鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「わたしは悲しかった」

 祖父と云うものを理解したとき、祖父はもうベッドのなかにいた。朝起きてから夜眠るときまで、祖父はずっとそこから動かなかった。スプリングのしなやかに弾むマットレスのうえに身を横たえて、日がな一日テレビを見ていた。動かせるのは右肩くらいで、それも丸太を振るようにぶんぶん振り回すことくらいしかできず、指先は卵を握るようなかたちで丸まったまま、それでも巻かれたフックで器用にリモコンを使い、祖父はチャンネルを変えていた。けれど間もなくその仕事はわたしのものになった。襖越しに祖父の呼ぶ声が聞こえると、わたしは駆け寄ってテレビのリモコンを操作した。あるいは祖父の部屋で一緒に二時間ドラマを見ることもあった。ずっとテレビばかり見ていたからか、祖父は非常なもの知りだった。メモに取ることも咄嗟にテレビを止めることもできないのに、どうして一度番組で話されただけの小話や雑学を憶えていられたのだろうと、いまでも半ば不思議に思う。もう半分では、だからこそだ、と答えをすでに確信している。両親は共働きで、祖母は日中の家事を切り盛りしていたから、自然、わたしにとっていちばんの遊び相手は祖父だった。物心ついてから身体が大きくなるまでのほんの短い期間には、祖父のベッドに登らせてもらうこともあった。わたしは祖父の横に収まった。祖父はぎこちない動きで、それでもわたしの肩を抱いた。祖父の身体はごつごつして痩せていた。けれども昔は肉体労働者だったらしく、体格が良くて包みこまれるような気がした。もう動かないはずの下半身が、わたしの重みを感じてぶるりと震えた。ベッドのうえの景色は見晴るかすようだった。床が遠かった。居間に祖母がいた。磨りガラスの窓からは景色が見えない代わり、明るい光がいつも柔らかく差していた。部屋の四方には祖父を持ちあげるときに使う支柱が張りめぐらされてあって、ロボットの操縦席みたいだとわたしは思った。わたしは祖父を恰好いいと思った。身体にいろんな器具をつけて生活するのはサイボーグのようだった。ベルトで吊り上げられるのは特撮映画のセットみたいだった。老人ホームに行くたびに、祖父は電動車椅子を颯爽と走らせた。わたしはよく我儘を云って、ベルトに吊り下げてもらったり、車椅子に乗せてもらったりした。祖父は少しも怒らなかった。祖父が怒っているところも、悲しんでいるところも、わたしは一度だって見たことがない。祖父はいつも笑っていた。麻痺している首のあたりから皮をひっぱてくるように口角を上げて、頬を引き攣らせながら頬笑んでいた。
 祖父が作業現場で事故に巻きこまれる前のことを、わたしはほとんど聞いていない。兄がときおり、それを云わなければ無かったことになるかのようにふと言及するくらいで、祖父に育てられたはずの母は、元気良く動き回り、休日も日曜大工に勤しんでいたはずの祖父について、わたしの前で話すことはなかった。わたしは家族のなかでいちばんの新参者だった。ほかの家族が共有している記憶をわたしだけが持つことはなく、聞かされることもなく育った。だからわたしにとって祖父は、ずっとベッドのなかにいたひとだった。生まれてからずっと、墓場まで。揺り籠みたいなベッドのなかで。
 眠るような最期だった、と母から聞いた。
 わたしは死に目に立ち会えなかった。以前から体調がいよいよ芳しくないと入院していたけれど、回復の兆しがあると聞いていた。わたしはその日もごく普通に登校した。いつものように勉強して、学校から帰ってきて、ただいまあ、といつものように居間に上がると、両親が喪服を着て待っていた。きょうの昼にね、と母が云った。着替えなくていい、と父が云った。それから病院に連れられた。遺体を拭いて、運び出した。通夜が始まった。知らない親戚とたくさん会った。遺影のなかの祖父は合成だと、ひと目でわかった。老人ホームで撮ったものをスーツの上に切り貼りされていた。祖父は引き攣るように笑っていた。母は伯母と泣いていた。祖母は会場の隅で何かうめいていた。父は弔いの進行を手伝っていた。兄は沈鬱としていた。わたしはひとり、静かにしていた。泣くべきだと思ったのに、涙は流れなかった。なぜだろう、と思った。どうしてこんなに静かなんだろう。通夜振る舞いではさまざまな思い出が語られた。そのどれもに、わたしは含まれていなかった。お祖父ちゃんが元気な頃は、と誰かが云った。元気な頃、とわたしは思った。ベッドのなかにいた祖父は、元気ではなかったのだろうか。脊髄に取り返しのつかない傷を負ってもなお、笑いを絶やさなかった祖父は。
 葬儀を終えても何日か、わたしは忌引きで休まされた。わたしは祖父の部屋に上がった。ベッドに腰を下ろすと、こんなに低かっただろうか、と思った。ベッドを取り囲む支柱はこんなに心許なかっただろうか。部屋はこんなに暗かったろうか。わたしはマットに寝転がった。スプリングがわたしの身体を跳ね返した。包みこむと云うより弾くようだった。おもての通りを、学校帰りの子供たちが騒ぎながら駆けていった。祖父と云うものを理解したとき、祖父はもうベッドのなかにいた。わたしは思った。結婚記念日だった。わたしは兄の話を思い出した。お祖父ちゃんはお祖母ちゃんのためにプレゼントを買った。胸ポケットにはそのペンダントが入っていた。それでお祖父ちゃんは、集中を欠いた。わたしは身体を丸めた。そんな話をしないでくれ、と思った。お祖母ちゃんはそのペンダントを一度も着けてない。そうじゃない、そう云うことじゃないんだ。わたしは耳を塞いだ。涙を流したいわけじゃないんだ。家にはわたしひとりだった。冷蔵庫の音が鳴りやまなかった。車のエンジン音が遠くに聞こえた。吹き寄せる風で、磨りガラスが揺れた。電源の点かないテレビがあった。空っぽの車椅子があった。静かな午後だ、とわたしは思った。
 わたしは悲しかった。



 悲しいときに「わたしは悲しかった」と書くべきではない云々、と聞いて、何を、と思って書いた、と云うのが半分。もう半分は、別に挑発に乗ろうとか大喜利をかまそうと云うのではなく、「わたしは悲しかった」この言葉を自分なりに掘り下げてみるべきだな、と思ったからだ。
 たぶん大本のツイートは以下だけれど、ここでは三人称になっている。