過ごす。気圧の影響か暑くも寒くもない半端な気温のせいか単に寝るとき腹を冷やしたのか、ゆるやかではあれ腹痛に苛まれていた。

 腹の調子も治まってきた頃、図書館まで本を返しに出かけた。これは外出するためのただの口実である。帰りに行きつけの喫茶店によって本を読んだ。うつしたりうつされないよう気をつけたつもりだ。気をつけてでもそう云うところに足を運ばなければやっていられない。

 その店は休日の昼は以前なら賑わっていた印象があったけれど、それなりに客がいたきょうの店内はみんな静かだった。《新しい生活様式》。ぼくのあとで入ってきた夫婦連れの客だけがやたら声高に喋っていた。横並びで座っていたのは習慣なのかどうなのか。

 

 ヒラリー・ウォー『愚か者の祈り』を読み終えた。戦後のクイーンとロス・マク、そしてヒラリー・ウォーは自分の中で、アメリカの(多くは郊外や地方の)悲劇を背景として、ひとつのグラデーションをなしている。スペクトルとまで云うと、根が同じになってしまうので、まだ躊躇いがある。

 

愚か者の祈り (創元推理文庫)

愚か者の祈り (創元推理文庫)